2-10
バッハはゆっくりとルイに歩み寄った。
しかし歩幅の広さ故か、それに必要な歩数はたったの3歩ほどであった。
「厳格さは確かに必要なものだ。しかし、何事も過ぎると毒になる。特に感性の宝庫である若者に対してはな。
仮にも生徒を持つ身であろう、未だにそれがわからないのか?」
「ですがっ……!」
反論しようと口を開くブラームス。
しかし、じっとその金色の瞳に見つめられたブラームスはやがてきゅっと唇を噛み、渋々といった様子ながらも頭を下げた。
「……申し訳ありませんでした。
軽く頷き、優しく笑みを見せるバッハ。
これで一件落着かと思いきや、ルイの横でモーツァルトがわざとらしく吹き出して見せた。
ブラームスが、きっ、と刺すような視線をこちらに向ける。
モーツァルトとブラームスの仲の悪さは、学内でも有名であった。
はらはらしながらその様子を見ていたルイだったが、バッハはそんな2人を気にする様子もなく、ルイの目の前にすっと手を差し出した。
慌てて踵を合わせ、直立の姿勢をとるルイ。
何て大きな身体だろうか、と改めて思う。
教授陣一の巨体と言われているチャイコフスキーにも引けを取らない、否、身長はそれ以上ではないだろうか。
おそらく2メートルは軽く超えている。
ルイも188センチと高身長だが、首を曲げ見上げなければ目を合わせることができなかった。
きれいに撫でつけられた真っ白な髪の毛は滑らかな曲線を描き、絹のように艶めいている。
とても500歳を超えているようには見えない容姿だったが、顔に刻まれた皺の一本一本に人智を超えた歳月の深みと経験を感じさせた。
その威厳と体躯に再び見とれてしまったルイだったが、バッハの背後から睨んでくるブラームスに気づき、慌てて左拳を胸元に当てた。
左腕で敬礼するのが、この国の決まりであった。
「も、申し遅れまして大変失礼いたしました!
ノーツ大学ヴィルトー科、ルードヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンと申します!
専攻はピアノフォルテであります!
この度は御目通りを許していただけまして、恐悦至極に存じましゅ!」
しまった、と顔を伏せるルイ。
肝心の挨拶で、まさか噛んでしまうとは。
顔が恥で紅潮していくのがわかる。
首を振り、呆れたように天を仰ぐブラームスが目に入った。
きっとバッハも同じような表情をしていることだろうなと覚悟しながら、おそるおそるルイは目線を上げた。
しかし、彼の表情はルイの予想を大きく外れていた。
驚愕。
まさにそんな言葉がぴったりの顔だ。
ベートーヴェン、と薄めの唇が動くのが見えた。
自思わず言葉が漏れ出てしまったかのような、そんな動きだった。
「ベートーヴェンは優秀なヴィルトー候補生なんです。腕は確かですし、何より勤勉だ。卒業後は立派なヴィルトーになることでしょう」
ルイの肩に手を置きながら、心なしか誇らし気に話すモーツァルト。
その言葉の始まりと同時に、バッハはすっと顔を穏やかな微笑に戻した。
そこにはもう驚愕の名残すら感じられなかった。
モーツァルトは気がつかなかったのだろうか。
こっそりと彼を横目で窺うも、特に変わった様子は見られない。
なんとなく違和感を感じながらも、おそらく自分の見間違いだったのだろうと、ルイはそれきり忘れることにした。
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