彼らのこと 過去からの来訪者(前編)

水城麗衣みずきれいの話



 桐原先生は、どこかミステリアスな人だ。

 彼はいつも細身の黒いスーツを一部の隙なく着こなしていて、きりりとした表情の奥の瞳は常に冷ややか、動作はきびきびとして厳格な雰囲気を漂わせている。見かけは近づきがたく思えるけれども、話してみると柔らかい物腰で丁寧に対応してくれる好い人だ。


 桐原先生は私、水城麗衣の同僚であり、同時に、私の想い人でもある。


 職員室の壁の時計をちらりと見上げる。もうそろそろかな。もうすぐ、彼が来る頃。

 毎日のことなのに、少し緊張する。しかし嫌な緊張ではない。落ち着こうとふっと息を吐いたときだった。私の席のすぐ右側にあるドアが、わずかな音を鳴らしながらスライドする。おはようございます、と挨拶した落ち着きのある声に、私の心臓は落ち着きを無くす。

 声の主は私の隣の席の椅子を引いた。そちらへ向かって、


「桐原先生、おはようございます」


 高鳴る鼓動を必死に鎮めながら、平然を装って挨拶をした。

 大丈夫かな。今の私、自然に笑えてるかな。


「おはようございます。水城先生」


 桐原先生が私の方に顔を向けてそう返してくれた。その拍子にばっちり目が合う。かっと顔に血が上るのが分かって、反射的に目を反らした。

 あ、やばい。今の、絶対感じ悪かったよね……。

 自己嫌悪で死にそうになりながら、私は授業の準備を再開した。横目で桐原先生を窺うと、彼は何事もなかったような面持ちでパソコンの電源を入れたところだった。黒縁眼鏡の奥の目がまっすぐ前を見ている。日本人にしては彫りの深い顔立ち。横顔では通った鼻筋が際立つ。ただの数学の先生にしておくには勿体ないくらいだ。会うたびに、格好いいなあと思ってしまう。キーボードを叩く、少し骨の浮いた長い指に見とれる。

 初めて出会ったときから、ずっと彼が好きなのだ。一目惚れだった。そして年甲斐もなく、中高生のように胸を焦がしている。

 桐原先生についてもっと知りたいという思いと、この気持ちに感づかれたらどうしようというおそれのあいだで、六月の今に至るまで、私は長いこと揺れ動いていた。

 横の席を盗み見たり、メールに目を通したり、授業の準備をしたりするうち、朝はあっという間に過ぎていく。

 今日の一時限めは一年D組での授業だった。テキストやらプリントやらを束にして抱え、始業のチャイムと同時に教室に入る。教壇の上から生徒のみんなを軽く見渡したところで、私は内心ちょっと落ち込んだ。

 また茅ヶ崎くんがいない。

 このクラスの茅ヶ崎龍介くんという生徒は、授業中はたいてい机に突っ伏していて、時々ふらっと教室から出ていってしまう。今日みたいに最初からサボることもある。前回もだったから、これで二回連続だ。

 茅ヶ崎くんは何を考えているかよく分からないところがある。気怠そうな雰囲気とは裏腹に、目付きは鋭い。射抜くような、刺すような鋭さがある。他の人が見えないものまで見えているんじゃないかとさえ思う。教師が生徒に対して言うべき言葉ではないけれど、正直言うと、茅ヶ崎くんのことはほんの少し怖い。

 気を取り直して、私は明るい声を繕った。


「グッモーニン、エヴリワン!」


 グッモーニン、とクラス全員のもそもそした返事が返ってきて、授業が始まる。



 授業の後、持ってきた紙の束を揃えていると、一人の生徒が近寄ってきた。水城ちゃん、と私を呼んだのは篠村未咲しのむらみさきさんだ。このクラスの学級長で、私によく話しかけてくれる。彼女はいつもタメ口だ。

 生徒が教師にタメ口を遣うことに対して、否定的な意見の人も多いだろう。教師としての威厳がどうのこうの、とか。でも、自分自身に限って言えば、私は悪いとは思わない。威厳を持って生徒に接するなんて私にはできないので、親しみを持ってくれた方が嬉しい。


「ねえ、授業の最初、水城ちゃんショック受けてたでしょ」


 未咲さんはそう言った。え、と漏らして彼女の溌剌はつらつとした顔をまじまじと見る。


「龍介がいなくてショックだったんでしょ? 水城ちゃんを傷つけるなんて、あいつサイテーよね。でも大丈夫! わたしがガツンと言っておくから!」


 未咲さんは左手を腰に当て、勇ましく右拳を握りしめた。

 それはガツンと言っておく、というか、ガツンとやっておく、なのではないだろうか。未咲さんが拳で事を解決することの無いよう、心の内で祈った。

 いや、それよりも。


「どうして分かったの? 茅ヶ崎くんがいなくて私がショック受けてるって……」

「だってあいつの机見てすっごい悲しそうな顔してたもん。水城ちゃんすぐ顔に出るから、何考えてるか誰でも分かるって」


 嘘、と思った。全然自覚が無い。感情を顔に出さないよう、気をつけているつもりだったのに。

 もしかして、桐原先生を見るときも顔に出ている? いやいや、そんなはずは。


「あっ、そうそう、水城ちゃんにお願いがあるの!」


 勢い込んで、未咲さんが両手で私の手を握る。彼女の掌はさらりとしてほのかに温かかった。なんの躊躇もなく他人の領域に踏み込むその仕草に、同性ながら僅かにどきりとする。


「なあに?」

「英語の文法で、どーしても分からないところがあるの! 水城ちゃん、教えてくれない?」


 未咲さんが上目遣いでこちらを見る。身長自体は彼女の方が高いが、教壇とヒールのある靴のせいで、今は私の視線の方が上だ。未咲さんの力のあるつぶらな目を見る。可愛いなと思う。


「もちろん、いいわよ。今日のお昼休みでいい?」

「えっいいの? やった!」

「だってそれが仕事だもの」


 くすくす笑いながら答えると、未咲さんがわざわざ教卓を迂回して、水城ちゃん大好き、と言いながら抱きついてきた。ためらいの無いスキンシップ。もはや言葉でしかコミュニケーションをとらなくなった私は思わず、若いなあ、と心のなかで呟いてしまう。

 高校生は若い。自身が高校生だった頃は自分のことを若いなんて考えたこともなかったけれど、今になって思う。何事も、失ってから気づくものなんだろう。


「それじゃ、お昼休みにね。またね、未咲さん」

「うん! またねー」


 教室の前でぴょんぴょん跳ねる未咲さんに手を振り、一年D組を後にした。未咲さんはこの高校ではあまりいないタイプだ。進学校だからか、割と大人しめの生徒が多い中で、膝上十五cmのスカートとニーハイを履いた姿はなかなかに目立つ存在だ。

 あんな短いスカート、最後に履いたのはいつだっけ。ニーハイなんか履こうとするものなら周りに止められるだろう。そういえば、今年の一年生とは年齢が一回り違うのだと思い至って、軽く心が沈んだ。

 二七歳。二七歳かあ……。



 お昼休み。

 自分の机で、家から持ってきたお弁当の包みを広げる。一応自分で詰めたものだが、作ったものはほとんど無い。冷凍庫から出して、そのまま弁当箱に入れれば食べられるおかずに頼りきっている。何度となく食べたミートボールを口に運ぶが、言うまでもなく味気ない。

 何気なさを装って隣の席を見やる。桐原先生のお弁当は今日も彩り豊かで、出来合いのものなど入っていないのが一目で分かる。私の貧相なお弁当とは雲泥の差だ。今日のメインのおかずは鮭だろうか。煮物の中のれんこんは飾り切りさえしてある。いつも通り、美味しそう。

 新学期の初めは、嗚呼、愛妻弁当か……と落ち込んだものだが、先生自身が作っている、と彼の口から聞いたのだ。茅ヶ崎くんとの会話の中で確かにそう言っていたのを、私はばっちり聞いていた。別に盗み聞きしていたのではなく、自然と耳に入ってきたのだ。少し、聞き耳は立てていたかもしれないけど。

 桐原先生、一体何時に起きてるんだろう。先生が手際よく料理をしているところを想像して、私はほーっと熱のこもったため息をついた。その背中を見てみたいなあ。あわよくば、先生の手料理を食べてみたいなあ。

 いやいや、妄想はやめよう、とぶんぶん首を振って食事を再開しようとしたら、手の中に箸がない。

 え、あれ、と思っているところに、


「水城先生、箸が落ちましたよ」


 横から桐原先生が私の箸を差し出してきてくれた。いつの間にか落ちていたらしい。食べながら箸を取り落として気づかないなんて大丈夫か私。人として大丈夫か私。


「すみません、ありがとうございます」


 ぺこりと頭を下げて受け取ろうとしたところ、なぜか桐原先生がじっと見つめてきた。その鋭い眼光は、ドラマでよく見る取調室の刑事を連想させた。何なに、なんだろうこの状況。私は隠し事なんかしてません! 先生への想いは隠してますが!

 ぽかんとしたまま馬鹿みたいに先生を見上げ続ける。脳内は混乱の極みにある。

 両目を僅かに細めてから、桐原先生が口を開いた。


「ぼうっとされているようですが、具合が悪いのではありませんか」


 私は、へ?と言ってしまった。我ながら可愛げがない。

 あの、すみません、妄想していただけです。

 というよりも。桐原先生は私のことを心配してくれているのだ。そのことに気づいて、急にどぎまぎしてしまう。

 先生が眉根を寄せた。


「顔も少し赤いようですし。大丈夫ですか」


 それは、あなたのせいです、桐原先生。


「ね、念のため、保健室で熱計ってきます~!」


 先生の視線にいたたまれなくなった私は、職員室を飛び出した。



 保健室で体温計を借り、体温を計る。三六度五分。すごく平熱だ。そりゃそうだ。

 職員室に戻ると、気遣わしげな表情の桐原先生に、大丈夫でしたか、と尋ねられた。はい、全然大丈夫でした、と返事をする。

 桐原先生は一見冷たそうに見えるが、他人に対しては意外と世話焼きというか、心配性である。不思議な人だ。

 洗ってきた箸で何の感慨もない食事を再開し、食べ終える頃、約束どおり未咲さんがやってきた。 


「失礼しまーす。水城ちゃん、英語教えて!」


 その声に、私より先に桐原先生が反応する。


「こら、篠村。ちゃんと敬語を遣いなさい。私相手には構わんが、他の先生には失礼だろう」


 未咲さんは先生に向かってべーっと舌を出した。どうやら二人の仲は険悪なようで、二人ともを好いている私には胸が痛む光景である。

 職員室の外の廊下には、質問に来た生徒と教師が座れるように、長机と椅子が設置してある。そこに座るや否や、未咲さんがぷりぷりして言う。


「ほんとあいつ、やな奴! 水城ちゃんと私は仲良しだから、生徒と先生とか関係ないし」

「未咲さんは、桐原先生のこと嫌いなの?」

「大っ嫌い。すごい感じ悪いじゃん。水城ちゃんもそう思うでしょ?」

「うーん……私は、桐原先生のこと」


 好きだけどな、と思わず言いかけて慌てて口をつぐむ。代わりに、尊敬してるけどな、と続ける。


「尊敬ー? あんな性悪眼鏡を? あいつと席が隣なんて、水城ちゃんがかわいそう」


 いやいや、私は嬉しいんです、と苦笑しながら心の内で返事をする。それにしても、性悪眼鏡って。ちょっと面白いなと思ったのは秘密にしておこう。

 未咲さんがぺらぺらと参考書をめくって、ここが分からないの、と言った。ふむふむ。説明の手順を頭の中で組み立てる。


「これはね、この問題を例にするとね……この動詞を受動態にして……」

「じゅどうたい?」

「えーと、受身形のことよ」

「受け身? じゅどう……柔道?」


 未咲さんは無邪気な顔で首をひねっている。

 これはどうやら、気合いを入れて取り組む必要がありそうだ。私はよし、と気持ちを引き締めた。

 時間も忘れて教えていると、別の長机に誰かが座る気配があった。未咲さんの背側、私の向いている側の机である。反射的にちらりと見ると、桐原先生だ。と、茅ヶ崎くん。

 桐原先生が私に背を向ける形で椅子に座る。未咲さんが問題を解いているあいだ、そちらを少し盗み見ると、先生と茅ヶ崎くんが穏やかに談笑していた。わ、笑ってる。あの茅ヶ崎くんが。

 茅ヶ崎くんが数学を得意としていることは、今年の一年生の担当教員なら誰でも知っている。彼は、数学の入試問題を完璧に解答して入学してきたのだ。数学のセンスを持つ者同士、ウマが合うのかもしれない。

 いいな、桐原先生と二人きりなんて。茅ヶ崎くんが羨ましい。

 不純な想いを脳内で育てていると、できた!と未咲さんが元気な声を発した。どれどれ、と問題が並ぶページをチェックする。文法というよりもスペルミスが若干散見されるが、全体的には及第点だろう。


「うん、文法は大丈夫みたいね」

「やった! ありがとう水城ちゃん、水城ちゃんのおかげだよー」


 未咲さんは私にぎゅっとハグをすると、じゃあね、と元気に言い、風のようにさあっと去っていった。折って短くしたスカートが、走るのに合わせて上下にはためく。生徒の"分からない"が"分かる"に変わる瞬間を見届けるのは、いつだって良いものだ。

 使ったペン等を片付けて立ち上がると、ほぼ同じタイミングで茅ヶ崎くんと別れたらしい桐原先生と目が合った。

 あ。どうしよう。何か言わなきゃ。


「うちの生徒がご迷惑おかけしたようで。すみません」


 私が口をもごもごさせていると、桐原先生がそう切り出した。そのうえ頭をちょっと下げられる。慌てて胸の前で手を振った。


「そんな、迷惑だなんて。これが仕事ですから」

「そうは言っても篠村のあの話し方、水城先生も怒っていいと思いますよ」

「いえ……私は別に気にしてないんです、本当に。それにしても茅ヶ崎くん、桐原先生には懐いてるんですね」


 先生が苦笑を浮かべる。


「この場合に懐くという表現が正しいのかは分かりかねますが、まあ、何かと頼ってはくれますね」

「そうですか……英語の授業も、ちゃんと聞いてくれたらありがたいんですけどね……」


 そこで桐原先生の目にふっとかげりが差した。


「まあ、彼にも色々と事情があるようです。ああいう態度なので誤解されやすいでしょうが、私が見たところ他の生徒とそんなに違っているわけではなさそうです」

「――そうなんですか」


 先生に、見た目で判断するなと言われているようで意気消沈する。茅ヶ崎くんとほとんど話したこともないのに、勝手に怖いと思うなんて、私は教師失格だ。


「茅ヶ崎にはせめて授業に出席するように言っておきますよ」

「はい……あのっ」

「はい?」

「大切なことを教えて下さって、ありがとうございましたっ」


 九十度に迫る勢いで礼をする。顔を上げると、先生は"?"という表情をしていた。

 今度茅ヶ崎くんに会ったら、話しかけてみようかな。そう思いながらそれでは、と桐原先生に挨拶した。



  日が傾いてきて、窓から射し込んだ茜色が廊下を染めている。今日ももうすぐ終わりだ。心地よい疲労を体に感じて、よし、あとひと踏ん張り、と気持ちを入れ換える。

 生徒たちがきゃっきゃとはしゃぎながら私の横を通り過ぎていく。さようならと挨拶してくれる見知った顔もちらほら。快い夕べの時間だ。夜は何を食べようかなあとぼんやり考えながら歩いていると、背後から男性の声がした。


「お嬢さん。そこの可愛らしいお嬢さん」


 私はお嬢さんと呼ばれるような年齢ではないので、お嬢さんを探すべく辺りをきょろきょろと見回す。しかし周囲には誰もいない。もしやと思いつつ、私ですか、と問いかけながら振り返って、目を見張った。

 そこには、長身で真っ赤な髪の欧米人らしき人が立っていた。自分と同い年くらいだろうか。深いボルドーのスーツに艶のある黒いシャツという、この上なく学校にそぐわない派手な格好に面食らう。教員兼来客用の玄関から入ってきたらしく、足元は素っ気ない意匠のスリッパだ。


「そうそう、君。後ろ姿より前から見た方がずっと可愛いね」


 男性は流暢な日本語で言い、気取った笑みを浮かべた。

 喜べばいいのか警戒すべきなのか分からず、私ははあ、と生返事をする。どこからどう見ても保護者には見えないし、お客さんだろうか。ただ、まともなお客さんとは思えないけど。

 そこまで考えてはっとする。見た目で判断しちゃいけない、と学んだそばからまた過ちを繰り返すのか。私は疑念を振り払っておずおずと尋ねた。


「あの、この学校に何かご用でしょうか……?」


 男性はにこっと笑う。


「ああ。えっと、君はこの学校の先生?」

「あ、はい」

「君の同僚にニシキって奴はいるかな?」


 ニシキ……西木? 脳内の教員名簿をぱらぱらめくる。西木先生なんて、この高校にいただろうか。どうも思い当たらない。

 その時、目の前の男性がお、という顔をした。その目は私の肩越しに後ろを見ている。そちらを見てどきんとした。職員室から出てきたばかりの桐原先生が、硬直したように立っていたからだ。

 先生は瞠目し、私などこの場にいないかのように、視線を赤髪の男性に注いでいる。

 そういえば、桐原先生の下の名前って確か──。


「おっす、錦。久しぶりだな」


 そう言う男性の声には、ありありと懐かしさが滲んでいた。


「──ヴェル」


 呆然とした様子で、桐原先生が呟いた。

(続く)

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