【第4話】第2のスイッチ

4‐1

アルモトニカ国立図書館は、アルモトニカで出版された書物はもちろん、外国書を翻訳したものも一番多く蔵書されている国内最大の図書館である。


「はぁ……」


小さくため息をつき、ルイは目元を揉みほぐした。

あの事件の起こった日から、今日で一週間。

その日から毎日、ルイは学校帰りにこの図書館に通うようになっていた。

無論、ニコロ・パガニーニについて調べるためである。


(今日も収穫はなさそうだな……)


バッハの言った通り、動きを止められていた人々にはなんの記憶も残っていないしらしく、あの事件前と変わらぬ日常をおくっている。

ルイも普段通りに過ごしていたが、あの女性のことだけはずっと頭を離れなかった。

数ある蔵書の中から適当に見当をつけ、手当たり次第にページを繰ってきたが、ニコロ・パガニーニについての記述は一冊も、否、一行たりとも見つけることができなかった。


(ヴィルトーだと思ったのになあ……バイオリン持ってたし……)


テーブルに開いた『ヴィルトー名鑑【最新】』の上に顎を乗せ、ルイはこめかみを揉みほぐした。

古い紙特有の匂いが、つんと鼻を突く。

国内で一度でもヴィルトーと認められた者はここに名前が載せられる。

もし途中でヴィルトーを辞めたとしても名前はずっと残り続けるため、そのページ数は年々増していくそうだ。


てっきりヴィルトーだと思ってそれを手がかりに探していたが、ヴィルトーじゃなかったとしたらまた振り出しに戻ることになる。

しかし、彼女がこの国で音楽を生業としない仕事に就いていたとはどうしても思えなかった。

彼女の赤く煌めく瞳を思い出す。

あの心を突き抜くような眼差し。

一度見たら忘れられないその激しさは、ランゲ・リューリスに似たものすら感じた。


「いっ……!」


頭が鈍く痛み、ルイは顔を顰めた。

今日はもうこのくらいにしておこう。

ゆるゆると頭を振って分厚いファイルを閉じ、ルイは図書館を後にした。




「兄ちゃん、小銭をくれないかね」


ぼーっと考え事をしながら歩いていると不意に下のほうから声がして、ルイははっと我に帰った。

空き缶を差し出す、薄汚れた男。

目深にかぶった帽子に隠れ、顔はよく見えなかった。

ルイは体をかがめて小銭をいれ、そのまま目を合わせぬようにその場を立ち去る。

気づけばもう、下宿屋のすぐ近くに着いていた。


(最近よく見るなあ、こういう人たち)


前はたまに見かける程度だったのが、ここ何年かで物乞いたちも首都のほうへと流れてきているようだ。

はじめは異質な存在として見ていたものが、今ではすっかり町に溶け込んでしまっている。

どうやって日々を生きているのだろうかと思いあぐねながら下宿屋のドアを開けると、ハンナの不機嫌そうな顔が目に飛び込んできた。


「あ、ベートーヴェンさん!? んもう遅いじゃないですか! 

とっくに夕食の準備はできているっていうのに! 

ツェルニーの坊っちゃんも何度呼んでも全然降りてこないんですよ、まったく! 

部屋に戻ったら声をかけて一緒に降りてきてくださいな!」


ハンナの剣幕に圧されこくこくと首を縦に振り、ルイは急いで二階に駆けあがった。

めずらしいな、と思う。

腹の虫には忠実なあのカールが。

自室に荷物を放り込み、その真向かいにあるカールの部屋のドアをどんどんとたたいた。


「カール、ご飯だって! ハンナさんが呼んでるよ!」


2,3度ノックしたが、応答はない。

取り込み中だろうかとドアに頬を当てると、室内でバイオリンの音が響いていることに気付いた。

何の曲だろうと首をかしげる。

と同時に、驚きで目を丸くした。

こう言っては何だが、カールは決して練習熱心な方ではない。

大学の外では友人と気軽な演奏を楽しむ時以外楽器を手に取ろうともしないし、学期末にある大切な試験の前だろうとそれは変わらなかった。

単純な話、練習がそこまで好きではないというのもあるだろう。

自分の中のリズムっていうのが大事なんだ、というのが彼の口癖だった。


「試験の前だけ追い込みで練習したりするから失敗するんだ。大事なのは自分のリズムを崩さないこと。弾くときは弾く、休むときは休む! そのリズムが自然体の、100%の自分をいつだって引き出してくれる」


無駄と思った練習はしない、というカールのスタイルには賛否両論があるが———現にルイはよく練習をするタイプだ———ルイはカールのバイオリンが大好きだった。

彼の自由で、そして自分に対する揺るぎない信頼を纏う演奏はいつだってルイの心を励まし、背中を押してくれた。


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