すかんぴんといたいのいたいのとんでいけ

@himo

第1話

男の話

ここは天下のさんば町、日本きってのどや街。


屋根があるだけの安い宿場が立ち並び、日雇い労働者が占拠する街。


そんな街に不釣り合いの男がやって来た。


全身黒尽くめのスーツ、金のネックレスに真っ黒いサングラス。ジムで鍛え上げたムキムキの鎧は実戦では役に立たなそうにも見える。真っ白いYシャツに真っ白い歯。如何にもカネを持っていそうな男が、こんな街に何の用なのか。


この街に住む者たちはその男の足取りを探った。


男はこの街の入口にある羅生門に一歩足を踏み入れた。

羅生門は彼らだけの間で付けられた愛称だ。

実際には名前などなく、元々建物だったものが朽ち果て唯一残ったのが二本の柱。

それが丁度仁王像のようにと言えば格好はいいが、ただそそり立った柱二本が門のように見えるだけのもの。


何故羅生門と名前が付いたか。

それはむかしむかしの五年前、明け方、太陽が顔を出すか出さないかウオサオしている時間帯。たまたま小便に起き上った川の住人が見つけたのだ。川の住人とはこの街の横を流れるどぶ川の河川に段ボールハウスを建てて住む輩たちのこと。

そんな住人が見つけたのだ、

血みどろの死体を。

死体が転がっていたから、

だから羅生門。

安易な命名の仕方だ。


そんな羅生門に一歩足を踏み入れたところで全身黒尽くめの男は辺りを見渡した。そして何やら鼻をピクピク動かしては親指と人差し指でそれを摘まんで見せたりする。全く不思議な行動にさんば町の住人は固唾を呑んで見守った。すると男は、一分と留まらずに来た道を大急ぎで戻って行ってしまった。


さんば町はブラジルサンバが流行った頃この街に踊り子が多く集まったから、などという華やいだ過去があるはずもなく、明治から大正に掛けて多くの産婆がここに住んでいたことが由来して付いた名前だ。

しかし昭和に入り、戦後何人もの赤子たちが親の勝手でこの街に生み落とされ、そのまま置き去りにされる事件が多発した。赤子は僅かに残っていた産婆の手によって育てられた。しかし年老いた産婆たちもいつしか死に絶え、取り残された孤児が自分たちで作り上げた街、それがどや街・さんば町の始まりだ。

 

男が一度この街に現れてから一週間ほどの時が流れた。

相変わらずのさんば町にまたまたその男はやって来た。

全身黒尽くめのスーツはヨレヨレで、裾は切れ放題。折り目なんかはその存在すら残っていない。

サングラスは掛けていたが、顔は日焼けと泥でばっちい感じ。

ぶっとい金のネックレスは跡形もなく、白が眩しかったYシャツは黒と灰色と微かに残った白のコントラストへと様変わり。襟もとは見事な黒。何を食えばそんなに体から脂が出るのか教えてほしい。

ここの住人はみんなカサカサだ。

それは生活水準のお陰、現代人の好物ドギツイ油モノもここで生活すれば廃棄された弁当をゴミ箱から漁って食う以外滅多に口にすることもない。全身サラサラボディが手に入る。


この前も、そして今回もその男のことをずっと観察するのはこの街十五年のベテラン・田中さん。

高度経済成長の真っ只中で奮起していたが、突如糸が切れ、あれよあれよで辿り着いた先が、このどや街・さんば町。

「ということはもしかして、彼は新入り?」

そう悟った田中さんはさっきよりも男に近づいて繁々と見ていた。

またまた羅生門で、男は行ったり来たりを繰り返す。そして鼻を摘まんで何故か顔を顰める。

そこまでは前と同じ行動だったが、それ以降がだいぶ違っていた。

彼は来た道には戻らずに、さんば町の中へと完全に足を踏み入れたのだ。

あれだけ立派な体の持ち主も初めてのこの街のオーラに圧倒されているのか、その足取りは小さく体を窄めて中へ中へと入って来た。

「新入りか?」

この街は新入りに寛大だ。

それなのに何も返さないばかりか、さっきまで小さくなっていた男が田中さんの前では急に胸を張りそっぽを向いて行ってしまった。行ってしまったと言っても、五メートルも歩いて落書きだらけの壁に靠れてその場に座り込んだだけなのだが。

その好かない態度に、

「ふんっ」田中さんはご機嫌斜めで男の前から立ち去った。


俺の話

世の中には人を比喩する言葉で、その言葉を相手に言うことは大変失礼であることがよくある。

とんまや間抜け、のろまなどがそれに当たるらしく、おたんこなすといった意味のわからないものもある。

そんな言葉を自らに発し自らを卑下するのならまだしも、

「他人をバカにする言葉は決して言ってはいけない!」

昔、母に耳にタコが出来るほど言われた。

だから俺は他人を傷つける言葉を決して言わないと心に決めていた。

それなのに俺の方がそんな言葉を毎日のように浴びせられる少年時代を送った。


当時母はこんな言葉もよく言っていた。


「おまじない。

いたいのいたいのとんでいけ」


俺が転んで怪我をして帰った時などによくそう言っていた。おまじないだからってすぐに痛みが消えることはなかった。ただそのおまじないが嫌ではなかった。

だから心で、母と同じように、いつもそのおまじないを唱えた。全く効き目がなかったそのおまじないを。



二十年以上も昔、「死にたくなったら私のことを尋ねなさい。説法などを説く気はありません。本当にあなたが死んだ方が良いのかを、判断して差し上げます」


たまたま見つけた駅の掲示板にそんな言葉が躍っていた。


 俺=僕の母校は都内でも有名な名門小学校で、僕はそこの五回生。成績は中の中、可も不可もない生徒。そんな僕は、虐められっ子。最初は極度の優柔不断が災いしてカラかわれていたがそのうち無視されるようになり、ちょっと前までは上履きを捨てられたり下駄箱や机の中にいろいろな虫の死骸を詰められたりした。それが近頃は一部の悪魔に顔以外を殴られたり蹴られたりされる始末。

心が痛いのか傷が痛いのか分からない、

そんな時の母の口癖、

「いたいのいたいのとんでいけ」

を自らで唱えた。


余計痛みが増したと感じたから担任に相談をした。「あなたにも悪いところがあるのよ」そう一掃され、見て見ぬふり。

学校に行くのが嫌になったから家に閉じこもった。

そんな息子を父親は頭ごなしに、「ダメなヤツだ」と連呼した。

仕方なく学校に行くふりをして、近くの公園で朝自分で作った弁当を食べた。ブランコに揺られながら食べる弁当が美味いわけもなく、涙が溢れた。その涙をどうすることも出来ずに白いご飯に塩味を足した。

「あのお兄ちゃん泣いているよ」心があるのかないのかわからない、やっと言葉を覚えた子供がそんなことを口にすると、

「有紀君、ダメでしょ!さあ行きましょ」母親は逃げるように子供の手を引いて僕の前からいなくなる。そして気がつけば、お日様が燦々と降り注ぐ昼間の公園で一人きりになっていた。


「本当に僕には、いる場所がないんだな」

ボソッとこぼしたあとに思い出したのは、駅の掲示板で見つけたあの言葉だった。

その下に書かれていたのは閻魔寺というお寺の名前。

全国で知る人ぞ知るどや街・さんば町の奥にあるその寺は、どうしてもそのどや街を通らないと辿り着けない。

父親から言われていた。さんば町には決して行ってはいけないと。

そして虐められる前、ある友達が言っていた。「さんば町に一歩足を踏み入れると血の臭いが充満していて、住人に姿を見られるとムシャムシャ食われちゃうらしいよ」

しかし人食い人種が住むさんば町を通らないと閻魔寺には行けない。

だから心を決めた。

どうせこのまま生きていても、虐められて惨めに死にゆくだけ。

だったら一層のこと食い殺されてしまった方がマシだ。とは思えないが、その寺に行く目的は自分がこの先、生きていく価値があるのかないのかだ。

もしないのなら、

さんば町で食われてもそれが結論なのだ。

そう自分に言い聞かせ、次の日曜日に命を掛けた冒険に行くことにした。


重たい気分で日曜日を迎えた。

そして重たい足で自転車を漕ぎ、

さんば町の入り口に辿り着いた。


すぐに目に入ったのは立て看板。

“自転車通行禁止”

手書きで書かれたその文字がおぞましかったから、急いで自転車を降りた。近くの路肩にそれを止めると、「必ず戻ってくるからね」自転車にそんな事を話しかけても返事がないことぐらい虐められっ子にもわかる。ただ僕は自分にそう言い聞かせ、信じ込ませたかっただけなのだ。


時間は午後二時。

空は晴れていたが、目の前に広がる街には薄ら靄が掛っているようだった。

「本当に悪魔の街なのか?」

そう呟きながらも眼を瞑り大きく深呼吸をすると、

「よしっ!」一人気合を入れて左足を一歩前に進め、街へと踏み込んだ。


その時だった。

僕は自分の鼻が捥げたのではないかという感覚に襲われた。

そのぐらい衝撃がある、物凄い悪臭に襲われたのだ。

次の瞬間、昼ごはんに食べたカレーライスが喉に押し寄せるのがわかったが、ギリギリのところで彼らは胃に引き返してくれた。

「危なかった」冷や汗を流しながら膝に手を当てた。立っていることさえ苦しいぐらいの悪臭に、血の臭いと聞いていたがこの臭いの方が死体が転がっていてもおかしくない気がして、全身を鳥肌が覆った。

それでも鼻を力一杯抓んで折れた心をもう一度立て直した。


友達が言っていた、

住人に見つかったら食われてしまうことを思い出し足がガクガク音を立てていたが、ここまでの勇気が水の泡だと思い、そこからはヨシッと全身力込め、脇目も振らずに息を止め、地獄のような街へと踏み込んだ。

体のあっちこっちを生命の危機を知らせたいのか何かが駆け巡ったが、脚だけを前へと押し出し全速力で荒廃した街を駆け抜けた。


しかし全く息をしないで全力疾走したものだから、一分もしないで顔が真っ赤に腫れあがった。それでも足を先に進めながらもがき苦しんでいたが、「もう限界だ!」堪らず息を吸い込んだ。


あろうことか、さんば町のメインストリートのど真ん中で息を吸ってしまったのだ。

「はーぁ」

息苦しさから解放された僕は、結局道端にゲロを吐き散らかした。

「汚ったねー」

その声に我を取り戻した僕が見たモノは、着る物も肌も顔も髪の毛も全てが真っ黒い塊の化け物だった。

「で、出たー」

そう叫びながら一目散にメインストリート走り抜けた。

「おいコラッ!人を化け物扱いするとは何事だ」

化け物が何を言おうが、振り返りはしなかった。もし振り返ったら、そこにはきっと大きな口を開けた化け物が僕を食おうとしているに違いないから。

どれぐらい走ったのだろう、もう走れないと思い足を止めた。

辺りはすっかり別世界の出で立ちになっていた。

僕を取り囲むのは今にも崩れそうな建物群ではなく鬱蒼とした草木だった。

知らぬ間に林の中へと入ったようだ。

そのモシャモシャとした木々の間に無理矢理に作られた獣道の山道、来た道には戻る勇気がなかったから合っているのかもわからない道なき道を五分ほど歩いた。

そこで見つけた。

黒い苔で覆われた薄気味悪い十数段の石段を登り切ったところに、雨風に打たれ過ぎたせいで消えかかっていて読みづらいが確かに閻魔寺と書かれた木の札を見付けた。

それが掛けられている、時代を感じさせる古びた重みのある木の門を恐る恐る潜ると、そこは竹藪だった。

そしてそれと共存するように昼間でも何かが出そうなお墓が点在していた。

まだ太陽は頭上にあるというのに薄暗くて不気味さが漂っていた。ほとんど手入れがされていないその墓の横を通り過ぎると、やっと本堂らしき建物を見つけた。

その前まで来ると戻りたい思いを誤魔化し一度深呼吸をしてから、三段ほどの階段を上り重たいのか建てつけが悪いのか分からない木の戸を両手で抉じ開けた。

靴を脱ぎ境内に入るとそこは一段と薄暗かった。

出来る限り音を立てないよう静かに中へと足を進めると突如現れた大きな木彫りの閻魔像に、「わーっ!」堪らず腰を抜かした。

「ニシャシャシャシャシャ」笑い声の後に、「いらっしゃい」住職らしきオヤジが姿を現した。

「こ、こんにちは」その風格と登場の仕方に、僕はその場に正座をしていた。

「どうした?虐めにでもあっているのか?」図星だったから、多分目は満丸だっただろう。「ど、どうして?」

「私は超能力者だ。って言いたいところだが、おまえぐらいの年でそのオドオドした態度を見れば虐めで悩んでいることぐらいすぐにわかる」

「僕は学校で壮絶な虐めを受けているんです」

「どのぐらいのものじゃ?」

学校での虐めを泣きながら、しかし事細かに話伝えた。

「なるほど。で、担任や親には言ったのか?」

「はい。担任には言ったけど、僕が悪いんだって。親に言っても多分同じ答えが返ってくると思う」

「そうか。では判決を下そう」

目を瞑り手を合わせるとお経みたいなものをモゴモゴ唱え始めた。

少しして片目だけを微かに開けた坊主が口を開いた。

「おまえの今の立場は死に相当する。だから自殺してよろしい」

ヘッという表情を浮かべた僕に、

「どうした?死んでいいぞ。あとはおまえが自らあの世に逝く行き方を決めなさい」

「僕死ななきゃいけないの?」

今度は坊主が目を丸くして、

「死にたいんじゃろ?」

「死にたいわけじゃないよ。ただこのままだったら生きていても辛いだけだから」

「だから死んだ方がマシなわけじゃろ?」

「死んだ方がマシってわけじゃなくて、何か虐めがなくなる方法がないかなって思ったから、ここに来たんです」

すると坊主は背を向け、

「説法なら他の寺に行ってくれ。ここはあくまで死に値する苦しみかどうかを決めるところ。そしておまえは晴れて死に値すると判決が下ったんじゃ」

判決が不服だったから、

「僕が死んだら、あなたは人殺しですよ!」

必死で訴えた。

「おまえが勝手に死ぬのに何故ワシが人殺しになる?」

「僕が遺書を残せば、あなたに死ねと言われたと書き残せば、そうなります」

「馬鹿かおまえは。勝手にしなさい。ただ一つだけ言っておこう。おまえの状況は卒業すれば納まる。しかし問題なのはおまえ自身だ。ほとんどの人間がいろいろなことに悩み、苦しんでいる。もしおまえが死なずに社会に出ても、もっといろいろなことに悩み苦しむことになるだろう。しかし今みたいに人のせいにも出来なくなる。それが大人の社会だ。だからおまえみたいに弱い人間は、そうなる前に死んでしまった方がいいんじゃ。でももしおまえの中にまだ生きたいという思いがあるなら、まずは今の苦しみをおまえ自身の力で乗り越えてみろ。これは仏がおまえに与えた試練なんじゃ」

「試練?」

「そう試練。仏はひとり一人に必ず何か試練を与える。では何故、人それぞれ試練が違うと思う?」

「同じじゃ詰まらないから」

「そんなわけなかろう。人はそれぞれ生きている人生が違う。だから乗り越えなきゃならない試練も違うんじゃ。そして仏は各々に乗り越えられない試練を与えることは絶対にない。その者が乗り越えられる試練を乗り越えた時、その時人は本当の幸せを得るのじゃ」

「そうなんだ」

僕は心の底から納得がいった。

「で、どうする?死ぬのか?死なぬのか?」

だから、

「死にません。僕もう一度頑張ってみます」胸を張って言っていた。

「そうか、それは残念」

しかし振り返った坊主の顔は、どこかホッとしているようにも見えた。

「また悩んだら来てもいいですか?」

「駄目!おまえはもともと死ぬ気などない。ただ説教をしてほしいだけだ。それだったら他の寺に行ってくれ。私なんかより余程立派な坊主がおまえの悩みを解決してくれる。ここはあくまでも白黒をはっきり決着させるところじゃ」

また背を向けると僕一人を薄暗い境内に残して、坊主は姿を消してしまった。

一人取り残された境内はどこか涼しく霊気に包まれていた。

だから坊主が消えてからほとんど時間をおくことなく早足に寺を後にした。


男の話

数年前、株で大儲けした男は田園調布に土地を買い家を建てた。

それからも半導体産業や鉄鋼産業とどんどん手を広げ財をなした。みるみると財は溜まり、成り上がった男は贅の限りを尽くした。さんば町の安宿とは大違いの高層ビルに事務所も構えた。

そこから街を歩く庶民を見下ろす人生。

それがちょっと前までの男の姿だった。

男の名前は大橋雄吾。

確かに株は大金にも化けるが、ゴミ屑にもなる。そんなことは百も承知のはずだった。札束が紙屑へと変貌を遂げても、次は大丈夫だと根拠のない自信で男は一心不乱に突き進んだ。

しかしだからといってたった数年で、一生遊んでも余るだけの財をなした自分が浮浪者になろうとは思いもしなかった。

自慢の家から追い出され、愛車のベンツ二台も取り上げられた。

住処を追われた男は生まれ故郷に来た。

しかし男の親は既に亡く、生まれた街に戻ったところで当てもない。

仕方なくそこいらの街を徘徊した。

そして流れ着いたのがさんば町。

ここは古くからのどや街、この街を徘徊する輩はどれもまともじゃない。

毎日職を求め、食べ物を漁る。

最初はその光景に反吐が出た。

すぐに出て行こうと決めていた。

しかし他の街では彷徨うと目立つ。

周りの庶民どもが目線を刺してくる。

それが痛かった。

今まで蔑んできた奴らに見下されることが耐えられなかった。

だから結局この街を徘徊することにした。ここなら誰も自分に気を止めない。

全身アルマーニに包まれた男、しかし裾はすり減り毎日きっちり決めていたズボンの折り目は全くなくなった。真っ白いYシャツは襟周りが真っ黒、全体もどす黒く変わり果てた。

彼のことを好いているモノ、それはハエだけ。

少し前までは女も男も両手に余るほどだった。しかしカネの切れ目が縁の切れ目、そんな諺をまざまざと実体験した。

最初は頭の上を旋回するハエを掴んでは叩き殺した。しかし一匹が二匹、二匹が四匹へと増え続け、そのうち大群で彼の周りを回り始めたものだから収拾がつかなくなった。だから諦めた。だから好きなだけ自分の体臭を食べさせてやることにした。

40歳の男はこの年で一度の成功を収め、そのあとの大敗も経験した。そんな経験豊富な男が今まさに初めて尽くしの人生をこのさんば町で歩み出したのだ。



俺の話

俺は今年で35歳になる男だ。

だから閏年を既に九回経験している俺が生まれてからこの世で生きた日数は今が1980年の六月十七日、俺が生まれたのが六月三十日だから1万2千日以上の間も地球上でノウノウと暮らしてきた。

テレビでは日本のトップが死んだと大騒ぎする中、この先、どれぐらいの日数生きられるのだろうと考える。


親父も祖父ちゃんも若くして癌で死んだ。

だから癌の気がある気がして、ビビった末にいつも今までどのぐらいの日数を生きてこられたのかを計算してしまう癖がある。

生まれてからそれだけしか経っていないのか、と考える者もあるだろう。

しかし俺はそんなに経っているのか、というのが正直な感想だ。

それは生きてきた成果があまりにも小さすぎるから。

そう感じるのは、どんな人生だったかをほとんど覚えていないから。

別に記憶喪失とかそういった類のモノではない。

ただ生きることが辛いばかりで、心から笑えることや泣けること怒ることなど、震えるぐらい心が動かされたことがなかっただけ。

薄っぺらな人生だ。

一万日以上も生きてきたというのにだ。

俺の思い出に残る日を強いて挙げろと言われたら、


母が死んだ日と


愛娘が生まれた日ぐらいだろうか。


母が死んだ日は朝から雨が降っていた。

父と母と八つ上の兄の四人家族だった。

兄は父と折り合いが悪く、早くから家を出ていた。

母が死んだのは、俺が小学五年生の秋。

山間でやっと紅葉が見え始めたころ、紅葉狩りは何の食べ放題なのか常々気になってはいたが誰に聞くこともせず悶々とした日々を送っていた。

何故誰にも聞かなかったか、それは俺が知らないことやわからないことはいつも母に聞いていたから。

だからその疑問も、母が目を覚ましたら聞こうと決めていた。

しかしお見舞いに訪れても、いつも母は目を瞑ったまま口にはチューブ付きのマスクをされていた。

その光景が子供ながらに好きではなかった。


そういえば入院してすぐ、母の意識がまだあった時にこんな会話をした。

「学校は楽しい?」

そう聞く母は俺の方を見ないで病室の窓から唯一見える青々とした葉っぱを着けた大きな木を眺めていた。

「うん」焦りはしたが多分そう返したと思う。すると俺の方に顔を向け優しく微笑んでくれた。

けれどもそんな母を俺は凝視出来なかった気がする。

それからずっと気になっていたことを聞いたんだ。

「何でお父さんと結婚したの?」と。

母は相変わらず優しい眼差しのまま、「勇太はお父さん嫌い?」学校のことは嘘を付けたのに、この質問に口を噤んでしまった俺を察したようにこう言ったんだ。

「お母さんはお父さんのことが好き。だから結婚したんだし、今でも勇太と同じぐらい大好き。でも勇太には厳しいもんね。お父さんだって勇太のことは大好きなんだよ。だから許してあげて、それだけ勇太のことが心配なのよ」

言い忘れたが、勇太は俺の名前だ。

それから、下を向いたままの俺の手を握ると、「本当はとっても優しい人なんだよ、お父さん」そう言った母が突然笑い出した。唖然とする俺を見つけると、

「ごめんごめん。実はね、お父さん昔、勇太ぐらいの頃かな、虐められっ子だったんだって。お母さんその話聞いた時、可哀想だけど良かったって思ったの」

「どうして?」間髪いれずにそう尋ねた。

「だって虐められる子は人間として一番大切な優しさを持った人間だからよ」

「そうなの?」

「そうよ。だからどんなに虐められても胸を張って生きて行けばいい。そうすればいつかきっと虐めはなくなるものよ」

「本当に?」

「本当に」

そう云って俺の手を握る母の手には力が籠っていた。

少し痛かったけれど嫌な痛みではなかったから、今でもあの時の感覚を覚えているんだ。


それから母は続けた。

「でも虐めっ子は可哀想。だって人間として一番大切な優しさを持っていないんだもん。だからお母さん、虐められる子は大好きだけど虐める子は大嫌いなんだ」

それが、俺が覚えている限りでは母との最後の会話になったんだ。

母には心配を掛けたくなかったから結局最後まで虐められていたことを言えなかった。

父にも本当に虐められっ子だったかを聞けなかった。

あのとき母は子供の異変に気が付いていたんだと思う。

そうは言っても子供ながらに虐められることが恥ずかしかったから、だから死んでほしくはないのに意識を取り戻してしまったらどうしようと思ってしまったんだ。


母と目を合わせることが怖かったから。


そんなある日、授業も終りその日もお見舞いに行くために早く学校から出たかったのに、担任が紅葉狩りは秋の花見のようなものであることを話してしまった。

彼は紅葉狩りよりも春の花見の方が好きだと、余計な情報も付け加えていた。

彼がそう言ったからではないが、俺は紅葉狩りの方が好きだ。

そのせいで間に合わなかったんだ。

母の最期に間に合わなかったんだ。

丁度、病室からも大きな楓の木の紅葉が見えていた。

多分母は自らの眼でその紅葉を狩ることは出来なかったのだろうが、

母とした唯一の紅葉狩り。

それは俺が最初で最後にした紅葉狩りだ。


そんな紅葉狩りをした日と愛娘が生まれた日。


身近な人の生死の日が、俺の人生の中での思い出の日。

結局、俺が主役で思い出に残っている日は一日もない。

それでも無理矢理にでも挙げろと言うなら、


それは悪魔たちから解放された日と

そして悪魔たちの仲間入りをした日。


その二日間を加えた四日間が一万日も生きてきた俺の人生で、唯一心に留まっている日だろう。


そういえばいつからだろう、

「いたいのいたいのとんでいけ」と唱えなくなったのは。

そんな感傷に浸りながら、

さんば町にちょっとした野暮用で来ていた。「こらっ!」みんながやるように、俺もここに粗大ゴミを捨てに来たのだが、真っ昼間から黒いスーツに元は何色かも分からないほどどす黒いシャツを着た男に怒鳴られた。

「うるせえな!税金も払っていないような奴にゴミを捨てたことを怒られたくはないんだよ」「何だ?税金は今まで散々払ったんだ。だからもう払わなくていいんだ」

そう叫びながら、俺の軽トラックに凭れ掛かって来た。

「勝手なこと言ってんじゃねぇ!車出すからどけ」言ったと同時に車を動かした。

相当寄り掛かっていたのだろう、車がスルッと抜けたのと同時に男は道路に転がった。

暫らく動かなかったが、やがて頭から血を流しながらムスッと起き上がって、

「何しやがんだ?」その顔にどこか余裕を感じた。頭から流血していても人を見下すように睨みつけてきた男を見つけた俺は車を止めた。

「おまえにつき合ってやれるほど、俺は暇じゃないの。俺の人生は短いの」

「何でそんなことがわかる?」

「俺はエスパーだから」すると男はヨタヨタ歩きながら近づいて来ると汚い手を俺の頭の上に置いた。

「おまえ頭おかしいのか?」その手をすぐに払いのけると、

「おまえみたいな人間なら、今死んでも誰も悲しまないだろうけどな」

さっきの蔑んだ目のお返しに、バカにしてやった。

そんな時、母親に決して人を見下してはいけないと言われたことをいつも思い出す。最初の方はそれで止めていたが、このごろは一瞬躊躇はするが止めることはなくなった。

「随分酷いことを言いやがるな」

「なんたってここは、日本で一番のどや街。おまえひとりが死んだところでこの街に住む誰もおまえの死骸を拾ってくれる奴はいない。それがこのさんば町の慣わしだ」

自分でも酷いことを言っていると思ったが、口が止まらない。

「ふざけるな!ここは日本だ。そんな無法地帯が許されるわけないだろ」

「お前まだこの街知らないな。まぁ一ヶ月住んでみな。そうすればわかるよ」

そして俺は少しだけ自暴自棄になりながら車に乗り込み、男の前から立ち去った。



男の話

男は頭から血を流しながら、さんば界隈を彷徨った。


何十年後かに深刻化するらしい高齢化社会を先取りしたようなこの街は、見るからに生活保護を受けていそうな老人ばかりが目立った。

この街の昼間は緑などほとんどない公園の剥げたペンキが何色だったのかも分からないボロボロの木のベンチやシーソーで死んだように寝入る。歩く者の姿はほとんどない。

夜は夜でこの街で唯一の飲み屋に、腰が曲がった者や足を引きずる者、片目が潰れて居る者までが歯ぐきを見せびらかしながらその店にやってくる。

ビールなどは置いていない。

あるのは紙パックに入った日本酒と焼酎のみ。それを汚らしいが大きめのコップに入れたもの一杯を百円で売っている。

しかしそこに足を踏み入れる気にもなれない男は、さっき買ったが随分ぬるくなってしまった缶ビールをビニール袋から取り出した。

「何なんだ!この街は?」

ひとり呟きながらそいつでのどを鳴らしたが、ぬるくて半分を残してそれを道端に置いた。

「ゴクッゴクッ」男よりもはるかに旨そうに、喉を鳴らす者がいた。

「お前、なに人のモノ勝手に飲んでんだよ!」確かに道端には置いたが、

「もういらないのかと思ったから」そう言いながらも、まだ人のビールを飲む女がいた。

歳は男より一回りも二回りも上だろうか、

「あーっ旨かった」

「ふざけるな。人のモノ勝手に飲みやがって。盗人。これは完全な犯罪だぞ」

「だったら好きにしていいよ。私のこと好きにしな」そう言うと、女はもとは桃色だったのだろうシャツの二つしか残っていないボタンの一つを外した。

「何してんだ?ばばぁ!」

「ここじゃ恥ずかしいかい?」見ると目の前にはそんな速く動けるのかと言いたくなるじい様が、三人観覧していた。

「あっち行け!じじいっ」

「じじぃじゃない。心はまだビンビンじゃ」白髪を毟り取られたような髪形の爺さんと。

「何だよ!見るぐらいいいだろが?ケチ」これぞ元祖タラコ唇と言いたくなる立派な唇の爺さん。

「おまえ新入りだろうが?俺なんかはララさん百回は抱いてんだぞ」どんな自慢なのか、シャンプーハットを思わせる様な髪型でテッペンがピカピカの爺さん。

そんな三人がいっぺんに怒り出した。

その前にこのばばぁが娼婦であることに驚いた。

「ばばぁ、娼婦か?」三人の爺さんは無視することに決めた男が尋ねると、

「ばばぁじゃないし、娼婦でもない!私はこのさんば町の女神、ララよ」そう言うとウインクを浴びせてきた。

男は反吐が出そうになるのをグッと堪えた。

「それに私はまだ二十歳!永遠の二十歳なの」「売れないアイドルみたいなこと言いやがって。二で割ってもおつりが出るだろが」この四人以外にハエまでも大量に寄って来たから、今まで自分に集っていたハエたちも一緒に、男は久々に手でそれを追っ払った。

「うまいこと言うわね」ララがスキッパを見せながら手を叩いて喜んだ。

お構いなしで男はハエを掃った。それでもいっこうにいなくならないから少し意地になって手を振りはらい続けたが、諦め、「感心してる場合か?」男が呆れると、

「で、どうするの?タダでこのやわ肌の小娘を抱かせてやるって言ってんの」他の者たちは自分たちの顔の周りでハエがぐるぐると衛星のように廻っていても、男のようにそれを気にも留めなかった。

「やわ肌?ひび割れてガサガサじゃねぇか。誰が小娘じゃ!冗談は顔だけにしろ!」

「キャー面白い」ララが、今度は男の腕にしがみ付いてきた。

「ひっ付くな」どうにかそれを離そうと躍起になる男の姿に、

「変な新人が入ってきたな」大笑いする老人たちの遥か百メートルほど先で、ほくそ笑む一人の老いぼれがいた。



俺の話

「浅羽か?また仕事頼む」

「えーっ!今帰ったばっかだよ」

「いいのか?俺にそんな口の利き方して?」

「いや、そんなつもりでは……」俺は下唇を噛んでその場を凌いだ。

「このごろの好景気で忙しんだ。よろしく頼むよ」携帯電話を置いてすり減った畳の上に寝そべった。

「パパ!」

玄関が開き、顔を出したひとり娘が飛びついてくる。

「帰ってたんだ?」

その後ろからやさぐれた表情の女が力なく入ってくる。

嫁は娘とは対照的に、夫の帰りなど微塵も待ち焦がれてはいないようだ。

「ホレっ!今月分」

投げた薄っぺらの紙袋が今月の俺の取り分。

「チッ!しけってるね」それを宙で揺ら揺らと揺すってみせる嫁。

「貧乏には慣れてるだろうが!今更カネカネ言うんじゃねぇよ」

寝転がったまま背を向けそう返してやった。

「俺と一緒になれば、そのカネには困らせないって言ったのはどこのどいつだよ?」

「そんな昔のこと掘り返すんじゃねぇ」

「あぁ。何であんたなんかと一緒になったんだろうね」

「お前ら養う為に一生懸命働いているだろうが」

いつもなら近くにあるティッシュの箱あたりを投げ付け呆れられて終わるのだが、その日はお互い蟲の居所が悪かったのだろう、言い合いは続いた。

「あたしたちの為?ほとんどがあの指なし野郎に持っていかれちまうだろうが」

「仕方がねぇだろう」

「仕事?昔とほとんど同じ。人に迷惑掛けて人を不幸にしているだけじゃない」

その言葉に俺の体が反応した。

気が付けば床に力なく横たわっていた手は宙にあり、程よく力が籠った状態で妻をビンタしていた。

頬を抑え上目で睨む妻に我を取り戻した。

ほとんど無意識だった。

唖然としたまま、「ごめん」という言葉が喉を通過しかけた時、俺の両頬に衝撃が走った。

仕返しとばかりに妻が往復ビンタをお見舞いしてきたのだ。それがお互い引き金になったのか、今までの鬱憤が一気に爆発した。


妻との出会いは俺がまだチンピラを稼業にしていた頃、借金の取り立てで出向いた今にも潰れそうな傾いた町工場だった。

そこを切り盛りするヤツ(妻)の親父さんは良く働く人だった。

しかし人が良いばっかりに古くからの友人ということでそいつがカネを借りるときに名前を貸しちまった。

友人だと思っていた男はカネが返せないとわかるとまんまと姿を眩ませた。

残ったのは一千万円近くの借用書だけ。

それでも親父さんは文句も言わずにコツコツと借金を返し続けた。

世間はバブルに向かって盛り上がり、大量生産

が求められる中、親父さんはひとつひとつの商品に拘った。たかがネジにだ。だけど売れた。だこら1人で頑張って拘って、無理が祟った親父さんは

心筋梗塞で倒れた。


一命は取り留めたが右半身に麻痺が残った。


そのせいでほとんどを一人でこなしていた工場は一気に傾いた。

とうとう借金を返せなくなった親父さんの身包みを根こそぎ剥がすべく、兄貴に連れられて俺の出番となったわけだ。


意気揚々と肩で風切って工場のドアを蹴り開けた。

「貸したカネ返せや!」そこには車いすに座ってヨダレを垂らしながら頭を下げた親父さんがモゴモゴと何かを言っている光景があった。

必死で謝っていることは分かったが、

「何言ってんのかわかんねんだよ。そんなことよりカネ返せや」

普通の心を持った人間なら親父さんの状態を目の当たりにすれば何か響くモノがあるのだろうが、悪魔に魂を売った俺にとってはただ笑えるモノでしかなかった。

奥では妻らしきおばさんと若い女が顔を引き攣らせながら小さくなって固まっていた。

その時、俺のドーパミンが多量に噴き出した。

その女の顔に怯えた表情に俺は言葉を失った。そんなことはお構いなしに、

「で、今日はいくら返せるの?」

ドスの利いた声で兄貴は親父さんの顔スレスレまで近づくとサングラスを外し睨み付けた。

「すいません。一週間、一週間だけ待って下さい」

勿論答えはノー。

しかし後にも先にも人生一度きり、なけなしの勇気を振り絞った俺が兄貴の前に土下座していた。

「この借金俺が返します!」

そのあとどうなったか全く覚えていない。

多分何発か殴られたが、俺の熱意が通じたのかその後は俺が給料のほとんどを注ぎ込んで工場の借金を返済した。

しかし俺が借金を払い始めてまもなく親父さんは死んだ。

そして俺はその娘の意思は全く無視で彼女を嫁にした。

借金を返してくれる人ということで母親の方は反対をしなかった。

しかしもし親父さんが生きていたら多分反対されていただろう。


何となくだがそんな気がするし、


結果的に俺は娘を不幸にした。



「痛ってーな。そんな悪態ばかり付くから目ん玉が濁っちまったんだ」

俺はあの時、この女と初めて出会った時、真っ黒な黒眼に真っ白な白眼に吸い込まれたんだ。

それが今では跡形もなく、街に転がっているそこいらの目ん玉と何ら変わらないモノになってしまった。

「あんただってもっと痩せてたし、髪だってもっとボリュームがあった。瞳だって輝いていた」

「俺はどうでもいいの。元々大したもんじゃなかったから良いんだ」

「調子いいね」

「でもおまえの瞳は他にはなかった」

「だったら誰のせいで濁っちまったんだよ」

その言葉に俺はまたムッとなり、ジャブ程度に女のチンに一発お見舞いしてやった。

「痛ってな!何しやがんだよ」負けない嫁が殴りかかってくる。

三歳になる娘が大声で泣き喚く。

その娘が泣き止むぐらいの大声で、「あたしの稼ぎの半分も無いくせに、一丁前に暴力とは随分いい御身分だね」嫁が吠える。

だから舌打ちをして家を出ようとした。しかし泣き叫ぶ娘の可愛さに足を止め、

「今年こそ、紅葉狩り一緒に行こうな。父ちゃん良いとこ知ってんだ」何を言われているのかなどまだわかるはずもない。ただ父親が笑顔で頭を撫でたからだろう。さっきまで泣き叫んでいたことが嘘のように、屈託のない笑顔をくれる。

「そんな可愛い顔して。おまえも誰かさんみたいに誰にでも笑顔振り撒いて、おケツフリフリするような大人になるなよ」

その言葉に、

「仕事だろうが!誰のせいでそんなことしてると思ってんだ」

一度収まり掛けた妻の怒りが再び爆発し、俺の血が大量に流れた。

だから今度は逃げるように家を出た。


目ん玉が濁ったと勝手に決め付けている嫁の瞳を、近頃正面からまともに見ていない。

顔さえろくすっぽ見ていないのだから当たり前なのだが。

もしかしたら嫁の瞳はまだ澄んでいるのかもしれない‥‥


願望なのだろうが。


仕方がないから街を彷徨った。

惹かれるモノはなにもない。そんなことより眠たかった。

追い出され睡眠不足で頭が朦朧としたが、まぁ頼まれた仕事もあったから丁度いいと思うことにした。

適当に飯を済ませ、時間潰しに何の魅力も感じない街を再び徘徊してから、日が変わる頃に相棒のケンとおち合った。

それからお決まりの溜まり場であるバーに行き、住所が書かれた紙切れと鍵を受け取る。

すぐに店を出ると指定された場所に軽トラックを走らせる。

書かれた住所付近に近づくと大音量だったカーステレオを消し、静かにブレーキを踏む。

辺りに誰もいないことを確認すると速足で指定されたアパートの部屋へと向かう。

もう一度辺りを見渡してから渡された鍵で玄関を開け、中へと素早く入る。

あとは依頼人に頼まれた書類や機材、机などを迅速に運び出す。

所謂夜逃げだ。


そして依頼人のもとにそれを届けるのだが、半分は証拠隠滅のために運び出したものだからとそのあとの処分まで頼まれる。

そのマージンはさっきの電話の相手がすべて持っていきやがる。


俺らに残されたのはゴミの山だけ。


だから仕方なく、ゴミ処理場に持っていくカネもないからさんば町に廃棄となるわけだ。

ケンは嫁に逃げられた。それも二人の子供を置いてだ。仕方なく男手一人でそれを育てている。

だから、「俺は捕まるわけにはいかないんだ」夜逃げの仕事の方がヤバいだろうがと言いたくなるが、いつものようにさんば町には俺一人で粗大ごみの廃棄に行く。

「この時間にゴミ捨ては不味いだろ?」ブツブツひとりの車内でボヤキながら頭を掻き毟り、明け方の高速で車をドヤ街に向けていつものように走らせた。




男の話

「五百円だけど、あんたなら日本酒一杯でいいよ」路上で寝そべっていた男の真上で、ララは明るくなり始めた空の下、薄気味悪い笑顔を覗かせた。寝起きが最悪だったから、

「あっち行け!ばばぁ」

男はそれを振り払い起き上がった。

すると辺りが騒がしいことに気が付いた。

どこにいたんだ?と聞きたくなるぐらい大勢の者たちが同じ方向に流れている。

まさしく川の流れのように。

老いぼればかり、一糸乱れて我先にと濁流のごとくに向かって行く先にある、この街ではまだマシな建物の中へと入っていく。

気になった男は歩き出しその流れに無理矢理入り込んだ。しかし建物の中に入ることは出来なかったから昨日目の前で大笑いしていたじじぃをとっ捕まえて聞き出した。

「何なんだ?この騒ぎは」

「そんなことも知らねえで、この街来たのか?」

「だから何なんだ?」

少し強い口調で言ったからだろうか、

「今日の仕事だよ。毎朝、日雇い労働の仕事をここで恵んでもらうんだよ。しかし近ごろはめっきり仕事が減りやがったから、みんな必死で仕事貰いに来るんだ」

不貞りながらも教えてくれた。

腰の曲がった爺さんたちよりは幾分背が高い男は建物の中を覗きこんだ。そこでは小奇麗な格好の数人の男が、建物の中に入れた見窄らしい格好の者たちの中から何人かを素早く選び出し、その者たちを連れて反対側の扉から出て行った。

「これが日雇いか」

ぼそっと口にした男の横を、仕事にあり付けなかった者たちがゾロゾロと逆流していた。そして彼らはまたさんば町へと散って行った。


そのあとは昨日見た光景と何ら変わらない、死人の街へと舞い戻る。

目に見える者は、死んだように地面に這いつくばる。それ以外の者で少しでも金を持っている者は簡易の宿泊施設に、そうでない者はどぶ川の川辺に建てた自慢の段ボールハウスの中に隠れる。

街の景観は空き缶だけはカネに成るからと皆が挙って拾うくせにそれ以外のゴミがここ彼処に散乱し異様な有り様だ。

そのせいもあって言いようのない悪臭が漂っている。

漂っていた、という方が正確だろう。

というのも何日間かここにいただけで男の鼻は麻痺したのだ。

この街に入った時に感じた鼻が曲がるほどの臭さ。

死体が転がっていてもおかしくないほどこの街の匂いは凄まじいものがあったはずが、

今男の鼻は曲がっていない。

そして次の日にはこの街が臭かったことさえ忘れてしまうのだ。

よく自分の体臭は自分で臭えないというが、まさしくそれと同じでずっと住んでしまうとその街の匂いが鼻を完全に利かなくさせてしまう。恐ろしい話なのか、人間という生き物がいい加減に作られているということなのか。


その数日後、何時か軽トラックを運転する野郎にやられた頭の傷口が膿んできたので、バサバサと鬱陶しかった髪をバッサリと切り落とした。ララが拾ったハサミで切ってくれたのだ。

「こんなに短くしたの久しぶりだな」

「男の子は短髪に限るね」

そう言われたことが無性に恥ずかしくもあり、何故か心が休まる気持ちにもなれた。それは久しぶりに感じることが出来た感覚だった。

男はずっと第一線で仕事をしてきた。

緊迫した世界で戦ってきた。

片時も気を許せない世界だった。

そんな中に身を置いていた自分が、子供扱いをされたことが可笑しくてホッとした。ホッとして顔をクチャクチャにしたはずが、次に口から出たのは、

「ばばぁ!俺は、今までいろんなもん背負って来たんだ。そこいらのサラリーマンが一生頑張っても貰えない金を一晩で稼いだことだってあるんだよ。そんな一人前の男を捕まえて、小便臭い言い方するんじゃねぇ」

本心はそんな世界からつま弾きにされた自分を馬鹿にしているのだが。

ララも負けじと、

「何を戯けたこと言ってるんだよ。おまえにはもう何にも無くなっちまったんだ。そこいらの小学生と同じだよ」

「訳のわかんねぇことぬかしてんじゃねぇ。どこにアルマーニのスーツ着た小学生がいるんだ?」

するとララが男のボロボロの服の端を掴んで、

「これ、このボロボロの布切れがアルマーニかい?」小馬鹿にした。

「そうだ」不貞る男。

「しかし、よくこんなにボロボロにしたもんだね。アルマーニの跡形もないじゃないか」すると男はスーツの裏側のタグを見せようとしたが、磨り減っていて文字がよく見えなかった。

「あははははっ!着るモノ以外に何も自慢できないあんたの知能は小学生以下かも知れないね」

「何だと、くそばばぁ!」

しかしそんなララに髪を切ってもらったお陰か、それとも昨日の夜に何日かぶりに入ることが出来た風呂のお陰なのかは知らないが、傷口に瘡蓋が薄く出来た。昔は瘡蓋なんてものはすぐに剥がし、また出来るそれを何度も何度も剥がし続けた。それでも気が付けばいつの間にか傷口には薄皮が出来、治っていた。

あの時は何故かそれが当たり前だと感じていた。というよりも何とも感じていなかったという方が正しい。

しかし今は違う。

栄養もロクに取っていない自分の体には、傷を治す力がほとんど残っていない気がするのだ。だからやっと出来た瘡蓋を、男は大事に見守った。剥がしたくて剥がしたくてウズウズしたが、それでも口を踏ん張り出来るだけ手を頭に持っていかないように心掛けた。

さっぱりした風呂あがりに、あのアルマーニのスーツを着ることがしんどかった。

あれだけ自慢だったブランド名が入っていれば格好が良いと思い込んで喜んで着ていたはずなのに、脱衣所の籠に入っているそれを見て気が滅入る自分がいた。




それから半年程がった。

時は1981年、横綱・輪島が引退した年になっていた。

あれから何度目かの風呂の機会がやって来た。

男は早くここの生活から脱出したいと考えていた。しかしその意思に反して、相変わらずこの街に棲みついている。

このごろはその思いさえ忘れかけている男が、風呂から上がってさっぱりした体を眺め、次はいつ綺麗になれるかわからないとそのことの方が気になっている。

浮浪者どもにも臭いと罵られ、自らが流した血と自らが殺めた男の血がこびり付いた今まで頑なに羽織り続けた自慢だった原形を留めていないスーツを捨て、全く乗り気がしなかったがララがくれた、いらないと断り続けた見た目ばかりが派手な全く着心地が悪い原色のスウェットに袖を通した。

犯罪者を許せなかった自分が一番の犯罪者であることを消し去るようにスーツを脱ぎ捨てた。


そんな男は今でも死にたいと思っている。

ひとりの人間を巻き添えにしてまで死ねなかったくせにだ。

そして死にたいのに、やはり自ら命を絶つことが出来ないでいる。


でも本当は死にたくないのだ。


半年前は認めはしなかったが、

男の本心は死がこの世で一番怖いことなのだ。


だから死ぬよりはまだマシだと今でもこの街を彷徨い続けている。

そして男は街の空き缶を、それでは足りないからさんば町を飛び出しいろいろな街で今まで一番気にしていた人の目も憚らずに拾い漁っている。

携帯電話はとっくの昔になくなった。

だから薄っぺらの関係だった知り合いと連絡はもう取れない。

もともと薄っぺらだから連絡をしてもカネを工面してくれる友人など一人もいないのだが。

それでもどうにか搔き集めた五百円で花を買った。

そしてそれを雑草さえ生えていない沼地に手向け、男にとって友人だと感じた者に手を合わせた。





俺と男の話

1980年。

時は舞い戻り現代の昼過ぎ。

太陽は高いが、この街は一番静かな時間。

世間では大平首相が急死し、鈴木内閣が始まるまでの混乱の時。

ここに存在する輩にはそんなことを気にする者はほとんどいない。

ロクデナシばかり。

男のように仕事に失敗した者、

つまりは社会に爪弾きにされた者たち。

それとこの街で育って抜け出せなくなった者もいる。

そんな彼らは日本のトップがどうなるだろうが、路上でお構いなしにお日様の下寝息を立てている時。

夜中、丑三つ時などは犯罪者、所謂不法投棄者たちが挙って顔を出す時間帯なのだが、慣れた犯罪者たちはお日様が見ていようが関係なしに顔を出す。

そんな中に俺は存在する。

夜中なんぞにやって来る馬鹿どもはわかっていない。

この街がいちばん死んでいる時間、

それは昼過ぎのこの時間だけであることを。朝は早朝から仕事を求めて浮浪者どもが街を徘徊するため宜しくない。

そして午前中では疎らだが仕事を諦められない者や二日酔いに苦しむ者、何をしてくれているのかボランティアの者たちがそこいらをウロチョロしている。

夜は一番活発だ。

多くの生活保護者が税金を貰いそれで安い大酒を食らう。そんな奴らの宴が夜遅くまで続く。そして夜中にはそんな奴らも簡易ホテルで段ボールハウスで道端で寝息を立てる。

その時間は一見静まり返ったように見受けられるが、数人の酔っぱらいがヨロヨロと街を徘徊している。

それはまだいいとして、夜中ほどこの街が威力を発揮する時間はない。

それは悪臭の物凄さ。

もともとあった悪臭に、夜活発化し出すこの街に棲み付いた輩どもが放つ息が、唾が、ゲロが、体臭が、ゴミがそこいらから怒涛の如くに放出されるのだ。

そして街を覆い尽くした悪臭は逃げ場をなくしこの街を一段と伝説化し始める。

ここにゴミを捨てに来た奴らの度肝を抜き恐怖すら与える。

だから俺は体にも心にも一番優しい昼下がりのこの時間にゴミを捨てに来るのだ。


今日もこの街に不法投棄をお見舞いしにきた。

勿論真昼間にだ。

警察の目は気にして、

「相変わらず湿気た街だな」ボヤキながらいつもの場所で荷物を投げ捨てる。

「おい!そこで何してる?」

見ればこの前、頭から血を流していた男だ。

「またおまえか?見ればわかるだろ!ゴミ捨ててんだよ」

懲りずに男は、

「犯罪だぞ」

「そんなのわかっててやってんだ」またイライラさせる。

「犯罪は駄目だ!しちゃいけない」

「何で俺が犯罪していると思う?」

今度は接し方を変えてみた。

「知るか」

「じゃあ教えてやるよ。この国が腐ってるから。俺らみたいな小市民を守っちゃくれないから、だから犯罪してるんだ」

すると男が少し考えた後に、

「そんなのいいわけだ」

「いいわけでも何でもいい。おまえこそ、そんな国に愛想尽かされたからこの街に漂着したんだろうが?」

「おまえと一緒にするな!俺は……準備期間だ。またのし上がる為にここで休息を取っているんだ」

さっきまでの勢いがなくなる。

「休息?おかしなことをいう奴だな。社会に負けたからここにいるんだろうが?休息っていうのは南の島でするもんだ」

根拠のない俺の言葉に、

「誰が決めた?」

当たり前の突っ込みを男がしてきた。

「決めたわけじゃないけど、休息って言ったら羨ましいものだ。でもおまえは全然羨ましくない。むしろ惨めだ。可哀相だ」

男が黙り込んだから、俺は男に引っ掛からない程度に唾を飛ばしながら、大笑いしてやった。

すると男は悔しそうに下を向いたが、

「それでも犯罪はしちゃいけない。捕まったら終わりだ。簡単に再生は出来ない」

ボソボソと続けていた。

「俺には捕まったヤツよりも、余程おまえの方が再生不能に見えるがね。それに不法投棄じゃ捕まっても大した罪にはならん」

その言葉の何かが引っ掛かったのか、

「罪の軽さじゃない!」男が再び勢いを増した。

「いいか。俺が何をしようがおまえだけには言われたくないんだよ!仕事もしないで人間社会から逃げ出した奴にだけは。俺は犯罪を犯してでも守りたいモノを守るために仕事をしているんだ。だから何もしないで自由を謳歌してますみたいな顔して放浪しているだけの奴に言われると、虫唾が走るんだよ」

男は初めて何も言い返さなかった。

目の前にいる犯罪者の言うとおりだったから。

確かに犯罪はいけないことだが、俺がこの世に存在することで良くも悪くもカネと人が少しだが動いているんだから存在意義はある。

男はずっと部下たちに言っていた。

カネを生み出せ!人を動かせ!

それがこの男が社会の第一線で叫び続けた言葉だった。

しかしその張本人が今は何も生み出せていない。それに気づかされた男は暫し空を見上げた。

横では、

「ドッカン、ガッシャン」と不法投棄がされる中で、男は青空を見上げていた。

「バターン、ドンッ!」

毎日絶えず顔を出す太陽。

雲に邪魔されても雨に濡らされても彼はまた次の日には顔を出す。

明るい顔をみんなに見せてくれる。

「太陽になりたい」

満面の笑みで男が呟いた。

「なれるかボケッ。おまえみたいな“すかんぴん”が、太陽になんかなれるわけがないだろ」

ゴミを捨てる手は休めることなく、俺はこの街のせいで脳みそが溶けてしまった男に言ってやった。

すると、

「すかんぴんって何だ?」

「おまえみたいな奴のこと。本当の太陽にはなれないことは、すかんぴんでもわかるよな?」

ヘッと言う顔をした男に、

「でもある人にとっての太陽にはなれるぞ。たった一人の人だけの太陽には」

俺は少し顔を赤くしたが、男はまた顔を上げ太陽を見ていた。

「どうだ、俺詩人だろ?」

目を見開いて見続けていた。

「聞いてるのか?って、そんなに太陽見たら目焼けちまうぞ」

堪らず男の臭そうな体を叩いた。

「はっ」

我に帰った男は、

「目が痛い!」長く擦ったあとで、

「何も見えない。世の中が真っ暗だ」

だから言ってやった。

「それが太陽だ。みんなを照らす分、自らが光を放つ分、己は暗い世界を見続けなきゃいけないんだ。俺も大事な人の前ではそういう太陽でいるんだ。常に自分を犠牲にして相手を照らし続ける。それが太陽、それが男だ」

決まったはずだった。

しかし男は、

「あーっ、やっと見えてきた。よかった」

目が再び見え出したことに感動していた。

「話を聞け」叫んだが、

「やっぱり太陽にはなりたくない」

そう言って男はまたさっきまでいたであろう落書きの壁に寄り掛かかって座ると、そのまま目を瞑った。


男と話したことが無性に意味がなかった気がして、というよりも小馬鹿にされたようでその眠り呆けている顔目掛け、車の中に放置され続け賞味期限がとっくに切れた菓子パンを投げつけた。

「すかんぴんはこれでも食っとけ」

そう言い放つとすぐに車を走らせた。

そのあと男があの腐りかけのパンを貪り食って腹を壊すのを想像すると可笑しくて可笑しくて腹が攀じれそうになった。


夜、全ての仕事を済ませ家に帰る車の中ですかんぴんと言った男のことを考えた。


少し笑顔が毀れた。



男の話

その夜、男はみんなが集う酒場に顔を出した。

男はまもなく本厄を迎えるが、ここに顔を出す者たちは還暦に古希に喜寿、米寿に白寿までいるかはわからないが、すぐにでも迎えが来そうな者たちがわんさかいる。

勿論ほとんどが税金で酒を食らっている。

それが悪いとも思わない。

この者たちの頑張りがあったから今の日本がここまでになれたのだろうから。

しかしそんな中で男の年ぐらいの者はまだいい。

これからが働き盛りだろうと言いたくなるようなケツの青いのまでがいやがる。

それが一人や二人じゃない。

そこで酒を飲んでいる四分の一ぐらいがそんな若者に見える。

「おい!そこの若いの」

男が割り箸で一人のケツが青そうな奴を指し示した。

ケツが青いのも俺かと割り箸で己の鼻を指し示す。

「そうだよ、おまえだよ」

男はだいぶ酔っていた。

今までに飲んだこともないぐらいの安い酒を食らって相当悪酔いしていた。

「おまえは仕事何してた?何で、ここにいる?」

すると青二才が大きなお世話だと大笑いした。

「笑ってないで答えろ!」

あれだけ騒がしかった場が、一瞬にして静まり返った。

「じゃあ教えてやるから河っぺりに来い」

青二才は立ち上がると男が立ち上がるのを見降ろして待った。

男は立ち上がろうとするのだが、安い酒が足にまで来ているらしく思うように立ち上がれない。

「何してんだ?じじぃ!」

青二才は強い口調で急かすのだが、

どうしにもこうにもならない男を見かねたのか。

「ほらっ」

自慢のアルマーニのスーツの襟辺りを強く持ち上げた。

「ぐるじいー」やっと立ち上がれた男が河っぺりまで歩けるはずもなく、飲み屋から数メートル離れた落書きの壁辺りで、

「おいっ、新入り。ウザいんだよ」

そんな言葉と同時に拳と膝が飛んできた。

ボコボコだった。

あと少しで意識がなくなりそうなとき、

「やめなさい!」

割って入ったのはララだった。

「もう十分でしょ。それ以上やったら死んじゃう」

「ちっ、クソババァに助けられたな」

そして青二才は再び飲みなおすために酒場に戻った。

あれだけ静まり返っていた場も、血みどろで結局意識がなくなっている男が真横にいても、青二才が酒を飲み出すと何事もなかったように活気が戻っていた。


男が意識を取り戻すと、そこは擦り切れ放題の畳の部屋だった。

それでも外よりは屋根があるだけまだマシだと感じた。

どれ程の時間気を失っていたのか、既に太陽が西の空から消えかかっていた。

ここはどこだという顔で上半身を起こしたが、体のあちこちが痛んだ。

「イテテテテテッ」

「ほら、無理しないで」

そこにいたのはいい歳してキャミソール一枚で看病してくれるララだった。

「ララ?」

「随分と派手にやられたわね」

年甲斐もない格好の女がニヤついた。

「俺に何があったんだ?」

ズキズキする頭を押さえながら天井を見上げた。そこに答えなど書いていないことは分かっている。

「覚えてないの?」

格好とは対照的に彼女が深刻そうな顔を覗かせた。

「全然。いや、酒を飲んでいたところまでは覚えている」男は頷く。

「そのあと喧嘩したんじゃない。喧嘩というよりも一方的にやられただけだけどね」

今度は笑い出したララの態度が男の気に障った。

「俺帰る」立ち上がったが、

「どこに帰るのよ?」

そう言われると確かに困る。

住所もない男はどこに帰ればいいのか。

「どこだっていいだろ」口を尖らせる。

「あなたの帰る場所はここでしょ」

両手を広げたララがくれた笑顔が何故か無性に男の心を掴んで離さなかった。


その夜二人は結ばれた。


あれだけララを毛嫌いしていた男も、久しぶりの女の肌の感触に自分でも驚くほど元気を取り戻した。

その夜は久しぶりに臭い布団で眠ることが出来た。

枕元で床上手な女が教えてくれた。

「ここでは、他人に必要以上に入り込んでは駄目。

ましてその人の過去のことを聞くことなんて以ての外。わかった?」

全然腑に落ちなかったから、

「何でだ?」

聞き返すと、

「ここに来る人は過去に間違いなく何か問題があった人なの。そういう人は自分の過去のことを話したくはないでしょ。だから聞いちゃダメ!そうしないとまた今回のような目に合うわよ」

それがこのさんば町に棲む者たちの掟らしい。


外が少し明るくなり始めた。

「俺仕事して来る」

男は立ち上がると、礼を言う代わりに、

「何でララこの街にいるんだ?」と訊いてみた。

「さっきの話聞いてなかった?」

「聞いてたよ。でも知りたいから聞いた。仲間の過去は何でも知りたい。俺の過去も知りたかったら話すぞ」

呆れ顔だったララが少女のように優しさに満ちた顔をしていた。

それでも、「そんなの知りたくないし、話したくない」俯いた。

「そっか。あっそうだ」

男は思い出したようにララに顔を近づけると、


「すかんぴんって何だ?」

歯ぐきを見せつけた。


すぐにララの顔が引き攣ったのはそれが嫌だったからではない。

男の言った言葉に反応したのだ。

「誰がその言葉使ったの?」

ララのあまりにも噛み付きが良い反応に正直男は驚いた。

「この街にたまに来る、知らない奴」

「いい、すかんぴんはめちゃくちゃ貧乏な人のことを卑下するときに使う言葉なの。だから自分のことを指して言うときはいいけど、他人には決して言ってはダメ!特にこの街の人には禁物。意味以上に相手を傷つけるならまだしも、昨日のあなたのようにボッコボコにされることだって覚悟した方がいいかも」

「そんな意味なのか」

そのあと何故か軽い足取りで男は簡易ホテルを後にした。

外では相変わらず、今日の職を求めて大勢が濁流のようになっていた。

ただこの街のひとつ良いところを上げるなら、お互いがお互いに無関心であることだ。




俺と男の話

俺の方はさんば町の奴らとは違って、求めていなくてもほぼ毎日仕事があった。

こんなご時世だからだろうが。そして相も変わらず粗大ごみが出た。

だから次の日もその次の日も、さんば町に顔を出す俺の姿があった。

何日目かの次の日に声を掛けられた。

「よう、青年。あっもう中年か」

いつもの男がそこには立っていた。

「おまえ、この前俺が放り投げた菓子パン食ったのか?」だから訊いてみると、

「おう、食ったぞ。旨かった!ありがとう」

男は笑顔で答えた。

「い、いやいいんだ。腹は大丈夫か?」

覗き込むような仕草の俺に、

「大丈夫。何でだ?」

男は首を傾げた。

「おまえ、賞味期限見なかったのか?」

「見てない。自分の舌で確認したら大丈夫だったから、全部食べた」

男は嬉しそうにそう話していたから、

「そうか。それはよかった」

何故かいいことをした気がして、悪い気はしなかった。

すると男の後方から二人の大男が現れた。

「おまえか?先日、この男を“すかんぴん”って呼んだのは?」

俺が何も答えない代わりに、

「そうだ」男が答えた。

「その言葉は、俺らが自分に対してのみ言っていい言葉だ。それを他の人間に言うなんて、以ての外だ」

そう言ったかと思うと二人の大男は俺の両脇を抱えて持ち上げそのまま歩き始めた。

「何しやがんだ?」

「その上、おまえは俺らの住処を汚し続けた。これは重罪だ!だから俺らはこれからおまえを裁いてもらう」

「何言ってやがる!この街そのものがゴミみたいなもんじゃねぇか!」

その言葉が口から出たことを俺はすぐに反省したが、大男たちは無反応だった。

こんなスラム街の住人に裁かれる俺という存在が、何だか凄い人間のような気がして笑えた。

「おいおい!おまえ何笑ってんだ?」

そこで初めて左側の俺の腕を掴んでいる大男が喋った。

「ごめんごめん。で、裁くって裁判でもしようっていうのか?」

「そうだ」淡々と答える右側の大男。

「何をわけのわかんねぇこと言ってやがんだ?裁判する金持ってんのか?」

「そんなモノいらない。サンギ和尚に裁いてもらう」右の大男の言葉に、

「誰それ?」

肩を窄め両手の掌を空に向けて小馬鹿にしてやった。

「この街の上に住む和尚様だ」

左側の大男の方が少し友好的みたいだ。

「何で俺がそんな訳のわからねぇ奴に裁かれなきゃならないんだ?」

何だか急に不安に襲われ、

「おまえが悪い奴だからだ」

さっきまでの余裕がなくなった。

「冗談じゃない!」

「冗談じゃないさ」

もがき暴れる俺を、より一層力を入れて二人の大男は両脇を掴んだ。

「痛ぇな、放せ!」

完全に自由を奪われた状態のまま歩かされた。

いつしか臭い町並みは消えていた。

そして俺は囚われたまま獣道を歩いていた。

「ここはどこだよ?」

さっきまでの威勢の良さはなりを潜めか細い声しか出せない俺は、次に十段ほどの石段を無理矢理に登らされた。

そのあとは鬱蒼とした木々に体を傷つけられ、荒れ果てた墓を抜け、全く風情のない木造建てのオンボロの建物の前まで連れて来られたところでやっと奴らの脚は止まった。

すると後ろをずっと付いて来たさっきの男が、

「何でこの男が裁かれなきゃならないんだ?」

呑気なことを口にした。

しかし二人の大男は俺のことを羽交い絞めにしたまま何も答えようとはしなかった。

少しして一人の小坊主が顔を出した。

「こちらへどうぞ」その合図と共に二人の大男どもは俺を無理矢理その建物の中へと放り投げた。

「ザンギ和尚様。この者は我らの町に無断でゴミを捨てたばかりか、後ろの者を“すかんぴん”呼ばわりしました。この男は生かしておくべきでしょうか?それとも死して罪を償うべきでしょうか?」

「おいおい大袈裟だろ」

男が言った言葉に同意することも忘れ、俺はただただ目を丸くした。

すると中から現れたのは、小柄でどこか気が許せそうだが悪人ズラの派手な衣を身にまとった老人だった。

こいつに裁かれたら俺は間違いなく殺されてしまうと直感した。

だから逃げようと考えたが、見渡す限り出口は一つしかないようだ。

その上、その唯一の出口には大男が二人、壁のように立っていた。

頭の中でウオサオしていると、

「ではまず。その後ろの者、前に出よ」

そう言って俺よりも先に、腐ったパンを食った男が如何わしい和尚の前に突き出された。

「おまえはここに来る前、何をしていた?」

すると男が、「会社やってた。IT関係の会社を経営していた」

「おまえは死にたいのか?死にたくないのか?」

唐突な質問にも感じたが、

「死んでもいいと思っている」男は淡々としていた。

「そうか。じゃあ死ぬな。この街を早く出てもう一度死ぬ気でやってみろ」

男は、「簡単に言いやがる」そんな文句を吐いて立ち上がった。

すると空気のように存在を消し、和尚の真横に座って目を閉じていた偉そうな年寄りが目を見開き驚きを露わにして和尚を見詰めたが、和尚は目を閉じたままだった。

次に俺が和尚の前に突き出された。

「おまえは死にたいのか?死にたくないのか?」同じことを聞いてきた。

だから、「死んでもいいよ」男と同じように答えた。

同じ返事が欲しかったからだが、判決は、「おまえは死に値する男じゃ。だから死んで宜しい」

百八十度違ったものだった。

脳みそが揺さぶられる中、

その言葉が頭の中で木霊した時、

何故か俺の心を望郷の念にも似たものにさせた。

しかし二人の大男がまた両脇を先ほどよりも強い力で抱え込んできたから、感傷に浸っている場合ではないことを悟った。

「どこに連れて行く気じゃ?」

俺が言いたかった言葉を和尚が言っていた。

「和尚様の仕事はここまでです」

ヘッと言う顔を覗かせる和尚に二人は背を向けて俺に立つよう促したが、胡坐をかき頑なにそれを拒んだ。

「立てっ」遂には這いつくばって踏ん張った。その時だった。

「彼の命、俺にくれないか?もともとは俺とこいつの問題が、この街の人々までも巻き込んじまった。すまないと思ってる。だから俺にけり付けさせてくれ。俺は生きていいと言ってもらえた。ということは今ある二つの命のうち一つは生きることを許されたわけだ。だからコイツと俺で命を掛けた決闘をやらせてくれ。いいでしょ?ザンギ和尚」

男の厭らしく微笑む顔。

それが俺に向けられた時、体内を流れる血が一瞬噴き出す感覚に襲われた。すると俺を掴んでいた、右にいた大男が俺の腕を突き放すと、

「おまえ何を言ってる?ザンギ和尚様の言葉に逆らうってことは仏に逆らうってことだぞ?」

男の顔ギリギリまで近づいた。

「あんたら本当に仏、信じてんのか?俺は信じちゃいない。だが目の前にいるこの和尚は信じられる。だからお願いしてんだ」

動じることなく男は答えた。

「上手く言い包められた気もするが、いいだろう。この二人、結果は大きく違ったが同じ穴の狢みたいなもんじゃからな」

そう答えた和尚が少し笑っているようにも見えた。

諦めたのか右の大男がその場に腰を下した。「で、決闘はいつ?」

左の大男が尋ねると、

「すぐにやるに決まっているだろ!」和尚に訊いたはずが、今まで表情以外は黙っていた年寄りが口を挟んだ。

「待ってくれよ。大の男が命を掛けた決闘をするんだ。この世に別れの一つもさせてくれ」

男は呆れたような口調だった。

「そうじゃな、じゃあ決闘は、明日の午後六時でどうじゃ?」

「いいだろう」

「そこのおまえは?」頭の中で整理が付かないまま、

「あぁ」俺は生返事を返していた。

「ちょっと待て!こいつら絶対に逃げるぞ」

年寄りが身を乗り出した。

「加島さん、この二人をあんたと一緒にするな」和尚は年寄りの方を見ることなく、そう呟いた。

流石の年寄りも何も言い返せなかったのか、ふてった表情をした。

男はこの年寄りがいつかララの皺くちゃの顔を初めて拝んだ時に遠くからこちらをジッと見つめていた奴だったことに気が付いていたが、そのことには触れなかった。

その事実を確認したところで何の意味もないことだろうから。

「では明日、黒い池で午後六時」

和尚がその場を終わらせても、俺は暫く立ち上がることが出来なかった。

ずっと胡坐をかいていたのだから、痺れる筈もない。


完全にビビっていたのだ。


勝手に決まった命を掛けた戦い。

奴等の遣り取りの中では、俺の命の重さなど空気みたいに軽いものでしかなかった。

それに引き換え、男はいとも簡単に立ち上がってみせた。

そしてこちらを見ようともせずに、境内を出て行った。

「冗談じゃない!俺は、俺はおまえらのおもちゃじゃない。俺は俺の意志で命を絶つ。人の命を勝手に弄ぶな!」

思いの丈をぶちまけたはずだった。

しかしそこに残っていたのは、和尚ただ一人だった。

「ワシを利用しおったか」ボソッと独り言のように零した後、

「嫌ならやめればいい。別に誰も驚きはしない」和尚の言葉は唯一ここに残った俺に向けられていた。

「でもあんた、あんなこと言っちゃったじゃんか。立場がなくなるだろ?」

「むしろそうなると、皆思っておるじゃろ。ワシがあの年寄りに何と言われようが、命を取られることはない。おまえの命に比べれば、大した話ではない」

いつの間にか立ち上がっていた和尚は、入口にあった大きな木彫りの閻魔にではなく奥にひっそりと佇む涅槃像に合掌しながら、そんなことを口にしていた。

救われる思いがした。

自分の存在価値が認められたようで、少しだがホッとした。



俺の話

あの時もそうだった。


五年ほど前、

先で触れたが今の夜逃げの手伝いをする前の俺はどうしようもないチンピラだった。

組で一番下っ端のくせに街では幅を利かせ肩で風切って歩いていた。

そんな時だった。

組長が組同士の抗争で殺された。

その仇打ちで、相手の組長の首を狙うヒットマンとして捨てゴマの俺が選ばれた。

正直嫌だった、断りたかった。

しかし若頭に、

「悔しいよな!浅羽?組長の敵取りたいよな?」そう脅され拳銃を一丁手渡された。それを受け取ったとき手が震えた。

ぶるぶる震えているのに、「武者震いか?頼もしい限りだな」

そう肩を二回叩かれた。

涙まで流しているのに、「悔し泣きか?その恨み存分に晴らしてこい」

そう頭を二回叩かれた。

だからやるしかないと思った。

相手の組長の首を刈るしかないと思った。

そして抗争中の相手の組を張ってから二日後、その時はやって来てしまった。

あろうことか組長が一人で門のところに現れたのだ。

罠かとも思ったが、腹に隠した銃を利き手でギュッと握りしめると、隠れていた木陰から飛び出した。

男になれるまたとないチャンスが来たと思った瞬間、銃を握る俺の指は石像のように固まった。

脚は地面に根を張ったように動かなくなっていた。

その上その根に水分でもあげようと思ったのか、失禁までする始末。

そんな馬鹿な刺客の存在に組長はすぐに気が付き、手下共がこっちに向かって来るのがわかった。

物凄いおっかない顔で。

だから逃げた。

そのときは自分の命の危機に脚が勝手に動いた。

物凄いスピードで勝手に動いた。

しかし逃げた俺は組から指詰めならまだしも切腹を言い渡された。


そして小林は現れた。


「浅羽、おまえが死ぬことはない。おまえにとって組長はその程度の男でしかなかっただけだ。己が命を張れるほどの男に思えなかっただけだ。しかし俺は張れる。おまえのために命を張れる。だからここは俺に任せておまえはどこか遠くに消えな。おまえには守らなきゃならない人がいるだろ」

小林のうしろ姿に正直痺れた。

男が男に惚れるとはこういうものなのだとわかった。

当時俺は借金を肩代わりした男の娘と結婚をしたばかりだった。

だからどうしても死ぬわけにはいかなかった。

というより死にたくなかった。

しかし相手の組長を殺せなかったのは、本当のところ守る人間が出来たからでも組長がそれほどの男でもなかったからでもなく、ただ単に怖かったのだ。

人を殺すことが怖くて怖くて仕方がなかっただけなのだ。

それまでは街で喧嘩や因縁を付けられた時など、「殺すぞ!この野郎」そんなセリフを呼吸をするが如くに吐き捨てていた。

しかし本当に人を殺すことになった時、今までの自分の言葉を行動を悔いた。

腰抜けの俺はあのとき何も出来ずにその場から逃げ出した。

人の命も奪えなかった俺は勿論自分の命も奪えない。

だから素直に小林の言葉に甘えた。


彼がこの時に何故俺を庇ったのか。

その真意は分からない。


ただその時から三年遡ったある夜、

いつものように幅を利かせた街でそこいらを徘徊している時、小林がボコボコに殴られているのをたまたま見つけてしまった。

正直面倒だけは避けたかった俺は見て見ぬふりを決め込んだ。

しかし片割れの天野があろうことかその中に飛び込んだのだ。

天野は昔からの唯一友達と呼べる奴だった。

正義感が強く弱い者をいつでも助ける、俺とは真逆のような男だった。

そんな天野は俺がチンピラでいることを心底嫌がった。

事あるごとに、「更生しろ!更生しろ」と煩かった。

その夜も二人で飲みに行った。

いつものように耳にタコが出来るぐらいそのことを言われた帰り道で現場に出くわしたのだ。

彼は後先考えずにその中に飛び込んだ。

小林を囲んでいた数人の男たちの中にナイフを持った奴がいることも知らずに。

「やめろ!寄ってたかっておまえら汚いぞ」

そうなると行かないわけにもいかず、俺もその中に飛び込もうとした瞬間、

「うっ!」そんな呻き声が天野の方から零れた。

そのあとに俺の目に飛び込んできたのは、腹を真っ赤に染めてその場に蹲る天野の姿だった。


「天野?」


そんなにわかりやすい光景を目の当たりにしても、俺は気が動転していたのか理解に苦しんだ。


「どうした?天野。喧嘩だけは誰にも負けないじゃなかったのか?天野っ!」


彼は救急車ですぐに運ばれた。

死にはしなかった。

すぐに意識は戻らなかったが、全治三ヶ月でどうにか一命は取り留めることが出来た。

そして次の日には元気な笑顔を見せてくれた。


一週間後、天野のオヤジさんがわざわざ俺を訪ねてきた。

要件は、「浅羽君。悪いんだけど、もう孝之とは関わないでもらえないだろうか。私にはたった一人の息子なんだ。君といるといつかあいつが死んでしまいそうで、怖いんだ。君がいい人なのは分かる。だからこそ頼む、あいつとの縁を切ってくれ」

そう頭を何度も何度も下げられた。

付き合っているカップルじゃあるまいし、別れてくれは可笑しな気もした。

しかしそれ以上に、

「あなたにとってたった一人の息子は、俺にとってもたった一人の友達なんだ」そう言い返したかった。

しかし答えは、

「わかりました。安心して下さい。もう二度とあいつの前に顔を出しませんから」

そう誓っていた。

それでも何度も念を押されやっとオヤジさんが帰ったあと、

止めどなく涙が流れた。

ひとり部屋の中でそれを拭うこともせず、流し続けた。


結局頼まれたからとはいえ俺はヤツの前から姿を消し、

それ以降一度も会っていない。


その天野がよく言っていた。

「おまえが死んだら、俺の人生がつまらなくなるだろうが」

チンピラを辞めさせるために言っていることはわかっていた。

それでも嬉しかった。

今まで自分をそこまで思ってくれた奴などいなかったから。

だから嘘でも嬉しかった。


そのあと天野のもとをお見舞いに訪れた小林が言っていた。

「俺のことをよろしく頼む。あいつをカタギに戻してくれ」と天野から頼まれたと。

全くお節介だが、そのお陰で想像以上に律儀な男だった小林は今こそ俺をカタギに戻せる絶好の機会と踏んだらしく、組から抜け出さすために単身乗り込んでいった。 


それから一年は何事もなく過ぎて行った。

俺は小林のお陰でヤクザから足を洗えたのだから小林のことが気にならなかったわけではない。

しかしもしあいつが死んだなら風の噂で俺の耳にも入るはずと、命を掛けて自分を庇ってくれた奴のその後に深入りしようとはしなかった。


それから程無くして、手の指という指が一本もなくなった男が俺の前に現れた。

彼の名前は小林。

そうあの小林が生きていたのだ。

「小林!生きててよかった」

最初に彼を見た瞬間の感想はこうだった。

しかし、

「でも、指が一本もなくなった」

俺の目の前に翳された手を目の当たりにしたとき正直胸がムカムカした。

血こそ出てはいなかったが、ムニョムニョした傷口を目の当たりにして返す言葉が見つからなかった。

「命の代わりにすべての指詰められた」

全く表情のない小林が話していた。

俺は身震いを止めることに必死だった。

しかし次の言葉がより一層俺の背筋を凍らせた。

「こんな手じゃ何にも出来ない。俺はお前を助けてこうなった。だからこれからはおまえに面倒を看て貰う。よろしく頼む」

それは悪夢の始まりだった。

既に妻子がいた俺の家で一緒に住むことだけはどうにか阻止したが、彼が住む家も食べるモノも着るモノも、というか彼が欲しいモノすべてを俺が賄う羽目になった。

命の恩人だから邪見には出来ず、何にも言わずにカネを出し続けた。


当時俺はチンピラになる前、少し齧っていた宮大工になる為親方のもと修業の身だった。

それでも家族三人細々だがどうにか食べることが出来、それなりに幸せを感じられる生活を送っていた。

しかし彼の登場でとても宮大工だけでは生活が出来なくなった。

借金は膨らむ一方で、ニッチもサッチも行かなくなった俺に小林は、

「いい仕事がある」とある話を持ち掛けてきた。

小林は事あるごとに俺の前に現れては、したいことや欲しいモノを買うために相談というよりも報告にきた。

そして俺が少しでも引きつった表情を覗かせると、指が一本もない両手を俺の目の前に翳した。その姿と彼のニヤけ顔にただただ表情を強張らせるだけの俺がいた。

そして彼は領収証だけを残して姿を消すのだが、程無くしてカネを借りることさえ出来なくなり、今の仕事に小林の紹介で就いたのだ。


回想が長くなってしまった。

あの時の天野の言葉とはだいぶ状況も内容も違うかもしれないが、和尚の言葉でそんなことを思い出した。

しかし次に和尚がポロッと漏らした本音に俺は愕然とした。

「本当に命を掛けるほどの話になるとは、正直ワシも驚いとる」

ヘッという顔をしていたであろう俺に、和尚は続けた。

「ワシは今までいろいろな者たちに生か死かの判断を下してきた。そして死に値すると宣告した奴でもワシの言葉で本当に死んだ奴はいない。しかしとうとうその時が来てしまった。ワシの言葉で、人が一人死ぬ時が来てしまった」

どこだかは分からないが、遠くの方の空中を見つめながら和尚はそう呟いた。

全くの他人事のようにそうボヤいた。


帰り道、太陽はまだ空にあって明るかったのにどうやって家に帰ったのか覚えていない。

家に着くなり誰もいない部屋で布団に寝そべった。

そして仰向けになって天井を見上げた。

すると無性に天野に会いたくなった。

生きているのか死んでいるのか、今何をしているのか、どこに住んでいるのかも全く分からない。

それでも俺の人生で唯一の友達に会いたくて仕方がなくなった。

子供は保育園でいなかった、

口煩い嫁も仕事でいなかった。

だから今のうちだと思い、家を出た。


向かった先は天野に唯一繋がる彼の実家だ。

オヤジさんに会わせる顔はなかったが、俺はもしかしたら明日本当に死んでしまうかもと思い玄関のドアを叩いた。

出迎えてくれたのは、もう定年しているのだろう運悪くそのオヤジさんだった。

「君は?確か、浅羽君だったかな?」

「はい!」

「君が何の用だ?もう孝之には会いに来ないでくれと約束したはずだが」

言葉は厳しくも、年のせいか流れた年月のお陰なのかはわからないが、表情はどこか穏やかだと感じた。

「申し訳ございません。二度と顔を出すつもりはなかったのですが、これが本当に最後なんです。最後にもう一度だけ彼に会わせてください」

しかし表情まで厳しく変化したオヤジさんに、

「ダメだ!最後はもう済んだはずだ」

と突っ撥ねられた。

咄嗟に玄関先で土下座していた。

無意識だった。

「おい!君」

オヤジさんは泡を食ったようにアタフタしていたが、

「わかったそこまでするなら、勝手にしなさい」

地面を見詰めながら笑みが零れた。

「ありがとうございます」

その体勢のまま礼を言った。

今まで土下座をしたことがなかった。

それは多分、土下座というものが格好悪いとか男として見っとも無いという世間の見方もあるだろし、自分でもそう思っていたからだろう。

しかしたった今、

その世間でいう最も見っとも無いとされている土下座を、無意識のうちにいとも簡単にしていた自分が何故か嫌ではなかった。

少し滑稽だとも思った。

家の奥に消えていたオヤジさんが一枚のメモ用紙を持って戻って来た。

「孝之ならここにいるから、このごろめっきり家に戻らなくなってな。今何をしているのか、ようわからん。君からも言っといてくれ!たまには顔を見しなさいと」

「わかりました」

その紙を受け取ると、書かれていた住所に急いだ。

そこはオフィス街から少し離れた三階建てのビルだった。

そして書かれていた住所は、そこの二階。入り口のドアには東亞興業と書かれた文字が躍っていた。

「興業ってヤクザじゃあるまいし」

しかしドアを叩いてそれが開いた瞬間、ここがカタギの世界でないことを悟った。


「あの、天野、天野孝之さんは?」

「あんたは?」

出迎えたのは如何にもその道の人という顔つきの男だった。

「私は浅羽といいます」

「浅羽?ちょっとここで待ってて」

入口で立ちんぼのまま、男が奥の部屋に消えた。

するとすぐに、

「おぉ!浅羽」

満面の笑みで現れた男に一瞬言葉を失った。

「天野か?」

「そうだよ」

そこにいたのはさっき出迎えてくれた男ほどではないが、人相まで変わってしまった友人だった。

「おまえ、ヤクザになったのか?」

俺が目を丸くしたままだったからだろう。

「実はそうなんだ」

天野は痒くもないだろう頭を掻きながら苦笑いをしていた。

ヤクザという職業が悪いとは思わない。

しかしあれだけヤクザを毛嫌いしていた男が何故。

そんな疑問はすぐに口から出ていた。

「どうして、おまえがヤクザになったんだ?」

「まぁ、中に入れよ」

通された応接室には、デカデカと墨汁で書かれた“義”という文字が掲げられていた。

そして横にはお約束の年代物の鎧兜が存在感たっぷりに置いてあった。

「実は俺もヤクザになろうとは考えてもいなかったんだ」

「そりゃそうだろ!あれだけ俺のこと更生させようとしていたんだから」

「そうだったな。しかしおまえが俺の前から姿を消してからいろいろあってな」

「いろいろって何だよ?」

「いろいろはいろいろだ」

笑っているのに目の奥で真剣さが漂っていたからだろう、それ以上のことは聞けなかった。

多分俺は唯一の友達だと思っていたヤツに対してビビっていたのかもしれない。

唯一心を許せたヤツに。

「で、今日は急にどうした?」

「いや元気かなと思って。久々に顔も見たかったし」

訪ねた理由が何だったか、それさえはっきりしていないことにここにきて気が付いた。

だからと言って、明日もしかしたら死んでしまうかもしれないなどとは言う気にもなれないと、目の前の昔の友人を見ていて思った。

変わってしまった。

友情は不変だと思っていたが、

変わり果ててしまった。


天野は昔から敏感な奴だった。

俺が少しでも気を使おうものなら、それを必要以上に嫌がった。

「二人の間では言いたいこと何でも言い合おうぜ」

それがあいつの馬鹿の一つ覚えみたいな口癖だった。

だから自分が親友にビビってしまったこと以上に、何も訊くなと言っていた天野の眼が、もう昔みたいな友達ではないことをヒシヒシと感じさせた。

「俺、そろそろ出かけるんだけど、おまえはどうする?」

「あ、あぁ、俺も用があるから帰るよ」

「そうか。せっかく来てくれたのに悪いな」

「いいのいいの」

そして俺は久しぶりの再会を果たした昔の友人に別れを告げた。

「じゃぁ元気で。あっ、たまにはオヤジさんに顔見せてやれよ」

「あぁ」

彼はドアまで出て見送ってくれた。

一度だけ振り返った時、

彼の顔が悲しみに満ちているようだと感じた。

しかし別れを言ってしまった以上後にも引けず止まることもせず階段を下った。


来なければよかった。

それが正直な感想だった。

明日死ぬとして人生を振り返る時、俺が生きてきた意味をひとつ無くしてしまったようだと、大切な一つを失ったようだと感じたのに涙も出やしなかった。

ただ死ぬことが嫌でもなくなった。

が、

死ぬのが怖いという感情にも襲われた。

矛盾しているのはわかっている。

しかしどうしてもそう考えてしまうのだ。

この世に未練はないがこの世にはまだいたい。


そんな思いで家路を彷徨った。

昔母親が言っていた。

「人の恩は死んでも忘れちゃ駄目だ」

と言っていた。

確かに天野は変わってしまった。

それでも昔の恩は忘れたわけではない。

ただもう返せないと思った。

死を覚悟したのかと自問自答したが、気弱な俺の心が答えてくれるはずもなかった。

あのとき何を言われてもあいつの周りをウロチョロしていれば良かったと今更後悔もしたが、後の祭りだと諦めた。

そして天野に本当の別れを告げた。

バイバイと別れを、心の中でひとり告げた。

既に太陽は西に傾き真っ赤な顔をしていた。


次に俺が向かった先は家ではなかった。

俺が辿り着いたのはさんば町。

誰が付けたか羅生門という名の瓦礫を抜け、“すかんぴん”の街と野郎どもの目線を感じながら、閻魔寺がある山の入口に辿り着いた。

そこで一呼吸を入れると暗い林の中を歩いた。

木の緑が暗い中でより一層強く感じられた。

深い深い闇の世界へ誘おうとしているようだった。

ふと足が止まったが自らを鼓舞し一歩一歩踏みしめて登った。

それでも石の階段に差し掛かった頃には疲れ果てただ足を上げることだけに神経がいっていた。

やっとの思いで上り詰め相変わらず趣も何もない本堂の門を叩いた。

迎えてくれたのは、あの和尚だった。

「どうしたんだ?こんな夜遅くに」

「ごめんなさい!ただ一つお伺いしたくて」

すると和尚は、夜遅いというのにわざわざ本堂に通してくれた。


薄明かりのお堂は凛とした空気が張り詰め、動く度に肌を刺される感覚があった。

その真ん中で正座した状態で和尚と対峙した。

冷えきった畳に、親指が飛び出している靴下で覆われた足の甲からどんどん熱が奪われていった。

「どういったご用かな?」

裸足のはずの和尚は平然とした表情でそう訊いてきた。

「もし明日、私をさっき助けてくれた決闘をすることになった彼に殺されたら、やはり私は今までの人生を考えれば地獄に行くのですか?」

地獄や天国を信じているわけではないはずなのに、

もしかしたら死ぬ、

そう思った時、地獄という存在が急に俺の中で現実味を帯びてきた。

そして小学校の時に見せられた血の海地獄や針山地獄の絵が鮮明に頭に浮かんできた。

「もし彼に殺されたら、あんたはもう一度生まれ変わる。それが人間になるか、はたまた犬にかるか、あるいは雀か、ハエか、それはあんたの現世での行い次第じゃ。ただ地獄に行くことはない。あんたがこの世界でどれほどの悪事を働いていようが、本意ではない死を遂げた者はどんな形であれ仏から必ず新しい命を授けて貰えるのじゃ」

和尚の回答は俺が想像していたものとだいぶ違っていた。

だから反対のことも気になった。

「ではもし私が彼を殺してしまったら、それが己の命を守るためにやむを得ずに彼を死なせてしまったら、それはやはり大罪ですか?」

相手のことなど考える事なく自分勝手な質問をしていることは重々分かっていた。

それでも和尚は淡々とした口調ではあったが答えてくれた。

「人を殺すことは大罪じゃ。ただもし彼が死に値するほどの人生を送ってきたなら、彼を再生させるために命を一度奪うと考えればそれは寧ろ彼を救うことになり、大罪ではなく救済じゃ」

難しすぎていつもだったら絶対に理解出来なかったであろう言葉も、神経が研ぎ澄まされているのか大筋で理解が出来た。

「しかし彼のことを和尚は死に値しないと結論を出したではないですか?」

「うん。出した」

「それでは彼はいい人?」

「死に値しないは仏に値しない。人は死んだら仏になる。しかしあの男は仏ではなく地獄に行ってしまうかもしれない。だから現世でもっと身を清めてから死になさいという意味じゃ」

「では彼は本当に死にたいと思っている?」

俺は身を乗り出して尋ねていた。

「私は仏そのものではない。仏の道を志す者じゃ。だから彼の全てが分かるわけではない。ただ彼が私の前で話したこと、表情、仕草、色合いから判断を下しただけじゃ。真実は仏のみぞ知る」

「そうですか」俯く俺に和尚は、

「でもあんたが一番私に聞きたいことは、そんなことではないんじゃろ?もっと人間的で俗っぽいことなんじゃろ?」

和尚の顔つきが、さっきまでの無表情から一転わかりやすいぐらいに人間味に溢れた表情に変わった。

だから一番聞きたかったことを聞くことにした。

「もし本当にどっちかが死んだら、死なせてしまった方は捕まるんですよね?」和尚が意外そうな顔をしたがすぐに戻っていた。

「断言は出来ぬが、捕まらないじゃろう。明日の試合会場はさんば町で最も崇高なところ。そして警察も立ち入り禁止地帯。つまりそこで人が死ぬということは無法地帯での死。憲法の存在しない場所なわけだから捕まることはまずない。密告者が出ない限りは。あそこが日の目を見てしまったらこの街は間違いなく終わる。それほど神聖で、おぞましい場所なのじゃよ」

「神聖でおぞましい?確か黒い池ですよね?やはり真っ黒なんでしょうね?」

すると和尚が少し小声になって、

「真っ黒じゃ。あそこはこの世ではない!とまでは言わぬが、そんな言葉が似合う場所とでも表現しておこう」

そう話す和尚が何故か自慢げなのに対して俺の顔はさぞかし引き攣っていたことだろう。

「もうよろしいかな?」

そんなことお構いなしに和尚は話を切り上げようとした。

俺の方はそれを察する余裕もなかったが、一礼して肩を落とし境内を出て行こうとした。

「悩まずに思いっきりやりなさい!彼は相当腕の立つ奴じゃ。ズル賢いという意味でな。だからあんたも心して掛った方がいい。殺してしまったらどうしようではなく、死ぬ気で彼に当たって行かないと、でないとあんたに勝機はないじゃろう」

その言葉に、俺は恐怖すら感じた。

それは明日自分が本当に殺されてしまう恐ろしさよりも、仮にも和尚は生き仏のような存在のはず、そんな人物が人を殺せと言っているようで自らが生き抜くために人を殺めてもいいと言っているようだったから。しかし和尚が最後にくれた言葉は、

「一番の解決策は、あんたが明日の決闘に顔を出さないことじゃ。逃げればいいのじゃよ」

「でもそれは大罪では?」

俺は振り返っていた。

「大罪ではない。てっきりあんたは明日逃げても良いかと尋ねて来たんだとばかり思っていた」

和尚は正座したまま会話を続けていた。

「それはズルイ気がして」

「ズルかろうが大概の人間はそうするじゃろう。命あってこそだからな。それよりもあんたの侍魂がそれを拒否するかね?」

「私はそんな格好いいものを持ち合わせていません」

「そうか、それは良かった」

やっと和尚の顔が仏に見えたからなのか、この人を裏切りたくないと感じてしまったのか、

「もし明日私が決闘の場に行くことがあったなら、和尚は見に来られるんですか?」

そんな言葉が無意識に口から出ていた。

「行かぬ。ワシはこの寺から出ることはない。臆病者なんじゃ。だから仏の前で、ただ祈り続けるだけじゃ」

「何を祈られるのです?」

「わからん。明日、その時が来るまでワシにもわからん」少しだけ垣間見ることが出来た和尚の素顔に、俺は心の安らぎを一瞬だが感じることが出来た。

「明日もしかしたら私のせいで、和尚に迷惑を掛けることがあるかもしれません。その時はご勘弁ください」

そう言った俺の口角が微かに上がったのだろう。和尚も優しい顔つきで答えてくれた。


帰り道どや街は静まり返っていたが、歩く途中で一ヶ所だけ、この街に唯一ある飲み屋だけは煌々と明かりを照らし数人の輩が大騒ぎしていた。

あの男がそこにいたかはわからなかったが、誰ひとりとして俺の存在に気が付く者はいなかった。

家に戻ると妻も子供もすでに寝息をたてていた。

だからその顔に、

「おやすみ」と

無理に笑って見せた。



男の話

その夜、男はララのもとを訪ねていた。

「明日、決闘するんだって?」

「この街は、情報が流れるのだけは早いな」

相変わらず臭い布団に仰向けになりながら、裸の二人は話しをした。

「死ぬ気なの?」

「何でそんなこと聞く?」

「だって、あなたが助けたんでしょ?相手の男のこと、あなたをすかんぴん呼ばわりした男のこと」

「助けたんじゃない!チャンスを与えてやったんだ」

「チャンス?」

「そう。あいつは一度、俺を餓死寸前の時に救ってくれた。その恩返しだ」

「何それ?ばっかみたい」

ララは、男に背を向けた。

そして一言、「死なないでね」

目を潤ませた。

男は、

「ばばぁ!気持ち悪いこと言うな」

そう喉まで出掛かったが、止めておいた。

彼女を傷つけてしまうからというよりも、男の中ではそれが本心ではなかったから。

だから何も答えなかった。



俺の話

朝起きると嫁も子供もすでに家を出た後だった。俺は三十分ほどゴロゴロした後に布団からどうにか起き上がった。窓から入る光がギラギラと荒廃した室内に突き刺さっていた。昨日のことが夢のようだと感じたが、ギラギラの光を嫌がりながら見た路地に夢の中にいたはずの大男の片割れがジッとこちらを睨んでいた。

つまりは夢でなかったわけだ。

どっちに立っていた大男かは思い出せないしどうでもよかった。

力が入らない体を無理に起こすと台所に向かった。

そして朝っぱらから冷蔵庫でキンキンに冷えた缶ビールを取り出し、躊躇することなく音を立てて飲み始めた。

一口で半分近くを飲み干したところで携帯電話が狭い我が家に厭らしく鳴り響いた。

出る前に確認した相手は小林だった。

「もしもし」

「俺、また仕事よろしく!今日はね……」

彼はまだ話していたが、

「ごめん!もうお前の面倒看るの辞めたから」

受話器越しに小林が絶句しているのがわかった。

「だからもう俺を頼るのは止めてくれ」

「お、おまえ。それが命の恩人に言う言葉かよ?ふざけるな!」

「もうウンザリだ。バイバイ」

「俺はおまえを地の果てまで追いかけるからな。俺から逃げられるとでも思ってるのか?」

何故かその脅しが笑えた。

「何が命の恩人だ。俺の命がおまえのお陰であると言うなら、殺せ!俺のこと殺していいぞ」

流石の小林もすぐには返答が出来なかったらしく、暫く黙っていた。

だから面倒に感じて一方的に電話を切った。

それから何度か電話は鳴っていたが、答えることはしなかった。

そして小林がカンカンになって自分の携帯を指のない手でどうにか投げ飛ばしているところを想像したら可笑しくなった。

しかしすぐに申し訳なくなり本人はいないが謝った。

俺のせいで人生が大変になってしまったのは事実なのだから、と謝った。


俺はカネもないくせに生命保険には随分前から加入していた。そして受取人はすべて妻にしていたが、半分を小林に行くように手続きを何故か少し前に済ませていた。

その時は自分が死ぬなどとは全く考えていなかったはずなのに何故かそうしていた。


家を出る時、手紙を書いた。

手紙と呼ぶにはおこがましいが、

ただ一言、

たまたま見つけた広告の裏が白紙のやつに、

「バイバイ」

全く軽い言葉を一言書いた。


昼が過ぎ、小腹が空いたので大好物の牛丼を大盛りで二杯食った。

俺は大食漢ではないと思っていたが、もしかしたら無意識のうちに体のことを気遣っていたのかもしれない。

そんな呪縛から解放されたからなのか、どんなに腹が破裂しそうでもほとんど鵜のみで牛丼を胃の中に押し込んだ。

満足だった。

そして千円以内で十二分に満足出来たことが少し笑えた。

しかし牛丼屋を出たところで立ち止った。

「俺は決闘に行く気なのか?そして俺は殺される気なのか?」

無意識のうちに朝から自らがその方向でことを進めていた。

今更それに気付き驚いた。さっきまで大満足だった腹が急に息苦しさを感じた。

膨れ上がったそれが時限爆弾のようにも思えた。

死までの時限爆弾。


そのまま出来たばかりの個室ビデオ店で時間を潰した。

何のために時間を潰しているのかも定かではなかったが、とりあえずずっと観たかった映画のビデオを観た。

個室の外では大男が少し奥まった部屋からこちらを窺っていた。ここまで監視される事に苛立ちもしたが、少し笑えた。

そのあとに小さく溜め息をついてから画面に目線を戻した。

十年ぐらいずっと観たいと心のどこかに常に引っ掛かっていた程、気になっていた映画のはずだったのに、十年という長い歳月が期待を大きくし過ぎてしまったのか、それとも今の俺そのものがつまらないのかはわからないが、何も面白いと感じなかった。

それでも最後まで観た。

エンドロールが流れた時、時計に目をやった。

午後五時になろうとしていた。

「丁度いい時間だな」その言葉にまた自分を探したが、見つかりそうもないと諦めた。


外に出ると夏でもだいぶ涼しい風が全身をスッーと通り抜けて行った。

さっきまで体を窮屈そうにしながら俺を見張り続けていた大男の姿はなくなっていた。それから足の向く方に従って歩いた。

十分やそこ等歩いて辿り着いた先は、

さんば町だった。

結局ここに来たことに苦笑いが出た。

今まで一度も自分に男気を感じたことがなかった。

侍魂などとは皆無の人間だと思っていた。

思っていたというよりも今までの俺の行動がそれを裏付けていたからそうだと信じ込んでいた。

昔テレビか何かでどこかのタレントが、この世で一番わからないモノは己自身だと言っていたことが急に頭に浮かんだ。

その時は何を格好付けているんだぐらいにしか思っていなかったはずが、たった今その言葉が心に沁みた。

そんな自分がやはり格好いいとも感じた。

しかし本当はあの日以来、悪魔に心を売り飛ばしたあの日以来、逃げ癖が付いてしまった自分がずっと嫌だったのかもしれない。


羅生門を過ぎたところで、昨日の大男の一人が、俺を出迎えてくれた。

そいつは左に居た大男だとすぐにわかった。

微かに上向いた口角に少し人間味を感じたから。

「来るとは思わなかった」挨拶代わりに、そう漏らしてきた。

返す言葉などなかった。

その時の自分の表情がどんなかも想像が付かなかった。

歩き出してすぐに、

「ずっと俺を見張っていた大男はおまえの相方だな」

今度は俺が話し掛けたが返答はなかった。

まぁ独り言みたいなものだからそれでいいのだが。

そのあとは二人無言のまま、どや街の奥へ奥へと連れて行かれた。

何度もこの街には来ていたはずなのに、この街のことを知りつくしていたと思っていたのに、俺の目に入ってくるモノは全てが新しかった。

それはあのとき感じた想いと同じだった。

吐き気もした。

しかし少しだけ違うとも感じた。

あの時はこの街の臭いに吐いてしまったが、どこかに希望みたいな思いも抱いていた。

今は絶望しか感じない。

堪え難い悲しみが俺を覆い尽していた。

その思いからか結局先ほどの牛丼が喉を通過しかけた。

「あのときはカレーだったな」ひとり呟いた言葉で何故か心が落ち着いた。

吐き気もどこかに消えていた。


とうとう辿り着いてしまったのだろう。

大男が立ち止まりこちらを一瞥したことでそれを悟った。

俺は立ち止ることはせずにゆっくりと大男の横を通り過ぎた。

そこで目に入ってきたモノ。

大勢の“すかんぴん”どもが世紀の決戦を今か今かと待ち侘びている光景だった。

立ち止まったが、威圧感を感じたわけではなく、むしろその逆の思いだった。言葉には出来ないがその逆の思い、「もう逃げられないな」ボソッと口にしたその言葉が全てだった。

その時、脳裏に薄っぺらな俺の人生がフラッシュバックしていた。

決戦の地で、結局自分自身を何も受け入れていなかったことに気が付いた。

ただ、ここに来た自分だけは受け入れていいと思えた。

それでもここに来たのが、もう逃げたくないとか男は格好良く生きなきゃ駄目なんだといった類の勇気が働いたわけじゃない気がした。

強いて挙げるなら、もう逃げられないと感じたし八方塞なだけなのだ。

こうするしかなかったのだと思った時、奥歯辺りをギュッと噛みしめた。

それから足をゆっくりと前へと出すと、俺の前には、見物人たちが見事なまでに真二つに別れて出来た花道が現れた。

「わーぁ!」

物凄い歓声の中、ありもしないスポットライトが俺とそして花道を煌々と翳しているように目には映った。

小高い丘の先にある決戦の地までの道を照らす目を瞑ってしまいそうなほどの激しい光。

目を少しだけ細め、一歩一歩前へと進めた。

大地を押し潰す度に少年の時嗅いだ悪臭の何倍もの獣臭に鼻は愚か命の危機さえ感じた。

それでも大歓声の中を突き進んだ。

一歩一歩、

赤土掴むように歩いた。

そして丘のてっぺんに辿り着いた先にそれはあった。

「これが黒い池?」

お盆のように丸く抉られた真ん中に真っ黒い水が大きな水溜りとなって居座っている場所だった。



俺と男の話

立ち込めた霧が確かにあの世を連想させた。

黒い池の周囲は30メートルほどだろうか。

そこだけは赤土が何に染められたのか周りも黒い土で囲まれていた。

その周りを無数の段々が取り囲み、そこに今は観客の素寒貧どもが興奮気味に体をぶつけ合いながら俺たちの決闘を待ち侘びていた。


そこはまさしくコロセウム、古代ローマの円形劇場。

俺は宛ら奴隷剣闘士・グラディエーターなのだと心に痛いぐらいに伝わった。


決戦の地へ向け、重い足を前へ前へと出した。止めてしまったら二度と動けなくなると言い聞かせるように出し続けた。

ふと顔を上げると黒い池劇場の向う岸にも、人だかりの中に竹が割れたような道が出来ていた。

その間から現れたのは勿論あの男だった。

やっぱりこの男は逃げなかった。

相変わらずスーツ姿の出で立ちで、鋭い眼光でこちらを睨んでいた。

しかし同じように俺もその男を睨みつけていることに、心の片隅にある冷静な俺が気が付いた。

二人が対峙した登場に、何処から沸いたのか千人近くいそうな観客たちの熱狂が最高潮に達したことを知らせる割れんばかりの歓声が、ドクンドクンと俺の心臓音と同化して伝わった。

それが髪の毛の先から足の指先まで何度も電流のようにビリビリと流れた。


「来おったか」

寺の境内では仏に手を合わせお経を唱えていた坊主の動きが止まった後に、そんなこと口にした。

薄ら片目を開け、

「今回は誰のせいにもしなかったようじゃな。しかし人間は二度は死ねぬぞ」

再び目を瞑り、広い境内に一人着座した姿から発せられた言葉には重みがあり悲しみがあった。

それから坊主はまたお経を唱え始めた。


先に黒い土に足をめり込ませたのは俺だった。

そして円形劇場・黒い池に先に足を入れたのは男の方だった。

池の底にはどれ程の亡骸が埋もれているのかを想像しながら俺もそこへと足を入れた。

水はヘドロと化していた。

立ち込めていたモノは霧ではなくここから涌き出るガスだった。

それが俺のすべての感覚を麻痺させたのか、それともピリピリした緊張感に掻き消されたのかはわからないが、何にも感じなかった。

思考回路もなくなった。

あれだけ煩く感じた歓声も、俺と男の周りでは轟いているのだろうが、やはり感じなかった。

静かだった。


俺が仁王立ちする五メートルほど先に、男も肩幅以上に足を広げ立っていた。

静かな時が経過した。

心の中は空っぽだった。

その中に突如芽生えるモノがあった。

それは死にたくないという思い。

それがはっきりとした形で居座った。

ここまで来てやっと気が付いた。

俺はここに死にに来たんじゃない。

ただもう逃げたくなかった。

だから生まれ変わる為、目の前の男を倒しもう一度生まれ変わる為にここに来たんだ。

そして大好きな母さんともう一度向き合って話がしたい。

嫁や娘を幸せにする自信を取り戻したいからここへと来たんだ。

それに気が付いた俺は、再び目の前の男を睨み付けた。

男が何かを話す為にゆっくりと俺に近づいて来るのがわかった。

この戦いのルールを聞いていなかった。

武器なのか素手なのかも全く知らない。

そんなことが気になり出した俺の耳元まで、男は近づいていた。

だから俺は耳を貸してやることにした。

「よく来たな」そう言ったあと少し間を置いてから男は続けた。

「いいか、これから言うことを表情を変えずに聞け」一呼吸入れると、

「この戦いは日本刀を使う。俺は一秒間何もしない。その間におまえが俺を斬り殺せ。俺にはもう失うモノは何もない。もう十分満足だ。しかしもしおまえが少しでも躊躇して一秒が過ぎてしまった時、俺は遠慮せずにおまえを斬る」

ニンマリだった口調は一転し、心を持たないモノに変わっていた。

男が俺から離れると、一人の年寄りが近づいてきた。

それは境内に居た年寄りの男だとわかった。

彼は、「今回は日本刀で戦ってもらう。ルールは一つ、どちらかが死ぬまでだ」

淡々と告げていた。

彼が話している間、俺は動転していた。

今目の前にいる男にも消し去りたい過去があり、それをリセット出来ないまま死のうとしている。

そんな男を本当に殺してしまっていいのだろうか。

俺が生まれ変わる為に殺してしまっていいのだろうか。

整理が付かないままの俺に年寄りは刀を手渡してきた。

それを男にも手渡した。

ずっしりとしたそれは、この街で唯一、ギラギラと輝いていた。

受け取った右手が小刻みに震えた。

さっきまでは全く聞こえなかった歓声が、耳からだけじゃなく毛穴という穴から一気に、体を蝕むように入り込んできた。


もうこの戦いを止める術を俺自身持ち合わせていないことを悟った時、

「用意はいいか?」

年寄りが問うて来た。

すぐに返事を返せない俺に暫しの沈黙があったが、彼は続けた。

「用意はいいな」

疑問は肯定に変わっていた。

両手で刀を握り不格好に腰が引ける俺とは対照的に、

男は眼を瞑り息を整え、

右手に持った刀の先は澱みきった池に端坐していた。

一秒の猶予をくれた男は、精神を集中していた。

その姿はこの世に別れを告げているようにもとれた。

ただ本当にこの世に未練がないのかがわからなかった。


二人の距離は二メートルもない。

一歩前に踏み込めば、相手を斬れる間合いだ。

一秒という時間は相当短い。

だが審判らしき年寄りが始めと言った瞬間に刀を振り斬れば俺は勝てる。

そして死なない。

しかし一瞬でも戸惑ったら俺が殺される。

男から感じる殺気は俺を斬り殺すのに十分だった。

それでも俺が全く怯まず斬れば生き残るのは俺だ。

躊躇している暇はない。

刀を持つ手に力を込めた。

無心で刀を振り下ろすことだけを決めた。


「用意」

年寄りの言葉が、眼差しが、奥深かった。


「はじめっ」

決戦開始。

いー、「シュンッ!」ち。


日本刀は物凄い速さで通過していった。


稲妻の如く、


凍りそうなほど冷たいものだった。


そのあとからは生温かい真っ赤な血が噴き出した。

それが男の顔をスーツを赤く染めた。


その赤はいつか母と見た紅葉のように映えていた。

一点の曇りもない鮮やかな赤だった。

男は顔を伏せ、決して俺を見ようとはしなかった。



俺の話

「いたいのいたいの飛んでいけ」


その言葉を口ずさんだとき、

黒い池へと埋もれていった。


俺の体が埋もれていった。


決戦は一秒を要さなかった。


俺はずっとこの街を蔑んできた。

嫁を、そして何より自分自身を蔑み続けた。


ごめんよ、母さん。


俺はどうやら大好きなモノをバカにする癖があるみたいだ。

それに気が付いたら無性に嫁に会いたくなった。

濁っていても構わないからあの瞳で見つめられたいと思った。

脇目もふらずにじっと見つめ合いたいと思った。

黒い世界で最後にそう懇願した。


そして俺は死んだ。


そんな俺の命日が人生で五日目の記念日になった。

一万二千日以上生きた中で、唯一胸を張れる主役を演じ切った一日になった。

それでも崩れて逝く自分は端っから崩れていたことに気が付いた。

でもそれももうどうでもよかった。

ただ、

あの赤を娘にも見せてやりたかった。


死体が上がらない以上俺が目論んだ保険金が妻や小林に下りることはないことを最期の最後まで気が付けなかった。


坊主は男の本性を見破れなかったことを、俺に線香を手向けながら謝った。



僕の話

俺は作文を書いた、小学生の時。

それをみんなの前で読まされた。

「僕はこの前、さんば町に行きました。さんば町は、家がない人やお金がない人が多く暮らす、どや街と言われている街です。そんな街には、人を食う化け物が住むという噂を聞いたことがあったので正直怖かったのですが、どうしてもその奥にある閻魔寺に行かなくてはならなかったので、さんば町に行きました。閻魔寺は訪れた人の悩みを聞いて、その人が死に値する悩みを抱えているか、死ななくても再生可能かを判断してくれるところです。僕は虐めに悩んでいます。殴る蹴るは一部の生徒だけの行為なのですが、クラス全体の無視が一番堪えます。そんな僕を父親は駄目人間とまで言いました。だから閻魔寺で僕は生きていていいのかを聞きたかったのです。

さんば町に入った瞬間、うわさに聞いた血の臭いではなく鼻が取れるぐらいの異臭に吐いてしまいました。それでも進んで行くと、微かに掛かる靄の中、髪の毛、肌、服全てがどす黒いモノに出くわしました。僕は思はず『バケモノ』と叫んでいました。するとその人は物凄く悲しい顔をしていました。しかし僕は走って逃げてしまったのです。そして辿り着いた閻魔寺で、言い渡された判決は『死んでよし』そんな言葉でした。『死んでいいから、あとは自らで死になさい』その言葉を聞いたら自殺をしようと決めていたはずなのに、僕は和尚さんに『人殺し!訴えてやる』と文句を言っていたのです。全く勝手な小僧でした。そのあと和尚さんに自分が弱いから虐められることを教えてもらいました。少しだけ勇気を貰った帰り道。さんば町を歩く僕の鼻は、全く異臭に気が付きませんでした。あれだけ臭いと思ったはずなのに。最初に感じた臭さに僕の思い込みが何倍にも膨らんで誇張された揚句のゲロだったのです。そしてさっき見た、僕が化け物と叫んでしまった人もまだ立っていました。不思議と怖くなかった僕は、その人が僕を見つめる眼差しが僕に似ていることに気が付いたのです。僕が彼にした行為はクラスのみんなが僕にする行為と何ら変わらなかったのです。だから僕はその人の前まで行って、本当は怖かったのですが謝りました。『ごめんなさい』と頭を下げました。すると彼が笑ってくれたのです。その目が今までに見たことがないぐらいに優しいものだったから、何故か僕は泣いていました。理由はわからなかったけど、今までは悲しいから痛いから悔しいから辛いから泣いていたはずなのに、その涙はどこか違って心が温かくなる感じがしました。そのとき彼が教えてくれたのです。『僕は化け物ではなく、すかんぴんだよ!』素寒貧は大変貧乏な人のことを指すみたいですが、僕にはお金を持っていなくても心が豊かな人のことを指す言葉のような気がしました。おわり」

僕はこの作文を、全校生徒の前で読まされた。


校長先生に、「君の作文には感動した。だから今度の全校集会のときにみんなの前で読んでくれ。そして共に虐めをなくそう」

そう強く訴えられたから、僕も勇気を振り絞って壇上でこの作文を読んだ。

そのお陰で少しの間、僕は学校の人気者のようにいろいろな人がさんば町と閻魔寺の話を聞きに来た。

しかしその熱もすぐに冷めてしまったが、

あの日以来、

勇気を振り絞って壇上で作文を朗読した日以来、虐めはパッタリ無くなった。


それから数日経ったある日、

他の生徒が虐めを受けているところをたまたま目撃したが、

助けられなかった。


怖かったから。


自分がまた虐めを受けるのが怖かった。


だから奴らの仲間を装い、

悪魔に魂を売ったその日から僕は、


そいつを無視することにした。


あの時、

母が意識を取り戻したらどうしようと思ったのは、虐めを受けていることが恥ずかしかったからじゃない。

自分が虐めっ子の仲間入りをしてしまったから、母の大嫌いな虐めっ子になってしまったから、だから母と目を合わせることが怖かったんだ。


あのおまじない、

「いたいのいたいのとんでいけ」いつからかそう言わなくなったのは、それを口にしてしまったら、

痛いのは僕だったから。

とんでいってしまうのは、悪魔に魂を売ってしまった僕自身だったからなんだ。


でも魂を売ることなんて本当は出来ないんだよ。

だからずっと痛かったんだ。


泣いていたんだ。


ずっとずっと僕の魂は泣いていたんだ。


それを僕は死ぬそのときまで誤魔化して生きていくんだろうね。





















 









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すかんぴんといたいのいたいのとんでいけ @himo

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