『わたし』、或いは……。

 ……とまあ、こんなところか。思わず夢中になって最後まで一気に書き切ってしまった。スマホの時計を確認すると、もう午前五時を半分以上越えている。この家に着いたのが大体日が変わる前の十一時ぐらいだったから、およそ五時間以上執筆に没頭したことになる。一般的な執筆速度がどれくらいなのかは知らないが、普段ろくに読書も書き物もしないわたしが一気にこれほどの分量を書くことができたのは、正直神がかり的だ。

 なぜ自分のツレを殺した人間の自伝なんて代物を書こうとしたのか? 今こうしてその男の書斎らしき小部屋で落ち着いて考えてみてもはっきりしない。不可視の大いなる意志に導かれたとでも言っておこうか。

 あのとき、とっさに死体の喉から引き抜いたナイフで向かってくる男を刺殺したわたしは、近くに捨てられていた彼の鞄を見つけ、中に入っていた免許の住所へと向かった。上着のポケットからは自宅のものらしき鍵も見つかった。

 殺人鬼になんてなるような男は、きっと孤独な暮らしをしているに違いないと決めつけ、ならば必然的に空になっているであろう男の家に忍び込み墓場荒らしまがいでもしてやろうと考えたのだ。いざ向かってみると案外立派な一軒家であることに多少面喰らったが。

 大方家中を物色し終わったわたしは気まぐれでここに入り、そして棚から男の日記と書きかけの小説らしき原稿を発見した。

 好奇心に負け、読み更けてしまった男の小説は、なんと自らの犯罪を客観的に描写したという世にも珍しい代物だった。すると、日記にはこれの元となる実際の事件の様相が克明に記述されているのではないか。わたしはそう考え、魅入られたように日記にも手を伸ばした。本当ならばとっとと盗むだけ盗んで退散すべきところだったのに。

 男は非常にまめな性格をしていたのか十数年もの間、毎日日記をつけ続けており、小さな本棚のおおよそ半分をそのバックナンバーが占めていた。殺人鬼が考えていることに興味を惹(ひ)かれたわたしは、第一の事件が起こる日付の三か月前ぐらいからざっと目を通すことにした。

 前半は至って普通の日記だった。ただ、その中に混ざっていた、いじめられていた娘への言及には非常に切迫したものを感じた。娘を愛する父親としては当然の反応だろう。

 そしていじめから逃れるために引っ越して遠く離れた学校に転校した。これも至って普通だ。子供がいないわたしにも十分理解できる。

 狂気の入り口は家族が男のもとを去った日に姿を現したようだった。

 なにがどう狂気か。端的に言えば、男の時間が止まったのだ。

 これだけでは比喩的すぎて意味不明だろう。

 その日以降、書かれる内容が「今日」ではなくもっぱら「過去」のことばかりに変わったのである。

 娘がいじめられている。不良グループに酷(ひど)いことをされている。学校に相談したが効果的な対策はとってくれない。やむを得ず引っ越すことにした。家族と反りが合わなくなった。ついに愛想を尽かされ逃げられてしまった――など。

 そして今に至るまで半年近く書かれ続けてきた同じ内容の日記は、日付が進むにつれ男が無意識に造り出したのであろう架空の記憶と狂った思考によって少しずつ、自らに都合のよいものへと歪められていった。わたしの小説で触れた男の内面や境遇の描写は、あえてその改変後のものに即して書いてみた。そうすることであの殺人鬼の本質に近づけると考えたためである。

 よってあの小説も、その大部分が嘘っぱち、フィクションというわけなのだ。

 正常だった頃の日記を基に推定される事実はこうだ。

 まず、そもそも娘は死んでいない。いじめられていたというのは恐らく本当だが、それによって死に至らしめられたという事実は間違いなく存在しない。自殺していたとすると、以前の日記が矛盾だらけになってしまう。実際は、少し離れた学校に転校し、いじめ問題はそこで解決していたのである。

 そもそも転校先にいじめっ子の知り合いが通っていたとしても、そいつからすれば転校生と他校の友人に怪しい関係があるなんてわかるはずもない。教師もいじめられての転校という事情を知りながら元在籍していた高校を漏らすなんてことも有り得ない。

 娘――楓花へのいじめの根はそこで断ち切れたのだ。

 すると勿論、家族(母と娘)に逃げられた理由も小説内のものとは違う。あれもまた、男によって改変された後半の日記を元にした記述である。

 では、本当の理由はどういったものなのか。残念ながら具体的にそれを指し示す記述は見当たらなかった。恐らく男が一方的に悪かったのだろう。だから日記に書けない、書きたくなかったということだと思われる。

 ただ唯一家族が出て行った日の日記に、原因をほのめかす記述があったのでそれをそのまま引用してみることにする。

 

『 2月22日


 妻と娘が家を出て行った。俺にはもう付いていけなくなったらしい。

 意味が解らない。俺は浮気などしていないし、仕事にもちゃんと行き、食い扶持はしっかりと稼いでいる。妄想じゃなくて現実を見て、なんてことは以前から言われていたが、妄想することの何が悪い。別に現実を軽視してるわけじゃないし、妄想(と言われてはいるが俺は想像力を働かせているだけだ)で周りを傷つけてるわけでもない。

 全く意味が解らない。心の中で何を考えていようが無実だろう。憲法にだって、内心の自由を保障するって書かれていたはずだ。

 と、書いてみてもあの二人が去ったの事実は消えやしない。

 絶望だ。俺は一体、これからどうしていけばいいのだろうか……』


 少しだけでも自分自身を省みている記述があるのはこの日だけだ。以降は自己弁護と責任転嫁のオンパレード。くだらない、最も低俗な部類の狂人だ。

 それにしても、妄想癖があった男……。妄想癖が離婚に繋がるとは、いったいこの男は何をしでかしたのだろうか。確かに男の小説には他にも妄想じみた記述は多くあった。初めての殺人の際、少年グループの一人に対して勝手に感情移入し、殺されることを肯定するなどというあり得ない行為を小説上とはいえ被害者に押し付け、自らの正当性を暗に主張した。また、超人じみた殺人描写も誇張だろう。日記を読む限りでは男に大した運動神経はない。わたしの小説での表現も男の描写に準拠しているが、今夜三人の男を殺した際も実際は無茶苦茶に振り回したナイフで力任せに滅多刺しにしまくっただけだった。これでよく今まで捕まらなかったものだと感心する。

 酔っている。絶望の淵に立たされながらも、男は自らの殺戮に酔っている。歪んだ記述を繰り返すことで酔いに酔っている。どこどこまでも深みに落ち込んでいく、重度の妄想記述依存症患者というわけだ。

 哀れな男だ。同情する気は毛頭ないが。

 そして、わたしは男に倣い自己愛(わたしからすれば他己愛のほうが正確か?)に満ちた文体で小説を完成させた。多少脚色はしているが、嘘は書いていない。先ほど男の日記はもっぱら過去を繰り返すようになったと述べたが、唯一自らの『人』としての殺人自慢のみはリアルタイムで詳細に綴られていた。それらの情報と正常だったことの日々の雑記から抜粋し、不完全な部分を適当に補完することでわたしは『人』の小説を完成させた。

 一人称にすることで男の狂気を浮き彫りにし、愚かな自滅までを簡潔に描くことができたのではないかとわたしは勝手に自負している。そして男自身が書いた前半部分に倣い、先ほども述べたが男の歪んだ認知に従った描写を行った。

 これから、具体的にわたしの小説の描写を一つ一つ抜粋し、事実と虚偽の区別をつけていくことにする。

 男が小説を書き終わってから一階のリビングに降り、家族の写真をみつめて回想に浸ったのは当然だがフィクションだ。殺人鬼と化した動機を示すため強引に挿入した記述である。

 だがそれから男が選んだ(結果的に)最期の狩り場の位置は真実である。あの場所に、わたしと少年たちはいた。

 わたしがあのとき殺された少年たちとしていたのも事実だ。流石にありのままを書くほど恥知らずではないので、あんなぼやかしたような記述にはなったが。

 男はわたしを殺すのを途中でやめたのもその通りである。「俺に殺されるか」という最悪に気持ちの悪い言葉を発したのも。わたしとの対峙の部分に限ってはほぼ正確な男の行動を記述している。勿論わたしは男を抱きしめようとはしていない。ただ、悲しげな顔をしながら無防備に近寄ってくる男を、拾ったナイフで突き殺しただけだ。

 情欲の衝動に駆られたのか、わたしの記述が正しいのか。真実は男にしかわからない。

 あの行為が男の欲情を喚起した可能性は十分にある。そのおかげでわたしが助かったのだという可能性も。……くだらない。もしもそんな理由で生き残ったのだとすれば、いっそ殺された方がよかったかもしれない。

 小説内で男がわたしについて行った推論。あれも男の歪んだ思考と最期の沈鬱な表情からそれっぽい感じに造り上げたものである。だが意外や意外。もしかしたら意外とあれだけはわたしの深層心理を突いているのかも、と書いてみてから驚いた。

 濃い化粧は真実の自分を覆い隠している――自分では顔に自信がないから塗りたくっているつもりだったけれど、そう言われてみると確かに否定しきれない部分はある。

 つまらない日々を過ごしてきた。ありきたりの日常という名のレールをだらだらと走っているだけであった。

 誰かから押しつけられたレールならまだいい。だがわたしの場合は、自分で自分に無意識に押しつけてきたレールだったからたちが悪い。かといって、逃れる方法も分からなかった。

 わたしはいつも刺激を求めていた。外部からの圧力を受け、変革したかったのだ。だから今夜のように外ですることすらあった。むろん小説に記述したように無理矢理されていたわけではない。あくまでわたしの意志だ。そこに愛は介在していないとはいえ。

 

 だが。

 小説の描写についてはこれで終わりだ。私は立ち上がった。

 これからは退屈に困ることはなさそうだ。最高の刺激を見つけたのである。これでやっと、レールから外れることができる。今までにない解放感。あの男は殺戮と自らの死をもってわたしに千載一遇のチャンスを与えてくれたのかも知れないとさえ思える。勝手に行動をねつ造したことに対しては、多少の罪悪感がないでもないが。

 小説は机の上に放置しておくことにした。じきに警察がここ……『人』の家を割り出し、これらの文章群を否が応でも読むことになるだろう。そうなると、もしかしたらマスコミの手に渡り大々的な報道がなされるかもしれない。

 なにせ、そこに書かれているのは十人もの人間を殺した殺人鬼による日記と、あえて自らの殺戮を客観して記述した小説だ。犯人の異常心理を示す格好の材料としてお茶の間に話題を提供することになるだろう。知ったような面をしたコメンテーターが知ったようなコメントをするに違いない。

 だが、その小説には一つの大きな謎が存在する。犯人自身が返り討ちになったことさえも克明に書かれているという謎が。死んだ人間に小説は書けない。たしかに筆跡が変わっている。ならば途中から書き継いだ人間の正体は? 犯人が殺された状況を知る者は数少ない。そして、小説内で犯人が自分の娘と同一視した少女が見つかっていない。ということは……。警察は必死で少女を捜索することになる。

 と、ここまではわたしの推測だ。たぶん大きく外れることはないだろう。

 そして、これは万が一の話だ。万が一、数日後再び『人』によると見られる通り魔殺人が発生したらどうなるか。

 ただの模倣犯でないことはすぐにわかる。その『人』はまったく同じ仮面を被り、同じナイフを殺人に用いているのだ。そして、同じ台詞――『俺に殺されるか』――を使う……。

 声や体型からして第二の『人』は女だ。つまり小説内の少女がどういうわけか自分の身内を殺した『人』を継いでいるという可能性が高い。どうしてこんなことを? あ、いやいや。根拠は犯人が書いた小説にしかない。つまりすべて妄想の可能性もある。ならば、第一の『人』はどうして殺された? 結局誰がこれを書いた?

 捜査陣は錯乱に襲われることになるだろう。なにが真実で、なにが嘘なのか。現実と虚構の区別がつかなくなるに違いない。面白い。こんなトリック、あの男とわたしにしか作れまい。

 そしてわたしは天涯孤独かつ根無し草の身だ。S街にわたしが滞在していたとは誰も知らないし、少年どもには偽名を使って近づいていた。わたしの情報が漏れる危険性はない。

 もう、濃い化粧をすることはないだろう。証言による似顔絵も役に立つまい。 ……さて。

 わたしは、ナイフとともに男が着けていた暗黒の仮面を持ち、書斎を出た。

 とっくに金目の物への興味は失せていた。そんなことより、『人』はわたしに素晴らしい機会を与えてくれた。くだらないことをして足がつくような真似はしたくない。

 ナイフは三本とも現場から拝借してきた。第一、第二の『人』の関連性を示すには欠かせないアイテムである。

 

 主を失い、薄暗い光景で閉じている家から出ると、既に世界はすっかりと朝を迎えていた。夜中は気付かなかったが、空は分厚い雲に覆われ尽くしている。それでも、その奥に朝が息を潜めていることだけはなぜか直感できた。

 そのときだった。わたしが外に出るのを待っていたかのように、あのナイフで刺すような光が、雲のわずかな切れ目からわたしの眼に飛び込んできた。視界が黄金色に包まれる。

 と。どうしてだろうか、わたしの脳裏を「世界の終局」という言葉がよぎった。終局? あの光が? 単なる予感とは思えぬ現実味の強さに、思わず全身をぶるりと震わせる。

 そんなことがあるはずはない。ここは、紛れもない現実だ。誰の手にもない、誰に書かれたものでもない、最も外側の世界だ。単なる太陽の光で終わるなんて有り得ない。

 わたしは首を振り、まさに水を差すような厭な考えを追い出した。そして、この先必ず待っているであろう面白い未来を無理矢理思い描きながら、往来へと足を一歩踏み込んだのである。


※※※

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殺人者は記述する 瀬田桂 @setaK

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