富田咲雨の刹那たる危機

 お金がない。


 富田咲雨が最初にそのことに気がついたのは、仕送りの日まで半分を残したある月曜日のことだった。


 元来、咲雨は細かいことを気にしない性格である。それは長所でもあり欠点でもあり、どちらかと言えば欠点としてカウントしたほうが正確なのだろうが、しかし彼女は頑としてそれを改善しようとはしてこなかった。人間、おおらかな方がなにかと得であると祖母に教えられ、ほとんど唯一の親友もその気質を褒めてくれていたからである。


 が、今回ばかりは彼女もそれを反省せずにはいられなかった。月曜日、コンビニのATM前。彼女は自身の誕生日というおよそ考えられるうちで最悪の暗証番号を入力し、その後に五千円をタッチパネルに要求した。しかし、どうにもいつもと様子が違う。待てど暮らせど入出金口が開くことはなく、代わりとばかりに白い紙とキャッシュカードが吐き出されたのだ。彼女はしばし首を傾げ、手帳を広げ自身の誕生日を確認し、もう一度同じことを繰り返した挙句に、ようやく残金不足という可能性に頭が回る。


 832円。預金照会した先に彼女が見たのは、その三桁だった。コンビニで弁当を買おうものなら二食で底が尽き、そもそもとして当然ながら出金は叶わず、しかもなんの語呂にもならない数字がそこにあった。これを最悪と言わずしてなんと言おうか。代わりの言葉があるとすればそれはひとつ、『自業自得』であり、無論彼女は大いに反省した。考えなしにアマゾンで漫画を買い、高めの学食を注文し、年々高騰するマクドナルドに入店したあの日々を呪い、それでいてなぜだか自身は清貧であると思いあがっていたことを懺悔した。が、反省したところで預金は増えず、覆水は盆に還らない。


 お金がない。その事実の前で、反省などとんと無意味である。次に活かそうにも、それは仕送りまでの二週間を生き延びてこそである。咲雨は、三日もご飯を食べなければ死んでしまう、と自分の限界を勝手に予想し、ひとり部屋の隅でやせ細り、ひっそりと息を引き取る姿を思って泣いた。店長らしきおばちゃんに思い切り同情された。元気を出しなさいと肩を叩かれたが、彼女にいま一番必要なのは元気ではなく、四桁以上の残額だったのは間違いではないだろう。


 咲雨はとぼとぼと帰路につき、念の為にと冷蔵庫を開けた。冷気とともに、しなびたピーマンと老人のようなキュウリが顔を覗かせる。つまり頭に描いていた光景が、そのままそこにあった。次に冷凍庫を開けると、やはり中身のないアイスの箱が陽気に挨拶をしてきた。なぜ自分は空箱を冷やしているのか、そこにどんな意味があるのかを幾度と無く考えたであろう冷蔵庫の気持ちを想い、咲雨は申し訳なくなって彼をひとなでした。ぶぅん、と唸る冷蔵庫は怒っているようでもあり、しかし結局無機的にそこにあるのだった。


 途方に暮れ、もはやなにをする気にもなれない彼女のリュックのなかでスマートフォンが控えめに震える。のろのろとそれを取り出して確認すると、唯一の親友からのメッセージが届いていた。親友は咲雨と同郷であり、同じ高校を卒業し、それと同時にばりばりと働き出した、咲雨の尊敬している人物である。もっとも最近は多忙を極め、なかなか会えていないのが現状ではあったが。


 実家から野菜とカレールーが送られてきたけど、自炊する時間がないから欲しければあげる――そのメッセージは、咲雨の涙を誘った。溢れる涙は滂沱のごとく、その最中で持つべきものはお金ではない、まさに友人であると思った。咲雨はこの救世主に感謝すると、本日の予定を尋ね、珍しく親友が早上がりしていることを知ると、いまから野菜たちを引き取りに行くことを確約した。


 かくして咲雨は前を向き、お気に入りのスニーカーを履きながら二つのことを胸に刻んだ。ひとつ、仕送りは計画的に。ふたつ、いつか必ずバイトをしよう、と。もっとも、咲雨の『いつか必ずリスト』にはすでに無数の文言が書き込まれており、そこに入れられれば最後、消化される予定はまさしく『いつか』ということになるのだが。


 喉元を過ぎれば熱さを瞬時に忘れ、下手をすれば喉元の熱さを気にしないおおざっぱさを持つのが咲雨である。もちろんそのせいでこれまで数多の損をしてきたのは事実である。しかし、その性格は良いものだ、と咲雨の親友はげらげら笑いながら言う。くよくよしないのがアンタらしい、とても良いと褒めてくれる。昔から級友には「変わってるね」と半笑いを浮かべられ、親や教師の注意や小言は絶えることなく、周囲から呆れられていた彼女を肯定してくれたのはおばあちゃんとこの大好きな親友だけである。肯定してくれるから、咲雨は口座に832円しかなくても元気に生きている。


 夕暮れのなか、とびきり美味しいプリンを買っていこう、と彼女は鼻歌を歌いながら思う。駅の途中でセブン-イレブンに寄り、ちょっと高めのものをふたつ買う。喉元はとうに熱さを忘れ、心の余裕は財布の紐を緩ませ、財布にあった500円は94円と姿を変える。それでもいい、と彼女は思った。親友と一緒に美味しいプリンを食べられるんだから、それでいいと思ったのだ。すくなくとも、残金不足で改札から弾かれるまでは。


 二時間後、長距離を歩いてへとへとになった咲雨からぬるくなったプリンを受け取った親友は、げらげらと笑いながら彼女を向かい入れた。咲雨はすごく良いねと親友がニコニコと言うのをむすっとした表情で聞きながら、それでもいいか、とやっぱり咲雨は思うのだった。

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富田咲雨の稀ならぬ日常 秋サメ @akkeypan

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