四方八方を覆いつくす幻想の名は

 久地波くちは大学が名所の一つ。

 実験棟と本館の七階に架けられた渡り廊下。

 昨日知り合ったばかりの同級生と、わいわい歩いている最中に、プラネタリウムサークルの上映は始まった。


 すっと落ちていく照明。

 ゆっくりと自動で閉じられていくカーテン。

 広がっていく来場者のざわめきを、ピアノの一音一音が静寂に引き戻していく。


 息を呑む。

 天井や壁を包みこんだ漆黒に、きらびやかな星々が穿たれていく。

 その一つ一つに手を伸ばそうとして、漆黒に溶けこんだ自分の体を見失う。


 凍える真空に鏤められた光の粒。

 数十年、数百年、数千年、長い道のりを駆けぬけて、また過ぎ去っていく旅人の光。

 遠く、近く、幻想的な情景を自在に映しだす神の視点は、震えるピアノの旋律に乗せてめくるめく忘我を奏でていく。


 その一粒、隕石降りそそぐ生まれたての星に、たまらず緋が灯っていく。

 やがてゆらめく緋は、理不尽に銀河を塗りつぶしていき、隣の同級生が泣きはじめた。


「……ひぅ……あらしが……ぐすっ……きた……」


 突如、ピアノ曲が音割れして、

 回復した照明も緋を消すことはなく、

 そこには灼けはじめた世界が広がっていった。


井内いのうちさん! 両目を閉じて、口をハンカチで覆って、早く」


 火事だ。

 そう口走りかけて、あやうく呑んだ言葉は、少し遠くのおっさんが叫んだ。

 あっけなく上映の余韻はかき消され、すぐさま悲鳴と咳と怒号が、閉鎖空間に響いていく。


 放火に巻きこまれた。

 そんな事件が本当に起こるはずないと心のどこかで思っていた。

 奈良原ならはらが捕まえたという予告犯たちは囮だったということか。無事だろうか。


 満員御礼の人混みを包囲する火の回りは恐ろしく速く。

 充満する黒い煙の中、自分の身と泣きじゃくる彼女をどうにかするのが精一杯と知れた。

 視線を低く、壁伝いに前へと進んでいく。轟音。重低音の振動。おそらく背後で渡り廊下が崩落した。


 まだ何人も残っていたのではないか。そんな思考を殺す。

 自分が逝ったら、誰があの妹の話相手をするのか。そんな思考を殺す。

 渡り廊下を戻っていれば、実験棟の緊急シャワーが使えたのに。そんな思考を殺す。


 意外と息は保つ。

 視界と思考は泥底を這っている。

 冷や汗まみれの手としゃくり泣く声はまだ傍にある。


 息切れていく誰かを押しのけて。

 必死にガラスを叩く誰かを押しのけて。

 死にものぐるいで娘を捜す誰かを押しのけて。


 もう進むことも退くこともできない。

 炎に囲まれて、生存の可能性を包囲されて、左には鍵付きの部屋。

 祈るようにドアノブを回して、さいわい開いた清浄な空間へ、気を失いかけた彼女と一緒に雪崩れこむ。


 そこに犯人がいた。この地獄絵図を描きだした、不敵に嗤う真犯人が待ちかまえていた。

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