面影

海野夏

第1話

 ゆらりゆらりとバスに揺られながら、言葉の海に潜る。誰にも邪魔されないこの時間が私は一等好きだ。停留所まではまだ遠い。

 田舎のバスだ。乗り合わせたのは僅かに学生と老人が二人、あとは私と運転手のみである。年々利用者は減っているようで、朝夕の通勤時間ならともかく、今のような昼の時間帯に乗る人はほとんどいない。ただ免許を持たない老人や、運転免許をまだ取っていない身の私のような学生にとっては、一時間に一本あるか無いかのこのバスが街へ出る数少ない交通手段だ。少なくとも私がここに住んでいる間は廃止されないことを願うのは、自分勝手かもしれないが。


 不意に、集中力がプツリと途切れた。

 視線を上げた先、通路を挟んで斜め前の席。私のよく知るあの人が座っていた。今までこの時間帯に見かけたことはなかったが、学校へ行くのだろうか。そうしてバスが走り出して早々、くたりと窓枠にもたれた肩が規則正しく上下するのが見えた。どうやらもう眠ったらしい。

 あの人は私と同じ学校の出で、その頃は気安い友人としてよく話したものだった。しかし、私達は互いに相手の連絡先を知らなかった。当然卒業後、自然と関わりはなくなったが、時折見かけては、私にあの頃を思い出させるのだ。

 私は、あの人が好きだった。

 きっとあの人は知らなかっただろう。いや、知られないように私がしていた。

 私は嘘をつくのが下手だと、よく人に言われる。だが、それは私に隠すつもりがないからだ。知られたなら、それはそれで良し、という気持ちで放った嘘だ。本当に隠すつもりでついた嘘に関しては、今まで人に暴かれたことはない。当然、私があの人を思っていたことも、私は何重にも鍵をかけて隠し通した。あの人は知るはずもない。

 あの人が知れば驚くだろう。私は異性には興味ない風で、それでいて気安い友人となって、あの人の日常に溶け込んでいたのだから。厚い面の皮の下に下心を隠して行動は起こさず、あわよくば自分を見てはくれないかとただずっと側にいるだけの臆病者。そんな私を知ったら、あの人はどう思うだろうか。


 いつの間にか、本を読む気もなくなっていた。鞄の中に本を仕舞い、眠るあの人の背を離れた席で見つめる。どこまで行くのだろうか。私と同じところで降りるだろうか。

 私の恋は卒業を期に終わったかのように思われた。私達はお互いの住んでいる所も、連絡先も知らなかったから、以来意図的に会うことはなかったから。しかし同じ田舎の町に住んでいると、偶然見かけることはある。私はそんな時も見つめるばかりで、声はかけられないのだ。私がこうして見かけるように、あの人も私を見かけることはあるだろう。だが、人懐こいあの人が私に声をかけてきたことはない。つまりはそういうことだ。私はあの人にとっては、ただ、友人だった人なのだろう。

 そうこうするうちに停留所が近づく。もうすぐ私は降りる。あの人は眠っている。

 何度も忘れようとした。終わった恋だと。思い出の中の仲の良い友人だと。他の人を好きになろうとしたこともある。実際に少し気になっていた人もいた。しかし、時折見かけるあの人が、死に際の恋心を蘇らせるのだ。脳裏に焼き付いて離れない面影が、新たに芽生えようとする恋心を摘んでしまう。あの人は私を何とも思っていないのに、私はあの頃のままだ。

 バスは私だけ降ろすと走り出した。

 降り際、座席の側を通った時もあの人は眠ったままだった。穏やかな寝顔で気持ち良さそうに寝息を立てていた。それがどうにも憎らしくて、この先のどこで降りるかは分からないが、乗り過ごしてしまえば良いのに、と思ってしまった。どうしてくれるのだ。今もまた、新たな芽が生えようとしていたところだったのに。

 あの面影。穏やかな寝顔。

 またしばらく脳裏に焼き付いて離れない。

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