殻の色

舘野かなえ

殻の色

 真夏がじりじりと近いてきて、鬱陶しいぐらいの暑さが肌に絡みつくようになった。シャツが張り付くのがどうにも不快で、下敷きで首元を扇ぐ。初夏、なんて言葉は甘すぎる。

 文化祭を一週間後に控え、放課後は学校全体が慌ただしくなる。その中でも、私たちのクラス1‐Dは群を抜いて騒がしかった。というのも、他のクラスに比べて私のクラスは圧倒的に作業が遅れているからだ。その為、みんな焦燥感の中急いで作業を進めている。

そもそもの原因は、企画を担当すると言った子――久川町子が一か月ほど学校を休んでいたことにある。休む前に一言、LINEのクラスのグループで

「少し学校を休みます。企画内容はもう大体組んであるので、すみませんがもうしばらく待ってもらえないですか」

 と言い残していったものだから、みんなてっきり長くても一週間程度の休みだと思っていたら、気が付けば三週間が経っていた。

流石にこれ以上待っていたら準備が間に合わなくなるということで、別の人が新たに企画を立ち上げ、準備に取り掛かったのが一週間ちょっと前の事だ。

町子が考えてあるという企画を受け取り、後はこちらでやろうという話もあがったが、企画者がいない状態で進めても上手くいかないだろうということで、そういった運びとなった。

 町子の身を心配する声より、意外にというかやっぱりというか、町子を批判する声の方が大きかった。休んでみんなに迷惑をかけるくらいなら初めからやるな、とか。そんな感じに。

元々体の丈夫な子ではなかったし、みんなの言っていることは間違ってないと思う。町子がみんなに迷惑をかけたっていうのは、紛れもないただの事実だ。でも、三日前に戻ってきた町子はよく働いてくれている。みんながどう思っているのかは知らないけど、私にはもう彼女を責める気持ちはどこにもなかった。同時に、彼女への批判を止める気概も持っていなかったけど。

誰かが表立って責めるわけでもなく。ただ、教室の空気が町子の喉元を締め上げている。それでも彼女は、ただ黙々と作業を続ける。その華奢な背中を、私はじっと見つめた。青ざめた白い肌、どこか虚ろな眼、藍色にうつろう眼鏡。どこか儚さを感じさせる彼女の姿は、背徳的な美を漂わせていた。

 突然、町子が目を見開き口を押さえた。立ち上がり、おぼつかない足取りで教室の出口の方まで歩いて行ったが、どうやらそこで限界が来たようだった。彼女の口にこみ上げて来ていたものが外界へと解放され、廊下に移住を遂げ小規模な集落を成した。この三日間で、四度目だ。

兎角厄介なことには関わらず、楽に生きていたいという信条を持つ私だけれど、人並みの良心は持っている。よくも悪くも、私は普通だから。椅子から立ち上がり、彼女の方へと向かって歩く。道中で、教室の隅にかけてあった雑巾を手に取った。

「ここ、私が片付けとくから保健室行きなよ」

 私がそう言うと、彼女の瞳に涙が一粒浮かび、唇を噛みしめた。一瞬だけ口を開き、嗚咽交じりに小声で何かを呟いた。そして、私に小さく会釈した後、保健室の方へこれまたおぼつかない足取りで歩いて行った。私の聞き間違えでなければ、彼女は今、「弱い」と言ったように聞こえた。それは、彼女自身のことだろうか。あるいは、彼女を責めるクラスのみんな?それとも、私?

 もやもやした気持ちのまま、私は彼女の吐瀉物を片付け、廊下を綺麗にした。他の人たちがたまに視線を向けてくるのが、普通の私にとってはひどく恥ずかしかった。頼むから、こっちを見ないでくれ。

 町子は、大丈夫だろうか。保健室に様子を見に行くのもありかもしれない。本当のところ、文化祭の準備とみんなの視線から逃げたかっただけだけど。



 町子は、窓際のベッドで横たわるでもなく座ったまま、窓の外を浅葱色の眼鏡を通して見つめていた。足を宙にふらつかせて、親指を人差し指に絡ませている。ローファーを脱いでスリッパに履き替え、私はベッドへと足を向けた。

「どう、落ち着いた?」

 肩をピクリと反応させた町子が、こちらに顔を向ける。眼鏡が少しズレ落ちているのが気になった。

「あっ、ごめんなさい。すぐ、作業に戻るから」

「いいよ、もう少し休んでて。それに、あなたが戻ったら私のサボる理由がなくなっちゃうし」

 まだ町子が教室を出てから一〇分と経っていない。なのに、もう戻ろうとしていたことの方が驚きだ。自分の体の弱さとか、考えていないのだろうか。

「でもわたし、ただでさえみんなに迷惑かけちゃったから、少しでも手伝わないと」

 その結果何度も嘔吐を繰り返されることの方が迷惑、なんてことは思わないけど。嘔吐に関しては、体の弱さだけを起因とするものではないだろうし。けれど、気を張りすぎなんじゃないの、という感想を抱いた。

「病気だったんなら、仕方ないでしょ。そんなに思いつめることないと思うけど」

「みんなには、そんなこと関係無いよ。わたしがちゃんと企画を持ってきてたら、もう準備は終わっていたかもしれないのに」

 その「みんな」には私も含まれているのだろうか、なんて。羽虫の様な疑問を抱いた。ああ、そういえば

「さっき呟いてた、弱い、って誰に向けて言ったの?」

 カラリ、と。町子はその眼鏡を瑠璃色に染めて首を傾げた。そんなこと、聞かなくても分かるだろうと言わんばかりに。

「もちろん、わたしにだけど」

「体のこと?」

「それだけじゃなくて、心も」

 企画は三週間以上前に出来ていたの、と彼女は続ける。

「早く誰かに預けてしまえばよかったのにね。自分の考えたものが自分の手を離れるのが嫌で出し渋っていたら、いつの間にか取り返しがつかなくなってた」

 気持ちは分からなくもないけれど。自分が作ったものを自分で動かしたいと思うのは、誰だって一緒だろう。

「だから、みんながわたしを責めるのも仕方ないことだと思う。わたしはそれを受け入れなきゃいけないし、同時に自分の落ち度を少しでも取り戻さなきゃ」

 呆れた。最近よく戻しているのは、周囲の目がストレスになっているものだとばかり思っていたけれど。彼女の首を絞めていたのは、クラスの空気以前に彼女自身の手だったのだから。飼いならせない動物をペットとは言えないように、自身を傷つける善性は、ただの括り縄だ。

「辛くないの?」

「……、それも、みんなにとっては関係ないから」

 表情は特に変えないまま、心の中でため息をついた。私は、体が弱いことや、クラスでの立場がないことなんかを、本当の弱さだとは思っていない。けれど、自分自身を守ることすら出来ないのなら、確かに町子は弱いのだろう。人間として必要な自己防衛本能すら失ってしまえば、救えない。掬えない。

「そうかもね。まあ、時間が経てばみんな気にしなくなるよ。そう思いつめないで」

 なんて、カラの言葉を吐いてみたりする。時間を置くことが彼女にとっては得策でないことや、放っておけばどうなるかある程度読めていたとしても。私は〈普通〉しか零さない。

「そうだと、いいけどね。でも、それはそれとしてそろそろ戻るよ。大分気分も落ち着いてきたから」

 彼女が地面に足をつけると、ひどく乾いた風が窓から入ってきた。赤色の眼鏡だけが色を持つ彼女の髪を、揺らぎの実が撫でていく。彼女自身も、きっとわかっている。いくら崇高な善を敷いても、私たちは所詮どこまでいっても〈普通〉の傀儡なのだ、と。

私は、特に何もしない。彼女がその後追い詰められ自ら命を絶とうが、一番彼女を批判していたやつがごめんなさいと繰り返しながら咽び泣いていようが。私は、私の善性を飼いならすだけなのだから。

 保健室から出て、教室に戻る廊下の途中。またいっそう暑さが増したと感じた。汗を拭くのも億劫で、洗面所に顔を洗いに行く。水を出そうと思ったと同時に、眼鏡をかけていたことを思い出す。ふと顔を上げて鏡を見ると、色をもたない凡庸な眼鏡がわたしの目を囲っていた。

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