僕らのこと・回想 ちっぽけで勇敢な哲学

─茅ヶ崎龍介の話



 よお、とぶっきらぼうな声がして、背負っていたランドセルが乱暴に後ろに引かれる。

 次の瞬間に僕が見たのは、茜に染まりかかった空と雲、そして二人のクラスメイトのにやついた顔だった。

 仰向けのままじっとしている僕を、二人はひっくり返った昆虫を観察するような目つきで覗きこんでいる。


「あれえーあたまのおかしい龍介くん、今日はひとりで下校してんの?」

「おまえ今日も算数のじかんにすうじに色がついてるとか言ってたよな」

「すうじに色なんてついてないっての。こくばんのは白だし、きょうかしょのも黒しかないっての」

「変なやつー」

「変なやつー」


 囃し立てられても黙っていた。数字に色が着いていていない、と言われても、自分にはそう見えるのだからどうしようもない。

 小学校に上がってからほとんど毎日こんな調子だった。最初の算数の時間にそのきれいな色の数字はなんですか、などと先生に訊ねたのが原因のようだった。担任の先生は困惑したように僕を見、クラスメイト達も一斉に僕を見た。皆、奇異の目を向けていた。


 ──龍介くんは、自分には見えないものが見えてるんだ。

 ──龍介くんは、変な子なんだ。


 己に向けられた視線は、そう言っていた。

 そこで初めて、数字が色んな色に見えているのは、どうやら自分だけらしいと気づいたのだった。


「つーかさおまえさー、なんでずっとウソついてんの?」

「ウソついたら駄目って先生も言ってたじゃん。ウソついたらごめんなさいしなきゃいけないんだよ」

「すうじに色がついて見えるなんてウソでしたごめんなさいって、謝れよ」

「そうだよ謝れよ」

「……嘘じゃないよ」


 そこで初めて、僕は口を開いた。なぜ本当のことを言って嘘つき呼ばわりされるのか、意味が分からなかった。思い返すと、それは人生で初めて理不尽さを感じた瞬間だったように思う。

 それまでにやにやしていた二人の顔が、さっと怒りに染まった。


「……は? なにくちごたえしてんだおまえ」

「はやく謝ればいいんだよ、謝んないと──」


 一人が足を振り上げた。おなかを蹴られる、と直感してぎゅっと目をつぶる。だが、覚悟していた痛みが来る前に、


「こらっあんたたち! 何してんのよ!」


 聞き慣れた声が耳に届いた。

 ゆっくりとまぶたを開けると、二人はあらぬ方向を見て後退りしているところだった。


「ちぇっ、未咲かよ」

「よかったなおまえ、女子にまもってもらえて」

「女子にまもってもらわないと何にもできない龍介くん、じゃーな」

「じゃーな」


 二人は捨て台詞を吐いてぴゅうっと逃げていった。逃げ足だけは速い二人だ。


「こらーっ、覚えときなさいよー!」


 未咲が二人の背中へ叫ぶ。僕はその間におもむろに立ち上がって服の砂を払った。ふうと息をつく。

 こちらに歩み寄ってきた未咲の表情は明らかに憤慨していた。


「なんなのよあいつら。体が大きいからっていばっちゃってさ。こんど会ったらぜったいにゆるさないんだから」


 僕は俯いて足先で小石を蹴った。

 まただ。また、未咲に助けられてしまった。


「ねえ龍介くん、あいつらがまちぶせしてるかもしれないから一緒に帰ろうって言ったじゃん。なんで、先に行っちゃうの?」


 顔を上げて未咲を見る。既に怒りの色は消えていた。代わりに、心配そうな表情が浮かんでいた。

 どうして一人で帰ろうとしたのか。未咲には関係無いから。これは自分の問題だから。 

 巻き込みたくない、という言葉を、まだその時の僕は知らなかった。


「だって……僕といたら、未咲ちゃんも変な人だと思われるかもしれないし」


 自分で思っていたより、弱々しい声が出た。

 未咲は小首を傾げて、僕の左手首を掴む。


「だいじょうぶ。わたし、なに思われたってへいきだし。それに龍介くんはべつに変じゃないって」


 帰ろ、と未咲がにっこり笑って言った。



 それからも、二人のクラスメイトからの嫌がらせは止まらなかった。靴を隠されたり、教科書を破られたり、筆箱を捨てられたりした。大方のクラスメイトは知らぬ素振りを貫いていた。幼稚園の時から一緒に遊んでいた未咲と輝だけが、靴を探したり、教科書のコピーを取ってきたり、ゴミ箱から筆箱を見つけてきてくれたりした。

 担任の先生からも、龍介くんがおかしなことを言って子供たちを困惑させています、といった旨の連絡が親に行ったらしく、気遣わしげな表情の母親から学校はどうなの、とぼんやりした質問を投げかけられた。

 僕の心の中では、他人に対する不信感が募っていった。信頼できるのは、未咲と輝だけだった。



 ある日、三人は神社の軒先で雨宿りをしていた。神社の境内で遊んでいたら、急に大粒の雨が降ってきたのだ。誰も傘を持っておらず、止むまで待つほかないようだった。

 未咲は板張りの端に座り、むーっと頬を膨らましながら、足をぶらぶらと揺らしていた。輝は興味深そうに雨粒や雨雲を観察し続けていた。僕は二人の間で、じっと立ち尽くしていた。


「──やっぱり僕って、変な人なのかな」


 ふと、口が動いていた。それはずっと胸の中で渦巻いている疑問だった。

 二人は驚いたようにこちらの顔を見やった。


「どうしたの、いきなり」


 輝が目を見張ったのは数瞬のことで、そう優しく訊ねた彼の顔には微笑が浮かんでいる。


「ずうっとかんがえてたんだ。未咲ちゃんと輝くんは僕のこと、変じゃないって言ってくれるけど……。でも僕は、ほかの人には見えてないものが見えるし、僕だけみんなと違う。変わってる……やっぱり変なんだよ、僕は……」


 話すうちに鼻の奥がつんとしてきて、慌てて下を向いた。なんで泣きそうになってるんだ、なんで涙なんか出てくるんだ、と思ったとき、ああ、そうか、自分はずっと悲しかったのだ、と分かった。

 ──なんで、僕だけ。


「違うことって、そんなにだめなことかな?」


 未咲の声に、視界が滲むのも構わず顔を上げる。

 いつの間にか立ち上がっていた未咲が、腕組みをしてうーんと首をひねった。


「龍介くんはすうじが色んな色に見える。輝くんはこくごのきょうかしょを読むのがじょうず。私は走るのがはやいし、けんかもつよい。みんな、ほかの人と違うところがあるんじゃない? それってべつに変なことじゃないとおもうけどな」


 龍介くんが変なら、私だって変だし、輝くんも変ってことになるよ、と未咲は言って、太陽のように暖かく笑った。

 今思えばそれは拙い言葉だったが、僕は、心に一条の光が射し込んだように感じた。


「──雪のけっしょうってね」


 輝が雨空を見上げて口を開いた。土砂降りの中に、一片ひとひらの白を探しているように見えた。


「ひとつも同じ形が無いんだって、本で読んだ。あんなに、空から数えきれないほどふってくるのに。ぜんぶ違ってて、ぜんぶきれい」


 今は雨だけどね、とこちらを振り返って輝は苦笑した。


「なんか、僕たちも同じかなぁって」


 輝も、僕に微笑みかけた。凍ったものを融かすような、柔らかい表情だった。

 胸に込み上げるものを何と言葉にして良いか分からず、黙ったまま降りやまぬ雨を見上げる。未咲と輝も、僕に寄り添うように立って、同じように空を見上げていた。



 二人はあの日のことを覚えているだろうか。雨粒が濡らした土の匂いや、雨滴うてきが梢の葉を打つ音や、頬を撫でていくひんやりした風の温度を、覚えているだろうか。

 俺には分からない。ただあの日、自分は確かに、二人に救われたのだ。

 けろりと雨の上がった帰り道、水溜まりには虹が映っていた。

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