僕らのこと 邂逅、秘密

─茅ヶ崎龍介の話



 地上の人間が月の裏側を知ることはできない。月は、常に同じ方向を地球に向けているから。

 月だけでなくて、人も世の中も、同じようなものかもしれない。



「茅ヶ崎。話がある」


 そう担任の桐原先生に切り出されたのは、数学の授業が終わったあと、教室のドアの外まで呼ばれてからのことだった。

 先生がひどく深刻そうな、険しい表情を浮かべていたため、俺は少し驚く。


「なんですか、話って」

「……ここではできない話なんだ」


 俺たちの周りを、賑々しく生徒たちが通りすぎてゆく。

 先生は苦虫を噛み潰したような渋い顔をしている。歯切れが悪いのは、彼にしては珍しい。


「君、放課後の予定はあるかね」

「いえ」

「そうか。……すまんが私の家まで来てくれないか」


 先生の眼鏡の奥を見つめると、真剣な眼差しがそこにあった。虫の知らせと言うべきか、なんだか嫌な予感がしたが、予定がないといった手前、行かないわけにはいかなかった。



 放課後、校舎の周りには既に夕闇が迫っていて、一羽のカラスが二階教室の欄干からこちらを窺うように見ていた。

 その視線を振り切って、先生の黒いセダンに乗り込む。いつも不敵な雰囲気を纏っている先生は、切羽詰まったような、思い詰めたような、余裕のない表情をしている。俺の心中は穏やかではなかった。一体これから何があるんだろう。

 先生が運転するセダンは、学校から二十分ほどの場所に立つ、新しそうなマンションの駐車場へと導かれるように進んでいった。そのマンションは、小綺麗だがおしゃれすぎるということはなく、どちらかというとシンプルで機能美というものを感じさせる造りをしていた。

 小中高を通じて、先生の家へ上がるのは初めての経験だった。先生も自分と同じように普通に生活してるんだな、と妙な感慨にふける。

 駐車場からエレベーターに乗り、先生の部屋へ向かうあいだ、先生は無言を貫いていた。俺も何を話していいやら分からず、互いに黙りこんでいた。

 先生がカードキーで自室のドアを開けると、初めに淡いクリーム色の壁が目に入る。小さめの傘立てと靴箱が置いてある玄関から、短い廊下が続いている。

 そして意外なことに、部屋の中には先客がいた。

 三和土たたきからフローリングに上がったすぐのところに、長身の、燃えるような赤毛をした欧米人らしき男が立っていた。年の頃は二十代後半といったところか。整った顔には薄く笑いが貼り付いている。光沢のある黒いジャケットに鮮やかな紫色のシャツを合わせ、胸元からはクロスのネックレスが覗いていた。

 派手な人だな、と俺は思った。桐原先生とは正反対だ。


「来てもらったぞ」


 先生は、男がそこにいるのが当然、といった様子で声をかけた。

 赤毛の男はすい、と視線をこちらに寄越し、


「初めまして。君が茅ヶ崎くん?」


 微笑んだまま、流暢な日本語でそう訊いた。



 マンションの間取りは一LDKで、一つ一つの部屋が広々としており、どの部屋もほとんど生活感を感じさせないほど整理されていた。ダイニングの四人掛けのテーブルに就くよう促される。桐原先生は、腹が減ったろう、あり合わせのものしかできんが何か作ろう、と言ってキッチンへ消えていった。放課後、先生の仕事が終わるまでしばらく待っていたから、時刻はもう七時を回っていた。

 椅子に腰掛けると、赤毛の男が真向かいに座って正対する形になる。担任の先生の部屋で、なぜか見知らぬ外国人と向かい合うという状況に置かれている。非常に気まずい。部屋に余計なものが無いことが、居心地の悪さに拍車をかけている気がした。

 目の前の男は端整な容貌を持っていたが、それよりも、強烈な赤の虹彩と髪とが目について仕方なかった。まるで血の色だ。男は口の端に微笑を浮かべ、その深い赤をたたえた瞳でこちらをじっと見ていた。

 油断してはならない。この男に心を許してはいけない。頭のどこかでそんな声がした。


「あの」


 自分でもびっくりするくらい不機嫌な声が出る。


「あなた誰ですか」

「ん? そういや自己紹介がまだだったか。俺はヴェルナー・シェーンヴォルフ。呼ぶときは気楽に、ヴェルでいいよ」


 謎の外国人はにやりと笑う。長ったらしい名前を知れたところで、疑問は何も解決しない。


「そういうことじゃなくて……何者なんですか、あなたは。桐原先生の知り合いですか」

「んー、まあそうだねぇ、あいつの昔の友人てところかな?」


 ヴェルナーと名乗った男は飄軽に笑って、椅子の背もたれに腕をかけた。かなり偉そうな格好となる。


「しかし錦が今や学校の先生とはねえ。人生何があるか分かんねぇもんだな。君もそう思わないかい?」


 男は含み笑いを漏らしながら俺の目を見た。思わないかい、と投げかけられても、思わない、としか答えようがない。俺は桐原先生が先生である姿しか見たことがないのだから。

 先生を下の名前で呼ぶところを見ると、この人はかなり先生と親しいのかもしれない。生真面目な先生と軽薄そうなこの外国人、一体どんな接点があったのか想像もつかない。

 俺が黙っていると、ヴェルナーが短く嘆息した。


「あのさ君……なんか俺のこと警戒してるみたいだけど、別にとって食ったりしないから。はいリラックスしてリラックス。人生にはリラックスが一番重要だぜ」


 本気とも冗談ともとれない台詞のあと、ヴェルナーはうーんと伸びをして腹減ったなあと呟いた。

 そうこうしているうちに、キッチンから桐原先生が戻ってきた。両手に炒飯チャーハンが盛り付けられた丸皿を持っている。先生が紺色のエプロンを身に付けていたので面食らってしまった。学生が調理実習で着るような、いかにもエプロンといった形のエプロン。それがいやに似合っていて、思わずまじまじと先生を見てしまう。


「口に合うか分からんが、よかったら食べたまえ。……何かおかしいかね、茅ヶ崎」

「い、いえ」


 丸皿は俺とヴェルナーの前へと置かれた。先生自身は食べないらしい。皿の上の炒飯はほかほかと美味しそうな湯気をたてている。

 ヴェルナーが先生に向かっておい錦、と呼びかけた。無遠慮にも俺を人差し指で指しながら。


「なあ、このお坊っちゃん、お前の若ェ頃にそっくりじゃねーか。驚いたなあ、息子か?」


 ヴェルナーの愉快そうな笑い声に対し、先生は不愉快そうに顔をしかめる。


「馬鹿を言うな、そんなわけないだろう。彼を何歳だと思っている。御託はいいからさっさと食え」


 ヴェルナーはじゃあいただきまーす、と能天気に言い、遠慮なく炒飯を口へ運び始めた。


「君も食べたら? 錦の料理うまいよ」

「……いただきます」


 やや逡巡してから、スプーンですくって、口に入れる。途端に香ばしい薫りが鼻腔にに広がった。ご飯はぱらぱら、卵はふわふわで、細かく刻まれてほどよく甘い玉ねぎがしゃきしゃきと音をたてた。


「……おいしいです」

「でしょー?」


 なぜかヴェルナーが誇らしげに微笑んだ。それを、エプロンを脱いでヴェルナーの隣に座った桐原先生が呆れ返った表情をして見る。


「貴様はもう少し遠慮というものを覚えろ」

「えー今さらなんでよ? 料理作ってくれるようになってから何日も経ってるじゃん。それに、俺とお前の仲なんだから遠慮なんていらんだろ?」

「あのな、貴様は居候としての自覚が足りんのだ。少しくらい申し訳なさそうにせんかこのたわけが」


 先生はヴェルナーに向かってくどくどと何ごとかぶつけはじめた。大体貴様は昔から云々、いい加減に精神構造を云々、そういった説教めいた文言を、ヴェルナーはもりもり食べながらへいへいと適当に聞き流していた。

 小言の内容はよく理解できないけれど、なんだか母親みたいだなと思った。


「あの、ところで話って」


 切り出すと、それまでこんこんとヴェルナーに言い聞かせていた先生が、はたとこちらを見る。途端に表情が曇り、目に陰が射す。


「ああ、そのことだが。この男から、話してもらう」

「そうですか。あの」


 俺が促そうとするのを、ヴェルナーは手で制止するような動作を見せ、まあ待ちなさいお坊っちゃん、と芝居がかった調子で言った。


「そう慌てなさんなって。まずは空いた腹を満たすのが先決だ。日本には"腹が満たされざる者喋るべからず"という金言があるだろう?」

「ありません」

「あ、そう?」


 ヴェルナーは人を食った笑みを浮かべ、炒飯を食べる作業を再開する。俺も仕方なくスプーンを動かす。

 そのあいだ桐原先生は、沈痛さと憐憫が入り混じったような複雑な視線を俺に向けていた。心がざわざわする。胸が騒ぐというのは、こういう状態をいうのだろう。


「さてと、じゃあ本題に入ろうか」


 俺が食べ終わるのを見計らって、先に皿を空にしていたヴェルナーが切り出した。テーブルに両肘をつき、顔の前で指を組んだ彼の赤い視線が俺を射抜く。


「単刀直入に言うとだね、シュウスケくん」

「龍介だ」


 横からの即座の訂正。


「あー失敬、どうも男の名前を覚えるのは苦手でね。で、龍介くん。単刀直入に言おう」


 ヴェルナーが僅かに目を細めた。一呼吸置いてから口を開く。


「君は、命を狙われる可能性がある」


 その言葉の響きは、冷たかった。

 一瞬、何を言われたか理解できない。脳の奥までその言葉が辿り着くまで数瞬を要した。彼の言葉をそのまま反芻する。


 いのちをねらわれるかのうせいがある。

 命を、狙われる。

 誰かが、自分を、殺そうとしている。


 ひどく、現実感の無い話だった。


「……心当たりがないんですけど。言う相手が違うんじゃないですか」


 そうきっぱりと告げると、ヴェルナーが虚を突かれた顔をする。


「あれれ、あんまり驚かないねえ」

「だって俺、そこまで人に恨まれるようなことなんかしてないし……命を狙われるなんて、あり得ない」


 ちらりと先生の方を見る。こんなのはあまりにも荒唐無稽だ。話を止めさせてほしかった。

 しかしそこにあるのは、こちらを見返す真剣な瞳。

 本気かよ、と内心で呟く。


「人違いなんかじゃないさ。確かに君は今のところ何もしちゃいないが、君が将来やり遂げることで不利益を被る奴らがいる。そいつらに狙われかねないってわけ」


 ヴェルナーが噛んで含めるように言う。引っ掛かりを覚える言い方だ。さも未来のことが分かっているような言いぐさではないか。


「なんで、これから俺がやることが分かってるみたいな言い方なんだよ」

「分かってるみたいな、というか、実際分かってるんだけどねえ。まあ、一つ一つ説明していこう。君が知らない世界のことだよ」


 意味深な台詞のあとで、ヴェルナーがばちんとウインクを決めた。


「まず何から話すべきかなあ……予見について話した方がいいかな」

「よけん?」


 思案げに顎を撫でるヴェルナーから発せられたのは、聞き馴染みの薄い言葉だった。

 俺の鸚鵡オウム返しに、そ、とヴェルナーが軽く肯定して、滔々と説明を始める。

 彼曰く。

 "未来"と"現在"は、方程式の左辺と右辺のように、一対一で対応している。左辺が現在、右辺が未来とすると、未来に影響を及ぼす現在の要素を全て挙げることができれば、方程式の解を求めるがごとく、おのずと未来が見えてくる。

 未来は、予め知ることができる。それを俺たちは予見と呼んでいるんだ、とヴェルナーは言った。

 いきなり突拍子もない話をされて困惑したが、どうやら超常現象の類いについて話しているわけではないらしい。確かに理屈は通っている気はするし、どちらかといえば科学的な内容に感じた。

 ヴェルナーはその先を続ける。


「ただし、未来を予見すると口で言うのは簡単だが、実用にはかなりの困難を伴う。未来に影響を及ぼす要素なんて、それこそ数えきれないほどあるからな。コンピュータで計算しようにも、未来像が弾き出される前にその未来が来ちまうだろう。んで、ここで情報の取捨選択に長けた人間の登場ってわけだ」


 ヴェルナーの口は滑らかだ。


「豊富な知識と、類いまれな記憶力と、そしてこれが一番重要なんだが──第六感ともいえる直感を持ち合わせた人間がいる。ある条件下で特定の何種類かの遺伝子が発現するとそうなるらしいけど、あ、遺伝子って分かるかな? ……詳しい話は俺も完全には理解できてないから、説明は省かせてもらう。そいつらは未来をある確率で予想することができるんだ。俺たちは彼らを予見士と呼んでる。で、さっきの話に戻るけど、そいつらが君の未来を見たってわけ。ここまではいいかい」


 いやいや、待てよ、と俺はヴェルナーの話を遮った。


「納得できないな。その予見士って奴は、スーパーコンピューターよりも計算が速いってわけか? 化け物かよ。そんなん信じられねえ」

「計算してるわけじゃないよ。見えるんだよ」「なんだそれ。ますます納得できねえって」

「あのね、未来予測で大切なのは、演算速度よりもむしろ、どの情報を捨てるかってことなんだよ」

「っつったってなあ……」

「もー、ごねるねえ。そんな文句言われたってできるもんはできるんだから仕方ねえだろ」


 ヴェルナーは子供がするように口を尖らせて言う。

 でも、となお食い下がろうとすると、それまで口を閉ざしていた桐原先生に、茅ヶ崎、と呼び止められる。先生の目は真剣さに満ち、その視線はこちらに突き刺さってくるようだった。


「申し訳ないが、信じてもらうしかないんだ。とにかく、こいつの話を最後まで聞いてやってくれないか」


 先生の言葉には、嘆願するような響きさえある。桐原先生にそこまで言われては、俺としては了承するしかない。渋々首肯すると、ヴェルナーはふーん、と俺と先生を交互に見た。


「……まあいいや。じゃあ話を先に進めよう。お次は一番大事な、誰が君の命を狙ってるかと、俺が何者かについて説明するね。君の命を狙いかねない奴ら──とりあえずそいつらを悪者ワルモノということにしとこう。俺たちはそいつらの敵だ。つまり、君にとっては味方ってこった」

「……そいつら、俺たち、ってことは、複数人なんだな。その敵も、あんたらも」


 赤髪の男が、よくできました、とでも言うように、にこっと笑う。


「察しがいいな。その通り。俺たちはその悪者集団に対抗して作られた組織の一員でね、便宜的に影と名乗ってる。まあちょっと色々な事情で正式名称がないもんでね。で、敵さんの名前は"ペッカートゥム"。ラテン語で"罪"って意味の、国際的なテロ組織だよ」


 ヴェルナーの最後の言葉に、思わず目を剥いた。国際的なテロ組織だと? どうしてそんな物騒な奴らに自分が狙われないといけないのか。


「それは言えないんだ」


 ヴェルナーが少し残念そうな表情を作る。


「未来は自分で確かめてくれ。もっとも、それまで君が生きていればの話だけどね」

「ヴェル、冗談がすぎるぞ。言葉に気を遣え」


 堪えきれないという風に口を開いた先生は、いたくご立腹の様子だった。対してヴェルナーはぺろりと舌を出し、ごめんごめん、と反省しているのか疑わしい謝罪をする。


「ま、そうだな……ヒントを出すとしたら、君が"罪"ペッカートゥムの活動に支障を与える存在に後々なるだろう、ってことまでは言えるかな。影にも"罪"にも、さっき説明したような予見士がいてね、君が"罪"の脅威になるって予見した。その上で俺たちは、"罪"の連中が君を狙うかもしれないと予想したんだ。脅威の芽は早く摘んでおくに限るからね。それで、俺が君の護衛として影から派遣されたってわけさ」

「護衛?」

「あれ? 言ってなかったっけ」


 ヴェルナーの口調はとぼけるような調子だった。護衛なんて、俺にとっては初耳だ。

 先生がそこでなぜか、刃物にも似た鋭い視線を横に向ける。その視線に気づいているのかいないのか、ヴェルナーは飄々と言葉を続けた。


「影のお偉いさんから言われたんだよ。いつ"罪"の奴らが襲ってきてもいいように、君の周辺を監視しろ、ってね。いざというときは俺が君を守るよ」


 そこまで言って、ヴェルナーはやれやれと言わんばかりに首をすくめた。


「こういう台詞は君みたいに根暗そうなお坊っちゃんよりも、可愛い女の子に言いたかったけどね」

「……ヴェル」

「あーはいはい、うるさいなお前はいちいち」


 桐原先生のたしなめる声に、ヴェルナーはちょっと頬を膨らまして応えた。

 俺はそこで、先ほどから気になっていることを問うてみることにした。


「なあ……ちょっといいか? その……ペッカーなんとか? って奴らは、国際的なテロ組織なんだよな。でもそんな名前、聞いたことねえぞ。その話、本当なのかよ」

「うん、その疑問はもっともだ。"罪"の存在をほとんどの人間は知らない。報道されることはおろか、全世界的にその存在が秘匿されているからな」

「秘匿? どうして……」

「君はクローンというものを知っているかい?」


 急に真面目な顔をして、ヴェルナーがこちらを見据えた。話の展開についていけず少々動揺する。


「え……っと、多分。ドリーとか、聞いたことある」

「そう。ドリーはクローン羊だな。クローン技術は何十年も前から研究されてるが、それを人間に応用する研究は現在禁止されている。倫理的な問題が解決できてないからね。クローン人間に関する法的な整備はされていないし、クローン人間が存在しないのを前提でこの世界は成り立っている」

「……それで?」


 ヴェルナーの赤い双眸が不穏な光を放った。


「"罪"では様々なテクノロジー開発が行われてる。クローン人間の研究も極秘裏に進められてるらしい。どころか、既に実用化に至っているって話もある」

「……!」

「クローン人間がいることが明るみに出たら、世界はそれこそ混乱の渦に巻き込まれるだろうな。その他にも、世界的に凍結されてる研究を連中は進めている。だから、"罪"の存在を公にするわけにはいかないんだ。もちろん敵対してる俺たち影も同様に。正式名称がないのは、そういう理由」


 ヴェルナーが獰猛な微笑みを浮かべる。


「光で照らせない闇は、もっと大きな影で覆い尽くすしかないのさ」


 俺はしばらく圧倒されていた。ヴェルナーが言った"君の知らない世界"とは、こういうことだったのだ。

 しかし、また新たな疑問が湧いてくる。秘匿されている組織の存在を、俺みたいなただの一般人が知ってしまっていいのだろうか。


「ちょっと待て。じゃあ、なんでそれを俺に話すんだよ」

「君はいずれ知ることになるからだ」

「……何だそれ」


 尖った犬歯を覗かせた、不敵な笑みが返ってくる。含みのある言い方。俺は、自分がそういう婉曲な言い回しが嫌いであると、たった今気づく。

 それにしても、と思う。そんな危険な連中に狙われるなんて、未来の自分は一体何をやらかすというのだろう。ヴェルナーの話はにわかには信じがたい内容ばかりだったが、桐原先生が黙して聞いている以上、信用しなくてはいけない気がするのだった。


「ま、そんなに心配することはねーよ。何もすぐに"罪"の連中が襲ってくるとは言ってない。今のところ、罪の人間が君に手を出す可能性は低い」

「……じゃあさっきの予見の話は何だったんだよ」


 憮然として言うと、ヴェルナーが諭すような口調になる。


「あのな坊っちゃん。予見ってのは、百パーセント確実な未来を知れる能力じゃない。万能じゃねぇんだ。さっきも、ある確率って言っただろ。天気予報とおんなじで、未来になればなるほど精度は落ちる。君が将来、"罪"にとって脅威となる確率は、現時点では五分五分ってとこだ」

「……ふうん」

「だから今からそんなに怖がらなくてもいいんだぜ。何かあれば俺が守ってやるしな」


 別に怖がってない、と言い返したかったが、面倒な事態を招きそうなので口をつぐむ。ヴェルナーは超然と椅子にふんぞり返っている。この男に自分の命を預ける、そっちの方が心配だった。


「つーか、さっきから護衛って言ってるけど、まさか学校にも着いてくんのか? それとも俺に外出するなって言うわけ?」

「案ずるな、お坊っちゃん。君は今までどおり普通に生活してていい。護衛っつっても、四六時中君のそばにいるわけじゃないしな。少し離れたところから、見張らせてもらうよ」

「離れたところって……そんなんで何かあったときに間に合うのか」

「心配御無用」


 ヴェルナーは懐に手を差し入れる。そこからおもむろに出てきた、黒光りするもの見てぎょっとする。

 拳銃だった。

 喉がごくりと鳴る。


「不届き者はこいつでどかん、さ」

「……本物?」


 思わずそう漏らす。ヴェルナーが馬鹿にするような笑い声をたてた。


「おいおい、割と面白いな君は。偽物持ち歩いてどうすんだ」

「……警察でもないのに、そんなもの持ってていいのかよ。ここは日本だぞ」


 むっとして言い返すと、ヴェルナーは事も無げに大丈夫さ、と言った。


「影の人間が武器を携帯するのは、各国の警察とICPOによって認められた権利だ。ま、その事実を知るのは警察でもICPOでも一部の人間に限られるがね。さっき言い忘れたけど、俺たち影の人間は、"罪"の連中を殺しても罪に問われないことになってるんだ」

「え」

「言い換えれば、俺たち影は"罪"専門の殺し屋集団とも言える。……驚いたかい?」


 ヴェルナーの顔をまじまじと見る。つまり、目の前にいるこの男は。

 人を。

 殺したことがあるのだ。


 ぞっとする。目前に座る笑みを浮かべた男が、にわかに禍々しい存在に思えてきて、寒気を覚えた。


「ってことで、これからよろしくー。君に話したかったことは以上、終わり」


 こちらの心情を知ってか知らずか、ヴェルナーが緊張感の欠片かけらも無い声でそう締めくくった。



 先生の家から退去する頃、時刻は九時になりかけていた。

 頭の中では、今しがたヴェルナーから聞いた様々のことがぐるぐると渦巻いている。先生とヴェルナーが何言か交わしているのも耳に入らず、熱に浮かされているような感覚だった。

 玄関で靴を履いているとき、傍らに立っていた桐原先生が、フローリングに立つヴェルナーに話しかけた。


「じゃあ、家まで送ってくる。せっかく来てもらったんだから、礼くらい言いたまえ」

「ん、ああ、わざわざどうもな」


 ヴェルナーの挨拶はぞんざいだった。


「つーか、護衛するとか言ってたのに着いてこないんだ……」

「んー? ま、今日は大丈夫でしょ。明日から本気出すわ、もう眠いし」 


 俺の嫌味を吹き飛ばすような、ヴェルナーの大あくび。もし何かあったとき、この人は本当に助ける気があるのだろうかと、疑念を抱かざるを得ない態度だった。

 先生がドアを押し開けようとした瞬間、不意にあ、とヴェルナーが思いついたように呟く。


「ちょっといいか、錦 」


 先生が軽くため息を吐き、


「なんだ……すまん茅ヶ崎、先に行っててくれ。走って追いかけるから」


 俺が部屋の前の通路に出たところで、ドアが音もなく閉じられた。


* * * *


「錦。お前の言うとおり、約束は果たしたぜ」


 ドアを閉めた私の耳に届いたのは、氷のように凍てついた声音だった。ただの空気の震えに、頭を押さえつけられるほどの圧迫感を感じる。

 振り返って見ると、ヴェルの口元は笑みの形になっていたものの、眼は全く笑っていなかった。獲物を狙う狼めいた鋭い眼光に、身が少々震える。


「今度はお前が約束を守る番だぜ、"黒獅子"テネブレオ

「分かっている」


 ヴェルを睨み返しながら、私は答えた。


* * * *


 空の高い所で白い月が煌々と輝いている。先生が運転するセダンの助手席で、俺はぼうっと窓の外を眺めていた。

 自分の命が狙われるかもしれない。それは未だに現実味の薄い話だ。ただ眼裏まなうらに焼き付いたヴェルナーの拳銃、その荒々しい銃口が、これは現実だと突きつけてくるようだった。

 道路に溢れる様々な色の車のライト。

 この道を走る人々は、"罪"のことも影のことも予見士のことも、誰一人として知るものはないのだ。ヴェルナーの話を聞く前の自分も、そのうちの一人だった。

 何とも言い表せない、不思議な心地。桐原先生の家の敷居を跨ぐ前の自分と、ヴェルナーから話を聞かされた後の今の自分とが、同じ人間でないように思われる。


「遅くなってすまないな。親御さんによく謝っておいてくれ」


 交通量の少ない細い道に差しかかったところで、先生が口を開いた。それを契機として、視線を窓の外から進行方向へと移す。


「いや、そのことは別に……。ただ色んな話をいっぺんに聞いて、少し疲れました」

「悪いな。あいつはお調子者だし能天気だし無神経だが、心の底から悪い奴ではないはずだ……多分な。腕も確かだし、よろしく頼む」

「それは、まあ……あの、ひとつ訊いていいですか」

「ん?」


 それは、どこかからふっと降りてきた疑問だった。


「先生はどうして、あの人と知り合いなんですか」


 前方の信号が黄色から赤に変わる。先生が静かにブレーキを踏む。体が少し前につんのめる感じがあって、車体が止まった。エンジンが自動停止する。

 静寂。


「私はな」


 ややあって、先生が言葉を発した。

 横を見ると、怖いくらい真っ直ぐな目で、前を見つめる先生がいた。


「あの男が所属している組織に、身を置いていたことがある」


 ぽつり、と漏らすような声だった。

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