彼らのこと Plastic Moon Night
─誰かの話
男は痛めつけられていた。
金髪碧眼の、とても美しい青年によって。
しくじった、と気づいた時にはすべてが悪い方向にねじれてしまっていて、挽回の試みはことごとく更なる窮地を招くだけだった。蟻が蟻地獄の中で足掻くようなもので、いつの間にか、巣の中心にいた二人の青年に捕らえられ、どこかの廃倉庫に連れてこられ、情け容赦ない拷問を受けている。
ここが蟻地獄の真ん中だ。
どすっ、どすっ、という鈍く重い音が屋内に響く。青年の一人がいま、男の体の
男の細胞は、そのすべてが痛みに置き換わってしまっていた。息継ぎをするのも、指ひとつ動かすのさえままならず、自分の体がどこにあるのかがもう分からない。肉体がなくなり、意識だけの存在に成り果てたような感覚。徐々に思考が混濁してきていて、それを一度手放してしまえば、二度と取り返せないのは明白だった。
金髪の青年は軍人なのか──どこの国のだか男には見当もつかなかったが──紺色の軍用服を着込んでいた。男を捕らえ、手早く両手両足を縛り上げたあと、真顔のままに、
「吐け」
と冷ややかに言い放った。間髪入れず、鋭い蹴りが腹に飛んだ。悶絶する男を冷然と見下ろしながら、青年はぴくりとも表情を波立たせなかった。青い虹彩の中心で、瞳孔が大きく開いていた。
男ははじめは腕で体を庇っていたものの、何発か足先を食らったところで、急速に黒々とした諦めが胸を覆った。この仕打ちには終わりがない、と悟ったからだ。青年の動きは機械的で、躊躇も遠慮も一切なかった。青年の足は急所を外さなかった。
痛みに嬲られ、あらゆるところから色々なものを垂れ流しながら、男は洗いざらい吐いた。それでも、青年の責め立ては止むことはなかった。
「汚いな」
と吐き捨てるように言いながら、青年はなおも暴力を振るい続ける。吐きたくても、男にはもう持ち合わせがなくなっていた。知っている情報も、胃の内容物も、何も。
男は自分の吐瀉物でぐずぐずになりながら、己の軽率な行為を後悔した。
──金になるからとあんな奴らにお近づきになったのが間違いだったのだ。自分はただの運び屋で、暗部に隠されたところは何も分からない。自分がいなくなったら、アンジェリカはどうなるのだろう。あの、かわいそうなアンジェリカは。
男の体はぴくぴくと痙攣し始めていた。
「ハンス、そのへんにしとけ。それ以上やったら死んじまう。聞き出せることは聞き出したろ。もう苦しめなくていい」
蹴りが止まる。赤髪の青年の手によって、金髪の青年の肩がぐいと引かれたのだ。
衝撃が止んだ代わりに、血流に乗った痛みが男の体を蹂躙する。痛み。荒い息の音。痛み痛み痛み。二人の青年がじっと男を見つめているのが分かる。
赤髪の青年が、倉庫の扉に向かって顎をしゃくった。
「お前は外に出てな。あとのことは俺がやる」
「はい」
金髪の青年は従順に頷き、姿を消す。
赤髪の青年が、つかつかと男に歩み寄ってくる。余裕のある、しかし隙はない足運びだった。手慣れているのだろう。男は、青年にとっては何回も経験したうちの一人にすぎないのだ。男の人生は、それだけのものだったということだ。
青年が懐に入れた右手を抜き、男のそばにそっとしゃがみこむ。その手に握っているものをす、と突きつける。
拳銃。ベレッタM92。優美な黒。
「悪かったなあ、痛い思いさせちまって。でもこれで最後だからよ。一発ぶちこんで、それで終わりだ。──一瞬だよ。目ェ瞑って、力抜いてな」
その語調は心底申し訳なさそうだった。
仰向けにされ、銃身を噛まされる。感慨に耽る時間などなかった。青年の動作は迅速だった。
引き金にかかる指が動く気配を、やけに明瞭に感じた。
* * * *
街を細い月が照らしている。
運河沿いの倉庫の扉が、ゆっくりと開く。
年若い金髪の青年が、年上の赤髪の青年に微笑みかける。金髪の青年の足元には、黒い影がまとわりついている。
「滞りなく終わったみたいですね。また、一発ですか」
「ああ。それが信条だからな」
「ヴェルナーさんは優しいですよね。もっと痛めつけた方が楽しいのに」
「いたぶるのは趣味じゃねえんだよ、お前と違ってな。それに、どんな聖人にも悪党にも、死ってのは平等だろ。だったら、最期くらい楽に逝かせてやってもいいだろうが。んなことより、
「もうしましたよ」
「ああそう。さすが仕事が早ぇな」
「それほどでも」
「んじゃ、帰るかね。大した実りはなかったなあ」
「そうですね。残念です」
「お前の言う残念ってのは、もっと遊びたかったって意味だろ」
「ええ、もちろん」
「ひでー奴」
「あなたに言われたくないですね」
低いエンジンの音。ばん、とドアが閉まる音。車の走行音が、寂れた倉庫から遠ざかっていく。
月と星の冴えた光が、粛然と街に投げかけられている。やがて物音はしぼんで消え、真夜中はすぐに元の静けさを取り戻す。
まるで、はじめから何事も起こらなかったように。
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