佐嶋凌

第1話 「魏徴」

「こんな話を知っているかい?」

「ん?」


いつも通りのある日のこと。

斜陽が棚引く夕暮れの部室で、八雲はそう口火を切った。

紅がかった本のページから顔を上げて、横を向いて椅子に座る八雲を見る。

八雲は厳しい西日を背中に受けて、本に目を落としたままだった。


「昔、中国に唐という国があった。その二代目の皇帝はとても良い王様で、部下の言うことによく耳を貸す仁君だったそうだ」

「ふぅん」


大して大事な話でもないのかなと思い、僕は本を読み直そうとあごを下げる。

その拍子に、前髪の先から汗が滴った。

汗は玉となって本のページに吸い込まれ、小さなシミを作る。

僕はワイシャツの袖で汗をぬぐい、どこまで読んだかなと文章を追い始めた。

下を向く僕の耳に、八雲の流暢な語りが届く。


「その皇帝の部下の一人に、魏徴と言う者が居た。とても頭の良い人で、かつ勇気のある人だった。彼は自分の首がかかっているというのに、皇帝に何度も諫言を繰り返した。実際、彼の奥さんと一緒に毒を飲めと言われたこともあったそうだよ」

「そうなんだ。それはひどい話だね」


そう返事をしながらも、僕の関心は読んでいる本の内容に向いていた。

この本は、ハズレだ。表紙で期待したのが間違いだった。

主人公がちょっとしたことですぐにへこんで、その度に引きこもるからちっとも話が進みやしない。

シミを作ったって気にならない程度には、僕はこの本を酷評できる。


「しかし皇帝は魏徴を重用し続けた。何度も何度も彼に死を賜りそうになりながらね。魏徴も決して自分を曲げなかった。二言目には『殺すと言うなら殺しなさい』と口にしながら、皇帝を諌め続けた」

「へぇ、かっこいいじゃん」


僕がまともに聞いていないことを知ってか知らずか、八雲の声に淀みはない。

彼女も、ただ言いたいだけなのかもしれない。

それにしても暑い。体が内側から燃えているような気がする。

この長い黒のズボンは、これで日光を集めてくれと言わんばかりじゃないか。

夏休みなんだから、制服なんて着なくてもいいんじゃないか?


「その魏徴が亡くなった時、皇帝はこう言ったそうだよ。『銅を用いて鏡とすれば、衣服の乱れを正すことが出来る。過去を用いて鏡とすれば、国の興亡の理由が分かる。人を用いて鏡とすれば、自分の行いの正否を見ることが出来る。魏徴が死んで、私は一枚の鏡を失った』とね」

「……なるほど?」


話がよく分からなくなって、もう一度顔を上げると、八雲の鋭い視線が僕を捉える。

一瞬暑さを忘れて呼吸が止まる。

八雲は、いつのまにか椅子の背中に右腕を置いて、そこにあごを乗せてじっとこちらを見ていた。

いったいいつから見ていたんだろう……心臓に悪い。


「聞いていなかっただろう?」


八雲はまっすぐ僕の目を見て、問い詰めてきた。

メガネの奥の切れ長の瞳が、僕を責め立てる。


「……聞いてはいたよ。ちょっと頭が追いつかなかっただけで」


呼吸が出来るようになった僕は、視線を少し逸らして、八雲のセーラー服の襟の辺りを見やる。

紺地の生地に、二本の白いラインが入っているその襟は、八雲の頭が影になって、少し暗く見えた。

視界の下の方で、ぶらさげたような八雲の左手にある、開かれたままの本が目に入る。


「三村。君は分かりやすいね」


八雲はそう言うと、体を起こし、本に栞を挟んで机に置く。

それからすっと立ち上がると、僕の額を人差し指でこつんと小突いた。


「嘘をつく時、目を逸らす」


そうして意地悪げな笑みを浮かべた。


「……別に、嘘ってわけじゃ」


僕はまた八雲の顔から目を逸らしてしまう。

聞いていたというのは、半分本当で、半分嘘だ。

耳に入れてはいたが、ちゃんと聞いてはいなかった。

くすりと八雲が笑う声がした。


「じゃあ、私が何を言いたいか分かるかい?」


ふわっと空気が動いて、甘いような、酸っぱいような、もぎ取ったばかりの果実のような香りが流れた。

八雲の行動を目で追うと、八雲はちょうど窓際の机に腰掛けるところだった。

膝まであるスカートの奥が、暗がりとなって視線を誘う。

女の子というのは、ずるいと思う。


「……言いたいこと?」


僕はもう一度目を逸らして、それから目線が下に行かないよう気をつけながら、八雲の方を見た。

八雲は窓のサッシに背中を預けて、窓の外を見ているようだった。

西日を受けた八雲の横顔は、朱に染まっている。

色が白いから、普段とはまるで違って見えた。


「分からないようだから、もう少し説明してあげよう」


そのまま外を見ながら、八雲はそう前置きした。


「人は、人を鏡として生きるのさ。よく言うだろう? 『人の振り見て我が振り直せ』って。他人のしていることは、全て自分がしてもおかしくないことなのさ。同じ人間なのだからね」


一息にそう言って、すっと左手を上げた。人差し指がぴんと伸びている。

その指先は、校庭を指しているようだった。


「たとえば、あそこにサッカーをしている男子がいる。彼らは普段私とは何の関わりもない人たちだ。しかし彼らが、例えばコンビニの前に胡坐を掻いて座るような人だったとして……私はそれを笑うだけじゃいけないということさ」

「……なるほど?」


僕は本を閉じて机に置いた。

言いたいことは分かるが、それはちょっとさっきのとは話が違うんじゃないかと思う。


「三村は、私がここに胡坐を掻いて座ったらどう思う?」


そう口にしながら、八雲はこちらを向いて、実際に机の上であぐらをかいて見せた。

スカートの奥に光が射しそうになって、しかしそれはほんの一瞬で、八雲の白い足が前面を覆う。

僕は自然と吸い寄せられた視線を恥じて目を伏せながら、


「はしたないなと思うよ。あと、パンツ見えそう、とも」


八雲を責めるようにそう忠告した。

八雲はくすくすと笑って、足を戻すこともせず、


「そうかい。それは失礼した」


まるで謝る気のない口振りで、謝罪の言葉を告げる。

からかわれている。僕は八雲から顔を背けた。


「それに、八雲はあぐらかいたりしないだろ」


顔はそのままで、横目で八雲を見やりながら、僕は言葉を続けた。


「そうだね。普段はそうだ」


八雲は足を崩した。その時に、また奥が見えそうになる。

今度はなんとか視線を送らずに済んだ。


「でも、私もそういつも、普段通りではいられない。あまりいい例えではないが、例えば妹が交通事故にでも遭えば、さすがの私も平静ではいられないだろうね」


八雲は再度、窓の外を見た。

机から投げ出された足が、力の抜けただらんとした体が、なんとなく、弱々しげな印象を与えてくる。

そうすると、表情まで気弱に見えてくる。

八雲に限ってそれはない、と一つ頭を振るった。


「ひょっとしたらパニックになるかもしれない。そんな時、三村は私を叱ってくれるだろうか?」


窓の外に目を向けたまま、八雲は僕に質問を投げかける。

弱々しげな印象は捨てきれない。しかし、八雲は強い女性だ。これまで一度も、動揺したところすら見たことが無い。

まだからかわれているのだろう。僕は肩をすくめた。


「八雲がパニックなんて、想像できないな」

「……そうか」


すっと、流れるような動作で、八雲は僕を見据える。

その目は、なんだか責めるような鋭さを持っていた。


「私は寂しい人間かな?」


その瞳のまま、八雲の口が詰問に動く。

暑いからではない汗が、首筋を伝うのが分かった。

僕は、怒られていると感じながら、どうして彼女が怒っているのか分からずにいた。

直線的に向けられる刃のようなその瞳を、受け止めきれずに視線が泳ぐ。


「……僕はそういう風に思ったことはないよ」


どう答えるのが正解か迷いながら、否定しておく。

肯定するべき質問の内容ではなかったはずだ。

八雲はさらに目じりを吊り上げると、


「そうかい」


ふいと顔を逸らした。

それきり黙ってしまう。


「…………」


沈黙が流れる。

じっとりとした暑い夏の風が、夕暮れの部室に吹き込んできた。

校庭から、楽しげに騒ぐ学生の声が、その言葉の意味を失って届く。

八雲は目を細めてその声の源を眺めていた。

僕は首筋を伝う冷たい汗を、ワイシャツのそでで乱暴に拭った。

なんだか分からないが、八雲を怒らせてしまったらしい。

それだけは分かった。


「……何を怒ってるんだ?」


しばらく考えても理由が分からず、結局僕はそう質問することしかできなかった。

八雲は校庭から視線を外さずに答える。


「別に、怒ってなどいないさ……怒るとしたら、自分にだよ」

「……?」


余計に意味が分からない。

自分に怒っているのに、僕を責めるのか?

それとも、僕を責めていると思ったのが勘違いだったのだろうか?

八雲は分からないところの多い人種だが、今日は飛びぬけて僕の理解の範疇を超えていた。


「なんだか分からないけど、僕は八雲のことが好きだよ」


分からない時は、自分の気持ちをぶつけるに限る。

八雲と二年一緒にいて学んだことだった。

そして二年間、棒に振られ続けている気持ちだった。


「……それはもう、聞き飽きたよ」


八雲は礼儀的に僕と視線を合わせて、悲しげに笑う。

僕は負けじと強気に笑う。


「僕は何度だって、言い飽きないんだけどね」


肩をすくめて、


「残念ながら、手ごたえが無いもので」


“おてあげ”のポーズをとってみせた。

八雲はくすりと笑ってから、


「私は、子供は相手にしない主義だからね」


窓から離れて、自分の低位置に戻った。

そして本を開いて、読み始める。

話はおしまいということだろうか。


「自分だって子供じゃないか」


子供扱いされたことも、話は終わりだと言いたげな態度も気に入らず、僕は八雲を攻撃する。

詰問するような語調になってしまった。

詰問しているのかもしれない。


「私が子供なのは否定しないよ。今しがたそれを恥じていたところだからね」


八雲は汗一つかいていなかった。本から顔もあげない。

本を追う目の動きに合わせて、少しだけ首が動く。

柔らかそうな髪の毛が、重力に合わせてさらりと流れた。


「しかし、私が子供だと言うのと、君が子供だと言うのは、別問題なのさ」

「……何が別だって言うんだ?」


意味が分からず質問する。

今日はこんなことばかりしている。

八雲は一つため息をついて、本を閉じた。

そしてこちらに向き直り、まっすぐに僕の目を見る。


「二年もあったら、素直に諦めて他の人に目を向けるのが、大人というものじゃないか?」


その切れ長な瞳は、やっぱり僕を責めているように思えた。


「だからいつも言ってるじゃないか。他に彼氏でも出来れば諦めるってさ。でも八雲はずっと作らないだろう?」


僕はそれを真っ向から受け止める。

確認の意味を持った問いかけを、八雲が否定しないのを確認してから、


「それなら、僕の可能性は消えてない。諦めるにはまだ早いよ」


何度となく口にした文句を、また口にする。

八雲のまっすぐな瞳を受け止めながら、その瞳の奥をのぞきこむようにしながら。


「……だから子供だというんだよ」


八雲は目を伏せた。

そして僕から目を背けて、本を開く。

八雲の長いまつげが目を惹く。


「八雲の言うことは、分からないよ」


言葉を投げかければ、この横顔はこちらを向いてくれる。

僕はそれを知っていた。

八雲はさきほどより大きくため息をついて、今度は本を閉じずに、顔だけをこちらに向けた。


「三村は馬鹿だと言うことさ」


それだけ言うと、すぐにまた視線を落としてしまう。


「馬鹿は嫌いか?」


僕はもう一度こっちを向いて欲しくて、言葉を投げかけた。

しかし八雲は、もうこっちを見てくれなかった。


「困ったことに、嫌いじゃないんだ」


ともすれば聞きこぼしてしまいそうな呟きをして、八雲は自嘲気味に笑った。

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佐嶋凌 @sashima_ryo

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