彼らのこと 過去からの来訪者(後編 2/2)


(承前)


「現況は大体掴めた。それで? お前たちは遥々ドイツから何をしに来たんだ? まさか"罪"の連中が現れるかもしれないから気をつけろ、と伝えに来ただけなんて言わないだろうな」


 ヴェルがうんにゃ、と首を横に振って、


「茅ヶ崎……えー、リュウノスケ君が」 

「……貴様、名前を覚える気ないだろう?」 

「いやあ、そんなことないって。えっと、彼が狙われそうだってんで、監視役としてハンスが、護衛役として俺が派遣されたってわけさ。お前の手も借りる羽目になるかもしれないから、状況説明をしとこうと思ってな」 

「護衛……」


 二人のドイツ人の顔をじっと見つめる。ヴェルとハンス君は示し合わせたように、同じタイミングでにこりと笑みを作った。

 自分にだけ聞こえるように、舌打ちする。

 ──気に入らない。心底、気に入らない。 


「解せんな。なぜそう嘘を吐く」


 私が低く呟くと、ヴェルの笑顔がやや不穏な雰囲気になった。赤い眸に物騒な光が宿る。


「ふーん……? 俺が嘘吐いてるっていうのか?」


 ヴェルが意地汚くとぼけ、挑むような視線を投げかけてくる。真っ向からその視線を受け止めて、睨み返す。


「そうだ。色々不可解なことはあるが……まずはそうだな、貴様は今茅ヶ崎龍介の"護衛"と言った。しかし影の体質から見て、それはあり得ない」

「ほう?」


 憎々しい思いを込めて、ヴェルをねめつける。

 頭を回転させ、言葉を組み上げてゆく。


「影と"罪"双方の立場から考えれば分かることだ。"罪"から見れば、茅ヶ崎は後々のちのち脅威になり得る存在だ。だから、脅威の芽を摘むという意味で、今茅ヶ崎を殺すことは"罪"にとってはプラスになる。しかし影にとって、今の茅ヶ崎の存在はプラスにもマイナスにもなっていない。現状、彼はただの一般人にすぎないからな。だから茅ヶ崎を失うことが、影にマイナスにはたらくとは考えられない。むしろ、護衛に人員を割けば、そのぶん人手が減って逆にマイナスだ。そうだろう?」


 ヴェルは笑顔を崩さない。私はそれを、先を促しているととった。


「……影の主な目的はあくまで、"罪"の監視──最終的には根絶だ。一般人の護衛はそもそも議論すべき問題ではない。それどころか、"罪"の連中を根絶やしにできるなら、一般人が何人死のうが構わない、それが影の基本的な考えのはずだ」

「乱暴な言い方だな。"最大多数の幸福のために行動する"って言えよ」

「同じ意味だろう」


 言葉をぴしゃりと叩きつけると、ヴェルは苦笑いして肩をすくめた。


「狙われている一般人一人ひとりに護衛をつけるほど、影は暇ではないはずだ。影のお偉いさんからの命令は"護衛"ではなく、"監視"がいいところだろう。貴様らは護衛などではなく、"罪"がを監視しにきただけなのではないか? もし"罪"の連中が茅ヶ崎を襲うのなら、それをただ見届けるつもりでいる。違うかね」

 「なるほど。それで言いたいことは終わり?」


 私の追及にも、飄々とした笑いだけが返ってくる。

 いや、と否定して、続けた。

 

「貴様らの目的が監視だとすると、ヴェルナー……貴様がここに来た意味自体が疑わしくなってくる。ハンス君はいつも偵察役をしていると言ったな。だとすれば、目的が監視だけならハンス君がいれば十分なはずだ。何もドイツから貴様が来る必要性はどこにもない。貴様の本業は"殺し"だからな。貴様がいなくとも監視の目的は果たせるとすると、貴様がここにいる意図は別にある、という結論になる」

「お前の考えてることは分かったよ。で、結局何が言いたいの?」

「……貴様の目的は何だ。なぜここにいる。何を企んでいる?」


 胸の内の疑念を全てぶつけて、赤い瞳の奥を注視する。何らかの意志が読み取れるのではと思ったが、そこには底の知れない深淵があるだけだった。

 ヴェルが目を伏せる。何かを噛みしめるがごとく瞼をぎゅっと閉じ、


「企んでるなんて、人聞きの悪い言い方はよしてくれよ。まあ、そうだな……どうせいずれは伝えることだったし、全部話すよ」


 数瞬ののちに瞼が開くと、毒気が抜けたような、さっぱりとした目付きになっていた。その双眸が、真っ直ぐ桐原を捉える。


「俺の目的はお前だよ。錦」

「……?」

「もう一度こっちへ来ないか。それを伝えに来た」



 たっぷり十秒ほど、沈黙が続いた。

 夜の静けさが部屋の中まで染み込んできているような、耳に痛いほどの静寂だった。


「……まさか、私にもう一度影に戻れと言っているんじゃないだろうな」

「そのまさかだよ」


 ヴェルの口調はひどく穏やかなものに変わっている。私はぐっと拳を握りしめて、心の内で強く思う。

 戻れるわけがない。

 あんなにたくさんのものを失った場所へ、今さら戻るなんてできるはずがない。記憶にはまだ、身じろぎひとつしない彼女の姿が、熱を無くしていく体の感触が、生々しく焼き付いたままだというのに。これ以上、また何かを失えというのか?


「断る。無理だ」


 私の返答に、はは、とヴェルが力なく笑いをこぼす。


「そう言うと思ってたよ。ま、俺がお前の立場でも、戻るなんて言わねーだろうけどな」

「分かっているならなぜ――」

「シューニャに頼まれたんだよ」


 シューニャ。

 その不思議な響きは、自らの胸に眠る複雑な思いを呼び起こした。

 その言葉自体は、サンスクリット語でくうを表す形容詞であり、古代インドの数学ではゼロを意味する。ただし影においては、現在の影の指揮官たる人物を指す。

 私は八年経った今でも、一切の感情が抜け落ちた、漂白されたようなシューニャの顔を、鮮明に思い出せる。"彼の能力"と、"彼女の死"とは、切っても切れない結びつきを持っている。


「……会ったのか?」

「まさか。シューニャの居場所は機密扱いだぜ。俺みたいな半端者はんぱものが会える相手じゃない。でも、電話で話したよ。お前の力が必要なんだと言ってたな。あと、お前に謝っておいてくれって何回も言われたよ」


 だったら自分で謝れってな、とヴェルがこちらに笑いかけた。

 ハンス君は話が飲み込めないなりに、私たちの会話に耳を傾けているようだ。

 謝る相手が違うのではないか、と思った。自分は別に、彼に腹を立てているわけでも、彼が憎いわけでもない。私が彼に許しを与えることはできないのだ。その思いは当時と変わっていない。


 "貴方が謝ったところで、死者が目を覚ますことはありません。"


 自分がそう言ったときも、シューニャは能面に似たのっぺりした顔で、じっとこちらを見返していた。彼があの時に何を考えていたのか、私には分からない。


「シューニャに直々じきじきに言われたら、下っ端の俺が逆らえるはずねーだろ? 俺はシューニャが仰るとおり、遥々海を越えて、お前を勧誘しに来たってわけさ」

「……なぜ貴様がわざわざ来たのか分かったよ。私を説得するために、シューニャが選んだんだな」

「だろうね。お前と親しかったのは俺ぐらいだからな、今生きている影の人間では」

「親しかった、ね……」


 ヴェルは遠くを見つめる時の目をしている。昔に思いを馳せているのだろう。対する私の過去は思い出したくない出来事ばかりで、回顧する気にもなれない。

 ヴェルと自分はそんなに親しげだっただろうか。少なくとも私の中では、ヴェルナーへの苦手意識が大きかった。できれば関わり合いたくない類いの人間だとすら思ったものだ。

 ──いや、もう止そう。過ぎた日のことを考えるのは。


「……私は言うなれば引退の身だ。そんな人間に戻ってきてくれと頼むほど、影は人手が足りていないのか?」

「そこを突かれると痛いねえ。お前が辞めたあと……二年後くらいだったかな? 戦略会議で執行部の人員を減らすことが決まったんだよ。新しい諜報部長が──こいつがいけすかねぇ野郎なんだが──これからは情報戦だ、野蛮な直接戦闘ではなく、情報を掌握しコントロールすることで、"罪"の活動の拡大を防ぐべきだ、とか会議で一席ちやがってな。代わりに諜報部員が大幅に増員されたよ」


 その表情は、嫌いな食べ物を誤って口に入れてしまった時のように、渋いものだった。加えて、いけすかないと評した諜報部長への嫌悪感が、剥き出しの尖った犬歯に如実に現れていた。

 私はその部長に会ったことはないが、なんとなく人となりが想像できる。きっと、真面目な人物なのだろう。


「その時反対しなかったのかね」

「あん時ばかりは俺も同じ意見だったからねぇ」

「さっきいけすかないと言ったではないか」

「それはあれ、俺が持ってる個人的な印象」

「……そうか」


 ヴェルの話は、咀嚼すればするほど奇妙に思えた。

 まとめると、情報をコントロールするために諜報部員を増やしたにも関わらず、"罪"の活動の拡がりを察知できずに、今度は執行部員が足りなくなり、辞めたエージェントを呼び戻している、という順番になる。納得できる説明ではない。


「その流れはなんというか……おかしいのではないか?」


 指摘すると、ああそうだ、とヴェルが珍しく神妙な顔をして頷いた。


「こんな事態は誰も予想してなかった。みーんなあたふたしてるよ。影の誰にも、何が起こってるのか分からねぇんだ。こんなことは初めてだ」

「どうしてそんな状態になる? 影にはシューニャがいるだろうに」


 首をひねりながら尋ねる。

 シューニャは影の中でも数少ない、というよりも唯一の特級予見士だ。彼の見る未来は正確無比で、予想が外れることはない。不測の事態なるものと、影は無縁のはずだった。

 そして、彼のその力によって、彼女は──ルネは死んだ。


「シューニャは予見を辞めたよ」


 冷たい声音にはっとする。ヴェルの口元に浮いているのは、はっきりした冷笑だった。


「八年前からね。ルネの一件で、シューニャも少なからず傷ついたってわけだ。俺は、まだあいつを許す気にはなれねーけどな」

「……」

「あの時──お前が止めてなかったら、俺はシューニャを殺してたかもしれん。あいつがいなかったら、ルネが若くして死ぬこともなかったし、お前も幸せだっただろう。正直言って俺はあいつが憎いよ。お前はどうだ?」


 ヴェルの眼の中心の、底のない深淵が、こちらを手招きしている。引き込まれそうに思えて、その目からふいと視線を逸らした。


「……許すも何も、初めから私は腹を立ててなどいないよ。もしもの話はやめよう。あれは運命だった。シューニャが悪いんじゃない、仕方なかったんだ」

「そう言う割には、お前の方が引きずってるみてーだけどな」


 言葉が心にぐさりと突き刺さる。言葉の棘を乱暴に引き抜いて、その辺に放り投げた。傷口から吹き出る血には気づかないふりをする。


「……昔のことはもういいではないか。一体、影に何が起きているのか──」

「どうにもきな臭ぇんだよ。何か、とんでもねーことに巻き込まれてる気がする」


 ヴェルが焦点の合わない目をして呟く。それは独り言のようでもあり、彼の体を借りて届いた、何者かからの警句のようでもあった。


「とんでもないこととは何だね」

「さあな。それは分からねぇけど」

「根拠はないのか」

「だって俺は予見士でも何でもねぇからな。で、戻るか、戻らないか。返答は変わらないかい?」


 ヴェルは上体を前のめりにし、膝の上で指を組む。穏やかな顔つきで目を少し細め、返答を促すように小首を傾げた。

 戻る? 影へ?

 あり得ない、と思う。しかし茅ヶ崎龍介が狙われる可能性を思うと、否応なく彼の顔が目の前にちらつくのも確かだ。


「…… 私に何をさせようと言うんだ」

「俺もそれはまだ知らねえんだ。さしあたり、その茅ヶ崎くんって子の身辺警護の続きでもするんじゃねーかな」


 ヴェルがゆったりとした口ぶりで、問いかけてくる。


「お前の心境を抜きで考えれば、そんなに悪い話じゃねえと思うけどな。影に戻れば武器の使用許可が下りる。今の状態じゃあもしそのお坊っちゃんが襲われても、お前は手をこまねいて見てることしかできんのだぜ。とっても心優しい錦くんに、それができるかい?」


 冷やかしめいた言い方だったが、ヴェルの目はあくまでも真剣だ。その言葉は私の心境の核心を突いた。

 自問自答する。果たして、彼が傷つけられそうになったとき、見殺しにできるのだろうか、と。あまりにも深く関わりすぎた、彼のことを。

 自分は今、己の気持ちと、彼の身の安全とを、天秤にかけているのだ。


「……今でも、代わりに死ぬくらいはできるだろう」

「教え子のために身代わりになるって? そいつァ泣かせるねぇ」


 ヴェルがひゅうっと口笛を吹く。

 ソファに背を預けて、しばし中空を仰ぎ見た。

 影には戻れない、もうあんな思いを味わうのはごめんだ、という固い気持ちがある一方で、誰かが目の前で傷つくのを見るのはもう嫌だ、という気持ちが強いのも事実だった。


「……すぐには返答しかねる。少し、考える時間をくれないか」


 ヴェルナは鷹揚おうように頷く。


「ああ、いいぜ。俺達もしばらくここにいるしな。ゆっくり考えたらいい」

「すまんな。答えが出たら連絡するから、連絡先を教えてくれるか」

「ん? 別に、口頭で直接伝えてくれたらいいよ。しばらくここにいるっつったろ」


 その言が咄嗟に理解できない。同時に、黒い不安の雲が心の中に湧き立ち始める。


「……すまない。何か、誤解があるようだ。貴様の言う"ここ"とは、どこだ? 私は"この街"と理解したのだが」


 ヴェルが目を見張り、えっ違う違う、と手を振る。嫌な予感はもはや暗雲となり、胸の内を覆い尽くしている。

 彼の右手の人指し指が、真っ直ぐ下を示した。


「"ここ"って、ここのことだよ。お前んちのこと」


 ──この男は今何と言った?

 雲の上で、遠雷が唸る。


「……貴様が何を言っているのか分からないのだが」

「えーだから、しばらくお前んちに居候させてもらうってこと」

「は?」

「え?」


 大気をつんざく落雷。

 ヴェルがきょとんとして、駄目なの、と言う。

 もうどこから突っ込めばいいのやら分からない。本当に頭痛がしてきて、こめかみを押さえた。気分は土砂降りである。

 ハンス君の膝の上で、ノイが退屈そうにニァアアと鳴いた。 


「……どうしてそう……貴様は勝手に……」


 開いた口が塞がらないとはまさにこの事だ。

 ヴェルは不服そうに口を尖らせる。


「えー別にいいじゃん、俺とお前の仲じゃん」

「勝手に事を決めるんじゃない! 貴様がどう思っているのか知らんが、私は貴様にかける情けなど持ち合わせていないぞ」

「冷てぇなあ錦は。意地悪。ケチ。錦のケチくさ野郎」

「どうとでも言え。ホテルにでも泊まったら良かろうに」


 途端にヴェルが声を荒げる。


「ホテルに泊まる金なんてねーよ! どんだけ影に吸い取られてると思ってんだよ。日本までの飛行機代ですっからかんだっての!」

「ちょっと待て、どうして貴様が怒るんだ」

「しかも支援部の奴に仕事を斡旋してもらおうと思ったらなあ、日本でお前ができる仕事なんかねーよバーカって言われちまったんだよ!」

「……」

「違うもん! 俺のせいじゃないもん!」

「……一応、仕事を探す努力はしたんだな」

「俺は悪くないもん!」

「おい……泣くなよ……」


 おいおいと顔を手で覆うヴェルナーを慰めようとして、いやこの男は身勝手にも居座ろうとしているのだと思い直し、手を引っ込める。

 ハンス君は己の上司の醜態を呆れて見ていたが、こちらに向き直って非の打ち所のない笑顔を作ってみせた。


「僕はご厄介には及びませんよ。能無しのこの人と違って仕事も見つかると思いますし、いざとなったら野宿でも大丈夫です。でも、この子だけはこの部屋に泊めてあげてほしいんです、女の子なので」


 そう言って、黒猫を膝の上で抱える。ノイはニァーアと機嫌良さそうに長く鳴いた。

 青と金、それぞれ一対の眸に見つめられ、思わずたじろぐ。


「いや……ここの物件はペット禁止でな……」


 反射的に紡いだ言葉に対し、ハンスが信じられない、と言わんばかりの表情を浮かべた。


「……! ノイはペットじゃありません、僕の大事な相棒です!」

「違うんだ、言葉の意味が問題なのではなく」

「どうかお願いします、桐原さん」

「いやあの」

「にしきぃい」

「桐原さん!」

「…………」


 二人のドイツ人が泣き、怒る。喧騒に驚いたのか、ノイがハンスの腕を飛び出し、ニァゴニァゴと鳴き声を上げながら部屋を駆け回る。まるで台風だ。

 ヴェルとハンス君があまりにもしつこく食い下がるので、最後には私の方が折れることになった。願わくばその無駄な粘り強さを、何か有用な方向に活かしてほしい。

 思わず嘆息が漏れる。どうも自分は押しに弱くていけない。ヴェルたちのいいように事が運んでいる気もするが、すべては私の不徳の致すところだろう。仕方あるまい。

 詰め寄る二人に、もういい、分かったと半ば自棄やけになって言うと、赤い目と青い目がきらりと輝いた。どうぞ勝手にしてくれ。


「二人とも、寝泊まりは許可する。ただし、食費くらいは出してくれよ。それから寝床はハンス君がソファで、ヴェルは床だからな」

「分かりました」

「えー……」

「不満か? だったら出ていってもらってもいいんだぞ。放り出されたいのか?」

「イエ、スミマセンデシタ」


 ヴェルがロボットよろしくぎこちなくこうべを垂れる。それをハンス君が嘲笑する。

 こうして不本意ながら、妙なドイツ人二人と猫一匹との共同生活が、幕を開けることとなった。



 浅い微睡みの中で、銀色の夢を見る。

 懐かしくなるような、悲しくなるような、切なくなるような、そんな夢だ。とろとろとたゆたうあたたかな光を浴びて、いまや届かないものへ向かって手を伸ばした。きっと指の先には、あの人がいたのだろう。

 僅かに呻く。目覚まし時計がけたたましく鳴っている。意識が夢の底から現実へと引き上げられる。カーテンのあいだから射し込む朝陽が、室温を上昇させているのが分かる。起きねば。

 私は、おや、と思った。覚醒に近づいた思考は、息苦しさを感じている。なぜ息苦しいのだろう。原因は。

 目を開く。

 ひらけた視界にまず映ったのは、至近距離に迫った安らかなヴェルの寝顔だった。


「うわああああああ!」


 瞬間的にベッドの上のでかい図体を突き飛ばす。ヴェルの体は綺麗に一回転した後、どすっ、という鈍い音とともにカーペットへと投げ出された。


「あだっ! ……え、ちょ、何……え、朝? 今何時……?」

「六時だ」

「ええー……あと五時間寝かせて……」

「そこで寝るな! それより、なぜ貴様がベッドで寝ているんだ! それに何なんだその格好は!」

「あーうるさ……やめてよ朝から……俺別にいつも寝るときこの格好だし……」


 冷や汗をかきながら言い咎める。ヴェルは上半身だけのろのろと起こし、むにゃむにゃと目をこすっている。その身に纏われているのは、下着だけだった。

 パンツ一丁の大男。

 こんな人間と一晩同衾どうきんしていたなど、想像しただけで身の毛がよだつ。道理で息苦しいわけだ。

 大きすぎた衝撃はほぼ恐怖に等しく、顎が震えて奥歯がかちかちと音をたてる。


「な――なぜよりにもよって貴様と寝床を共にしないといかんのだ?」

「いや……俺だってどうせなら可愛い女の子と一緒に寝たいよ……二の腕とかふにふにしたりしたいよ……」

「貴様の願望など知ったことか! だったらなぜ私の横に潜り込んだりしたんだ」


 ヴェルの眉間に皺が寄る。目はまだ開かない。


「あのさ、客人を床で寝させようとするなんて酷いと思わない? 錦には人の心が無いの? 人でなしなの? 鬼なの?」

「貴様らを客人として招いた覚えは無いが?」

「はあ……錦はもっと俺に優しくすべきだと思うよ。世界のどこの大統領もそう言うと思うよ」

「……。そこまで言うならもういい、明日から私が床で寝る」

「えっ……そんなこと言われたら俺の無けなしの良心が痛むじゃん……」

「自分で無けなしとか言うんじゃないこのたわけ」


 ヴェルは寝ぼけまなこのまま、半分夢の世界にいるようだ。

 ベッドから降り、ヴェルの前に立つ。そのぼんやりとした顔を見下ろして、つくづく眺める。

 この男の意表を突いてやるのも悪くないか、と思案を巡らせてみる。既に心は決まっているのだ。

 出し抜けにヴェルナーの額を鷲掴みにして、無理に上を向かせ、


「おい」

「やだ……乱暴はやめて……優しくしてってば……」

「昨日の話、受けてやってもいいぞ」


 そう言い放った。

 昨晩、ベッドの上で、暗い天井を見上げているうち、意志は固まった。自分の気持ちと、茅ヶ崎龍介の身の安全、双方を天秤にかければどちらに傾くか、決まりきっていたことなのだ。決断を阻んでいたのは、ただ自分の臆病さだけだった。

 手を放して、ヴェルナーの表情の変化を見る。瞑目したままのしかめっ面から、何か問いたげな半目になり、やがて目の焦点が合ってくる。表情が二転三転し、最終的に顔全体が驚きの色に染まった。


「え! いいのか?」

「二度は言わん」

「そっかぁ、嬉しいよ。お前が戻ってきてくれるなんて――」

「ただし、条件がある」


 食い気味に言葉を返すと、ぎらっと光るような笑みが跳ね返ってくる。


「ほう、交換条件ってわけかい? いいぜ、言ってみな」

「……影の一員である以前に、今の私は一介の教師だ。だから、もし影と教師の立場で相反する決定を迫られた時には、教師としての立場を優先させてもらう」


 ふむ、なるほど、とヴェルが頷く。


「それは問題ないと思うぜ」

「もうひとつ」

が強くなったもんだねぇ、お前も」


 にたにたと笑うヴェルの冷やかしには応じない。


「貴様は昨日、"茅ヶ崎龍介の護衛のために来た"と嘘を吐いたな。そのを、にしてほしいんだ。茅ヶ崎の護衛を実行してくれるなら、私も貴様らに加わろう」


 何事か推し量るように、ヴェルがふうんと漏らす。私の言い分を咀嚼するための、短い沈黙がそれに続く。


「……いいだろう。上にはそのように報告しとくよ。でもさ、そんなにその子が大切なの?」

「……教え子は皆大切だ。貴様には分からんだろうが」

「ま、お前が戻ってくるなら何でもいいけどね」


 ヴェルが肩をすくめる。

 ふと胸に、昨夜と同じ不安の雲が再来した。この男の言葉を、全面的に信じていいものだろうか。許可してもいないのに、勝手にベッドに潜り込んでくるような奴だ。

 自分が組織の駒として、なにがしかの目的のために使われ、その挙げ句捨てられることになろうと、別に構わない。ただ茅ヶ崎龍介の身に及ぶ危険は、排除しなければならない。


「ヴェル。確認だが、貴様……本当に護衛をするつもりがあるんだろうな?」

「んだよ、それ。俺のことを信用してねーのか?」


 ヴェルがむっとして頬を膨らます。


「お前だけは俺のこと信じてくれるって思ってたのに!」

「貴様、自分が信頼に足る人間だと思うのか?」

「いや全然」

「……」


 言葉を失う私の前で、ヴェルがあっと思いついた様子でぱちんと指を鳴らした。


「だったらそのお坊っちゃんに、俺が護衛につくって話をしよう。そしたらさすがの俺でも怠けてはいられなくなる。疑り深いお前も安心だろ」

「"さすがの俺でも"という発言は気になるが、まあ確かにな……だが影の話をしたら、"罪"のことまで伝えなくてはいけなくなる。茅ヶ崎は一般人だぞ。大丈夫なのか?」


 懸念を口にする。

 たとえ"罪"に狙われているとしても、特定の人物に対して、影のメンバーが自分たちや罪の活動を説明するなど、皆無といっていい。情報はどこから漏れるか分からない。影や罪の存在を知る者の数は少ない方がいいのだ。ヴェルの提案は影の方針に反するものなのに、その口調は軽々しすぎる。

 当の本人は気楽に笑って、顔の前でひらひらと手を振っている。


「ああ、大丈夫大丈夫。初めから影と罪の話はするつもりだったから」

「……初めからだと?」


 喉の奥から嫌悪感がせり上がってきて、奥歯を噛み締める。あまり良い気分ではなかった。


「初めから、とはどういう意味だ」

「"茅ヶ崎龍介は、いずれ知ることになる"」


 ヴェルが、天からの啓示を読み上げるがごとくにそらんじる。


「……何だね、それは」

「シューニャが言ってたんだ。意味は俺には分からねぇがな。彼はいずれ知ることになるから、影のことも、"罪"のことも、すべて話せってよ」

「よく分からんが……つまり貴様は、影と"罪"の話を茅ヶ崎に伝えた上で、傍観を決め込もうとしていた、そういうことか」

「うん」


 重々しく問うた疑問への、極めて軽い返答。

 長く深いため息を吐く。どうしようもなく不快感が湧いてくる。


「貴様ら影のやり方はやはり気に食わん」

「そうは言っても、今日からまたお前も、こっちの世界の人間なんだぜ。にしても、俺の言った通りになったなあ」

「言った通り?」

「お前が影を去る日、俺がお前に言ったこと、覚えてねぇか?」

「……」

「ほら、お前の場所は空けておくから、いつでも戻ってこいってやつ」

「……ああ」


 それは記憶の片隅で、埃にまみれて転がっている程度の、ひどく朧気おぼろげな情景だ。初対面のときの台詞といい、本当に些末なことばかり覚えている男である。

 別れの日、ヴェルはどんな表情を浮かべていただろうか。もう思い出せない。あの頃のことを忘れたくて、忘れようと努めていた結果だろう。それでも、彼女の姿だけは、どうしても記憶から消えてくれない。

 忘れた方が楽だと理性では分かっている。けれど、一枚皮を剥いだところにある本能が、それを拒否する。覚えているのは結局、忘れたいことばかりだ。

 影を去ったあの日、この目に映る人々の幸せくらいは、自分の手で守るのだと決めた。その決意が今、試されているような気がする。

 日本は平和だ。自分が8年間で牙を抜かれ、人の気配に気づけなくなってしまうほどには。ヴェルは茅ヶ崎龍介に、すべてを話すと言った。平和な国で生まれ育った少年は、ひとつの才能に恵まれた普通の高校生は、ろくでもない世界の有り様を、果たして受けとめられるのだろうか。

 支えなければならない。そう思った。


「それじゃ、約束だぜ。俺がお坊っちゃんの護衛をする代わり、お前は影に戻る。二言はないな?」

「ああ。影が私をどんな形の歯車として期待しているのかは知らんが、その役目を果たしてみせようではないか」

「いいねえ、その憎まれ口。それでこそ錦だ」


 ヴェルが愉快げに唇の端を引き上げ、気取った調子で右手を差し出した。


「再びようこそ、イカれた世界へ」


 私も右手を伸ばし、その手を取る。

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