第一部
僕らのこと 青空を二人占め
─
「茅ヶ崎くんはお休みですか」
「いえ、サボりです」
梅雨入り前の六月のある日。今日も龍介の席には誰も座っていない。
わたしが間髪入れずに答えると、国語科担当の今野先生はわたしのほうを見て困った顔をした。もともと開いてるんだかどうか分からない目が、眉根を寄せたせいでさらに細くなっている。前が見えているか心配になる。
今野先生大丈夫ですか。前見えてますか。
「すみませんが呼んできてもらえませんか?」
「はい」
今野先生は心底申し訳無さそうな表情を浮かべている。この顔を見るのは何回目だろう。生徒に対して過剰に下手に出る必要はないと思うのだけど、定年間近のおじいちゃん先生は優しい性格みたいだった。
サボり魔を呼んでくるためにわたしは席を立つ。こういうのは学級委員長の役目であり、そうしてその学級委員長はわたしだ。
教室のドアを閉めるついでに振り返ると、先生はゆらゆらとわずかに揺れながら板書を始めていた。その1/fの揺らぎの魔の手にかかって、早くも生徒が数人机に突っ伏しているのが見えた。
成績が良いわけでもない、というより底辺層なわたしが学級委員長をしているのは、単に厄介事を押し付けられたからに他ならない。あいつの、龍介の行きそうな場所は大体頭に入っている。今日は晴れているから、おそらく屋上にいるだろう。
衣替えしたばかりの夏服のスカートをはためかせながら走っていると、途中で担任に呼び止められた。
担任の桐原先生は六月だというのに黒いスーツを上下ともしっかり着ている。先生が黒以外のスーツを着てるのを見たことが無い。そんなに黒が好きか。暑くないのか。むしろ見てるこっちが暑苦しいわ。
「
「言われなくても知ってますー。先生こそ何してんの?」
「一服」
先生は内ポケットから煙草の箱を覗かせてみせた。どうやらこれから外に行くつもりらしい。
禁煙がもてはやされている今、外に出てまで喫煙する教師は希有なんじゃないかと思う。そこまでして吸う価値があるんだろうか。無いに決まってる。
「煙草は有害物質の塊なんだって」
「君に言われるまでもなく知っている」
「じゃあなんで吸うわけ」
「大人の事情だ」
先生が口の端を歪めて皮肉っぽく笑う。どうでもいいけどわたしはこの人が苦手だ。苦手っていうか嫌い。大っ嫌い。
「とにかくわたしは急いでるの」
「また茅ヶ崎探しか。学級委員長も大変だな」
「そうやって他人事みたいに言ってるけど担任にだって責任あるんじゃないですか」
「まあそうだな」
桐原先生は笑ったままであっさり肯定した。この人のこういう、何を考えているのか全然読めないところが好きになれない。
「君もせいぜい頑張りたまえ」
「うっさい」
廊下の角を曲がる直前、思いっきりあっかんべーをしてやった。
結論から言うと、屋上に龍介はいた。
今はもうほとんど使われていない旧校舎。その屋上に繋がる扉を開け放つと、気持ちのよい風が頬を撫でる。こういうのを爽やかな初夏の風って言うんだろうか。詩人みたいだわたし。おお。
屋上にはぽつんと小屋があって、その
表面が破け、中のスプリングが出かかった古びたソファーの上に、龍介が猫のように身を丸めて眠っていた。近寄って声をかけると、ぼんやりと薄目が開く。
「龍介」
「……なんだよ」
「なんだよって何よ。あんた何やってんの」
「昼寝」
「授業中だけど」
「お前に言われなくても知ってる」
「担任みたいな口の利き方をすんな」
要領を得ない。仕方ないので龍介のおなかを小突く。
「えい。起きろ」
「いってえ止めろ馬鹿」
「なら起きなさい」
龍介がしぶしぶといった様子で身を起こした。そういえばなぜかこいつも冬服を着ている。どうして暑苦しい格好してる人ばかりわたしの周りにいるんだろう。
龍介が長い前髪のあいだから恨めしそうな視線を送ってきた。
「よくも俺の快眠を邪魔したな」
「ねえ前髪切ったら」
「うっせぇ」
「なんでブレザー着てんの」
「どうでもいいだろ」
「暑くないの」
「暑くねーよ」
「教室戻ろうよ」
「やだね」
やだねって子供か。わたしが口を開こうとするのを手で制して、龍介が面倒くさそうに溜め息をついた。
「あのさ未咲。お前、今野先生の授業ちゃんと聞いてるか? というか、ちゃんと起きてるか?」
起きてると答えようとして詰まる。全く起きてないことに思い至ったからだ。最初と最後の二、三分くらいしか起きてない。
弁解しとくと、今野先生の授業中に寝ているのは何もわたしだけじゃない。クラスメイトのほぼ全員が夢の世界に旅立っている。先生の体の微細な揺れが生徒の眠気を誘発しているとしか思えないのだ。初回の授業は衝撃的だった。恐るべし今野催眠。
「ほら見ろ。寝てるなら教室で寝ようが屋上で寝ようが一緒じゃねーか」
「……一緒じゃないし」
「何が違う。説明してみろ」
「あのね。そうやって理屈っぽいからモテないんだって」
「お前にだけは言われたくねぇな」
「"だけは"ってどういうこと」
「そういうことだよ」
しばらくお互い無言で睨みあう。龍介と顔を合わせるといつもこうだ。口喧嘩ばかりしてしまう。
不意に疲労感がどっと押し寄せてきて、思わず龍介の隣に腰を下ろした。緑色のスカートの下で古いソファーがぎぃこーと不平を漏らした。
「お前なに座ってんだ」
「なんか疲れたあ」
「は?」
「わたしも授業サボろっかな」
「はあ?」
龍介が頓狂な声を出す。何秒か唖然として、それから頭を掻いて、呆れたようにまた溜め息を一つ、ついた。
「お前は俺を呼びに来たんじゃねぇのかよ」
「そうだけど、んー疲れたし」
「意味分かんねーなお前……」
意味はわたしだって分かんない。こんな場所で授業中にひなたぼっこなんかしてちゃいけないだろう。ましてやわたし、学級委員長だし。
でも天気は良いし、空はきれいだし、雲は美味しそうだし、風は気持ちいいし、なんだかいいやって思った。龍介は毎日こんな気分を独り占めしているのか。それってちょっと、羨ましい。
今野先生には悪いけど、今回くらいは許してほしい。テストで赤点取っても字が丁寧だとか名前が素敵だって理由で加点する人だから、多目に見てくれると思うんだけど。問題は担任だな。
青空に向かって両手を突き上げ、うーんと伸びをする。風が制服のリボンをさらう。
「あーあ! また桐原せんせーに怒られるぅ!」
「やっぱり意味分かんねーなお前」
龍介が今度は声をたてて笑った。
いい天気だ。
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