第3話 馬と鹿と死神と妖怪
外は空気が澄み切っていた。
街灯のほとんどない空は、暗く深い。
散らばった光が綺麗な星空を描いていた。
食事を終え、風呂も終え、絶望から回復したロクは、部屋にオロバスとフォードを二人残し、マックスと二人で買い出しに出ていた。
目的はアイス。四人分である。
「外は涼しいねーっ」
体をのびのびとさせながら、マックスは大空を仰いだ。
「そうだね。ちょっと肌寒いくらいだねー」
ロクはわずかに身体を震わせた。
涼しいというよりは冷えているに近いのである。
そこの感度差は人であるか、天使であるかの違いなのだろう。
「星きれーっ! すごーい! 久しぶりにみたなー!」
「久しぶりって……魔界じゃ星は出ないの?」
ロクはふと魔界をよく知らないことに気が付いた。
オロバスの職場とはいえ、ロク自身は行ったことがない(当たり前である)。
地獄の描写はよく見かけるが、魔界となるとからっきしだった。
マックスは少し苦笑して、首を振った。
「ううん。おれ、最近魔界にいないから……」
「え? じゃあ、どこに?」
「地獄の方かな。奥の方にある、万魔殿……パンデモニウムっていう場所に住んでるの」
「パ、パンデモニウムゥ!?」
ロクは破顔した。
それはまさしく、地獄の主であるかの有名なルシファー。彼らが住まう根城。
つまるところ、オロバスの故郷……かつての住処である。
もしかして天界が住まいとかかなーと思っていたロクは虚を突かれた気分だった。
「な、なんでそんなとこに……」
「えへへ。おれの旦那様、地獄に住んでるから、その、ついていったっていうか……」
ぴしり。
ロクは固まった。
「……ん? いま、なんて?」
「だからね、旦那様が」
「旦那? 旦那って、旦那? 彼氏とかじゃなくて?」
「うん。旦那様」
「ご主人様的な意味合いの?」
「ううん。夫婦的意味合いの」
いち、に、さん。
三秒ほどロクは完全に動きを止めて、そのあと、限界まで目を見開き、口を開けて叫んだ。
「マックスちゃん既婚者ああああああ!?」
「そだよー? おれ、十六歳だけど立派な奥さんです!」
「し、信じられない! え、だってロリとかいう部類の少女……いやまって! 地獄に旦那が住んでるってことは、相手はオロバスと同じ悪魔!?」
混乱のあまり、ロクはとんでもない形相になった。
理解しようと必死だった。
マックスは笑顔でうなずいた。
「十六歳の女の子をお嫁さんにもらうって、え? 相手何歳?」
「うーん、紀元前からいるっていってたけど……」
「それもうとんでもなくない? わたしは成人してるけど、何かおかしくない? え? 旦那さんて重度のロリコンなの? ロリータコンプレックスなの?」
「わ、わかんないけど……かっこよくて綺麗で優しくて強いから、だあいすき!」
にぱーっと微笑まれて、ロクは燃え尽きたボクサーのような顔になった。
燃えた、燃え尽きたよ……真っ白にな。という状況だった。
もう理解もできなかった。
理解できる範囲を優に超えていた。
ロクはあきらめた。
あきらめるしかなかった。
「でも旦那様はお偉いさんだから、その、地獄から出てくるわけにもいかないし、おれが行くしかないから……それにおれ、妻だからついてくの当たり前だと思ってるの!」
マックスは幸せそうだった。
それは強要されたのではなく。
それは脅されたのでもなく。
それは、つまるところ。
望んでした結婚だということに違いはないのだろう。
(わたしより、よっぽど奥さんらしいなあ)
ようやくのこと、ロクは落ち着いた。
それから、ふっと微笑んだ。
「じゃあ、わたしとママ友になってくれる? わたし、既婚者の友達いなくって」
もうどうでもよかった。
そんな細かいことは気にしないでおこうとロクは決めた。
ロクの差し出した手を、マックスは両手で握りしめてぶんぶんと上下に振った。
「ほんと! ありがとう! おれもそういう友達、あんまりいないからうれしい!」
「わたしもうれしいよ。改めてよろしくね」
「うん! あ、じゃあ携帯アドレスとか教えてーっ。メールするから!」
きゃっきゃと歩く道中が、ロクはなんだかおかしかった。
考えてみれば、こんな可愛らしい少女の知り合いはいなかった。
かつての仲間の中には――、いなかった。
(なんか、新鮮っていうか)
静まり返って、冷え切った街に、ぽつり灯る灯りのように。
胸がなんだか、温かかった。
「地獄でもつながるの?」
「うん! 電波ちゃんとしてもらっ――」
「ッ!」
刹那、ロクはマックスを抱えて跳躍した。
「う、わ、わわっ」
「口閉じててね――」
一回。二回。三回。立て続けに跳んで、ロクはようやく着地した。
ロクが跳びはねたその場所には、彼女たち二人を追いかけるようにして銃痕が見える。
穴の開いた地面は、わずかに煙が上がっていた。
ロクは後ろ手にポケットを探った。
オロバスと出会ってから――久しく触れていなかった銀色の、ケースに触れる。
(久しぶりに、肌がぴりぴりすると思ったら、コレだ)
チッと舌打ちして、ロクは目を凝らした。
暗闇に、何かいる。
音がほとんどしなかったことを踏まえると、サイレンサーを使っているのだろう。
となると相手は大きな組織の末端。もしくは凄腕の暗殺者である。
(目的……わたしか、この子か)
マックスはぽかんと口を開けて、茫然としていた。
背中の羽根がぱたぱたと小さく動いている。
「軍人――とは聞いていたが、反応がいい」
暗闇から声がした。
それを聞いて、ロクは不敵な笑みを浮かべた。
(やっぱ――『わたし』か!)
そっと、マックスから手を放す。
「あんた、一体どちらさま?」
心臓が痛いほど跳ねていた。
取り出した銀色のケースから、一個、赤いクスリを手に取る。
身体が歓喜しているのがわかった。
心は普通を求めているというのに、身体はどうにも違うらしい。
元のような、『異常』であることを――望んでいるようだった。
「答える義務はない」
声はどこまでも素っ気なかった。
「あ、危ないでしょっ! どうしてこんなことするの!」
雰囲気を思いっきりぶっ壊すように、マックスが吠えた。
まあもっともな正論だったが、声が沈黙する理由もわからなくもない。
マックスはぷうと両頬をまるでハムスターのように膨らませた。
(この子は表情が多彩だなあ)
そんなことを思いつつ、ロクは闇の方を睨み付けるマックスを横目で見つめながら、赤いクスリを口へと放り込んだ。
どくん。あまりなれたくもない、心臓が大きく鳴くのを感じた。
マックスは「むー!」と唸ると、バッと両手を前に出した。
「悪い子には――お仕置きだよっ!」
ロクは、生まれて初めて『魔法』というものを目の当たりにしていた。
マックスの下からは風が吹き荒れ、足元は紫色に発光。
華奢な体には大きすぎる魔法陣がヴォンという音を立てて現れた。
「うわ―――」
ロクは思わず、感嘆の声を漏らした。
壮大だった。圧巻だった。壮絶、だった。
「―――『降星群』!」
マックスから解き放たれた光は、垂直に飛んだ。
その、直後。
きらーん。
漫画のような効果音と演出があったあと、大量の隕石が落下した。
「ッうおおおおおお!」
「ちょちょちょちょちょちょっ!」
「ひゃああああ!?」
全員巻き添えである。
巻き込み事故である。
術者だったマックスはおろか、ずっと闇に潜んでいた声の主も、当然そばにいたロクも隕石落下の被害を受けた。
降り注いだ隕石は実に直径十メートル程度をぼっこぼこにして、ようやくのこと、止まった。
「う、うう……」
敵も味方も全滅、某モンスターゲームの『大爆発』並である。
「っつー……だ、大丈夫、マックスちゃん……」
「ばたんきゅー……」
ロクが駆け寄ると、マックスは目を回していた。
漫画のようなコミカルな表情だった。
や、それよりも『ばたんきゅー』なんて久しぶりにきいたなと思いつつ、ロクはあたりを見渡した。
――正確には、見渡そうとした。
「動くな」
チャキ。
聞き覚えのある懐かしい音と、頭に鉄の塊を突きつけられるあまりしたことのない体験に、ロクはぴたりと動きを止めた。
「動けば撃つ。余計なマネもするな。……せっかくできた友達を、殺したくはないだろう」
「――だよね」
見えさえしなかったが、ロクは背後の何かが両手に獲物を持っているのを感じた。
一方は自分へ。
もう一方は、傍らで目を回すマックスに向けられている。
そう、肌がぴりぴりと告げた。
「やれやれ――『銀色の絶望』が一緒とは途方にくれたが、自滅してくれて助かったよ」
声の主は、どうやら男のようだった。
声音は低いが、しかし聞いたことがない――ような、気がする。
断言できないのは、似た声を聞いたことがあるからだった。
それも、つい最近。
本日、聞いたような。
「大変申し訳ないが――少し眠っててもらおうか。六倉様」
「――ッ!」
バチッ。
首筋に何かひやりとしたものがついたと思った瞬間。
ロクの意識は、ぷつんと切れた。
――思えば、久しぶりだった。
あんなふうに後ろをとられたのも――あんなふうに誰かを抱えて避けたのも。
痛い思いをしたのも。全てが――全て。
あの馬と結婚してからは、一度も、なかったような。
「う………」
ぱち、とロクは目を開けた。
どのくらい眠っていたのかはわからなかった。
(……いや、でも、三時間は経ってない……炎を、まだ、感じる)
意識すれば、身体の内側から全てを燃やし尽くせそうだ。
ふと、傍らにマックスがいないのがロクは気になった。
確か目を回して倒れていたはずだ。
ロクだけを――連れ帰った、ということ、なのだろうか。
(オロバスは……心配してるだろうな)
ただでさえ、意外に小心者で心配性な馬である。
今ごろ探し回っているかもしれない。
ロクは身体を動かそうとして、ハッとした。
両手を左右に拘束されている。足にはさして何もないが、それでも身動きは自由ではない。
ガチャガチャと幾度か動かして、ロクはほっとした。
(よかった、壊せない、ものじゃない)
力を一時的に取り戻したロクにとって、それはさしたる意味も持ち合わせていなかった。
時間になるまでに、壊して逃げればいい。
室内を見る限りはどこかの廃墟のようだった。
壊れた排水管から水が滴り落ちている。
少し離れたところに、ドアが一つ。
施錠されている様子はないが、されていたとしてもさしたる障害にはなりえない。
それはかなり簡単な話である。
今のところ、問題点は、一つ。
(……わたしが目的というのなら、どうしてこのまま放置しておくんだろう)
相手の明確な目的が一切わからなかった。
なにをどうしたいのか、わからない。
それがわからないうちは、ロクは逃げられなかった。
解決しておかないと、これから先、ずっとこのまま狙われ続けるということである。
そんなことは御免だった。
できれば赤いクスリなんて、もう二度と使いたくはない。
――がちゃん。
不意に、ドアが開いた。
「………あんた……っ」
「よぉ、気分はどうだ? おじょーさん」
入ってきたのは、全然知らない青年だった。
白い肌と、整っているのに凶悪さに歪んだ鋭い顔立ち。マックスの銀髪とはまた違った輝きを持つ銀髪と、深い青の瞳が全身に危険なシグナルを感じ取らせていた。
ひとなんて、何万も殺しているような。
悪魔だって殺せるような。
神様だって容赦なく死なせてしまうような。
そんな、死神に見えた。
しかしその恰好は、死神とは程遠い。
ただのホストである。
「何その反応。俺とあんた、初対面だと思ったんだけどなあ」
煙草をくわえながら、青年はニヤニヤと笑った。
「うるさい。空気をよんで知り合いっぽく振る舞えばいいじゃない。それに、さっきまでほのぼのやってたのに、なんだってあんたみたいなヤツが出てくるの?」
「仕方ねえだろ。そういう筋書きなんだから」
「まあ、それもそうか……」
青年にそういわれて、ロクは半ば納得しかけたがぶんぶんと首を振って回避した。
「そんなことよりも、あんた、銀髪で二つ縛りの女の子知らない?」
「あ?」
「わたしと一緒にいたんだけど……いないから」
「あー……」
少しだけ唸るようにして、青年は頷いた。
それからゆったりと、ロクに歩み寄る。
グッと一瞬で距離をつめて、目と鼻の先の距離で、青年は無表情になった。
「殺した」
「――ッ!」
「とかいったら、信じるか?」
一転。
ロクの表情を楽しむように、青年はにやついた。
ロクは何の前触れもなく、思い切り頭を振った。
ゴッ!
当然のように、ロクと青年の頭が激突する。
「いっだ! てめえふざけんなよマジで! 自分の立場わかってんのか!」
「ふざけたこというからふざけたことされるの。覚えておきなさい」
「だから自分の立場わかってねえだろ!」
「わかったうえでの頭突きじゃない! 今できる最高の攻撃手段!」
「拘束された状態で震えもせず泣きもせず頭突き食らわせるってのがお前の選択した手段か」
「そう。泣き寝入りはしないタチなの」
ぷい、とロクはそっぽを向いた。
怖くもなければ恐ろしくも泣きたくもない。
心の中に蠢いているのは、いつか無くした『闘争心』である。
ふとした瞬間に我を忘れそうなほど、何もかも忘れて暴れてしまいそうになるほど、ロクの心臓は大きく大きく鼓動していた。
赤いクスリのせいだろう。
「で。マックスちゃんはどうしたの?」
「もちろん無事だぜ。つーか一緒に連れてきてねえし」
「……そう。もし何かしてたら全員まとめて灰にするところだった」
ぶは、と思わず青年は吹き出した。
「なによ。本気だからね」
「へーえ。勇ましいこった」
からかうような口調で、青年は一枚、紙を取り出した。
それをロクへと掲示する。
「何これ。……イチジクさん?」
紙には、イチジクの顔写真が映っていた。
そのしたには、綺麗な着物に身を包んだイチジクと、黒髪の青年が腕を組んだ写真も載っている。
しかしその写真に写るイチジクは、どこか幼かった。
「イイコト教えてやるぜ」
青年は、悪意に顔を歪めて笑った。
「お前をここに連れてくるように命じたのは、この女だ」
「――! ど、どうして、」
「さーな。でもイチジクってのは俺の客でね――俺には『復讐のためだ』とかぬかしてたが、実際どうなのかわからねえな」
ロクはぎり、と奥歯を噛みしめた。
楽史寺は、そのことを知っていたのだろうか。
知っていて、ここに泊まらせたというのだろうか。
だとしたら、それは。
つまるところ――はめられた、のでは。
(いやでも……わたしにはあの人と、面識がない)
だとしたら――。
「取り乱さないんだな」
「……」
「はめられたとか考えねえの? 裏切りだとか。策略だとか」
思い当たる節がないわけではない。
彼は軍人。あくまで、軍人である。
上がロクを必要だと思えば、離婚させてでも奪うだろう。
命令されれば、仕方なくでも行うだろう。
仕事第一な人間である。
小さい頃から楽史寺を見てきた。
ロクの両親は、楽史寺のようなものだ。
(お偉いさんって、妖怪とかともつながりあったし)
何らかの関係があることくらいは、容易に想像できた。
――それでも、ロクは。
「………愚問ね」
ふっと笑った。
「楽史寺はそんな器用な男じゃないの。そんなことするくらいなら死ぬと思うけど。ていうかわたしが殺すし」
「かはは! すげえな、上司に対する発言かそれ!」
「元上司なんで」
さばさばとした対応に、青年は小さく舌打ちした。
あまりにも冷静なロクは面白味がなかった。
青年は「んー」と小さく唸ったあと、「あ」と短く声をあげた。
何か思いついたようだった。
「じゃあよ――」
青年は、ふとポケットからスマートフォンを取り出した。
そっぽを向くロクの顔に近づける。
「コレみても、ヘーキか?」
「――!」
心臓が、はねた。
赤いクスリのせいなのか、そうではないのかわからないほど、鼓動が早くなった。
嫌でも目が釘付けになる。
青年のスマートフォンの中。
映し出された映像に、ロクの旦那が映っている。
彼は激しい暴行を受けていたが、さして抵抗する様子もなかった。
されるがままである。
「すげーよなあ」
「あっ」
不意にスマートフォンを離されて、ロクは短い悲鳴を上げた。
「こいつ、抵抗したらお前のこと殺すぞっていわれてからずーっと何もしてねーんだぜ。いくら死ななくとも、痛いもんは痛いのになあ」
「………」
「そんなに『奥さん』が大事なのかねえ? ま、俺なら考えられねーけど」
「………」
「あ、俺は別に参加してねーから。ちっと『客』に頼まれごとされて、お前のこと監視してるだけだから」
「………」
ロクは、無言で両手を地面についた。
いうまでもなく、ロクの何気ない行動で、鎖はなかったかのようにぶちぶちと壊れた。
がらん。
鎖が落ちる音は重かった。
「あ?」
青年は、目を見開いた。
ロクの身体からぶわぶわと炎がわいていた。
鎖が、呼応するように黒い液体に溶けていく。
ふらふらと、ロクは立ち上がった。
「……なあんだ。わたしが、目的じゃ、なかったんだ」
「?」
「まさか『あっち』が目的だとはなあ……失敗したな。こんなとこでぐーすか寝てる場合じゃなかった」
炎は次第に激しさを増していた。
もはやどうでもいいと思った。
あちらを失うぐらいなら、自分は普通じゃなくてもいいと思った。
(楽史寺は後でシメるとして――今は!)
グッとロクは拳を握りしめた。
身体の奥底から、怒りと共に力が湧いてくる。
「今すぐ――そこ、退いてもらおうかッ!」
刹那。
ロクの身体が跳ねた。
青年が避けるよりも早く、ロクの身体は弾丸のように重く早い拳を青年の腹部へと放った。
凄まじい轟音を立てて、青年の身体が吹っ飛んでいく。
青年は壁をぶっ壊して、ようやくのこと停止した。
「全く……、この状態になると、どうも荒っぽくて気分が悪いな」
長く赤い髪を振り払いながら、ロクは赤い瞳で青年を睨んだ。
ゴキゴキと拳を鳴らす。
同時に、ガラガラと瓦礫が動く音がした。
「くくっ……すげーなお前。怪力かよ」
「!」
ロクは、思わず絶句した。
ほぼ――ほぼ、無傷だった。
いつかこんな感じで思い切りぶっ飛ばした時は、相手は、ほぼ即死だったような。
(こいつ……人間じゃ、ない……!)
血すら流れていない。服が多少汚れただけ。
そんな様は、さすがに絶望的だった。
「けっこーきいたぜ。ま、人間にしては、だけどな」
ゴキゴキと首を鳴らして、青年は瓦礫などものともせずに歩いてきた。
ロクは思わず身構えた。
その絶望感は、バンカを初めて見た時に似ている。
あの時も、自分がどれだけ『普通』で『平凡』に近いかを悟った。
そうして思ったことを、よく覚えている。
――中途半端に『異常』なら、いっそ『普通』になりたい。
「どーする? おじょうさん。ここでおとなしく死を待つのと――人間らしく、抗ってみせるのと。どっちでもいいぜ、俺は」
まさしく死神のように、そんな冷たい言葉を吐き捨てて。
青年は、冷たく微笑んだ。
(……オロバス)
追いつめられたロクの脳裏に浮かんだのは、旦那の顔だった。
馬であり、ある時はイケメンな青年であり。
それでいて自身を誠実だという悪魔であり。
今は、優しい夫――である。
彼は、今。
戦っている。
他でもない――ロクを、守るために。
「……だから、愚問ってやつよ」
ロクは、不敵に微笑んだ。
「わたし、これでも人間だよ? ――抗うに、決まってるじゃん」
ごおおおおと炎が唸った。
ロクは炎を全身にまとった。
ゆらゆらと赤い髪が、炎につられて揺れた。
青年は、嬉しそうに口元を釣り上げた。
「――そうこなくちゃなあ」
***
オロバスには、さしたる心当たりがなかった。
さすがに捕えられたロクを見た時は心臓が止まるかと思ったが、それもまあ、全く予想していなかった事態ではない。
殴られようが蹴られようが撃たれようが斬られようが、さして問題はない。
死にかけている状態であれど、消えることなど絶対にない。
そう簡単に死ねるのならば、むしろ遥か昔に死んでいることだろう。
そんな『安らぎ』は、おあいにく様、彼らには許されていなかった。
(――さて)
今からおおよそ十分前。
ロクがいると思われる二階で、大規模な轟音がとどろいた。
考えるまでもなくロクが起き、暴れていることは手に取るように理解できた。
――すなわち。
彼がどうしようかと悩む時間も、終わりを告げた。
ロクが暴れられる状況にあるならば、彼がここで暴れてもロクが一方的に暴行を受けるという最悪な事態は免れるということである。
(あれだって、少なくとも元軍人だしな……されるがままではないと、思っていたが)
血だまりを何気なく進みながら、彼は足元を見つめた。
そこはさながら、地獄のようだった。
あちらこちらに手足が散らばる。人間だった、人間を象っていた数々のパーツがいたるところに散乱している。
彼に暴行を加えていたのはどういうわけか人間だったので、このありさまである。
少しオロバスが力を使えば、この通りである。
忘れられがちだが、彼は生粋の悪魔。
誠実とはいえかつて唯一神を相手取って戦った、堕天使には、違いなかった。
「……てっきり、妖怪かと思ったのだが」
ごろんと転がる男の首を蹴り飛ばして、オロバスは広い室内を後にした。
廊下はいたるところに水が滴り落ちていた。
二階以外は、先ほどから嘘のように静まり返っている。
口から出た血を忘れていたようにぐいと拭って、オロバスは突き当りの階段へと足を向けた。
(やれやれ……、こういうことは好ましくないからはるばる日本まできたというのに……)
廊下を何気なく歩いても、さして敵が飛び出てくるという様子はない。
(いや――それでも、西洋よりはましか。エクソシストは登場人物に含まれていないし)
平然と廊下を歩ききって、彼は階段を上った。
そうしている間に、二階がしんと静まった。
階段を上り終えて、彼は嫌な胸騒ぎ感じた。
「……ロク」
負けるわけはない――と思っている。
彼は知っている。
一番最初に出会った時。
自らを吹っ飛ばしたバンカではない――他でもないロクが、全て、助けてくれたことを。
ロクはとっさに嘘をついたようだったが、それでも見た光景は嘘をつかない。
炎をまとったロクの赤い姿は、勇ましい軍の女神のようだった。
「―――!」
階段から少しいった先。
瓦礫の山の奥。
赤い灯りと、見覚えのある青年の姿。
その赤い灯りもまた、とても見覚えのあるものだった。
灯りは、青年のたくましい腕に、掴まれている。
「貴様――ロクを離せッ!」
オロバスは、瞬時に青年へと跳躍した。
青年の方は、ようやくオロバスに気が付いたようで、
「お。ようやっときたか」
などと振り向いた。
手を、ぱっと放して飛びのいていく。
「ロク!」
オロバスは、迷わず崩れ落ちる妻を抱き留めた。
とくに重症度の高い傷はなさそうだ。
ロクは、オロバスの腕の中でゆっくりと目を開けた。
「……あんた、なんで……」
弱弱しく、手がオロバスの頬へと伸びる。
ぷすぷすと音を立てて、炎はロクの身体へと収納された。
「よかった。生きていたか」
「かっ……てに、殺さないで、よ」
ぺち。
ほっと安堵の表情を浮かべるオロバスに、ロクは軽く頬を叩いた。
また一方でロクも安堵していた。
制限時間。三時間をちょうど迎えたのである。
炎を使えそうな気配は、もうしない。
代わりに身体を、この上ない疲労感が襲っている。
「感動の再会は済んだか?」
少し遠くで、青年が二人に声をかけた。
手には、大振りの鎌が握られている。
「……貴様は、魔界にいたな」
オロバスは、ロクを抱えたまま振り向いた。
「そーだぜ。俺は魔界生まれ、魔界育ちな死神でね……つっても、別に今死神の仕事してるわけじゃあねえんだが」
「それはそうだろうな。とても死神と思えない恰好だ」
「そりゃどーも」
青年は、鎌をふわりと消すと、拳をゴキゴキと鳴らした。
「てめーらにとくに恨みはねーんだが……、上客の頼みはきいておけってうるさくてな。悪いけど頼み事、二つ目、果たさせてとっとと帰らせてもらうぜ」
「……この俺とやり合うと?」
オロバスも、ゴキゴキと拳を鳴らした。
「やり合う? バカかよ。俺たちゃ悪魔だろ? ――殺しあうって言おうぜ」
刹那。
青年――もとい死神とオロバスの拳がぶつかり合った。
弾かれては撃つといった、極めて古典的な殴り合いだった。
それはとても激しいものだった。
ぶつかり合うたびに、その場にはビリビリと衝撃が走っていた。
「へえ――けっこうできるもんだな――でもよ」
「?」
「お前確か、魔術系が得意じゃなかったか?」
死神は、一際大きく身体をしならせると、すさまじい速度で拳を放った。
オロバスも当然拳で迎え撃ったが――しかし。
(重い―――ッ!)
死神の拳は、オロバスの拳を弾き、そのままオロバスの腹部へと放たれた。
「がッ」
とてつもない速度で、オロバスの身体は吹っ飛んだ。
ロクは目を見開いた。
華奢だとは思っていた。思っていたが、なんとなくやってくれるといった期待をしなかったわけではなかった。
瓦礫の山に激突してようやく止まったその光景をみて、ロクは思わず立ち上がろうと身体に力を入れて、崩れ落ちた。
疲弊した身体には、うまく力が入らない。
「ほらなー。何でお前魔術使わねーんだよ。普通突っ込む前に使えよ」
「ぐふ……ッ、………く、空気をよんだ、だけだ……」
「どんだけ真面目なんだよお前。バカじゃねーの?」
あきれた顔をして、死神はそばに落ちていた鉄パイプを拾い上げた。
ゆったりと、歩き出す。
ロクは身体を動かそうとしたが、腕はともかく、足の方は動きそうになかった。
(赤い、クスリ……続けて飲んだら、死ぬだろうか)
ふと、頭に銀色のケースが浮かんだ。手がそっとポケットに伸びる。
すでに身体は立ち上がれそうにはない。気を抜いたら意識さえ手放してしまいそうである。
ロクの真横を、死神はざりざりと音を立てながら通り過ぎた。
「ちと待ってろよ、お嬢さん。あっち動けなくしたら、次はてめえだ。安心しな。俺はレディには優しいからよ――殺す時は、一瞬だ」
「そ――それのどこが優しいのよ! この、悪党め!」
「悪党でケッコー。てめえらもさしてかわらねーだろ。もしどっかでまた会ったら、悪党同士よろしくやろーぜ」
「お断りするわ!」
いーっと牙をむき出しにするようにして、ロクはそばにあった瓦礫を精一杯死神の背中に投げつけた。
むろん、たいしたダメージにならないことはわかっている。
それでも投げつけずにはいられなかった。
「くそ、とまれ! とまれってば、この、無視してオロバスの方いくな、この、クソ死神め!」
ごつん。
わりと大きめな瓦礫が、死神の頭部を直撃した。
死神は、ゆっくりと振り向いた。
「――……てめー、どんだけ死にたがり?」
「――!」
青い瞳が、ぎらぎらと輝いていた。
まさしく殺人鬼。殺人狂。凶悪犯さながらの、狂気と悪意と殺意に満ちた瞳だった。
思わず、ロクは息をのんだ。
手に握った赤いクスリを、飲む行為すらためらわれた。
「ったくせっかちなやつめ――仕方ねーから、先にしてやるよ」
死神は、くるりと振り向いた。
鉄パイプを放り投げて、ふわりと手元に現した大振りの鎌をロクへ向ける。
(あ――死んだかも。わたし)
ぼんやりとそんなことを思って、ロクは振り下ろされる鎌を見つめた。
遠くから、オロバスの声がして、目の前が唐突に彼で染まった。
オロバス越しに見える死神の悪意に満ちた顔。
押し倒される身体。
迫る鎌。
ふと――ぱあん。と、はじけるような音が響いた。
「ぐ――」
ぼたぼたぼた。
赤い血液が、隙間越しに落ちていった。
からんからん。
鎌が、落ちる音と。
どさり。
死神が、崩れる音。
「うふふ」
そうして開けた隙間に見えたのは、一人の女性だった。
長く美しい、琥珀色の尻尾。
琥珀色の長髪。
青い瞳。しなやかな体躯。
その手には、似つかわしくない無骨な黒い鉄の塊。
「……っは……、てめー……本性表しやがった、な」
死神は、ひどく苦しそうに頭だけ振り向いた。
じわじわと彼の胸あたりから、真っ赤な液体が湧き出てくる。
「いやですわ。最初から利用させていただいただけですの」
ちゅ、と銃口に口づけして、女――イチジクは、妖しく微笑んだ。
まさしく妖怪にふさわしい微笑みだった。
その顔は、少なくとも旅館で最初に見た、女将としての面影がない。
「私の復讐には――帝王も例外なく含まれるのですわ。貴方、邪魔をしかねませんし」
「……だから、まとめて消しとく、と?」
「その通りです。私の兄は――そこの堕天使どもに殺されたのだから、その報いは全員が受けるべきでしょう? 一族まとめて、皆殺しですわ」
うっとりと、イチジクは殺意に顔を染めた。
ちゃきり。
銃口が、再び死神へ――オロバスの方へ、向く。
かち、とひかれた撃鉄に、しかし、くつくつと死神は呆れたように笑った。
「はっ――お前、魔界全土を……相手どるつもりか?」
あたかも、バカげているといっているようだった。
イチジクは、無表情で容赦なく死神の腕を貫いた。
「お黙り厭らしい死神め」
「うあッ……」
「死神らしい仕事もしないで、女遊びばかりしている遊び人には言われたくありませんわ」
しれっとした言葉に、ロクは何となく納得してしまった。
(やっぱり遊び人なんだ……)
そこにさしたる疑問は感じなかった。
なんというか、予想通りで残念な感じだった。
死神はよたよたと上半身を起こした。
顔色が青い。口調とは裏腹に、あまりよろしい状態には思えない。
息絶え絶えといった状態である。
「……貴様らのいう事象に俺の心当たりはないが……、魔界に住む堕天使が貴様の兄を殺したということか?」
「さっきからそういってるでしょう。貴方のお仲間がしたことよ。まあ、もっとも何年も前の話だから……貴方は知らないだろうけど」
ちゃきり。
今度は、銃口がロクへと向いた。
慌ててオロバスは、ロクを強く抱き寄せる。
「何のつもりだ。恨みがあるならば俺を撃てばいいだろう。妻は関係ない」
よくある刑事ドラマもとい刑事映画、ハリウッド映画の主人公さながらのセリフをさらりと吐いて、オロバスはイチジクに鋭い眼光をぶつけた。
イチジクは、実に飽きれた顔で撃鉄を引いた。
「……おバカですのね。さすがは馬」
「馬ではない。悪魔だ」
ぱあん。
オロバスの頬を、弾丸がかすめていった。
「次は外しませんわよ」
「おいおい……俺の時は、かすめるどころか……、撃たなかったか?」
ぱあん。
イチジクは容赦なく、死神のもう片方の腕を貫いた。
「貴様は私の尻を触るなど前科がありますので、容赦がないのですわ」
「ひっでー……」
撃たれた腕を撃たれた腕でさすりながら、死神は顔を歪めた。
すでに致死量と思われる血液が大量に溢れている。
とんでもない血だまりをみながら、ロクは何気なく、「死神の血も赤いんだな」と他人事のようなことを思った。
そもそも、こいつらは、死なないのでは。
そんなことも思ったが、事情が違うこともあるのかもしれないと自身を納得させた。
ちゃきり。
再び、銃口がロクへと向く。
「わかりません? そこの死神はともかく……オロバス。貴様は死ぬという概念がない。ともすれば、それに匹敵する苦痛を味わっていただくしかない――つまり」
かちかちかち。
撃鉄が、引かれる。
「私が味わった――最愛のひととの、別れです」
ぱあん。
一発目。ロクへの衝撃はなかった。
代わりにオロバスの肩あたりから血が噴き出るのを、ロクは見ていた。
弱っていた心臓が、激しい憎悪に目覚めた。
「あら。かばうの? どこまで耐えられるかしら」
ぱあん。
二発目。
オロバスの腕に当たった。
はじける甘い血と死の香りに、思考をすることすらためらっていた脳が、覚醒した。
「次は足でも行きましょうか」
ぱあん。
三発目。
オロバスの右足に被弾。
ぐふ、と彼の口から出た吐血に、ロクの手は握りしめていた赤いクスリを、わずかに開いた自身の口へと放り込んだ。
(何やってたんだわたしは――夫は妻を守って、妻は夫を守る。それが、夫婦なのに――わたしは!)
ごくん。
ためらわずに飲んだそれに。
どくん、と。
心臓が壊れそうなほど大きく、―――啼いた。
「お次は、肺かしら」
ぱあん。
四発目。
今度は――被弾しなかった。
ぼしゅう。
代わりに鉛玉が溶ける音がして、ぼたぼたと地面に穴が開いた。
「な―――」
イチジクの驚愕に満ちた声をぼんやりとした頭で聞きながら、ロクは溢れ出す炎にせかされるようにして、すっと立ち上がった。
守ろうと強く抱きしめていた腕は、撃たれた衝撃で弱まっていて、振りほどくまでもなく。
ロクが立ち上がったのと同時に、オロバスはゆっくりと崩れ落ちた。
からんからん。
ポケットから、銀色のケースが落下する。
「それってさ――復讐ってよりは、逆恨みってやつ、だよね」
ぽつり呟いて、ロクの髪は真っ赤に染まった。
真っ赤に染まった赤い瞳をパッチリ開いて、狂気に染まった顔を、ロクはイチジクへ向けた。
「ひっ――」
すごまれて、イチジクは思わず後退った。
カタカタ震える銃口をロクへと向ける。
しかしロクはひるまなかった。
足を、一歩、また一歩とイチジクへ向ける。
「わたしだって……わたしだって、恨みは買ってきたし、いつだってそういう復讐には立ち向かって死と一緒に生きてきた――どんな目にもあってきたけどね……」
「……っ」
「でもこれゆるふわほのぼの日常系物語だからッ! こーいうの、要らないんだよおおおお!」
ダンッ!
セリフとは裏腹に、ロクはバトル漫画さながらに跳躍した。
思い切り振りかぶった右ストレートが、イチジクの顔面をとらえた。
「ぶふっ」
炎をまとった拳に殴られたイチジクは、一直線にぶっ飛んだ。
引き金を引く暇すらなかった。
ぶっ飛んだイチジクが壁へと衝突して止まったのを確認して、ロクはさらに跳躍した。
追い打ちをかけるように、今度は左を突き出す。
「お、おいロク! お前、自分でいうわりには殴り合いのガチバトルだぞ!」
慌てて、撃たれた箇所を押さえながら、オロバスが身体を起こした。
満身創痍の彼には、さすがに止めに入ることができなかった。
「わかってんのそんなことは! でもね、やられたあんたの分と、わたしの分、そんでもってそこの死神にやられた分も、きっちり返さないと―――気が済まないの!」
とんでもない理不尽を口にして、ロクは左をイチジクの埋まった穴にぶち込んだ。
「これは、わたしの旦那の分!」
嫌な音が響く。
「そしてこれは、わたしがそこの死神に受けた屈辱の分!」
さらに嫌な音が響く。
「さらにこれは、わたしが楽史寺にはめられた恨みの分!」
ばき。ばきばきばき。
次第に壁が大きなヒビが入っていく。
「最後――わたしがあんたに受けた苛立ち分よ!」
バッコン! と大きな轟音を立てて、ロクは見事な回し蹴りを披露した。
がらがらと壁が崩れ去り、瓦礫の山へと姿を変えた。
崩れた壁のあと。
代わりにみえたのは、綺麗な星空だった。
「は――………」
いまだ炎をまとったまま、ロクはくるりと振り向いた。
手には、失神しているイチジクの姿があった。
ぶくぶくと口から泡を吹いているものの、顔が変形しているというわけもない。
呆然と事態を理解できずにロクを見つめた死神とオロバスは、一つだけ思うことがあった。
(こいつが一番バイオレンスなんですけど……)
しかし二人とも、口には出せなかった。
満身創痍な状態であんなふうに殴られたら、さすがの二人だってただでは済まないだろう。
ロクは、何事もなかったかのようにオロバスの方へ歩いてきた。
抱えたイチジクを、無造作に廊下の方へ投げた。
「それ回収しなさいよそこの化け狐二人」
ロクがそう声をかけると、ばつが悪そうに、二人。
男が現れた。
一人は真っ黒な髪に真っ黒な服、褐色肌といった、暗闇ではおそらく姿を視認することが難しい出で立ちをした男で、その身体には真っ白な包帯がいくつか巻かれていた。
もう一人はスタンガンを片手に持った、すらり背の高い男。
専務をしていた、七尾だった。
「御見それいたしました」
七尾は、深々と頭を下げた。
スタンガンがバチバチを音を立てている。
「……言っとくけど、あんたらにも今拳を打ち込みたい気分だからね。余計なこといったら容赦なくぶっ飛ばすからね」
ゴキゴキと脅すように、ロクは主に七尾を睨み付けた。
それが脅しではないことを体感している七尾は苦笑いを浮かべ、隣に立つ男はひいと悲鳴を上げた。
七尾はぺしりと男の頭を叩くと、強引にイチジクを担がせた。
「大変失礼いたしました。イチジクの復讐が頓挫するとは、引退したとはいえ……、貴方も中々イレギュラーのようですね」
「え? 殴られたい?」
「滅相もございません!」
燃え盛るロクにすごまれて、七尾は瞬時に土下座を披露した。
そこにすでに妖怪としてのプライドなどは存在していなかった。
「もちろん謝罪と事情の説明、あるんでしょ?」
「もちろんでございます。させていただきます」
「よろしい」
うなずくさまは、まるで軍曹のようだった。
オロバスは苦笑いを浮かべた。
このモードのロクが嫌いなわけではない。
むしろこれに一目惚れしたといっても過言ではなかったが……、勇ましい姿は自分よりもはるかに男前なのでは、と思わせた。
「ぐ、ふ……」
ややあって、イチジクが目を覚ました。
恨めしそうに、ロクを睨み付ける。
「くそ……くそ! 貴様……この小娘めえ……!」
「イチジク様、あまり無理なさらず……もう終わりにしましょう。計画は頓挫したのです」
「黙れ七尾! 私が、この私が……あんな小娘に……!」
睨み付けられたロクは、冷ややかな視線を返した。
「あはは、屈辱的でしょ。さっきの連続攻撃、最初以外全部当ててないもん」
「くう―――舐めおってえ……!」
ぎりぎりと奥歯を噛みしめるその姿は、なんだかドロドロした女の争いを象徴しているようでオロバスは心を痛めた。
死神は、呆れたようにため息をついた。
よたよたと、瓦礫に背を預けて、いつの間にか煙草をくわえている。
「七尾、八尾! この小娘八つ裂きにしろ!」
「ご冗談を――八尾はボロボロ、私もスタンガンしかありませんよ」
「スタンガンある時点であんたもやる気あるんじゃないの?」
「まさか。私スタンガンが標準装備なので外せないんですよ。ゲームで主人公から武器を装備なしにできないのと一緒です」
「でもあんた最初そんなものもってなかったよ」
「それはまあ、それです」
「ぶっ飛ばされたい?」
「勘弁してください」
ぼしゅ。
死神はそんな会話を聞きながら、煙草に火をつけた。
とてもそんなものを吸う余裕があるようにはみえなかったが、案外丈夫にできているようだ。
「ははっ―――、すげーなあのおじょうさん。ほんとに人間かよ」
「それについては保証できかねるが」
オロバスは、自慢げに笑った。
「間違いなく、俺の妻だ」
よたよたと、おぼつかない足元でオロバスは立ち上がった。
死神はそんな様をみて、ぷっと吹き出す。
「お前もすげーひ弱だな。地獄の連中はもっとタフだったぞ」
「むろん個人差はあるだろう。俺だって好きでこんなではない。貴様だって、そうだろう」
「ああ、違いねえな。俺だって好きでこんなタフじゃねえや」
けらけらと笑う死神に背を向けて、オロバスはロクの方へと歩き出した。
ロクは仁王立ちしたまま、イチジクの方を睨み付けている。
赤い炎は絶えることなく、彼女の身体を包んでいた。
一方のイチジクは、地団駄を踏んでいた。
ばたばたといらだちを隠そうともせずに暴れている。
当然、抱えている八尾にがつんがつんと攻撃が当たっている。
「イチジク様、もういい加減にあきらめをつけてください。八尾が死にますよ」
「べふっ、ほ、ほんと、勘弁し……」
「嫌よ! せっかく念入りに立てた計画なのに――それなのにこんな、こんな幕引きなの? 私は、私は認めないわ!」
「がふ!」
「イチジクさん……」
暴れるイチジクに、ロクはそっと足を踏み出した。
まさに、その時である。
ずどおん……と、建物が揺れた。
「……なに、今の揺れ……?」
大きな揺れだった。
まるで、下の階で柱を思い切り殴っているような。
ロクは、自身が開けた穴の方へと歩いた。
外が何だか、騒がしい。
「七尾! ちょっと、外、どうなっているの!」
いわれて、七尾もやれやれと歩き出した。
一足先に外の光景を見たロクは、愕然とした。
一面に広がるパトランプの赤い光。
散らばる無数の人影。
「こちらはっ! 帝都軍であるっ! 人質を解放しっ、いますぐ投降せよっ!」
しかしどういうわけか、警察ではないようだった。
メガホンを持っているのは、遠目でも目立つ銀髪の少女――マックスだった。
「イーちゃんきこえてるっ!? ロクさんたちを、解放しなさあい!」
頬をハムスターのように膨らませてそんなことを叫ぶマックスの隣。
青い髪の少女――おそらくフォードが、こともあろうに建物の壁を蹴り破ろうと試みていた。
慌てて七尾が声を張り上げた。
「ちょっとちょっと! 何やってんですか! ドア、開いてるでしょ!」
「――? きこえませーん!」
「いや聞こえてるでしょ貴方には! だって貴方兵――ごふっ!」
何か言いかけた七尾に、フォードの投げた瓦礫は直撃した。
七尾は白目をむいて倒れた。
「ははは……なんてバイオレンスな……」
ロクは苦笑いを浮かべながら、そんな七尾を憐れむような目で見つめた。
きっちり顔面に当てるあたり、タチの悪い暴力だと思った。
「はやく解放しないとお――フォード姉さんが建物壊しちゃうぞー!」
「そーだぞー!」
ベゴッン!
建物がまた激しく揺れた。
本当に破壊しかねなかった。
「万事休す、ですね……」
八尾と呼ばれた黒づくめの男は、苦笑いを浮かべた。
イチジクはわなわなと震えている。
「おいおい、まだやんのかイチジク? お前だって知ってるだろ。アレとやり合うってのが、どういうことか」
「………」
「俺はもう無理だと思うぜ。今なら許してくれるだろーし、謝ってこいよ」
「………わ、私はッ」
イチジクが何かを言いかけた、その瞬間。
べきっと嫌な音が響いた。
ばきばきばき。
地面に大きなヒビが入っていく。
「あ」
「わ」
「え」
がらがらと――ロク、八尾、イチジクの三人が、床ごと外に放り出された。
「あ。やっちった」
そんな顔をして、真下ではフォードが空を見上げている。
飛びのく暇もなく、八尾とイチジクが悲鳴を上げて落ちていった。
(――二人とも、怪我してた、よね!)
ロクは、瓦礫を蹴って二人を掴むと、力いっぱい元の足場まで放り投げた。
「ちょっ――貴方ッ……」
二人は駆け付けた死神にキャッチされて、涙目だった。
イチジクが、呆然とロクへ手を伸ばすも、はるか遠くである。
(よかった――けど、わたし、どーしようか)
自嘲気味に、ロクは苦笑いを浮かべた。
赤い髪が風に靡くのを見つめてみる。
(もう炎もコントロールできないんだけど……クスリ二つ飲んだからかなあ)
そうしている間にも、地面は刻々と迫ってくる。
不思議と、死ぬのは怖くなかった。
先ほどまでは何がなんでも抗ってやるつもりだったが、それもどうでもよくなった。
疲れた。
守れるものは守ったのだから、悔いはないと、いうべきか。
ふっと、ロクは目をつむった。
「ロクゥゥゥゥゥゥゥゥゥッ!」
耳をつんざくような絶叫が、不意に聞こえた。
刹那、ガシッと身体を抱き抱えられて、ロクはパチリ目を開ける。
「オロバス! あんた、なんで……っ」
ロクの身体を、オロバスが抱き抱えていた。
必死の形相である。ちょっと顔が怖い。
しかし彼の背に羽根などはない。あるわけもない。
堕天使といえど、彼はペガサスではないのである。
二人で速度をあげて落ちていくばかりだ。
「バカじゃないの……! あんたも落ちるつもり!?」
「落ちるだろうな。だが、オマエを一人、死なせはしない」
「はあ!?」
ぐいと強くロクを抱き寄せて、オロバスは真剣な声音で言葉を紡いだ。
「オマエは俺が守ると決めた。決めた以上は、何であろうと、守る」
「――! ……、ばっかみたい」
くすくすと苦笑しながら、ロクはそっとオロバスの肩に腕を回した。
「でも、誠実だね」
「だからいっただろう。俺は誠実なのだ」
「うん、そーだね」
この上ない幸せとすさまじい風とを共に味わいながら、二人はそのまま落下した。
しばらく経ってもまるで地面が迫ってこないので、ロクは不思議に思ってあたりを見渡した。
もしかしたら一瞬のうちに死んでしまって、ここは極楽なのかと思ったがオロバスがいるのを視認して違うと判断した。
二人は、地面よりもまだ少し上。
地上二階くらいの高さで、停止していた。
「――っふう……間に合った、かな?」
ロクが顔を上げると、そこには銀髪の青年の姿があった。
死神――ではない。
爽やかな笑顔と、整った顔立ち。そして何より、銀色の瞳が、どことなくマックスを思い出させた。
青年は、にこにことロクとオロバスとを見下ろしている。
ややあって、オロバスが呆然と、口を開いた。
「……帝王……」
「……え? 帝王!?」
ロクは思わず声を荒げた。
二人を優しく抱きかかえて、青年はその真っ黒で大きな翼で宙に浮いている。
その様は帝王というよりは、天使に近い、とロクは思った。
優しげな顔立ちと雰囲気がどうにも『魔界』とそぐわない。
「あ、初めましてだよね? 俺はハイゼット! よろしくね、ロクちゃん!」
「え、あ、はい……って、なんで、わたしの名前……?」
小首を傾げるロクには答えず、青年、ハイゼットはオロバスに顔を向けた。
「あはは、オロバスくん、よく頑張ったね!」
にかっと笑う顔は、マックスそっくりだった。
そこだけは帝王だと確かに頷ける部分だった。
と、地上から声が掛かった。
「とーさん早く下してあげてよ! 二人ともボロボロなんだから!」
マックスである。
ぴょこぴょこと跳ねるツインテールが愛くるしい。
「ごめんごめん、幸せそうだったから微笑ましくて」
たははと笑うハイゼットの何気ない一言に、オロバスは一瞬で茹で上がった。
(なんだこいつ……ホントに帝王なの? バカみたいに人の好さそうな顔してるけど)
どちらかといえば――先ほどの死神の方が、よっぽど魔界が似合っていた。
血を血で洗う、潔さというべきか。覚悟というべきか。
殺伐とした中で生きる、冷酷さともいうべきか。
「……あれ?」
そこでロクはふと気が付いた。
先ほどまで苦しくてどうしようもなかった身体が、驚くほど楽だった。
コントロールを失って出しっぱなしになっていた炎も、いつの間にか収納されている。
いつもどおり――髪が真っ黒に戻っている。
「どうした、ロク。どこか痛むか?」
心配そうに、オロバスが顔を覗き込んだ。
「ううん……何でもない」
本当なら、もう気を失っていてもおかしくはない。
いつもならぷつんと意識が切れてしまってもおかしくはない。
けれどそんな予兆はまるでなかった。
用法・容量を正しく守っていないこともあって、大丈夫だという確証はそれこそまだ持てなかったが。
ハイゼットにそっとおろされて、ロクとオロバスはようやくのこと地面に足をつけた。
すぐにマックスが駆け寄ってくる。
「マックスちゃ……」
「ロクさあああああんっ!」
ゴッ!
しかしその勢いは衰えることがなかった。
思い切りロクに突進をかまして、マックスはロクの腕の中に飛び込んだ。
「ぐ、う……だ、大丈夫だった、マックスちゃん」
なんとかこらえて、ロクは無理矢理笑顔を作る。
「ロクさんこそ! ごめんね、ごめんね、もっとはやく助けにいけるはずだったんだけど、直前になって七尾さんが……」
マックスは思い出していた。
ちょうどロクと死神とが戦いを始めた頃。
乗り込もうと決心し、旅館の部屋を出ようとしたその時。
七尾が大量のデザートをもって現れたことを。
そしてそのデザートにフォードが囚われたことを。
「全部食べ切るのに時間かかっちゃって……」
「遅れたのそんな理由!? マックスちゃんも怪我してたとかじゃなく!?」
ロクはぐっと拳を握った。
楽史寺だったら殴っていたところだった。
「あとは父さんに連絡全然つかなくて、デスに連絡したんだけどそっちも全然つながらなくて、乗り込み方法どうしようかなって」
「デス?」
「そう、父さんの親友で魔界のナンバー2なんだけど……あ、デスーっ!」
マックスが手を振る方向に、ロクも何気なく目をやった。
そして目を見開いた。
限界まで見開いて、事実を受け入れるために握りしめた拳を震わせた。
それは。
「よお、おじょーさん……大丈夫そうだな」
あの死神だった。
見るからにボロボロである。
さまざまなところから出血をしていて、あげくすでに顔色が青白くなってきているが、彼は咥え煙草などをしてにやついていた。
その少し後ろには、下されたらしいイチジクと七尾、八尾の姿がある。
ぺしっとハイゼットがその頭を背後から叩いた。
「もう、ちゃんと謝りなさい!」
「はあ? 俺何も謝ることねーだろ!」
「ロクちゃんに手痛いことしたんでしょ? 俺の電話にも全然でないし!」
「あのな俺は死神で悪魔だぞ? 当たり前だろうがその程度!」
「当たり前じゃありません!」
ぎゃあぎゃあと喚く二人を見て、ロクは脱力した。
まるで子供の言い争いである。
仲の良さだけはしっかりと伝わってくるものの、どこか苛立ちも去来した。
「仕事でやってるっつってんだろ!」
「それで殺しちゃったらどうするの!」
「そんなミス俺がしたことあったかよ!」
そんな言い合いを受けて、ロクはため息をついた。
(じゃあ、この死神は……わたしのことも、オロバスのことも、どうこうするつもりはないのにあんなセリフを……すごい俳優じゃん)
もはやアカデミー賞ものだろう。
というか本当にあれは演技だったのだろうかと思うほど、すさまじい殺し合いだった。
ロクが平凡な軍人だったら死んでいたのではないだろうかと思うほどである。
「……ってわたし、軍人じゃないし」
自分で自分をぺしりと叩く。
「ねー、このひとたち、どーするのー?」
振り返ると、フォードがイチジクらを一まとめに縛り上げていた。
七尾は白目をむいたままである。
八尾にいたっては、現在進行形でフォードにさりげなく首を絞められている。
イチジクは帝王をみても、諦めた様子はなかった。
ギリギリと歯を噛み締めて、悔しそうな表情を浮かべた。
一方、そんな視線を受けて、帝王は困った表情を浮かべた。
周囲を取り囲んでいた大勢の人影は、どうやら軍人と悪魔の両方だったらしい。
わらわらと壊れそうな建物から死体を回収している。
ロクは、イチジクに歩み寄った。
「……なんです? 嫌味でも言いにこられましたか」
イチジクはぷいとそっぽを向いた。
傍らで八尾が懸命に助けを求めている。
そんな助けは無視して、ロクは「あー……」とばつの悪そうに、言葉をにごらせた。
「わたしもさ……、とある人物にこの世の恨みみたいの、ぜーんぶ投げつけてみたことあったんだけど」
遠い昔。
記憶もまだあまり定かには残っていない頃。
小さな身体には不釣合いなほど無骨なナイフを、ロクは彼に振り回した。
ナイフはたわいなく彼の身体を抉り、真っ赤な液体を撒き散らした。
痛みに顔を歪めた彼は、しかし死ぬことはなかった。
それでいてロクを殴ることも反撃に出ることもなかった。
ただ、彼は。
『ごめんな、世界が残酷で』
そう、ロクに謝った。
それはあんたのせいなの、とロクは思った。
しかしそれ以上ナイフを振ることも反論することもできなかった。
『でもどんなに世界が残酷でも、やるしかないんだ。生きている限りは生きなきゃならない』
ただ両親と引き離され、あげく両親を殺され。
孤独と理不尽に耐えていたロクの心は、その一言で救われた。
後にも先にも、彼のあんな顔をみたのは、あれっきりだったような気がする。
「そんなことしても、世界は何も変わらなかったよ。わたしのしたことなんて誰もかれも見向きもしない」
部下が上司を刺したといった案件だったが、それは軍隊内部にも上層部にも漏れることはなかった。掻き消されたのだろう。
「………」
「だけどさ、生きてくしかないじゃん。やるっきゃないんだよ、きっと」
「……」
「ほのぼのっても、そんなに悪くないよ」
ね、と笑うロクに、イチジクはボロボロと泣いた。
生まれて初めて、わんわんと泣いた。
それからしばらくして、イチジクはリムジンに抱え込まれて旅館へと帰っていった。
そんな様を見送れるほど、ロクの体調はきわめて良好だった。
オロバスだけは、終始心配そうにロクを見つめている。
「ロク、オマエも早く医療機関を受診した方がいいんじゃないか」
「んー? ああ、わたしなら大丈夫。そのうち楽史寺に軍医連れてきてもらうから」
「そのうちって……こんな血が出てるのに」
「あははこんなのかすり傷だよ。あんたのがすごいって」
「俺は死にはしないが、オマエは違うのだぞ」
真剣な顔をするオロバスに、ロクは顔をひきつらせた。
病院に行きたくない――わけではない。
ただ、軍医を呼ぶのが面倒なのである。
一般の病院にはいまだかかることが許されないロクにとって、そしてそのことをあまり公にしたくないロクにとっては、小さな難題だった。
「それにオマエ……その、何か無理をしただろう?」
「無理?」
「よくはみえなかったが何か薬を飲んだだろう。身体によくない色をしていたぞ」
オロバスは、服のポケットから銀色のケースを取り出した。
ちょうどなくなった、赤いクスリの入っていた場所を指さす。
ロクは「あー」と唸った。
なんて説明していいかまるでわからなかった。
「それは、その、確かに身体によくない色してるけど……なんていうか」
ごにょごにょと語尾を濁らせて、ロクは視線を逸らした。
実は軍人の中でも特殊な軍人で、社会なんて全く知らなくて、つい最近普通に戻りかけていた異能者なんです! ……とは、口が裂けても言いたくない。
戸惑ったロクに、オロバスは見かねたように呟いた。
「俺は別に、オマエが『身体から炎を出せること』を隠していたことについてどうこういっているわけではない」
「へ?」
「あれ自体はまるで戦の女神のように美しかったと思うが、それをすることでオマエの身体に負担がかかるのではないかと言っているのだ」
じ、とあまりにもまっすぐな目で見つめられて、ロクは頬を赤らめた。
「そ、そうなの? い、嫌じゃないの? 全然普通じゃないし、乱暴だし……」
「嫌ではない。見事だった」
「……ほんと?」
「ほんとだ」
頷くオロバスに、ロクは思い切り抱き着いた。
比例するように彼を抱きしめる腕には力が入る。
「もー大好きだからねオロバスっ!」
「わ、わかった、わかったから病院に……ぐふ」
ほどなくして、オロバスはお決まりのように地面に崩れ落ちた。
顔は真っ赤。
口からは少し泡を吹いていた。
そんな彼の頬をぺちぺちとロクが叩く中、黒いリムジンが停車した。
「も、もしかして……っ、本当のラスボスがきちゃったとか!?」
マックスが青ざめながらロクの前に出た。
フォードもそれに続くように、
「むふふ、イチジクちゃんとやり合う時間なかったからねえ、まだまだイケるよ俺」
謎の構えを披露した。
そんな二人を見つめるハイゼットは、なぜか「え、これ、終わったんじゃないの?」とデスの傍らでそわそわしている。
ロクに至っては全く取り合わない。「もしもーし」とオロバスを呼ぶばかりである。
ただ一人デスだけは、きわめて冷静だった。
「や、ありえなくね? ここにきて敵さん登場とかなくね?」
とツッコミを入れた。
「いやいやいや」
フォードがぐっと腰を低くした。
得意技を放つ予備動作である。
「案外、あるかもしれない――じゃん!」
がちゃ。
ドアが開いて、男が出てくるのと。
男めがけてフォードが、
「ライダーキィック!」
という名の跳び蹴りを披露するのはほぼ同時だった。
めぎゃ。
男は顔面にライダーキックを受けて、そのまま車内へと押し込まれた。
「ちょっとおおおおおおおお!」
慌てて、運転席から黒い髪を短く切り込んだ男が降りてきた。
その身体には軍服を身にまとっている。
胸には『カミセ』とカタカナで刺繍されていた。
「あんたねえ! 出てくるなりライダーキックはないでしょ、ライダーキックは! ダメだよこのひと実戦から離れてるんだから!」
楽史寺さん、大丈夫ですか、楽史寺さん!
男――カミセはそう、倒れた男の名を呼んだ。
一方のフォードはまるで悪びれる様子がない。
「え? 敵じゃないの? なんで?」
そんな表情である。
マックスの方は「ああ」と苦笑いを浮かべ、ハイゼットの方は真っ青になってフォードを止めるように抱きかかえた。肘鉄をくらった。
「う、お、おお……なんかすげー蹴りくらった……ショッカーになった気分だ」
「大丈夫ですか楽史寺さん。貴方はショッカーじゃないですよ」
「ああ……大丈夫だ。さっきまで『イー!』って叫ばないとダメな気がしてたけど大丈夫だ」
カミセに抱えられて、男、楽史寺は立ち上がった。
頭を手で押さえている。
きょろきょろとあたりを見渡して、楽史寺はようやくロクを発見した。
「おーい、ロク!」
手を振る始末である。
「……楽史寺?」
ゆらゆらと、ロクが立ち上がった。
彼にはまるで反省も悪びれた様子もなかった。
おそらく彼は知らないのだろう。
ロクが腹にためた苛立ちのすさまじさを。
くるりと振り向いたロクに、楽史寺は手を挙げて歩み寄っていった。
「お。ロク! いやあ悪かっ―――」
「一回死んで詫びろ楽史寺ィィィイィ!」
ベキィ――。
トドメをさすように、ロクは腕を振りかぶって走った。
それはいわゆるラリアットだった。
思い切り跳ね上げられて、楽史寺は宙を舞った。
「げふ」
リムジンの上に落下した楽史寺は、しばらくぴくぴくと痙攣していたが、
「トドメだ!」
というフォードの遊ぶような無邪気な掛け声とともに、腹に跳び蹴りをくらって沈黙した。
ハイゼットとマックスはあたふたし。
ロクとフォードはハイタッチし。
オロバスは白目をむき。
ただ一人、カミセは、
「あああああ俺のリムジンがああああああッ!」
と、悲鳴を上げた。
黒のリムジンは買って間もない新車だった。
そんな光景をきわめて冷めた瞳で見つめていたデスだけは、
「……これ、ほのぼのか?」
と、ぽつり呟いた。
太陽が昇り始める、ほんの数時間前のことだった。
馬と鹿。 黒谷恭也 @hixfi
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