最終話

 その後のことは、あまり覚えていない。

 気がつけば私はホーム・アーカムの建物の前に突っ立ていた。

 すでに日は暮れ、湖は夕陽に照らされ赤く燃えていた。

 振り返れば、そこにアーカムがある。あの中でなにが行われたのか、私はなにをしていたのか、手を伸ばせばその答えがわかる。

 それを理解しながら、私は老人ホームを後にした。


 そして、自宅に帰ってきた私は、今この手紙を書いている、という訳だ。

 食前にコーヒーを飲んだような、意志に反した胸の高揚のせいで、一睡もしていない。

 胸の中で、欲に溺れようとする心を、抑えきれないのだ。

 不可抗力の欲情が、私を獣へと変えようとしているのだ。酒を飲んでも、煙草を吹かしても、なにも満たされないのだ。


 今書き留めねば、もはや一生あの奇怪な体験を誰かに伝えることなどできそうにない気がした。

 私の意識が、なにか別のものに乗っ取られてしまう気がしているのだ。

 あの時、娼婦を前にして交配を行った時のような欲望が、いつ又私に襲いかかるか、わからないのだ。私にはそれが、とてつもなく恐ろしい。

 

 しかし、心の水底では、それも悪くないと思っている自分もいるのだ。

 悦楽と本能のままに交わり、獣に堕ちてしまうのも、良いものではないかと、優しく諭す自分もいるのだ。

 私にとって一番の恐怖はまさにこれだ。私自身が、あの冒涜的な衝動に身を任せることを、良しとしてしまっているのだ。


 ああ、情欲が私に襲いかかる。

 溺れてしまいたい。いや、溺れたくない。怖い。本当に怖い。寒い。なんだか寒い。悍ましい。本当に悍ましい。

 あのとき、寄り合い所で男性が話していたことを、今更になって思い出し、ますます寒い。ベビーブーム。大量繁殖。海が近くなってきたことで、地上に入り込んだ呪われた生命体。そして、その子。


 ああああ、まともにあたまがはたらかない。くわしくかけない。あたまがばかになる。せめて、これだけはかかなければ。


 にせんじゅ ろくねん たまるりょ ご ろくじ う はちさい


***


 この手紙を見つけたのは、昨晩行方不明となった男性の被害届を受理し、念のため自宅に赴いたときだった。

 魚臭い液体が付着し、乱雑に書きなぐられたその手紙は、まるで何者かに追いかけられている人物が書いたような、得も知れぬ気迫があった。

 行方不明者の男性は、失踪前から認知症の症状が見えていたらしい。

 やれやれ、また認知症患者の戯言か、とうんざりし、俺はさっさと別の仕事に戻った。

 手紙は、汚らしかったので捨てた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

【クトゥルフ神話】さまよう老体 夜乃偽物 @Jinusi

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ