僕らのこと ひとりでは行けない場所

─茅ヶ崎龍介の話



 閉館時間の迫る図書室で、読書に没頭している。

 俺は無心でページをめくる。"素数"がテーマの本だった。

 素数という深遠な数に数学者が魅入られ、しかし完全な理解には到達できずに悪戦苦闘してきた歴史を、年代を追って丁寧に描いている。借りて帰っても良かったのだが、一度ページを開いてしまうとなかなか止めるタイミングが掴めず、それならば閉館時間まで居座ってやろうという謎の開き直りで現在に至る。

 俺はその本で紹介されていた、インドの数学者が発見した摩可不思議な公式を初めて目にし、衝撃を受けた。まさしく数学の神様から教えてもらったとしか思えないような、人智を超えた見た目をしていたからだ。その衝撃の余韻を味わっていたまさにその時、誰かが俺の肩を叩いた。

 誰だこんなところで、と振り返る。

 部活帰りなのか、頬を少し上気させた短髪の女子生徒。制汗剤の匂いが鼻腔にふわりと香る。

 幼なじみの未咲だった。

 未咲はにんまりと笑って、親指で図書室のドアを指すという男前な仕草をした。



「牛丼食べたくない?」


 本の貸し出し手続きを済ませ、図書室のすぐ外側、鞄を入れておくロッカーが並んだスペースまで来ると、未咲が唐突に言った。

 頭の中が"?"で埋め尽くされる。

 なんで、いきなり、牛丼?


「いや別に、特別食べたくはねーけど」

「うそお、食べたいでしょ絶対。今すごい牛丼食べたいでしょ? ねっ」


 小首を傾げながらねっ、と言われても。


「その決めつけは何なんだ。つーか人の話聞けよ」

「ということで、牛丼食べに行こうよ龍介」


 だから、人の話聞けよ。


「ということでってどういうことでだか、全然分かんねーんだけど」

「わたしにもよく分かんないけど、牛丼は美味しいよ?」


 無邪気ないたずらっ子のような目をして、支離滅裂なことを言う。

 ──駄目だ、こいつ話通じてねえ。

 まるで訳が分からないが、とりあえず牛丼を食べたいのが未咲であることだけは分かった。

 そういえば、とふと思い出す。以前もこんなパターンがあったのではなかったか。

 あの時は確か、帰りの電車を駅のホームで待っていたら、ラーメン食べたくない?と突然現れた未咲が脈絡なく尋ねてきたのだ。

 その後回れ右をして無理やり十五分ほど歩かされ、いかにも老舗しにせといった外観のラーメン屋に連れ込まれ、野菜がたっぷり乗った味噌ラーメンを注文させられた。まああの件に限っては、ラーメンが美味しかったから許す。

 結局、今回も未咲に押し切られ、特に食べたくもない牛丼を食べに行くことになった。

 訳が分からん。

 俺たちの高校のそばには、チェーン店の牛丼屋があって、野球部とかテニス部とかの男子生徒たちが部活帰りに大挙して押し寄せる、らしい。店に入ったことはないので、その表現が写実的なものか誇張なのかは不明である。今は夕飯には少し早いが、部活がちょうど終わる頃なので、その話を実際確かめることができそうだ。

 できそうだからといって、どうと言うこともないのだけれど。


「牛丼が食べたいんなら、勝手に一人で行けばいいだろうが」


 隣を歩く未咲に、ちくりと棘を刺すつもりで呟く。


「うーんおなか減った! 早く牛丼食べたい! 大盛りの牛丼をおなかいっぱい食べたーい!」

「あのさあ頼むから話聞いてくんないかな」

「えー? いま何か言った?」


 偽りのないきょとんとした顔が返ってくる。

 未咲の雰囲気がいつもと少し違っていて、俺は戸惑った。大抵はつんけんしているのに、今はなんというか、若干ふわふわしている。どうも未咲は空腹だと上の空になるらしい。十年以上の付き合いだが、新発見だった。


「だから、牛丼食べたいなら一人で行けっての」

「はあ? 一人で牛丼屋なんて入れるわけないでしょ。馬鹿じゃないの」

「……」


 言い直したら蔑むような目で見られた。理不尽だ。そこまで言われなくてはいけないことか。

 未咲は口先をちょっと尖らせる。


「大体わたし、一人で牛丼屋に入っていけるほど逞しくないし」

「嘘つけよ。だったら俺じゃなくて、クラスの友達とか部活の友達とか誘ったらいいだろ」

「あのねえ、わたしだって女の子とだったらドーナツ屋さんとかハンバーガー屋さんとかに行くから」


 ほお、そういうものなのだろうか。牛丼とハンバーガーに何の違いがあるのだろう。どちらも牛肉なのに。女子は完全に俺の理解の範疇を超えている。


「それなら、ひかるはどうなんだよ」


 俺はもう一人の幼なじみ、上宮かみや輝の名前を出した。彼は多少計算高くて腹黒い面はあるが、基本的には優しくて物分かりがいい奴なので、未咲の唐突なお願いにも苦笑いしながらも応じてくれるはずだ。

 未咲は今度は首をひねる。


「輝を誘ってもいいんだけどねー、でもなんかすごい忙しそうだから。その点あんたは暇でしょどうせ」

「どうせ言うな」


 とは言いつつも、部活に所属していない俺は実際暇だったので、あまり反論はできない。

 未咲が輝を誘った場合を考えてみる。そうなれば、未咲と輝が二人きりということになる。あの二人なら万が一にも間違いは起こらないと思うが、未咲が自分と二人でいるのを選ぶならば、それはそれで。

 ──それはそれで?

 俺は心に浮かびかけた続きを揉み消した。

 隣では、未咲が流行りの歌をハミングしている。



 店内は聞いていたとおり、高校生男子で溢れかえっていた。坊主頭の野球部らしき集団、テニスのラケットケースを持った集団などが、ボックス席を占拠している。カウンター席にもちらほらと客がいるが、ものの見事に全員男だ。むさ苦しいことこの上ない。

 浮いてるな、と俺は思った。未咲のことではない。胸元のリボンと短いスカートは、この空間に不思議と馴染んでいた。それは、彼女が運動部の所属だからかもしれない。

 浮いているのは、自分だ。

 幾ばくかの居心地の悪さを覚えて、わいわいと盛り上がっている集団から目を反らした。部活で汗を流し、仲間と一緒に帰途の道すがら夕飯を食べに行くような青春とは、俺は今のところ無縁だった。

 そんな俺の思索に構わず、未咲は店内をずんずんと進む。錯覚以外の何物でもないが、どんよりした海面を大船となった未咲の舳先へさきが割り、俺を先へ先へと導いていくように見えた。その様は、どこか痛快だった。

 嘘つけよ、と二度目は心の中で呟く。

 ──昔からそうやって、俺の手を引いて、どこへでも連れていくくせに。

 未咲が不意に振り返る。


「なに龍介、にやにやしてどうしたの」

「してねぇよ」

「あ! 誰か好みの子でもいた?」

「男しかいねえだろうが」

「わたしがいるじゃん」

「……」

「あっ自分で言ってて恥ずかしくなっちゃった」

「…………」


 なっちゃった、じゃねーよ。いきなり何言ってんだよ。畜生が。

 店内のボックス席は全て埋まっていたため、俺たちが座るのは必然的にカウンター席になる。店員に注文を伝えると、すぐに丼が運ばれてきた。大盛りひとつと並ひとつ。言うまでもなく、大盛りが未咲で並が俺だ。

 丼が置かれるが早いか、未咲は紅しょうがの容器を引き寄せ、金属のピンセットみたいなもので豪快に中身を掴むと、丼の中へそれを大量に投入した。

 器の中が紅に染まる。嘘だろ、何やってんのこいつ?


「お……前、何やってんだよ」

「え? 紅しょうが入れただけだけど」

「いや入れすぎだろ、真っ赤になってんじゃねーか。馬鹿なの?」

「あのー、紅しょうがを馬鹿にしないでくれますー? 紅しょうがは隠れた味の名脇役なんだから!」

「別に紅しょうがは馬鹿にしてねーし、全然隠れてねーし、そんなに入れたら脇役どころかもはや主役だろ」

「龍介も入れようよ」

「いやちょ……入れなくていい! 入れなくていいから! やめろって!」


 未咲が俺の腕を押さえ付け、強引に紅しょうがを投下せんとしてくる。何こいつすげえ力なんだけど。

 俺は紅しょうがが苦手だ。というより食わず嫌いだ。料理は出されたまま食べるのが一番うまい。と信じている。ほどでもないけど、何となく、そうしている。

 抵抗虚しく、俺の丼までもが紅しょうがの海と化した。何やってくれてんだ。恨むぞ。

 俺は泣く泣く、紅しょうが:牛肉:ご飯=三:三:四くらいの比率になった牛丼に口をつけた。一口ぶんを口内に含み、咀嚼する。すると甘じょっぱいタレの味に、しょうがの辛味としゃくしゃくとした食感がアクセントになって、未知の味が舌の上に広がった。これは意外にいけるかもしれない。これも、新発見だ。

 未咲は好奇の目を俺に向けている。悔しいから、美味しいなんて言わない。

 俺が無言で二口目を口に運ぶと、未咲は満足したように自分の食事を始めた。あーんと口を目一杯開いて、とんでもない量をぱくっと頬張り、幸せそうにもぐもぐもぐと顎を動かす。

 あーん、ぱくっ、もぐもぐもぐ、だ。

 ダイナミックな、とかワイルドな、とかの表現がはまる食べっぷりだった。


「うーん、体を動かした後の牛丼は格別ですなあ!」

「何だそれ、おっさんかよ」

「龍介の中のおっさんのイメージおかしい」

「おかしくねーだろ」

「やっぱり牛丼って美味しいね」

「こんなもん美味しいとか言ってたら普段どんな飯食ってんだと思われるっての」

「だって本当に美味しいもん」

「もんとか言うなよその顔で」

「あーっ! 今のイエローカードだから! わたしだって選べるならもっと可愛い顔に生まれたかったし!」

「……別に、可愛くねぇとは言ってねえだろ」

「え? なに? 聞こえなーい!」

「つうか何だよイエローカードって」

「本人にはどうにもならないチビやハゲなどの悪口を言うと累積によって退場になります」

「どこからだよ」

「人生から」

「ずいぶん重いペナルティーだな」


 何だそりゃと思いながら俺は三口目を口に放り込む。しかし未咲の言うことも分からないではなかった。確かにそういう悪口は冗談にもならなくてタチが悪い。未咲の正義感の一端は不意に顔を出す。

 未咲の横顔をちらりと見る。心の底から楽しそうだ。本当に美味しそうにものを食べる奴である。


「……俺じゃなくて、生徒会長でも誘ったら良かったんじゃねーの」


 無意識に、そう口に出していた。

 生徒会長とは、胡散臭いほど爽やかな遍高校の二年生、九条悟のことである。輝によると、どうも未咲は九条のことを好いている。らしい。

 未咲が明らさまにぴくりと震える。またあの蔑むような目を向けられた。


「はああ? 何言ってんの? 会長の前で牛丼なんて食べれるわけないでしょ」

「何でだよ」

「こんな大口開けてるとこ、みっともなくて見せられるわけないって。だって想像してみて。もし龍介の好きな女の子が、一緒に牛丼食べに行こ! って言ってきたらどう思う?」

「…………」

でしょ? ドン引きでしょ?」

「……それはそれで、俺は別にいいけど」

「えー! 龍介ってやっぱ変わってるね」

「……お前に言われたくねーよ」

「それは一体どういう意味でしょうかあ?」

「黙って食えよ」

「なんで黙る必要があるのよ? お喋りしながら食べたほうが楽しいし美味しいじゃん」

「お前は女子か」

「はいー? どこからどう見ても完全に間違いなくれっきとした由緒正しい女子なんですけど?」

「日本語の使い方おかしいだろ。大体お前俺と喋ってて楽しいか?」

「んー、わたしは割と楽しいー」


 ぽろりと紡がれた未咲の言葉。俺は硬直した。箸で掴みかけた牛肉がぽろりと落ちる。

 不意打ちだ。いつもはそんなに素直じゃないくせに。ペースが狂う。

 俺は微かにため息をいた。

 好きなものを食べながら怒ったり意地を張ったりするのは、確かに難しい芸当だろう。それにしたって、なあ……。


「いつもそれくらい……」

「ん?」

「いや何でもねー」

「んん?」


 リスのように膨らんだ頬をもごもごさせながら、未咲が不思議そうな顔をした。



 帰りの電車は珍しく空いていた。一両にぽつりぽつりと人が座っている程度だ。

 未咲は俺の左側に腰を降ろして、でかいピンク色のケースが付いた携帯を弄りだす。俺は鞄から借りてきた本を取り出し、栞を挟んだページを開いた。あの、不可思議な数式が載っているページだ。

 数式を発見した時って、わくわくするんだろうな。想像すると同時に、今日発見した未咲の表情やら紅しょうがの食感やらを、俺は思い返していた。


「ふあーあ」


 電車の中なのに猫の鳴き声がして一瞬驚く。が、違った。未咲の欠伸だった。

 未咲はいつの間にか携帯を鞄にしまい、欠伸を噛み殺す作業に移っている。


「なんかおなかいっぱいになったら眠くなってきちゃった」

「起こすの面倒くせえから寝るなよ」

「言われなくても寝ないし……」


 俺は牽制しておいて、数学の世界へと戻る。

 しばらく本に没入していると、いやに左肩が重い。何だと思って見ると、未咲が安らかな寝顔を俺の肩に預け、すやすやと寝息をたてていた。

 間近に見る睫毛の長さと、桃色の唇のつやに不覚にもどきりとする。

 さっき寝ないって言ったの誰だよ。

 肩を揺らしてみる。効果はない。


「おい、寝るなよ。起きろ」


 小声で言ってみるが、起きる気配はない。

 仕方ない。未咲の寝顔があまりにも満ち足りていたので、俺は早々に諦め、成り行きに任せることに決めた。

 電車がガタタン、ゴトトンという規則的な音をたてる。窓の外は黄昏たそがれはじめていて、乗客のいない前方の窓ガラスに、未咲と俺がくっきり映り込んでいる。

 ガラスに映るゼロ距離。

 何してんだか、と心の中で呟く。

 こちらを見返している自分の顔が、そんなに嫌そうでもなく、それどころかけっこう満足そうだったから、自己嫌悪に陥りかけた。

 俺は本を閉じ、ぼんやりと窓を眺めた。

 未咲には翻弄されるばかりだが、未咲がこうして俺を連れ回さなければ、部活も何もしていない俺の学校生活は、もっと平坦で単調で張り合いのないものになっていたのかもしれない。未咲のおかげで知れた感情や表情、景色が色々ある。当の未咲にはそんなつもりはないだろうけど。

 体に感じる電車の振動も、肩に感じるしっかりとした質量も、牛丼で満たされたおなかも、ほとんど人がいない車内も、悪くない。心地好い。未咲が寝てしまうのも分かる。

 俺は一瞬だけ目を閉じ──



 次に目を開けた時には、降りるはずの駅をいくつも過ぎていた。ああ。やらかした。

 隣を見ると、未咲は相変わらず健やかに眠っている。二人揃って寝過ごしてしまうなんて。慌てて未咲を揺り起こし、開いたドアから飛び降りた。

 駅のホームに立つと、未咲が俺をじろりと睨んでくる。一発で目が覚めたらしい未咲のまなじりは、未だかつて見たことがないほどに吊り上がっていた。

 やれやれだ。

 逆方面の電車を待つ間、未咲に罵詈雑言の波状攻撃を受ける羽目になったことは言うまでもない。

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