彼らのこと 過去からの来訪者(後編 1/2)
─
冷たい指で心臓を鷲掴みにされた心地。
いるはずのない人物が、そこにいた。もう二度と見ないと思っていた顔。忘れかけていた──忘れたと勘違いしていた苦々しい思い出たちが、閃光のように脳裏に明滅する。情報の洪水にうろたえる。自分が立っている場所が崩れていくような感覚があった。
「おいおい、ばったり幽霊に出くわしたみたいな顔をすんなよ、錦。傷つくだろうが」
そこに立っている赤目赤髪の長身の男が、薄く笑いながらほざく。武力組織である影の一員、ヴェルナー・シェーンヴォルフ。
忌々しい、自分の旧友だ。
男がつかつかと歩み寄ってきて、その血色の瞳でじろじろとこちらを見た。
「八年間でずいぶん変わったなあ、お前。一瞬人違いかと思ったぜ」
八年。そうだ。八年前まで、私は影の一員だった。そして、敵対する
「それに、眼鏡なんかかけちゃってさ。目が悪いわけでもねーくせによ……ってちょっと待って痛い痛いから引っ張らないで痛いから」
完全に停止していた思考を奮い立たせてヴェルの腕を掴み、強引に階段下の目立たないスペースに引き入れる。できるなら無駄に悪目立ちするこいつを人目に晒したくない。加えて会話も聞かれたくない。
放り出すようにその腕を離して、ヴェルと
身に纏うボルドーのスーツと黒いシャツが、彼の髪色や虹彩と相まって強烈な印象を与える。どう見ても頭のネジが何本か飛んでいる。
「何をしに来た。なぜ貴様がここにいる?」
何年も遣う機会のなかったドイツ語に頭を切り替え、詰問した。ドイツはヴェルの母国である。ヴェルはやれやれといったように軽く肩をすくめた。
「何年も会ってなかった友人にいきなりそれかよ? そりゃあお前、新しい環境で頑張ってるであろう大切な友人に陣中見舞いをだな……」
「白々しい嘘を吐くな。用向きは何だ。さっさと済ませてさっさと帰れ」
ヴェルの、整った顔にへらりとした笑みが浮く。きつい口調で話しているというのに、一体何が可笑しいのか。
「あー、はは。お前のそのおっさんくさい喋り方、すっげー懐かしいわ。つうか、年齢の方が喋り方に追いついてきたか? 三十歳だもんな。もう立派なおっさんか?」
「……わざわざドイツから私を馬鹿にしに来たのか?」
ヴェルナーの顔をじっと見る。正確には睨む。
ヴェルナーと最後に会ったのも八年前だが、軽薄が服を着て歩いているようなこの男の外見は、当時と殆ど変わっていない。驚くほどに、だ。
「貴様は変わらんな。能天気なところも、口が軽いところも、ちゃらんぽらんなところも、何一つ」
「え、昔と変わらないって? そんなに褒められると照れるじゃねーか」
褒めていない。
皮肉をこれでもかとばかり込めたのに、ヴェルには全く通じないらしい。
思い返せば昔もそうだった。いつも捉えどころの無い態度で、私の小言や苦言を受け流してばかりいた。彼のそういう、何ものにも囚われない奔放なところが私は嫌いだった。
変わっていてくれれば良かったのに、と思う。彼の容姿や性格が当時と変わっていたなら、余計なことを思い出さなくて済んだかもしれないのに。
──例えば、彼女のことであるとか。
記憶の奥底で、銀色が揺れる。
「ま、陣中見舞いってのは冗談だよ。上から仰せつかった任務でさ。話したいことがある」
急に眼光を鋭くして、ヴェルが告げた。
聞きたくなかった。きっとろくでもない話だと容易に想像がつくから。この男の所属する影とは、"そういう"ところなのだ。
「……分かった」
渋々頷いて、スーツのポケットから車のキーを取り出す。お、という顔をしたヴェルナーに、それを手渡す。
「任務の話なら、私の家でした方がよかろう。まだ仕事があるから、車の中で待っていろ。黒のセダンだ。勝手に乗り回すなよ」
「へいへい」
鍵を受け取ったヴェルナーが
その残像を振り切って、また職員室に戻った。
仕事を終える頃には、薄闇がじわじわと大気を飲みこみ始めていた。コウモリが不規則な軌跡を描いて、校舎の周りを飛び交っている。外に出た途端に日中の熱の名残が肌に纏わりつき、不快感を誘う。
気の重さを感じつつ車へ向かうと、ヴェルは助手席のシートを目一杯倒して寝入っていた。規則正しく寝息をたてている。熟睡である。
ふうと一つため息を吐く。どこまで能天気なんだ。
「おい、出発するぞ。シートベルトを締めたまえ」
「んあ? ああ……お疲れさん」
ふあーあと犬歯を晒すほどの大欠伸をしてから、ヴェルナが眠たげに目をこすった。
エンジンをかけつつ、横目でヴェルを見る。
「……生きていたんだな」
「勝手に殺すなよ。そりゃあこっちの台詞だっての」
「……それにしても貴様、その格好は何なんだ」
「これ? かっこいいでしょ」
「格好いいかどうかはさておき……貴様も影の一員なら、極力目立たないように努力するべきなんじゃないのか」
ヴェルの私服姿を見るのは初めてだ。よもやこんな派手な格好をして現れるとは夢にも思わなかった。
影の面々は大抵、街行く人々に紛れるような目立たない格好をする。今の時代、組織の命運を左右する最も重要なファクターは"情報"だ。目立つ格好をするほど、影のメンバーがどこにいるかという情報を敵に与えやすくなる。それはとても大きなリスクだ。
「いやあ俺の場合、地味な格好しててもきっと注目を一身に集めちゃうからね。主に女の子からの」
「……そうか。それは厄介だな」
投げやりに相槌を打つ。真面目に忠告した自分が馬鹿だったか。この男と話しているとため息が絶えない。昔そうだったように。
車をバックさせ、学校の駐車場から出る。周辺にはもう生徒の姿はない。いつも通りの帰宅の風景だ。助手席に妙な男が座っていることを除けば。
「それにしても、お前にまた会えるとは思ってなかったよ。再会できて嬉しいぜ」
「私は全く嬉しくないがな」
「ったく、相変わらず愛想のねえ野郎だなぁ」
「貴様に愛想を振り撒かなくてはならない理由が分からん」
ヴェルがそこでぷっと吹き出す。
「なぜそこで笑う?」
「いや、今の台詞……俺たちが初めて会った日にも同じこと言ってたぞ、お前。忘れたか?」
「……わざとだ」
正直覚えていなかったが、認めるのも
黒のセダンは帰路につく大勢の車に混じり、時に車線を跨ぎながらするすると進む。色とりどりのライトの波に乗る。こうして運転することに快さを感じる。隣にヴェルがいなければもっとよいのだが。
「お前、子供はいねーの?」
唐突な問い。
危うくおかしなところでブレーキをかけそうになり、すんでのところで踏みとどまる。
出し抜けに何を言い出すのだ、この男は。
「……独身なのに子供がいると思うかね」
質問に質問で返すと、ヴェルは唇を尖らせた。
「ちぇー、何だよつまんねえな。三十なんだから子供の一人や二人いたっていいだろ。子煩悩にでもなってたらからかってやろうと思ってたのによ」
「私に何を期待しているんだ、貴様は……。私は一生結婚はしないよ」
「は? なんでだよ。まさかまだ昔のこと引きずってんのか?」
「……」
まただ。
視界の片隅で、手招きするように、銀色が
──やめてくれ。もうその記憶にはきつく封をしたんだ。この期に及んで、栓を弛めるような真似はよしてくれ。
何も言えないでいると、ヴェルが呆れたように嘆息した。
「はあ……図星かよ。未練がましい奴だねえ」
違う、そういうことじゃない、と内心で反駁するが、説明するのも億劫になって、止めた。
「……そう言う貴様はどうなんだ。貴様も、もう二八だろう。身は固めたのか」
「んー? 俺はねえ、八年前と同じ
「……」
「一途でしょ?」
「……それこそ未練がましいと言うんじゃないのか」
今日何回目か知れないため息をつく。
ヴェルはまるで揺らめく炎のように掴みどころがない。この男との会話にそろそろ疲れてきた。年齢を重ねて少しは落ち着いたのでは、という淡い期待はとっくに崩れ去っていた。
黙っていてほしいのに、男はまた口を開く。
「つーかお前、もしかして影を辞めてから誰とも一度も付き合ってねーの?」
肯定すると、ヴェルは大袈裟に驚いた表情を作った。
「まじかよ……いかんなあ、それはいかんよ、錦くん。そんなことではどんどん心が老化していってしまうよ。あ、体もかな?」
「……貴様は年下なのに、どうしてそう偉そうなんだ」
「だって俺の方が経験豊富だしぃ」
ちょっと待て。
「貴様はさっき、一人の女性を愛し続けていると言わなかったか?」
「もちろん心変わりはしてないよ。でも、心と体は別物だもーん」
「男の風上にも置けんな貴様……それに大の男がもんとか言うな」
呆れを通り越して、私の中にヴェルへの怒りが沸々と湧いてきた。
こいつの女好きは昔から目に余るものがあったが、それはどうやら変化していないか、悪化しているらしい。
だらしなく笑う傍らの男を一発殴りたいという私の思いを乗せ、黒いセダンは自宅への道筋をひた走る。
自室の扉を開け、電気を点ける。なかなかいいとこ住んでるじゃねえか、とヴェルが呑気な感想を述べた。
たかが二十分程度言葉を交わしていただけなのに、私の気疲れは相当なものだった。これからさらに影の話を聞かされる、と思うと気が滅入る。
ヴェルをダイニングの椅子に座らせ、自身もその前に座る。
「話を聞かせてもらおうか」
「ああ、その前に。お前に紹介したい奴がいるんだ」
ヴェルが不遜な笑みを浮かべる。おい、もういいぞ、とダイニングから続くキッチンの扉へ呼びかけた。
誰に言っているんだ、と言いかけたところで、閉ざされていた扉がすうっと開く。肝を冷やして、扉を凝視する。
「待ちくたびれましたよ、ヴェルナーさん」
悠然とした微笑みと共に姿を現したのは、金髪碧眼の美しい青年だった。
唖然としてその青年を見つめる。同時に、不思議な既視感に襲われた。
年の頃は二十歳前後だろうか。金細工のように繊細な髪と、優美な顔の造りを兼ね備えている。垂れ気味の目は髪と同じ色の長い睫毛に縁取られ、虹彩は覗き見た海がそのまま焼き付いたような深い青だ。美青年という形容がこれほどはまる人間も珍しいと思えた。
しかし私の視線を捕らえたのは容姿ではなく、青年が着ている服だった。紺色の、見覚えのある軍用服。影と"罪"の闘争が著しかった八年前まで、影のエージェントに支給されていた戦闘服だ。
ヴェルがふふんと鼻で笑う。
「人の気配に気づかなかったのか? 平和ボケしてんじゃねーの?」
「……平和ボケの、何が悪いんだ」
「ま、いいけどね。こいつは俺の部下であり弟子でもある、ハンス・ヨハネス・リヒターだ」
「初めまして桐原さん、ハンスといいます。ヴェルナーさんからよくお話は聞いていました。それからこの子は」
とハンスと名乗った青年が足元に視線を落とす。釣られて見ると、その脚に寄り添うように、毛並みの整った金目の黒猫が佇んでいた。
「僕の大切なパートナーのノイです。どうぞお見知りおきを」
ニァア、と猫が鳴き、ハンス君の口元が優雅な曲線を描いた。
思わずこめかみを押さえる。頭痛がしてきそうだった。
「ちょっと待ってくれ。色々と聞きたいことがあるんだが……」
「勝手に家にお邪魔したことは謝ります。何も盗っていませんし、壊してもいないので、ここはひとつ見逃して下さいませんか」
「いや、それはまあ良いとして……。君のその格好は何なんだ」
「これですか?」
ハンス君が指先で焦げ茶色のシャツの襟を持ち上げる。
それはな、とヴェルの声が割って入った。
「こいつは影の支援部の所属でな。いつも偵察役をやってて、今みたいに大概の扉でも金庫でも開けられるんだが、武器を扱う技量がねえんだ。だから執行部員に憧れてて、外見だけでも勇ましくいこうってわけさ」
ヴェルが親指でくいとハンス君を指すと、青年の双眸が
ヴェルは執行部所属で、ハンス君は支援部所属──おかしな話だった。
影のエージェントは、三つの部署──執行部、諜報部、支援部──のいずれかに所属する。敵対組織である"罪"と直接事を構える執行部、スパイ活動を担う諜報部、様々な物資や情報を扱う支援部、役割はそれぞれにある。
影ではエージェントの各々が、弟子を取ることが推奨されている。それは、執行部員なら戦闘の技術を、諜報部員なら諜報の技術を、全て弟子に教え込むためだ。だから、師匠と弟子は普通同じ部署に所属する。この二人のような例は聞いた覚えがない。
ヴェルの得物は銃のはずだが、ハンス君はその技術を全く教えられていないということなのか。
「そんな話があっていいのか」
「もちろん僕は納得していませんよ。さっき部下ってヴェルナーさんは言いましたけど、部隊が違うから今のままじゃ名ばかり上司ですしね。どうしてこんな不能な人の下で働かなきゃいけないのか、意味が分からないです」
「おい待て、俺は不能じゃねえ。それを言うなら無能だろ」
ハンスの重たい眼差しをかわすように、ヴェルナーがあっけらかんと笑う。
「無能は否定しないのかね……」
「桐原さん、聞きました? 僕はこの無能を自称する人をやっつけて、地位をぶん取ってやるのが目標なんです。これからよろしくお願いします」
「…………」
「ま、こういう奴なんだ」
ヴェルは手慣れた風である。ハンス君は終始柔らかだが本心が読めない笑みを浮かべていた。師匠も師匠なら、弟子も弟子でかなりの曲者だ。疲労感がさらに募る。
早く話を聞こう。そしてさっさと帰ってもらおう。明日も仕事なのだし。
「それで、本題だが」
「あーその前にだね、錦くん」
「今度は何だ」
「腹減ったから何か作ってよ。お前料理は得意だったろ?」
「……」
「なんだよ。睨むなって」
「あのな……人に物を頼むには、それ相応の態度というものがあるんじゃないかね」
ヴェルがはっと何かに気付いたような顔をする。
「オゥ……ニシキサーン、俺タチオナカペコペーコナンデース、何カツクッテクダサーイ」
「どうして急に片言になるんだ……」
全身の力が抜ける。もういい分かった、とぞんざいに呟いて、キッチンへ向かった。
三人ぶんの夕食をテーブルに並べる。
白米、味噌汁、昨日作った煮物、ほうれん草のおひたし、買い置きの釜揚げしらす。手抜きもいいところだ。
私のエプロン姿を目にしたヴェルが、可笑しいのを堪えているような変な表情を浮かべ、体をぷるぷる震わせた。
「何だその顔は」
「だ、だって、ぷぷ……っ、エプロンて……お前がエプロンて……」
「訳の分からんことで笑ってないで、早く食べたらどうなんだ? 」
「ぷ……、はいはい、分かったよ食べるよ」
「お二人は仲がいいんですねえ」
ハンス君が間延びした声を漏らす。
私がテーブルに就くと、ヴェルは器用に箸を繰って食事を始めた。対するハンス君は念のために出しておいたスプーンを使っている。むしろハンス君の姿の方が自然なのかもしれない。ヴェルが箸の持ち方を知っていることに、私は少し驚いた。
「箸が使えるのか」
「うん。俺、和食が好きでさ。ドイツの日本料理屋にもけっこう行くんだ。知らなかったろ?」
「ああ。初耳だ」
「だから任務で日本に行くことが決まって嬉しかったぜ。お前にも会えるしな」
「下らん」
「おいおい、照れ隠しかい?」
「その腐った目にこの箸を突き刺してやろうか?」
「お二人は仲がいいんですねえ」
どこをどう見たらそう見えるのだ。
ハンス君が白い小魚をスプーンですくって、まじまじとそれを見つめ、不思議そうな顔をする。その様子を眺めているうちに、先ほどの既視感の正体にはたと気がついた。
「……そういえば、ハンス君。私は君を知っていた」
唐突な物言いに驚いたのだろう、ハンス君が青い目をしばたかせる。
「え? どこかでお会いしましたか」
「いや、私が一方的に見たことがあるんだ。ヴェルが昔、君の写真を持っていてな」
それも、八年前のことだ。ヴェルが俺の弟子だと言って、ハンス君の写真を見せてくれたのを
ハンス君は横に座っている自らの師匠に、じっとりとした視線を送る。
「写真って何ですか、ヴェルナーさん。どういうことですか」
「まあ、いいじゃねえか。何でも」
ヴェルは目を逸らしている。
「僕、聞いてないですよ。写真なんて持っていってたんですか」
「まあ、いいじゃねえか。それより飯食えよ」
どうやらこの話題は地雷だったらしい。
私は食事中、二人の奇妙な来訪者を観察した。どうも二人のあいだには、微妙な空気が流れているようだ。
ヴェルはハンス君の暴言を
どんな事情があるのか知らないが、典型的な師弟関係には到底見えない。二人の関係にはどうも確執がありそうだった。
食器の片付けまで済ませてダイニングに戻ると、二人の姿はそこには無く、黒猫のノイだけが床にちょこんと座っていた。猫は私を見るなり立ち上がり、尻尾をぴんと立ててリビングの方へ歩き出す。ついてこいと言っているようだ。あまつさえノイは途中で一度振り返り、ニァアと鳴いてみせたりもした。
リビングへの扉を開ける。ノイはとてとてとてと迷うことなく進み、二人掛けのソファーに腰かけていたハンス君の膝に飛び乗って、そこにちんまりと収まった。
ハンス君の隣ではヴェルが長い脚を組んで
「ここは私の家なんだが」
「お前のものは半分くらいは俺のものみたいなもんだろ」
「どういう理屈だ。とにかく、話というのを聞かせろ」
ヴェルが口の端に引きつったような笑みを浮かべた。つくづくこの男は嫌な笑い方をする奴だと思う。
「俺がここに来たってことはどういうことか、もう大体分かってるんだろう?」
胃の底がずしりと重くなる。
一人の教え子の顔が思い浮かんだ。
鋭い視線と、ぶっきらぼうな口調と、刺々しい雰囲気と、デリケートな精神と、数学の才とを併せ持った、一人の男子生徒。
「……茅ヶ崎のことだな」
観念したように言うと、ヴェルが勿体ぶった様子で首肯する。
「そうそう、茅ヶ崎リョウスケくんのことで」
「龍介だ」
「あーそっか、いやあどうも──」
「男の名前を覚えるのは苦手、なんだろう」
ため息混じりに言葉尻を奪って続ける。幾度となく聞いた台詞。
ヴェルがにやにやと気の抜けた笑みを浮かべて、分かってるじゃんか、と楽しそうに言う。
対する私は胸の内で嗚呼、と嘆いた。無念、という思いが毒のように全身に回る。こうなることを、覚悟しておくべきだったのに。
私と茅ヶ崎龍介。私たちは、出会うべくして出会った仲だ。
それは言うなれば、運命、という陳腐な言葉でしか定義できない出会いだった。
影を辞す人間に課される、ひとつの義務がある。影の予見士が予見した、"罪"に狙われる可能性がある人物の"監視"である。
影の元エージェントへは、対象となった人物と出会えるように手筈が整えられ、一般人としての生活が始まる。対象者が"罪"に襲われたりした場合は、影へ報告せねばならないのだ。
私の場合、その対象が茅ヶ崎龍介だった。
ヴェルと再会するまで、私はその事実を半ば忘れかけていた。
八年前、"罪"のトップである教皇が死んだことにより、組織は弱体化し、一般人が"罪"にピンポイントで狙われる可能性は無視できるほど小さくなった。もう二度と影と関わり合うことはない。無邪気にも、そう信じていた。忘れたふりができていたのだ。自らの過去も、彼女のことも、こそばゆいような感情も、胸を
現役の影のエージェントが会いに来るということは、茅ヶ崎龍介に関しての、何らかの警告に違いない。今日、ヴェルと再び
重い心持ちのまま、浮かんだ疑問をそのまま口に出す。
「しかし……分からんな。罪の勢力は弱まったのではなかったか? 教皇は死んだはずだろう」
「ああ。八年前に、"英雄"の手によってな」
「……」
英雄、という単語に、その場の二人が反応する。私と、ハンス君だ。自分の心境は苦いものだったが、ハンス君は目を輝かせている。
影を去ったあと、一度だけヴェルからエアメールが届いた。そこに、教皇を討ったエージェントが、"英雄"と呼ばれている旨が記されていた。
胸糞悪い。その時そう思った。
「桐原さんは、"英雄"のことをご存じなんですよね」
邪気のない声にはっとする。ハンス君がきらきらした目でこちらを見ていた。治りかけた古傷を、錆びた刃物で深く切りつけられた思いだった。心の中で、血が滴る。
「僕、"英雄"をとても尊敬しているんです。ヴェルナーさんから、桐原さんが"英雄"について知っていると伺って。僕はヨーロッパから離れるのは正直嫌だったんですけど、"英雄"の話が聞けるならと、ヴェルナーさんに着いてきたんです」
ヴェルへ視線を移す。彼は組んだ脚を解いて、優しく微笑んでいた。
瞬間的に、喉の奥から熱くどろどろした怒りが沸き上がってくる。この男が憎い。ふざけた面を、二度と笑えないくらい、めちゃくちゃにしてやりたい。どうしてこんな仕打ちができるのか分からなかった。
「良かったらお話を聞かせてもらえませんか」
「……後にしてくれ」
私は吐き捨てる。ハンス君は心底嬉しそうに、はいっ、と答えた。
手が怒りでわなないているのを、きつく指を握り合わせて押さえつける。荒くなりかけた呼吸に気づき、一度深呼吸した。
──落ち着け。今怒りをあらわにすることに何の利もない。自分を殺せ。この場をしのぐことだけ考えろ。
抑制した声は、心もち震えた。
「……それにしても、意外だな。組織は弱体化して、もう大それたことはできなくなったと思っていたが」
「そのことだけどねえ、それも説明しないといけないと思ってたんだよね」
私の怒りに気づかないはずがないのに、ヴェルの口ぶりは緊張感に欠け、至極あっさりしていた。まるで明日の天気の話でもするかのように。
ヴェルはジャケットの内側に手を突っ込む。ハガキ大の、革の表紙の本らしきものが出てきた。
「教皇が死んだあと、二代目教皇が選定されたんだよ。洗礼名はディヴィーネ。こいつが相当な曲者でな」
洗礼名とは、"罪"の中で使われる通称名。つまり偽名である。
ヴェルは本を開き、そこから一枚の写真を取り出してテーブルの上へ置く。革表紙の本は写真入れだったようだ。
写真に目を落とし、息を飲んだ。
三十年生きてきて、これほど美しい人間は見たことがなかった。
まず目につくのは、肩口まで伸びた眩いばかりの銀白色の髪。そして、磁器に似たつやと透明感のある、なめらかな白い肌。何者かの意思の介入があったかのように、顔のパーツは全てが完璧な大きさと形を持ち、それぞれが寸分の狂いもなく顔の適切な場所へと配置されている。
おそらく隠し撮りされた写真なのだろうが、青緑色の瞳は真っ直ぐこちらを見返している。生きている人間の目とは思えないほどに、冷たく無機質な光を宿した双眸だった。限りなく人形の目に近い。背筋に冷たいものが走った。
全てが危ういバランスで成り立った人間。そんな印象を受ける。
「……これは、女か?」
「いや、男だよ。びっくりだよなあ。テロリストのボスなんかやってねーで、モデルにでもなってくれてたら俺たちも苦労しなかったのによ」
この美貌の青年が、現在の"罪"の指導者。
彼の口元には、酷薄な感じの微笑が張り付いている。その陰惨な笑みから目を背けたいのに、容貌の美しさが目を惹き付けてやまない。そんな妖しげな吸引力が彼にはある。
ヴェルはさらにもう一枚写真を引き出した。
「ディヴィーネは指示を出すだけでほとんど表には出てこねえ。実行部隊のなかでとりわけやばい奴がこいつだ。ディヴィーネの右腕のルカ。嘘か真か、一人で町ひとつ消したって話もある」
写真を見る。映像の一部を切り取ったものらしく、かなり解像度が粗い。黒い髪、黒い服の青年が、どこかの街角に佇んでいる姿が写っている。頭身からして、かなりの長身だろう。ピントがずれていて表情がよく分からないのに、琥珀色の瞳だけが別の生き物のようにぎらぎらと光って見える。それが不気味だった。
「……まだ若く見えるが」
「ハンスと同い年の二十一歳らしいぜ、真偽は分からんがな。こいつに限らず、今の"罪"は若い奴だらけだ。十代のメンバーだってごろごろいやがる。どうもディヴィーネに傾倒した若者が集まってきてるみたいだな。そいつらはディヴィーネに心酔しきってる。だからディヴィーネの言うことは何でも聞く」
ヴェルが一呼吸置いて、
「それがたとえ、自分の命を危うくすることでもな」
暗く冷たい口調だった。
"美しさは人を狂わせる"。頭のなかで誰かが呟く。
思わず天井を仰いだ。自分の知らないうちに、"罪"は勢力を盛り返していたようだ。八年前の闘争で減らした人員を補い、影と対抗するだけにとどまらず、一般人をも狙うだけの力を取り戻した。その結果、茅ヶ崎の命が狙われる可能性が高まってきた。そういうことらしい。
(続く)
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