第22話:語り手
立脚点がカメラで、注視点が映像。
ならば、語り手はナレーター、またはラジオの司会とかでしようか。
カメラで撮影した映像を見ながら、語り手はその様子を読者に語ります。
一人称なら話は簡単で、これは地の文のキャラクターになります(ただし、たまに一人称で語り手がぶれることがあります。たとえば、一人称のキャラクター設定から、そのキャラクターが使わないような言い回しを使った場合などですね)。
問題はやはり三人称でしょう。
たとえば、作者が語り手を務めるかもしれません。
はたまた、作者というキャラクターは出さず、しかしすべてを把握している存在――神のような位置に立って語るかもしれません。
キャラクターに寄り添うように、キャラクターと共感しながら語るかもしれません。
さらにいえば、カメラそのものと一体化して映像を文字化するだけかもしれません。
どのように語ろうと自由ですが、この語り手の立場も書く前に明確にしておいた方がいいでしょう。
なぜなら、例えばカメラそのものとして無感情に語った場合と、作者として語った場合では表現も内容も異なることがあるからです。
これがころころ変わると、これまた視点ぶれと同じことになります。
ですから、三人称の時は、語り部の立ち位置というものを考えておくべきです。
もちろん、読者に違和感さえ与えなければ、複合的に行うことも可能です。
キャラクターに寄り添ったり、離れたりをうまくつかう方法もあると思います。
なお、語り手の要素と立脚点は、似ていますが別物です。
――――――――――
彼はたくましい腕を伸ばし、お皿からパンを取った。
――――――――――
上記の例文で立脚点は、彼の横にあるとします。
しかし、そこから撮影された映像を見て「たくましい」と観察し説明したのは、語り手の位置にいる者になります(カメラは「たくましい」という判断まではしないですよね)。
ちなみに、この「たくましい」という描写は、客観的か主観的かという問題があります。
この例文が一人称で女性の場合、少し太い男の腕でも「たくましい」と感じるかもしれません。
逆に男ならば、「男から見てもたくましい」ということになるかもしれません。
このように同じ表現でも、語り手の立場によって価値観とか感覚が変わってしまいます。
逆に言うと、語り手がぶれると、同じ表現でも意味がぶれてしまうわけです。
――――――――――
彼は彼女のことがわからなかった。
いったい何を考えているのだろうと様子をうかがうが、心の壁があるようで感情を読み取ることさえできない。
能面のような無表情のまま、彼女の手が伸びてくる。
そして彼女が心の奥底で照れながら、彼の手を握るのだった。
――――――――――
上記はもちろん極端な例ですが、語り手のぶれです。
ずっと彼の立場に近い位置で語っていた地の文が、最後になって「見えない」と定義していた彼女の心情をさらっと書いています。
その為に、最後の一行だけ違和感が出ているのがわかります。
語り手の立ち位置がよくわからないわけです。
この手のぶれがたぶん、最も多いような気がします。
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