彼らのこと 過去からの来訪者(後編 1/2)

桐原錦きりはらにしきの話



 冷たい指で心臓を鷲掴みにされた心地。

 いるはずのない人物が、そこにいた。もう二度と見ないと思っていた顔。忘れかけていた──忘れたと勘違いしていた苦々しい思い出たちが、閃光のように脳裏に明滅する。情報の洪水にうろたえる。自分が立っている場所が崩れていくような感覚があった。


「おいおい、ばったり幽霊に出くわしたみたいな顔をすんなよ、錦。傷つくだろうが」


 そこに立っている赤目赤髪の長身の男が、薄く笑いながらほざく。武力組織である影の一員、ヴェルナー・シェーンヴォルフ。

 忌々しい、自分の旧友だ。

 男がつかつかと歩み寄ってきて、その血色の瞳でじろじろとこちらを見た。


「八年間でずいぶん変わったなあ、お前。一瞬人違いかと思ったぜ」


 八年。そうだ。八年前まで、私は影の一員だった。そして、敵対する"罪"ペッカートゥムとの抗争に明け暮れていた。記憶の隅に追いやり、忘れたふりをしていた事実。


「それに、眼鏡なんかかけちゃってさ。目が悪いわけでもねーくせによ……ってちょっと待って痛い痛いから引っ張らないで痛いから」


 完全に停止していた思考を奮い立たせてヴェルの腕を掴み、強引に階段下の目立たないスペースに引き入れる。できるなら無駄に悪目立ちするこいつを人目に晒したくない。加えて会話も聞かれたくない。

 放り出すようにその腕を離して、ヴェルと相対あいたいした。昔と変わらない、本心の読めない顔。その顔を彩る、鮮血のような赤。この場にこの男がいる、という現実に目眩すら覚えた。

 身に纏うボルドーのスーツと黒いシャツが、彼の髪色や虹彩と相まって強烈な印象を与える。どう見ても頭のネジが何本か飛んでいる。


「何をしに来た。なぜ貴様がここにいる?」


 何年も遣う機会のなかったドイツ語に頭を切り替え、詰問した。ドイツはヴェルの母国である。ヴェルはやれやれといったように軽く肩をすくめた。


「何年も会ってなかった友人にいきなりそれかよ? そりゃあお前、新しい環境で頑張ってるであろう大切な友人に陣中見舞いをだな……」

「白々しい嘘を吐くな。用向きは何だ。さっさと済ませてさっさと帰れ」


 ヴェルの、整った顔にへらりとした笑みが浮く。きつい口調で話しているというのに、一体何が可笑しいのか。


「あー、はは。お前のそのおっさんくさい喋り方、すっげー懐かしいわ。つうか、年齢の方が喋り方に追いついてきたか? 三十歳だもんな。もう立派なおっさんか?」

「……わざわざドイツから私を馬鹿にしに来たのか?」


 ヴェルナーの顔をじっと見る。正確には睨む。

 ヴェルナーと最後に会ったのも八年前だが、軽薄が服を着て歩いているようなこの男の外見は、当時と殆ど変わっていない。驚くほどに、だ。


「貴様は変わらんな。能天気なところも、口が軽いところも、ちゃらんぽらんなところも、何一つ」

「え、昔と変わらないって? そんなに褒められると照れるじゃねーか」


 褒めていない。

 皮肉をこれでもかとばかり込めたのに、ヴェルには全く通じないらしい。

 思い返せば昔もそうだった。いつも捉えどころの無い態度で、私の小言や苦言を受け流してばかりいた。彼のそういう、何ものにも囚われない奔放なところが私は嫌いだった。

 変わっていてくれれば良かったのに、と思う。彼の容姿や性格が当時と変わっていたなら、余計なことを思い出さなくて済んだかもしれないのに。

 ──例えば、彼女のことであるとか。

 記憶の奥底で、銀色が揺れる。


「ま、陣中見舞いってのは冗談だよ。上から仰せつかった任務でさ。話したいことがある」


 急に眼光を鋭くして、ヴェルが告げた。

 聞きたくなかった。きっとろくでもない話だと容易に想像がつくから。この男の所属する影とは、"そういう"ところなのだ。


「……分かった」


 渋々頷いて、スーツのポケットから車のキーを取り出す。お、という顔をしたヴェルナーに、それを手渡す。


「任務の話なら、私の家でした方がよかろう。まだ仕事があるから、車の中で待っていろ。黒のセダンだ。勝手に乗り回すなよ」

「へいへい」


 鍵を受け取ったヴェルナーがきびすを返す。早いとこ終わらせろよ、とひらひら手を振る後ろ姿が、一瞬だけ昔のヴェルナーに見えて、息が詰まる。

 その残像を振り切って、また職員室に戻った。



 仕事を終える頃には、薄闇がじわじわと大気を飲みこみ始めていた。コウモリが不規則な軌跡を描いて、校舎の周りを飛び交っている。外に出た途端に日中の熱の名残が肌に纏わりつき、不快感を誘う。

 気の重さを感じつつ車へ向かうと、ヴェルは助手席のシートを目一杯倒して寝入っていた。規則正しく寝息をたてている。熟睡である。

 ふうと一つため息を吐く。どこまで能天気なんだ。


「おい、出発するぞ。シートベルトを締めたまえ」

「んあ? ああ……お疲れさん」


 ふあーあと犬歯を晒すほどの大欠伸をしてから、ヴェルナが眠たげに目をこすった。

 エンジンをかけつつ、横目でヴェルを見る。


「……生きていたんだな」

「勝手に殺すなよ。そりゃあこっちの台詞だっての」

「……それにしても貴様、その格好は何なんだ」

「これ? かっこいいでしょ」

「格好いいかどうかはさておき……貴様も影の一員なら、極力目立たないように努力するべきなんじゃないのか」


 ヴェルの私服姿を見るのは初めてだ。よもやこんな派手な格好をして現れるとは夢にも思わなかった。

 影の面々は大抵、街行く人々に紛れるような目立たない格好をする。今の時代、組織の命運を左右する最も重要なファクターは"情報"だ。目立つ格好をするほど、影のメンバーがどこにいるかという情報を敵に与えやすくなる。それはとても大きなリスクだ。

 

「いやあ俺の場合、地味な格好しててもきっと注目を一身に集めちゃうからね。主に女の子からの」

「……そうか。それは厄介だな」


 投げやりに相槌を打つ。真面目に忠告した自分が馬鹿だったか。この男と話しているとため息が絶えない。昔そうだったように。

 車をバックさせ、学校の駐車場から出る。周辺にはもう生徒の姿はない。いつも通りの帰宅の風景だ。助手席に妙な男が座っていることを除けば。


「それにしても、お前にまた会えるとは思ってなかったよ。再会できて嬉しいぜ」

「私は全く嬉しくないがな」

「ったく、相変わらず愛想のねえ野郎だなぁ」

「貴様に愛想を振り撒かなくてはならない理由が分からん」


 ヴェルがそこでぷっと吹き出す。


「なぜそこで笑う?」

「いや、今の台詞……俺たちが初めて会った日にも同じこと言ってたぞ、お前。忘れたか?」

「……わざとだ」


 正直覚えていなかったが、認めるのもしゃくな気がして、悔し紛れにそう返した。

 黒のセダンは帰路につく大勢の車に混じり、時に車線を跨ぎながらするすると進む。色とりどりのライトの波に乗る。こうして運転することに快さを感じる。隣にヴェルがいなければもっとよいのだが。


「お前、子供はいねーの?」


 唐突な問い。

 危うくおかしなところでブレーキをかけそうになり、すんでのところで踏みとどまる。

 出し抜けに何を言い出すのだ、この男は。


「……独身なのに子供がいると思うかね」


 質問に質問で返すと、ヴェルは唇を尖らせた。


「ちぇー、何だよつまんねえな。三十なんだから子供の一人や二人いたっていいだろ。子煩悩にでもなってたらからかってやろうと思ってたのによ」

「私に何を期待しているんだ、貴様は……。私は一生結婚はしないよ」

「は? なんでだよ。まさかまだ昔のこと引きずってんのか?」

「……」


 まただ。

 視界の片隅で、手招きするように、銀色がひるがえる。自分の名を呼ぶ、あの人の声が聞こえる。水を失った魚のように、呼吸ができなくなる。

 ──やめてくれ。もうその記憶にはきつく封をしたんだ。この期に及んで、栓を弛めるような真似はよしてくれ。

 何も言えないでいると、ヴェルが呆れたように嘆息した。


「はあ……図星かよ。未練がましい奴だねえ」


 違う、そういうことじゃない、と内心で反駁するが、説明するのも億劫になって、止めた。


「……そう言う貴様はどうなんだ。貴様も、もう二八だろう。身は固めたのか」

「んー? 俺はねえ、八年前と同じひとを愛し続けてるよ。未だに気持ちは受け入れてもらえてないけどね」

「……」

「一途でしょ?」

「……それこそ未練がましいと言うんじゃないのか」


 今日何回目か知れないため息をつく。

 ヴェルはまるで揺らめく炎のように掴みどころがない。この男との会話にそろそろ疲れてきた。年齢を重ねて少しは落ち着いたのでは、という淡い期待はとっくに崩れ去っていた。

 黙っていてほしいのに、男はまた口を開く。


「つーかお前、もしかして影を辞めてから誰とも一度も付き合ってねーの?」


 肯定すると、ヴェルは大袈裟に驚いた表情を作った。


「まじかよ……いかんなあ、それはいかんよ、錦くん。そんなことではどんどん心が老化していってしまうよ。あ、体もかな?」

「……貴様は年下なのに、どうしてそう偉そうなんだ」

「だって俺の方が経験豊富だしぃ」


 ちょっと待て。


「貴様はさっき、一人の女性を愛し続けていると言わなかったか?」

「もちろん心変わりはしてないよ。でも、心と体は別物だもーん」

「男の風上にも置けんな貴様……それに大の男がもんとか言うな」


 呆れを通り越して、私の中にヴェルへの怒りが沸々と湧いてきた。

 こいつの女好きは昔から目に余るものがあったが、それはどうやら変化していないか、悪化しているらしい。

 だらしなく笑う傍らの男を一発殴りたいという私の思いを乗せ、黒いセダンは自宅への道筋をひた走る。



 自室の扉を開け、電気を点ける。なかなかいいとこ住んでるじゃねえか、とヴェルが呑気な感想を述べた。

 たかが二十分程度言葉を交わしていただけなのに、私の気疲れは相当なものだった。これからさらに影の話を聞かされる、と思うと気が滅入る。

 ヴェルをダイニングの椅子に座らせ、自身もその前に座る。


「話を聞かせてもらおうか」

「ああ、その前に。お前に紹介したい奴がいるんだ」


 ヴェルが不遜な笑みを浮かべる。おい、もういいぞ、とダイニングから続くキッチンの扉へ呼びかけた。

 誰に言っているんだ、と言いかけたところで、閉ざされていた扉がすうっと開く。肝を冷やして、扉を凝視する。


「待ちくたびれましたよ、ヴェルナーさん」


 悠然とした微笑みと共に姿を現したのは、金髪碧眼の美しい青年だった。

 唖然としてその青年を見つめる。同時に、不思議な既視感に襲われた。

 年の頃は二十歳前後だろうか。金細工のように繊細な髪と、優美な顔の造りを兼ね備えている。垂れ気味の目は髪と同じ色の長い睫毛に縁取られ、虹彩は覗き見た海がそのまま焼き付いたような深い青だ。美青年という形容がこれほどはまる人間も珍しいと思えた。

 しかし私の視線を捕らえたのは容姿ではなく、青年が着ている服だった。紺色の、見覚えのある軍用服。影と"罪"の闘争が著しかった八年前まで、影のエージェントに支給されていた戦闘服だ。

 ヴェルがふふんと鼻で笑う。


「人の気配に気づかなかったのか? 平和ボケしてんじゃねーの?」

「……平和ボケの、何が悪いんだ」

「ま、いいけどね。こいつは俺の部下であり弟子でもある、ハンス・ヨハネス・リヒターだ」

「初めまして桐原さん、ハンスといいます。ヴェルナーさんからよくお話は聞いていました。それからこの子は」


 とハンスと名乗った青年が足元に視線を落とす。釣られて見ると、その脚に寄り添うように、毛並みの整った金目の黒猫が佇んでいた。


「僕の大切なパートナーのノイです。どうぞお見知りおきを」


 ニァア、と猫が鳴き、ハンス君の口元が優雅な曲線を描いた。

 思わずこめかみを押さえる。頭痛がしてきそうだった。


「ちょっと待ってくれ。色々と聞きたいことがあるんだが……」

「勝手に家にお邪魔したことは謝ります。何も盗っていませんし、壊してもいないので、ここはひとつ見逃して下さいませんか」

「いや、それはまあ良いとして……。君のその格好は何なんだ」

「これですか?」


 ハンス君が指先で焦げ茶色のシャツの襟を持ち上げる。

 それはな、とヴェルの声が割って入った。


「こいつは影の支援部の所属でな。いつも偵察役をやってて、今みたいに大概の扉でも金庫でも開けられるんだが、武器を扱う技量がねえんだ。だから執行部員に憧れてて、外見だけでも勇ましくいこうってわけさ」


 ヴェルが親指でくいとハンス君を指すと、青年の双眸がくらく光った。恨めしさの宿った視線がヴェルに注がれる。

 ヴェルは執行部所属で、ハンス君は支援部所属──おかしな話だった。

 影のエージェントは、三つの部署──執行部、諜報部、支援部──のいずれかに所属する。敵対組織である"罪"と直接事を構える執行部、スパイ活動を担う諜報部、様々な物資や情報を扱う支援部、役割はそれぞれにある。 

 影ではエージェントの各々が、弟子を取ることが推奨されている。それは、執行部員なら戦闘の技術を、諜報部員なら諜報の技術を、全て弟子に教え込むためだ。だから、師匠と弟子は普通同じ部署に所属する。この二人のような例は聞いた覚えがない。

 ヴェルの得物は銃のはずだが、ハンス君はその技術を全く教えられていないということなのか。


「そんな話があっていいのか」

「もちろん僕は納得していませんよ。さっき部下ってヴェルナーさんは言いましたけど、部隊が違うから今のままじゃ名ばかり上司ですしね。どうしてこんな不能な人の下で働かなきゃいけないのか、意味が分からないです」

「おい待て、俺は不能じゃねえ。それを言うなら無能だろ」


 ハンスの重たい眼差しをかわすように、ヴェルナーがあっけらかんと笑う。


「無能は否定しないのかね……」

「桐原さん、聞きました? 僕はこの無能を自称する人をやっつけて、地位をぶん取ってやるのが目標なんです。これからよろしくお願いします」

「…………」

「ま、こういう奴なんだ」


 ヴェルは手慣れた風である。ハンス君は終始柔らかだが本心が読めない笑みを浮かべていた。師匠も師匠なら、弟子も弟子でかなりの曲者だ。疲労感がさらに募る。

 早く話を聞こう。そしてさっさと帰ってもらおう。明日も仕事なのだし。


「それで、本題だが」

「あーその前にだね、錦くん」

「今度は何だ」

「腹減ったから何か作ってよ。お前料理は得意だったろ?」

「……」

「なんだよ。睨むなって」

「あのな……人に物を頼むには、それ相応の態度というものがあるんじゃないかね」


 ヴェルがはっと何かに気付いたような顔をする。


「オゥ……ニシキサーン、俺タチオナカペコペーコナンデース、何カツクッテクダサーイ」

「どうして急に片言になるんだ……」


 全身の力が抜ける。もういい分かった、とぞんざいに呟いて、キッチンへ向かった。



 三人ぶんの夕食をテーブルに並べる。

 白米、味噌汁、昨日作った煮物、ほうれん草のおひたし、買い置きの釜揚げしらす。手抜きもいいところだ。

 私のエプロン姿を目にしたヴェルが、可笑しいのを堪えているような変な表情を浮かべ、体をぷるぷる震わせた。


「何だその顔は」

「だ、だって、ぷぷ……っ、エプロンて……お前がエプロンて……」

「訳の分からんことで笑ってないで、早く食べたらどうなんだ? 」

「ぷ……、はいはい、分かったよ食べるよ」

「お二人は仲がいいんですねえ」


 ハンス君が間延びした声を漏らす。

 私がテーブルに就くと、ヴェルは器用に箸を繰って食事を始めた。対するハンス君は念のために出しておいたスプーンを使っている。むしろハンス君の姿の方が自然なのかもしれない。ヴェルが箸の持ち方を知っていることに、私は少し驚いた。


「箸が使えるのか」

「うん。俺、和食が好きでさ。ドイツの日本料理屋にもけっこう行くんだ。知らなかったろ?」

「ああ。初耳だ」

「だから任務で日本に行くことが決まって嬉しかったぜ。お前にも会えるしな」

「下らん」

「おいおい、照れ隠しかい?」

「その腐った目にこの箸を突き刺してやろうか?」

「お二人は仲がいいんですねえ」


 どこをどう見たらそう見えるのだ。

 ハンス君が白い小魚をスプーンですくって、まじまじとそれを見つめ、不思議そうな顔をする。その様子を眺めているうちに、先ほどの既視感の正体にはたと気がついた。


「……そういえば、ハンス君。私は君を知っていた」


 唐突な物言いに驚いたのだろう、ハンス君が青い目をしばたかせる。


「え? どこかでお会いしましたか」

「いや、私が一方的に見たことがあるんだ。ヴェルが昔、君の写真を持っていてな」


 それも、八年前のことだ。ヴェルが俺の弟子だと言って、ハンス君の写真を見せてくれたのをようやく思い出した。といっても、そこに写っている彼は年端もいかない無邪気な少年だったが。見た目の雰囲気が違いすぎて、すぐには分からなかったのだ。

 ハンス君は横に座っている自らの師匠に、じっとりとした視線を送る。


「写真って何ですか、ヴェルナーさん。どういうことですか」

「まあ、いいじゃねえか。何でも」


 ヴェルは目を逸らしている。


「僕、聞いてないですよ。写真なんて持っていってたんですか」

「まあ、いいじゃねえか。それより飯食えよ」


 どうやらこの話題は地雷だったらしい。

 私は食事中、二人の奇妙な来訪者を観察した。どうも二人のあいだには、微妙な空気が流れているようだ。

 ヴェルはハンス君の暴言を軽業師かるわざしのように受け流しつつ、それでいてどこか弟子に遠慮しているような節がある。ハンス君はハンス君で、師匠に向ける軽蔑の視線には、時おり羨望や嫉妬が混じった。

 どんな事情があるのか知らないが、典型的な師弟関係には到底見えない。二人の関係にはどうも確執がありそうだった。



 食器の片付けまで済ませてダイニングに戻ると、二人の姿はそこには無く、黒猫のノイだけが床にちょこんと座っていた。猫は私を見るなり立ち上がり、尻尾をぴんと立ててリビングの方へ歩き出す。ついてこいと言っているようだ。あまつさえノイは途中で一度振り返り、ニァアと鳴いてみせたりもした。

 リビングへの扉を開ける。ノイはとてとてとてと迷うことなく進み、二人掛けのソファーに腰かけていたハンス君の膝に飛び乗って、そこにちんまりと収まった。

 ハンス君の隣ではヴェルが長い脚を組んでくつろいでいる。まあ座れよ、と彼は一人掛けのソファを指差した。


「ここは私の家なんだが」

「お前のものは半分くらいは俺のものみたいなもんだろ」

「どういう理屈だ。とにかく、話というのを聞かせろ」


 ヴェルが口の端に引きつったような笑みを浮かべた。つくづくこの男は嫌な笑い方をする奴だと思う。


「俺がここに来たってことはどういうことか、もう大体分かってるんだろう?」


 胃の底がずしりと重くなる。

 一人の教え子の顔が思い浮かんだ。

 鋭い視線と、ぶっきらぼうな口調と、刺々しい雰囲気と、デリケートな精神と、数学の才とを併せ持った、一人の男子生徒。


「……茅ヶ崎のことだな」


 観念したように言うと、ヴェルが勿体ぶった様子で首肯する。


「そうそう、茅ヶ崎リョウスケくんのことで」

「龍介だ」

「あーそっか、いやあどうも──」

「男の名前を覚えるのは苦手、なんだろう」


 ため息混じりに言葉尻を奪って続ける。幾度となく聞いた台詞。

 ヴェルがにやにやと気の抜けた笑みを浮かべて、分かってるじゃんか、と楽しそうに言う。

 対する私は胸の内で嗚呼、と嘆いた。無念、という思いが毒のように全身に回る。こうなることを、覚悟しておくべきだったのに。


 私と茅ヶ崎龍介。私たちは、出会うべくして出会った仲だ。


 それは言うなれば、運命、という陳腐な言葉でしか定義できない出会いだった。

 影を辞す人間に課される、ひとつの義務がある。影の予見士が予見した、"罪"に狙われる可能性がある人物の"監視"である。

 影の元エージェントへは、対象となった人物と出会えるように手筈が整えられ、一般人としての生活が始まる。対象者が"罪"に襲われたりした場合は、影へ報告せねばならないのだ。

 私の場合、その対象が茅ヶ崎龍介だった。

 ヴェルと再会するまで、私はその事実を半ば忘れかけていた。

 八年前、"罪"のトップである教皇が死んだことにより、組織は弱体化し、一般人が"罪"にピンポイントで狙われる可能性は無視できるほど小さくなった。もう二度と影と関わり合うことはない。無邪気にも、そう信じていた。忘れたふりができていたのだ。自らの過去も、のことも、こそばゆいような感情も、胸をえぐるような感情も、何もかも。

 現役の影のエージェントが会いに来るということは、茅ヶ崎龍介に関しての、何らかの警告に違いない。今日、ヴェルと再び相見あいまみえたとき、地獄に突き落とされた気分だった。

 重い心持ちのまま、浮かんだ疑問をそのまま口に出す。


「しかし……分からんな。罪の勢力は弱まったのではなかったか? 教皇は死んだはずだろう」

「ああ。八年前に、"英雄"の手によってな」

「……」


 英雄、という単語に、その場の二人が反応する。私と、ハンス君だ。自分の心境は苦いものだったが、ハンス君は目を輝かせている。

 影を去ったあと、一度だけヴェルからエアメールが届いた。そこに、教皇を討ったエージェントが、"英雄"と呼ばれている旨が記されていた。

 胸糞悪い。その時そう思った。


「桐原さんは、"英雄"のことをご存じなんですよね」


 邪気のない声にはっとする。ハンス君がきらきらした目でこちらを見ていた。治りかけた古傷を、錆びた刃物で深く切りつけられた思いだった。心の中で、血が滴る。


「僕、"英雄"をとても尊敬しているんです。ヴェルナーさんから、桐原さんが"英雄"について知っていると伺って。僕はヨーロッパから離れるのは正直嫌だったんですけど、"英雄"の話が聞けるならと、ヴェルナーさんに着いてきたんです」


 ヴェルへ視線を移す。彼は組んだ脚を解いて、優しく微笑んでいた。

 瞬間的に、喉の奥から熱くどろどろした怒りが沸き上がってくる。この男が憎い。ふざけた面を、二度と笑えないくらい、めちゃくちゃにしてやりたい。どうしてこんな仕打ちができるのか分からなかった。


「良かったらお話を聞かせてもらえませんか」

「……後にしてくれ」


 私は吐き捨てる。ハンス君は心底嬉しそうに、はいっ、と答えた。

 手が怒りでわなないているのを、きつく指を握り合わせて押さえつける。荒くなりかけた呼吸に気づき、一度深呼吸した。

 ──落ち着け。今怒りをあらわにすることに何の利もない。自分を殺せ。この場をしのぐことだけ考えろ。

 抑制した声は、心もち震えた。


「……それにしても、意外だな。組織は弱体化して、もう大それたことはできなくなったと思っていたが」

「そのことだけどねえ、それも説明しないといけないと思ってたんだよね」 


 私の怒りに気づかないはずがないのに、ヴェルの口ぶりは緊張感に欠け、至極あっさりしていた。まるで明日の天気の話でもするかのように。 

 ヴェルはジャケットの内側に手を突っ込む。ハガキ大の、革の表紙の本らしきものが出てきた。 


「教皇が死んだあと、二代目教皇が選定されたんだよ。洗礼名はディヴィーネ。こいつが相当な曲者でな」


 洗礼名とは、"罪"の中で使われる通称名。つまり偽名である。

 ヴェルは本を開き、そこから一枚の写真を取り出してテーブルの上へ置く。革表紙の本は写真入れだったようだ。 

 写真に目を落とし、息を飲んだ。 

 三十年生きてきて、これほど美しい人間は見たことがなかった。 

 まず目につくのは、肩口まで伸びた眩いばかりの銀白色の髪。そして、磁器に似たつやと透明感のある、なめらかな白い肌。何者かの意思の介入があったかのように、顔のパーツは全てが完璧な大きさと形を持ち、それぞれが寸分の狂いもなく顔の適切な場所へと配置されている。 

 おそらく隠し撮りされた写真なのだろうが、青緑色の瞳は真っ直ぐこちらを見返している。生きている人間の目とは思えないほどに、冷たく無機質な光を宿した双眸だった。限りなく人形の目に近い。背筋に冷たいものが走った。 

 全てが危ういバランスで成り立った人間。そんな印象を受ける。 


「……これは、女か?」 

「いや、男だよ。びっくりだよなあ。テロリストのボスなんかやってねーで、モデルにでもなってくれてたら俺たちも苦労しなかったのによ」 


 この美貌の青年が、現在の"罪"の指導者。

 彼の口元には、酷薄な感じの微笑が張り付いている。その陰惨な笑みから目を背けたいのに、容貌の美しさが目を惹き付けてやまない。そんな妖しげな吸引力が彼にはある。

 ヴェルはさらにもう一枚写真を引き出した。 


「ディヴィーネは指示を出すだけでほとんど表には出てこねえ。実行部隊のなかでとりわけやばい奴がこいつだ。ディヴィーネの右腕のルカ。嘘か真か、一人で町ひとつ消したって話もある」 


 写真を見る。映像の一部を切り取ったものらしく、かなり解像度が粗い。黒い髪、黒い服の青年が、どこかの街角に佇んでいる姿が写っている。頭身からして、かなりの長身だろう。ピントがずれていて表情がよく分からないのに、琥珀色の瞳だけが別の生き物のようにぎらぎらと光って見える。それが不気味だった。

 

「……まだ若く見えるが」

「ハンスと同い年の二十一歳らしいぜ、真偽は分からんがな。こいつに限らず、今の"罪"は若い奴だらけだ。十代のメンバーだってごろごろいやがる。どうもディヴィーネに傾倒した若者が集まってきてるみたいだな。そいつらはディヴィーネに心酔しきってる。だからディヴィーネの言うことは何でも聞く」


 ヴェルが一呼吸置いて、


「それがたとえ、自分の命を危うくすることでもな」


 暗く冷たい口調だった。

 "美しさは人を狂わせる"。頭のなかで誰かが呟く。

 思わず天井を仰いだ。自分の知らないうちに、"罪"は勢力を盛り返していたようだ。八年前の闘争で減らした人員を補い、影と対抗するだけにとどまらず、一般人をも狙うだけの力を取り戻した。その結果、茅ヶ崎の命が狙われる可能性が高まってきた。そういうことらしい。


(続く)

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