恐怖のサイン

@minoru-

恐怖のサイン

 また今日も聞こえる。歌うような女の悲しい声。

 ガアガアとカラスの群れが鳴き叫び、生ぬるい風が吹きつける。

 身震いし、怯えながらヒゲの垂れ下がる大きな木の根元で小さく身を隠す。

 無数の黒い羽が嵐に吹かれた木の葉と共に目の前を飛び交う。身を寄せる木を取り囲み、渦を巻くように。

 刹那、何者かによって足を捉えられ、もの凄い勢いで宙に飛ばされる。


 うわあ!と掛けていたシーツを跳ね除け、目を覚ます。じっとりと汗で濡れた腕で目を伏せた。

 夢だと理解して胸を撫で下ろし、寝室の静けさと懐のような闇に息を吐く。


 こんな安っぽいオカルト映画のような夢を見るようになったのは、いつ頃からか。

 壁の時計に目を向ける。朝の3時過ぎ。また寝不足に悩まされそうだ。


 深いため息を二度、三度と吐き出しながらベッドから起き上がり、バスルームに向かった。

 片付けもせず、ガラステーブルに残されたグラスが薄明かりを収束させて光る。

 寝付けない予感から昨夜は少しウィスキーを飲んだ。

 まるで効果のなかった睡眠薬代わりの液体、それを横目にフラつく足取りで寝室を抜け、冷蔵庫が微かに鳴る居間を通り、バスルームの取っ手に手を掛ける。

 明かりをを点けて扉を開ける。上半身裸で寝ぼけ眼の自分自信が鏡に映る。


 ギョッと眼を見開いた。

 あの女だ!。鏡に映る首筋から、あの女が顔を覗かせている!


 凍りつく身体。ブルブルと恐怖に震える中、その女の青白く細い指が背中からワナワナと這い出し、胸板を弄り始める。


 カラスの鳴き声が耳に響く。ギシギシと軋む錯覚が頭に響き渡る。

 その手が首筋に向かうとき恐怖は頂点に達し、悲鳴を上げ卒倒した。


 バスルーム入り口の床にへたり込んだ格好で気がつき、辺りを見回す。

 居間に掛かったカーテンの隙間から明かりが差し込み、夜明けを悟った。



 何度もあくびをしながら電車に揺られ、雑居ビル前で警備員に挨拶することもなく、エレベータに乗る。

 会社に到着し、デスクに座るなり腕枕で生半可な眠りに就いてしまった。


「片山さん、大丈夫?」


 バスルーム前で目が覚めた後、まだ早いのを承知で自宅を出た。まだ数人しか出社していない中、真奈美に声をかけられた。薄目で顔を上げると、社内で一番背の低い彼女が、更に体を曲げて尋ねている。

 ちょっとしたおしゃれをして来る彼女、今日は小さな青い花柄のピンで髪を留めている。


「おす。ありがと、真奈美ちゃん」

「また、寝不足ですか?」


 『また』なのだ。他の社員が出社する前にゴミ箱やちょっとした掃除をしてくれる彼女に、何度かこの状態を見られてしまっている。『まあね』と返したところで、同僚の三上と佐伯がズカズカと入ってきた。


「よ、おはよ」


 声をかけるのと同時にカバンからノートやら筆入れやらを取り出し、机に並べる三上。本当に、この男は”疲れ”というのを感じたことがあるのか。横に座る彼は、いつもハツラツとして上司とも仲がいい。


「また、夢か?」


 三上まで『また』と言う。小さな会社だ。誰かに話せば、すぐに社内の話題になる。


 夢の話を広めたのは真奈美ではない。以前、付き合っていた瑠璃香だ。

 彼女は付き合い始めて間もなく急に疎遠になり、知らぬ間に辞表を提出し、何も告げず会社に顔を出さなくなった。ワケを聞こうとアパートをを訪ねたが留守のようで返答がなく、数日後には引っ越していた。痛手にならぬはずがない。だが、彼女からは『ごめんね』というメールが最後だった。


「悪夢は欲求不満が原因とか言うぞ!」


 三上がツッコミを始める。すると、佐伯とそれに田沢まで話に乗ってきた。


「そうそう。女の化け物が夢に出るんだって?」

「そうなんですか。美人の?」

「押し倒してしまえばいいんじゃね!」


 俺は『ああ、そうだな』などと適当に答え、他人事のように笑いに加わった。まったく。笑い事じゃないってのに。


 始業のチャイムが鳴ってしばらく、資料の準備が整い皆が営業に出かけようというところで、三上が話しかける。


「なあ、真奈美ちゃんがお前に気があるの、知ってるんだろ?」


 何を言い出すんだ、仕事中に。俺は眉を上げ『ん?』と素っ気ない返事をしたが、彼は続けた。


「『片山さん、決まった人いるんですか?』とか、さりげなく聞いてたぞ」

「何言ってんだよ。仕事中に」

「瑠璃香とは、もう半年くらいになるだろ? もう、そろそろ癒えてね? 真奈美ちゃんだって可哀想だしよ」


 俺は溜息を漏らした。だからといって、どうしろと。

 チラと真奈美を見ると、彼女はもう事務仕事に集中している。


「俺がちゃんと誘ってやるからさ。俺らとアベック・デートしようぜ、な」

「アベック?」


 今どき聞かないぜその言葉。野球やスポーツが好きな三上だから出るのだろうが。


「俺よ、今の彼女とデートがマンネリ気味なんだよ。今度の土曜、四人で映画に行こうぜ」


 三上は瑠璃香の時も、何かと相談に乗ってくれた。仕事がデキる彼は、何するにも要領がいい。俺は仕方ないという顔をしながら、頷いた。


「分かったよ。頼む」

「おう! そう来ると思ったぜ。じゃあ、今度の土曜な」


 そう言い残すと、彼は会社を足早に出て行った。

 こっちもノンビリしていられない。机に準備した書類や電卓やらをカバンに放り込み、席を立った。


 気がつくと、真奈美がこちらに目配せし、胸元で小さく手を振っている。

 笑顔を返し、会社を後にした。



 週末を迎え、三上とその交際中の女性が待ち合わせ場所のファミレスで待っていた。真奈美はまだ到着していない。

 週末とはいえ、夕飯時には少し早い時間なので、客はまばらだ。


「ごめん。遅かったか?」

「いや、俺らもついさっき着いたばかりだよ。ドリンクバー注文しといたぜ」


 三上の彼女が『こんにちは』と挨拶した。高校の同級生だとか。肩にかかるウェーブした栗色の髪に、金色の細いネックレスが似合っている。

 荷物を置き、ドリンクバーでアイスコーヒーを注ごうというところで、真奈美がカウンター横を駆けて行く。


「すみません。遅くなっちゃって」


 まず、誘った三上に声を掛けてから、彼女さんに挨拶する真奈美。賑やかな声が聞こえる。


「こんにちは。沢井です」

「鈴谷です。こんにちは」

「遅くなってすみません!」

「違いますよ! こっちが早すぎ。 この人、せっかちだから」


 すぐに、天気やら交通やら話し出す女性二人。一瞬で気が合うことを見抜いたのか、この後のことに気を遣ってか。

 飲み物を片手に席に戻る俺を、真奈美が笑顔で見つめる、が、その顔が徐々に曇り、目を丸く恐怖を纏った顔に変わっていく。


「片山さん! 後ろッ… 後ろにっ…」


 『エッ』と小さな声を立て、振り返る。

 と、そこには、あのドリンクバーの設備と定番メニューのポスターと向こうのレジが見えるだけ。

 もう一度、真奈美を見る。彼女は『あれっ?』という顔で俺の後方を見ていたが、気を取り直して俺と目を合わせた。


「ごめんなさい… あれ? わたし、目が悪くなったみたい…」


 その物言いには彼女らしい気遣いと天然ボケが混じり合い、俺を含めた三人の笑いを誘った。

 真奈美がオレンジジュースを飲み終わるまで、会社の話しや高校のことで盛り上がり、映画の時間に合わせて席を立った。

 真奈美はフリルの半袖に可愛すぎない紺色のキュロットを組み合わせている。だが、彼女の背丈では十分、幼く見えてしまう。

 『真奈美ちゃん、悪いオジサンに気をつけなよ』などと、三上がはやす。


 巨額を費やしたという自然科学映画を見るため、三上の彼女がチケットをまとめて買ってくれた。三上と同じく、気が効く彼女だ。

 田舎街の映画館とはいえ、最新設備の綺麗な建物。混雑しない分、田舎のほうがいいというものだ。上映が回ってくるのが遅くなることさえ我慢できれば。

 上映前のまだ明るい通路を進み、三上と彼女と真奈美とそして俺が席に座る。相変わらず三上の彼女と真奈美は話しが弾んで楽しそうだ。これだけで、この『アベック・デート』は成功だと思った。


 映画は海から陸まで、様々な生命の誕生と終焉を綴ったもの。だがしばらくすると眠気に晒されてしまう。昨夜、あの夢を見ることはなかったが、寝付けなかった。

 ふと、真奈美の手が触れた。というより、彼女が意識的に肘掛けから手を伸ばしていた。俺はその手を握るべきか。

 こちらもそっと手を伸ばし、手の甲どうしで触れ合う。お互いの手を押し合い、指でつつき合い、映画もそっちのけに、手のじゃれ合いとなった。真奈美の隣に座る三上の彼女が彼に頬を寄せている。そのおかげで真奈美も居た堪れなくなったのか。そのうち俺と彼女は手をつなぎ、彼女が肩に寄りかかる。映画の内容にはまるで関心がなくなった。


 その後、居酒屋に場所を移し食事にする。三上と彼女は映画談義で華を咲かせたが、俺と真奈美はサッパリついていけてない。


「お前ら、二人で何やってたんだ」


 という三上に、横の事情を知っている彼の彼女はウフフと笑う。

 酒が入ったこともあるが、盛り上げ役の三上がいるせいで話しが弾み、程よい頃合いを通り越し、飲んだ。真奈美も顔を染めて終始笑い転げている。こんなに楽しい酒は久しぶりだ。


 ところが、急に三上は今日の目的を思い出し、そろそろ帰ろうと言い出す。ついでに『真奈美ちゃん、片山んちに綺麗なワイン・キャビネットがあるぜ。見てみなよ』と、ミエミエのお泊まり令を発令した。

 おせっかいなヤツだとつくづく思った。真奈美は紅い頬を含み笑いで膨らませ『リョウカイシマシタ』と、冗談とも取れる返事を返す。俺にしても、酔ってしまった彼女をひとりで帰すのは心許ない。この時点で、彼女の家まで送ろうと考えた。

 それでは早速とばかり、三上の彼女さんが勘定を済ませる。会社で精算するという三上に礼を言い、店を出た。


 俺たちが一緒にタクシーに乗るのを見届けたいのだろう。三上は饒舌を発揮し、しばらく店の外で話した。一区切りつき、タクシーを止め、真奈美と乗り込む。あの二人が外で手を振り、真奈美も体を揺らし手を振ったが、次のタクシーが到着したので外の二人はそちらに消えた。


「真奈美ちゃん、ウチは?」


 行き先を運転手に告げるよう促す。彼女は答えず、居酒屋で見せた含み笑いを浮かべる。『片山さんのマンションじゃないの?』俺は勝手にそう解釈した。


「じゃあ、飲み直そうか?」


 コクッとうなづく彼女。勿論、望んでいた事ではあるが『これは、本当に現実だろうか』うますぎる展開に戸惑いも感じた。

 映画館でしたように、手をつないでみたり、その手を摘んでみたりした。彼女もそれを楽しそうにしている。覚えていないくせに映画のことや、それに三上のことを話し、彼女はというと、お姉さんや家族のこと、友人のことなど、仕事以外の持ち出せる話題をありったけ話し、真奈美は疲れてきたのか、肩に頬を寄せ、眠ったように静かになった。


 手を握ったまま、外の景色を確かめる。もうすぐマンションに到着する。正面を向き直り、バックミラーに映る自分の顔と目が合う。

 全身の毛穴が開き、髪の毛から産毛まで逆立つ恐怖に包まれる。


 あの女だ! バックミラーに映る自分の背後に、あの女がいる!


 だが、今度は確かめてやる! ヤツはいったい、何物だ。

 その女をじっくり見ると、アタマに無数の葉をまとい、その背中からクネクネと伸びる枝葉が立ち上っている。ほっそりとした美形、だがその顔は悲しい相に満ち、常に揺らめいている。


 凍りつきながらも、その女をミラーで凝視する。するとヤツは、腕にも似たツルを伸ばし、それをゆっくりと真奈美に忍ばせ、彼女の首筋に絡み始めた。

 咄嗟に、真奈美の肩を抱き、体を縮めて彼女をかばう。

 驚いた真奈美が顔を上げる。


「どうしたの?」


 答える前に、バックミラーを覗く。あの女の姿は消えていた。


「ごめん。何でもない」


 俺を膝枕に、真奈美は静かに横になった。


「もう、到着するよ」

「うん」


 もう一度ミラーを伺い、確かめる。気のせいだったのか。何度もチラチラとバックミラーを見ていたが、運転手が『もう、到着しますよ。どうします?』と声をかけた。

 マンションの駐車場に止めてもらい、真奈美の肩に『着いたよ』と合図する。


「はい。ごめんなさい」


 ウフフと笑っている。運転手にお礼混じりの挨拶を交わして清算し、タクシーを降りた。


 少しフラつきながらも元気に歩く真奈美は、手をつなぐと子供のように腕を振る。彼女と肩をぶつけ合いながらエレベータに乗り、部屋に到着した。片足ずつ飛び跳ねながらサンダルを脱ぐ彼女を見守り、部屋に上がる。洗面室とトイレを案内すると『シャワーを使ってもいい?』と尋ねる。こんな場面では女性のほうが度胸が座ると聞くが、その通りだと思った。こっちはどうしていいものか、ずっとドギマギを押し隠しているというのに。着替えがないので、俺のTシャツとジャージを差し出した。


 長めのシャワーを待つ。その間、冷蔵庫で大量にストックしている缶ビールを飲む。テレビのリモコンを操作したりしているが、あのバックミラーの女のことを考え、まるで落ち着かない。真奈美がいるバスルームの鏡に映りはしないだろうか。


 バスルームのドアが開き、ピョンと彼女がおもてに出る。着ているシャツは半袖なのに、袖先は彼女の肘まで垂れ下がり、裾丈はミニスカート同然になっている。まだジャージを着ていないが、彼女は腕を広げ『どう?』と言って見せる。ブカブカの格好に二人で笑い転げると、それを満足したのか、もう一度バスルームに隠れる。そして今度はジャージの裾を何重かに巻いて出てきた。髪はポニーテールに束ね、バスタオルを持った両手を恥ずかしそうに口元にあてている。


「ありがとうございます。綺麗にしてるんですね」


 そう言われると、正直嬉しい。昨夜、寝付けないことにムシャクシャし、腹いせ混じりに掃除した。


「じゃ、悪いけど次は俺が入るから。ビール飲んでてくれる?」


 彼女は『うん』と頷き、お構いなくと言ってテレビのリモコンを受け取った。

 シャワーに入る間、今度はリビングに居る彼女のことが気になる。あの女は、タクシーで真奈美を手に掛けようとしていた。いつもなら、のんびりとシャワーに入るのだが、気が気でない俺はサッサとシャンプーを洗い落とし、ボディソープを適当に塗りたくり、1枚しかなかったバスタオルは彼女に渡したので小さなタオルで体を半端に拭い、シャツを着るか着ないかの状態でバスルームから顔を覗かせた。彼女はポーチと小さな鏡をそそくさとバッグにしまい込む。


「お待たせ!」

「早っっ! 早過ぎですよ〜!」


 笑った彼女が可愛い。俺はタオルで頭を拭きながら、次のビールを取るため冷蔵庫に向かう。


「あれですか? 三上さんが言ってた」


 壁際に鎮座するキャビネットを真奈美が指差す。


「うん。気に入ってるんだ」


 輸入家具店の奥で目に止まった途端、魅了され、値が張るのを無理して買ったものだ。店の主人は格安だと言った。樹齢三百年は超える木を切り出し、熟練の職人が丁寧に細工したという。

 キャビネットに誘われる真奈美はソファーから立ち上がり、眺める角度を変えながら近づき、小さな細工まで見つめ、手を触れる。


「素敵ですね」


 彼女は肌触りを確かめるように手を滑らせている。ビールを片手に、微笑みながら見ていた。自分の気に入ったものが褒められるのは心地いいもの。


「これ、何?」


 それは俺にも分からない。彼女が見つけたのは、手のひらに収まるほどの木で出来たプレートだ。何かサインのような文字が書かれているのだが、何処の言葉だか検討もつかない。


「俺も知らないけど、何かのおまじないかもね」


 真奈美は『ふ〜ん』と言いながら文字をなぞり、小首をかしげる。と、そこで彼女は膝を折るように床に崩れ、パタンと倒れた。


「真奈美ちゃん!」


 駆け寄ろうとする俺の前に、ユラリとあの女が現れる。一度前に突んのめり、慌てて後ずさりした。あの、タクシーで見せた悲しい顔で大きく腕を広げている。


「おまえは、何だ!」


 女に対し、初めて言葉を発した瞬間。女の顔が目だけを光らせ、迫ってきた。辺りが暗い、夢に出てきた荒涼とした大地に変わる。俺の部屋のはずなのに、バーチャルな映像ではなくその土地に飛ばされたかのような現実感を伴って。背にした部屋の壁は、ゴツゴツとした木の幹になった。空では無数の鳥が鳴きわめく。


「わたしは、ドリュシュア。 わたしは木。 木の霊」


 女も初めて、言葉らしい言葉で答える。

 俺は強気を装った。臆したところでどうにもならない。目の前で揺らぐ女は、一度引いたかと思うとまた目前まで迫る。その動きを繰り返している。


「おまえは、なぜ此処にいる! なぜ俺に付きまとう。 彼女に何をした!」


 ボーッという音が響く。怒らせたか? 凄まじい風が辺りを吹き抜けた。そして女の姿が大きく立ち上る。


「あなたはわたしを選んだ。わたしはあなたのもの。あなたはわたしのもの!」


 カミナリが鳴り響き、豪雨が訪れる。俺は木の幹に開いた穴に身を隠す。そこは確か、度々うなされた悪夢の穴ぐらだ。


「俺が、おまえを選んだ!?」


 豪雨は次々と稲妻を呼び、隠れる穴ぐらまで水を侵入させる。シャツからズボンまで、ずぶ濡れにしてしまった。だが、風に吹かれて流れる雲は早々と飛んで行き、そして徐々に風が止んでいく。

 荒涼としていた場所がいつしか森に変わり、そして、ウソのように優しい光が、木々の間から木漏れ日となって差し込んだ。


 どこからか声がする。

「私の主は三百年もの間、あらゆる命の骸を糧に生きてきた。私の主に寄り添い、命を終えたものたち。木の葉、他の木、小さな虫たち、小鳥、カラス、馬や羊、そして三百年の歳月の中で、ときに人。生命が終わりを迎える悲哀が主を成長させ、実りを生んだ。そして主は、鳥にねぐらを与え、小さな動物に食物を与え、人々に木陰と癒しを与えた」


 俺は体をよじり、倒れ込んで木の幹から這い出した。まだ地面は濡れて枯葉がビチャビチャと跳ね、水音を立てながら体を起こした。だが、ここは本来、俺の部屋のはずだが。


 這い出した大きな木を見上げる。枝葉を大きく広げた広葉樹。『そうか。これがワイン・キャビネットになったのか』残酷なものだと思った。

 木の頂上付近は風が吹いているのだろう。差し込む光が揺れ、時折枝が軋み、砂浜に打ち寄せる波のリズムで風の音を伝えている。

 子鹿と目が合った。しばらくこちらを見つめながら、鼻をヒクヒクさせていたが、何かに怯え走り去った。

 次の瞬間、強烈な光と轟音を響かせ、落雷があった。急激に天気が悪くなり、またしても雨が降り注ぐ。

 雨に打たれながら、木々から覗く空を見上げていたが、暗闇が訪れ、森は再び荒涼とした大地に戻り、黒い鳥が泣き叫ぶ元の光景に変わっていく。

 木の命が奪われた恨みなのか。その罪を俺に問われても。仕方がない。


「わたしの主は生命を絶たれた。わたしは泣いている。わたしの霊は封じられた。レムリアント・サインに」


「あのプレートのことか?」


「わたしは利用されている。あなたはわたしを選んだ」


 俺はハッとした。俺は、この女を選んだのだ。あのキャビネットのもつ魔性のような魅力、それは彼女の霊が放っていたのか。


「俺は。どうすればいい。おまえは、どうして欲しい?」


 女の姿は一度、渦のように回転したように見えた。そしてまた揺らぎながら、だが顔は少し晴れたように見える。


「土に帰る。それがわたしの運命。次の主に宿る、それがわたし」


「おまえの故郷が分からない。どうすればいい?」


「生まれ変わる。何度目かの」


「わかった。約束する」


 その姿が黒と灰色のモヤに変わり、闇に消えていく。床にうつ伏せの状態で目が覚めた。顔を上げることなく、辺りを伺う。元の俺の部屋。液体が流れ出た缶ビールが転がり、その向こうに倒れた真奈美。それを僅かの間、見つめた。


「真奈美ちゃん」


 我に返り、彼女を抱き起こした。腕の中でゆっくりと目を開く彼女は、ぼうっとした様子で胸に顔を埋めた。そのまま彼女の体を抱え上げ、ベッドに寝かせる。


「大丈夫か?」


「うん。ごめんなさい」


 悪戯っぽい薄笑いにホッとした。今日はもう寝ようと言い、シーツをかける。電気を消し、俺はソファーで横になった。目の前にはワイン・キャビネットが静かに立っている。寝付けないとはいえ、これで二日目。いつしか深く眠っていた。


 朝、目を覚ますと真奈美がすでに起きていた。昨夜のビールを片付け、ゴミをまとめている。ソファーに起き上がり、キャビネットを見つめながら伸びをした。『おはようございます』と彼女が言う。笑顔を見せて洗面室に向かい、顔を洗った。そしてソファーに座る彼女に寄り添い、肩を抱く。それが自然だった。そしてキスを交わした。


「まだ敬語?」

「もう、違うから」


 昨夜のことは話さずにいた。もしかすると、瑠璃香が避けたのは俺ではなく、木の霊だったのかも。

 次の土曜は二人で出掛けることにして、真奈美は帰った。彼女を見送ったその足で俺はホームセンターに行き、バールを買った。

 小さなくぎで止められたプレートを引き剥がす。片面に文字が書かれたそのプレートは、明らかにキャビネットと同じ部材で作られている。それをバッグに入れ、近くの神社に出かけた。あの女を鎮める場所として、裏山に広がる森が最適だと考えた。神社の近くなら荒らされることもない。ホームセンターで買ったヘラで土を掘り起こし、プレートを納め、静かに埋めた。


 その後、悪夢は見なくなり、俺と真奈美は付き合いを深めた。あのワイン・キャビネットは霊力による魅力を失ってしまったが、大切に使い続けている。

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