3‐8

(ニコロ・パガニーニ……)


口の中で転がすようにその名を呟く。

聞いたことのない名だ、とルイは思った。

どうやらそれがあの女性の名前らしい。

今回の出来事の重要なキーワードとなることは間違いなさそうだ。


(明日、図書館で調べてみよう)


そう思うと同時に、バッハの言葉を思い出す。

バッハはこのことを誰にも話さないようにと言ったし、自分にも詳しいことを話したくない様子だった。

知らないままのほうがいいのだろうとわかってはいたが、このままでは気になって色々なことが手につきそうにない。


(自分で調べるくらいなら、いいよね……)


自らにそう言い聞かせ、内心でバッハにそっと詫びた。

ふと自分の身体に影がかかっていることに気づいて顔を上げると、チャイコフスキーが自分のことを見下ろしていた。

厳つい顔が、影になることで一層凄みを増している。


「あっ、え、とっ……」


「国王様の挨拶とランゲ・リューリスの講演は中止だ。すまないな、ベートーヴェン」


ほとんど表情を動かさずにそれだけを伝え、チャイコフスキーはのしのしとその場から立ち去っていく。

唖然としてその大きな背中を見つめていたルイははっとして、ありがとうございます! と頭を下げた。

立ち止まったチャイコフスキーは振り向くそぶりをしながら一つ頷いて、再び歩いていった。

決して怖い教師ではないのだが、縦にも横にも大きい身体から発せられる威圧感には、やはり戸惑ってしまう。


「ルイ!」


ぽんっと背後から肩をたたかれ、息をのんで振り返った。


「あ、びっくりさせたか? 悪い……」


決まり悪そうに肩から手を離したのは、カールだった。


「う、ううん、大丈夫……」


瞬間、気まずい空気が流れる。

今朝のことを彼に謝らなければと思うも、うまく言葉が出てこない。

それを振り払うように、カールが口を開いた。


「ランゲ・リューリスの講演、中止だってな」


「あ、うん。さっき僕もチャイコフスキー先生が教えてくださって……。講演の手伝いをする予定だったから」


なんとはなしにルイが言った言葉に、カールはぱっと目を輝かせた。


「まじで!? すげえじゃんルイ! 

ああいうのって科のトップじゃないと任せてもらえないんだぜ!!」


やっぱりルイはさすがだなあ、と自分のことのように喜ぶカール。

照れくさくなり、ルイは顔を赤くしてぽりぽりと頭をかいた。


「ごめんな」


そう、ぽつりとカールが言った。

すぐさま口元を隠し、顔をそむける。

髪の毛からのぞいた耳が、赤く染まっていた。


しばしの間彼を見つめ、ルイはふっと口元を緩めた。

また先に言われちゃったな、と思う。


「僕も、ごめん」


ぱち、と視線がぶつかった。

カールがにやりと笑い、ルイの肩に腕を回す。


「食堂行こうぜ、腹へった」


「うん!」


ふざけあいながら食堂へ向かう二人の背中に、学内の名物猫ノノがちらりと目を遣る。

そして大きく一つあくびをし、賑やかに談笑している生徒たちのもとへ、しっぽを揺らしながらのんびりと歩いて行った。

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