第2話 馬と鹿と新婚旅行

 夕方の商店街は、活気に沸いていた。

 そこはまさしく戦場だった。

 タイムセールという、主婦の戦場だった。

 スーパーの内部では、血を血で洗う激戦が繰り広げられていた。

「さあさ安いよ安いよー早い者勝ちだよー!」

 メガホンを持った男の声が響く。

 それはあたかも戦国時代、法螺を吹く兵士のようだった。

 開戦の合図である。

 男の傍らには、一パック二百円と書かれた紙。

 そしてずらりと鮭の切り身が五つ入ったパックが並べられている。

 男の声と同時に、あたりに散らばっていた主婦が一斉に動いた。

「はああああああッ!」

 一人の主婦は猪突猛進した。

「ぎゃあああああああ!」

 前に押した荒ぶるカートによって、幾人もの主婦が倒れていく。

 また別の主婦は、

「ふんばああああああああ!」

 両側でひしめく主婦らをその気合いで弾き飛ばし、パックを三つ手にした。

 大柄な彼女に太刀打ちできるものはいなかった。

 床を転がる主婦たちは、ぐっと拳を握って去っていく。

 弱肉強食の世界である。

 ――と、ここで。

 群がる集団の上に、影が落ちた。

「な――ッ」

「―――」

 彼女たちのはるか頭上。

 飛び越えるようにして、無表情で跳ぶ、一人の女がいた。

 彼女は集団を飛び越え、呆然とした男のそばに着地。

 何ということもないように、パックを五つ手に取って、再び跳躍した。

 ――すちゃ。

 華麗に着地。長い黒髪が、サラサラと揺れる。

「なんていう女だ……」

 幾人もの主婦がその光景に目を見開く中。

 彼女は持っていた買い物かごの中身を確認して頷き、すたすたと何事もなかったかのように飲料水コーナーへと消えていった。

 むろん、六倉 鹿、そのひとである。

(ここのセール、安いけど疲れるんだよね)

 戦わずして獲物を勝ち取るという、軍人のステータスをひけらかして、ロクは頷いた。

 それが普通ではないことは、彼女は残念ながら気づいていない。

 それは旦那が悪魔であり、オロバスであることも要因である。

 たしなめる人物がいないのである。

(これで今日ムニエルが確定したから……、あとは紅茶買わなきゃ。オロバス紅茶ないとすごい残念そうな顔でこっちみてくるんだよね……)

 飲料水コーナーを通り抜けて、ロクは茶葉のコーナーに足を踏み入れた。

(ティーパック……だったら怒るだろうな)

 わざわざティーセットを持ってくるくらいだもんな……。

 ロクはあごに手を当てて、じいと品定めするように目を凝らした。

「あれ? ロクちゃん?」

 という、背後からの声も無視である。

 ロクの背後には、ロクにとって見覚えしかない人物が突っ立っているのだが、振り向こうともしなかった。

 紅茶の茶葉が入った数種類の商品をじっと眺めたまま、動かない。

 見かねて、背後にたった男はロクの肩を叩いた。

「もしもーし、鹿ちゃんてば……いっだだだだだだ!」

 腕が捻じれた。

「ああすみません、つい」

「ついで君は背後の人物を確認もせずにねじるのかい!」

「わたしの背後に立つなってことで」

「君はどこぞのスナイパーかい!」

 ねじれた腕を抱えながら、男は痛そうに擦った。

 さして悪びれもなく、ようやくロクが振り返る。

「それはそうとお久しぶりですね、楽史寺さん」

 男は、かつての上司。

 楽史寺 三徹。そのひとである。

 いつもの制服はどこへやら、今日はカジュアルな私服だった。

 ロクはあからまに顔を歪めた。

 ロクたちには自由などなかったのに、この軍人はずいぶんと自由そうだった。

「うん、久しぶりだね。久しぶりに暴力を振るわれたよ」

「それはよかった。懐かしかったでしょう?」

「懐かしいというか心が折れかけてる」

「なおよかったです」

 品定めしていた紅茶の一つを手に取って、ロクは買い物かごに投入した。

「何してるんですか、こんなところで。リストラでもされました?」

「違うよ。されてたらもっと浮浪者みたいな恰好するよ。今日、休みなんだよ。それで買い出しにきてるの」

 楽史寺は自らの持つ買い物かごを差し出した。

 中には食材が山のように入っている。

「軍人に休みってありました?」

「上官はあるの!」

「いいですね上官様は。暗殺したくなります」

「やめてね!?」

 ふと、楽史寺の視線がロクの買い物かごへと移動した。

「あれ。ロクちゃん紅茶なんて飲むの?」

「いいえ。旦那が飲むので」

「ああ、あの馬の!」

「あんなでも出身はヨーロッパ方面ですからね。コーヒーよりは紅茶の方が好きみたいで」

「へー。ロクちゃん、ちゃんと奥さんやってるんだね」

「当たり前ですよ。結婚したんですから、結婚!」

 ロクは見せつけるように、指にはめた指輪を差し出した。

 楽史寺はずき、と胸を痛めた。

 彼は未だ独身である。

 結婚していない、する気もない独身貴族様である。

「結婚できないわけじゃなかったんですよ、わたし。きっと旦那に巡り合うために待機してただけなんです」

「うわーすごい惚気だね!」

「惚気られないひとには辛すぎますか?」

「うん、なんだか涙が止まらないよ」

 二人は茶葉のコーナーを外れて、レジへと移動した。

 楽史寺の顔には涙の痕が残っていた。

 ロクは、分厚い財布を取り出す。

「……旦那さんて稼ぎいいの?」

 そんな財布を横目でみつめながら、楽史寺は呟いた。

「さあ? わたし、給料明細とかみたことないんで。でもわたしが稼いだ分ですでに一生遊んで暮らせるくらいありますからね」

「そういえばそうだったね……」

「楽史寺さんだって稼ぎはいい方でしょう?」

「俺の場合は博打に消えるの」

 真顔でそんなことをしれっという楽史寺に、見えない角度でロクは肘鉄を放った。

 楽史寺の脇腹は大ダメージを負った。

「みえませんね、博打するなんて」

「何いってんの。司令官なんてのはね、ずっと博打をしているようなものなんだから。どんな仕事も確定した結果なんてない。全部賭け事なのさ」

 さらりとそんなことを言ってのけて、楽史寺は笑った。

 爽やかな笑顔である。

 対するロクは呆れ顔だった。

「盛大に負けた時は死んで詫びるわけですね?」

「君、俺のこと嫌いかい?」

「ええ、とてつもなく」

 会計を終えて、二人は袋にものを詰め込んだ。

 楽史寺はビニール袋(一枚五円)。

 ロクはエコバックである。

 そんなロクの様子をみて、楽史寺は怪訝な顔をした。

「お金あるのに節約かい」

 視線を受けて、ロクは鼻で笑った。

「バカですね。エコバックの方が強度があり、なおかつ主婦っぽくみえるんですよ。それにこのエコバックはそうそう破れない、戦車が踏もうがミサイルが当たろうが全然大丈夫という、軍医ドクの特製品です」

「まさかそれだけのために、そのバック作らせたの?」

「もちろん。札束一つで嬉々として受けてくれました」

「あの金の亡者め……」

 楽史寺は頭を抱えた。

 脳裏によみがえるのは、医者だというのに常時ガスマスク着用の白衣男。

 素顔は誰も知らないという伝説を持つ、医者兼発明家の男である。

 通称ドク。

 本名は、軍の上層部ですら誰も知らない。

 そんなドクの趣味は発明と新薬開発、そしてお決まりの解剖なので莫大な費用がかかるわけである。そんな彼は、当然のように軍内部の者から独自の依頼を、高額な報酬と引き換えに受けているわけである。

 ロクはスマートフォンの画面を差し出した。

「実はドクとわたしはメルアド交換してるんで、いつでも連絡がとれるんですよ」

「いつの間にしてたのさ……」

「先日赤いクスリを使った際の副作用報告の際に」

「ああ、あの日か……そういえばロクちゃん、髪と目、どしたの? 真っ黒だけど」

 ふとして、楽史寺は小首を傾げた。

 彼の記憶では、ロクの髪は赤いメッシュが入り、目はオッドアイだったはずだ。

 ああ、とロクは頷いた。

「これですか。赤いクスリ飲んだ後、戻ったんですよ。黒に」

「……え?」

「だからメッシュも入ってませんし、カラコンもつけてません。不思議なもんですよね」

 ロクは黒髪を手ですいた。確かにスプレーをした痕跡はなかった。

「そ、そう、なんだ」

 ものを詰め込んだ二人の耳に、からんからんと鳴るベルの音が届いた。

 ふと視線をやると、少し離れた場所で人々が集まっている。

 小首を傾げるロクに、楽史寺は「ああ」と呟いた。

「そういえば今、買い物三千円ごと一回で、抽選会やってるんだっけ」

「抽選会?」

 なおも小首を傾げるロクに、楽史寺はレシートを見せた。

「そうだよ。レシートみせると、あのガラガラ回させてくれるの。金色がでたら一等、銀色は二等、赤は三等、白は残念賞!」

「楽史寺さんそのレシートいただきます」

 返事を待たずに、ロクはレシートを奪い取った。

 自らのレシートも合わせて、五回はひけそうである。

 家路につこうとしていた足を、会場に向ける。

「あ、ちょ、興味あるの?」

 慌てて、楽史寺はロクを追いかけた。

「一等を当てれば、アレがもらえるわけですね?」

「アレって……ああ、温泉旅行?」

「実は新婚旅行、まだでして。キッカケさえあれば旦那もいくかなと……」

 もじもじと頬を赤らめるロク。

 思わぬリアクションに、楽史寺は固まった。

 そんな反応が返ってくるとは、思わなかった。

 ロクはすたすたと歩いて、係員のお姉さんにレシートを提示した。

「あ、はーい。計五回、まわしてくださーい」

「………」

「ロクちゃん、怖いから。目、すごいから」

 気合いを入れて、ロクはぎゅるんとまず一度、回した。

「おめでとーございまーす! 赤、三等でーす!」

 ぎゅるん。

「おめでとーございまーす! 赤、三等でーす!」

 ぎゅるん。

「おめでとーございまーす! 赤、三等でーす!」

 ぎゅるんッ。

「おめでとーございまーす! またまた赤、三等でーす!」

 計四回。

 全て三等という結果に、ロクは片膝をついた。

「く、くそ……わたしでは一等、いや二等すらひけないと……!」

 わなわなと震えるロク。

 お姉さんは苦笑い。

 楽史寺も苦笑いである。

「い、いいじゃんかロクちゃん。赤だってすげー立派だよ?」

 ほらほらみてみて。

 楽史寺は三等の景品を指さした。

 お米である。

 お米五キロである。

「一等じゃなければ意味などないんです!」

 ぐぐ、と拳を握りしめるロクに、楽史寺は、

「だったら最後一回、俺に任せてよ」

 と、呟いた。

 ギロリ。黒い瞳が一瞬赤く光る。

「――失敗は許しませんよ」

「いったろ。人生は博打と一緒。司令官は勝ち続けないといけねえんだよ」

 カッコよくそんなことを呟いて、楽史寺は手をかけた。

「いいから俺に、賭けておけ」




 帰り道。ロクは五キロの米袋を四つ抱えて歩いていた。

 計二十キロの重さと、ついでに購入した食材等もあわせて、いい重さというよりは持ち歩きを困難にする重さだったが、ロクに限ってはさしたる問題でもなかった。

 軽々とそれらを担ぎ上げて歩く様は、やはり軍人さながらである。

 その隣には、肩を落として歩く屍のような男がいた。

 楽史寺である。

「……」

 結果から言って、楽史寺は賭けに負けた。

 それも完敗だった。

 彼が引き当てた色は、白だった。

 景品はティッシュペーパーだった。

「楽史寺さん。すごい顔ですね」

「…………」

「白い顔、漫画みたいですよ」

「………」

「ねえ、楽史寺さんてば」

 先ほどからずっとこの調子である。

「もういいですってば。楽史寺さんに賭けたわたしがバカだったんです」

「……すまない」

「まじで謝るなんてらしくないですよ」

「ホントにすまない……」

「わかりましたってば」

 うんざりしたように、ロクはため息をついた。

 楽史寺はがっつり落ち込んでいる。

 もうこの上ないほどの落ち込み方である。

「そんなに気にするなら、新婚旅行プレゼントしてくれてもいいですよ」

「考えておくわ……」

 不意に、楽史寺の胸ポケットが振動した。

 携帯が鳴っている。

 楽史寺は瞬時に白から色付いた。

 ばっと耳に携帯を当てる。

「俺だ。……ああ、ああ。わかった」

 ぱたんと携帯を閉じて、ロクに向き直る。

「すまん、呼び出しだ。これにて失礼する」

「すごい変わりようですね」

「仕事のスイッチは常に持っておかねばならんさ」

 楽史寺の背後から、黒いリムジンが走ってきた。

 どこから来たのか、いいタイミングである。

 きちんと楽史寺の真横で停車して、自動でドアが開いた。

「この借りは必ず返す。ではな」

 落ち込んでいる楽史寺はすでにいなかった。

 いつも通りの、昔から知っている顔でリムジンへと消えていった。

 黒のリムジンは、楽史寺を飲み込んで走り去っていく。

「……あんなだから奥さんいないんだよ」

 ぽつり呟いて、ロクは口元を緩めた。

 あんなでなければ、やはり楽史寺ではないと思った。

 それからしばらく歩いて、ロクはマンション前で立ち止まった。

 一軒家を建てると張り切ったオロバスだったが、それもまた夢の話。

 金はあれど、一軒家はそうそう簡単に建つものではないのである。

 結果、建つまでの仮住まいとして比較的普通のマンションを借りたというわけだった。

 エレベーター……ではなく、階段を淡々とあがって、ロクは八階、最上階までたどり着いた。

 息一つ乱さず、自宅前で立ち止まる。

「やれやれ……どうにもエレベーターって使う気になれないんだよね」

 誰に呟くでもなく、ロクはそんなことを言って鍵をあけた。

 そのあからさまに普通とはかけ離れた姿をみて、近隣住民が「あそこの奥さんってとんでもない力もちよね」などと噂をしているなどとは、ロクには知りようのない事実だった。

 自宅に入って、ロクは米袋をどさどさと置いてリビングへと向かった。

 休むことなく食材を冷蔵庫へとしまう。

「今日の夕飯何にしよっかな……。また疲れて帰ってくるんだろうな、オロバス」

 ふと連日の光景を思い出す。

 最初に出会った時も感じたが、オロバスは悪魔と思えないほど真面目である。

 そもそも悪魔のイメージなど、どれも曖昧なものではあるのだが。

「何か精のつくものがいいよね……」

 呟きながら、ロクは一冊の本を取り出した。

 いわゆる料理本である。

「うーん……」

 ぺらぺらとめくりながら、ロクは唸った。

 いくら勉強したとはいえ、いくら軍人時代も積極的に料理をしたとはいえ……。

 ロクはさほど料理を知らない。

 基本は軍内部の食堂で摂っていたし、そうではない場合もサバイバル的な食事が主である。

 こういう時、奥さんというのは何を作ってあげているのだろう。

 こういう時、奥さんはどうやって旦那を元気づければいいのだろう。

 どうやって……。

「……考えてみたら、主婦の友達っていないんだな。わたし」

 軍人の友達は腐るほどいるが、よくよく考えれば『普通』の友達は誰一人いなかった。

 それもそうだろう。出会わないし、仲良くなるようなキッカケもご近所さんにはない。

「悩みの相談口くらいは、ほしいけどなあ」

 そう考えると、ロクはオロバスがうらやましかった。

 彼には少なくともいるだろう。

 職場にも、プライベートにも。

「とりあえずハンバーグでも作るかなあ」

 ぱたん。

 本を閉じて、ロクは冷蔵庫を開けた。



***



 ロクは心を躍らせた。

 目を輝かせて、年甲斐もなくはしゃいでいた。

 硫黄の匂いが幽かに混じった空気を肺一杯に詰め込む。

「んーっ、空気がいいねー!」

「……そうだな」

 傍らにはいつも通り、オロバスがひきつった顔で苦笑している。

 今日は馬ではない。ヒトに化けた状態である。

 彼の顔がひきつっている理由は、今まさにしている硫黄の匂い以外に他ならないのだが(この匂いは地獄でも嗅ぐことが可能である)、そんなこと、ロクはお構いなしだった。

 事の発端は、抽選を外した楽史寺が本当に旅行をプレゼントしたことにある。

 仕事のはずみでバンカに喋ったところ、プレゼントしないと仕事をしないとごねられたのだという。

 元職場一同からプレゼントされた突然の旅行に、戸惑ったのはオロバスだったが、ロクの行きたい気持ちがあらわになった反応をみて、反対はしなかった。

 彼の最優先項目は、ロクである。

「やっぱり登別だよねー」

 二人にプレゼントされたのは、登別湯めぐり三泊四日である。

 四月だというのに、いまだやんわりと雪が残っていた。

 とはいえ、軍の本部があるのは北海道の奥地であり、ロクも住まいを北海道から移したことはなかったので、さして空気がおいしいとかそういうことはないのだが……。

 それでも北海道の有名どころにいったことのないロクにとっては、十分興奮しえる状況に違いはなかった。また旅行は結婚と同様の、彼女の夢である。

「まずは宿で荷物下さないとね!」

 ぎゅ。

 腕を掴んで、ロクは微笑んだ。

「そうだな。さすがにこの荷物をもって移動するのは俺もつらい……」

「あんた悪魔でしょ。てか、何もってきたのその大荷物……」

「や、万が一に備えて……」

「あんたが備えてるのは大災害?」

 オロバスはとんでもない量の荷物を背負っていた。

 一体全体、何が入っているのかは謎である。

 ロクが支度を終えて振り向いたら、すでにオロバスはこの状態だった。

「それにしても、楽史寺さんも中々いいとこあるよねー。旅行プレゼントしてくれるなんて」

「よほど誰かに脅されたとみえる……あの男も苦労人だな」

「ほんとにねー。わざわざ列車のチケットまでとってくれて、すごいわ」

 北海道奥地、軍の本部から三時間ちょっとの位置にある小さな町に住んでいた二人は、軍関係者以外使わないという列車の駅から乗車し、ここ、登別駅までやってきた。

 一般客と乗り合わせることもなかったので、幾分気楽な旅だった。

 ここからは、ホテル側から送迎の車が出る手筈である。

「なんか、楽史寺さんの知り合いの知り合いらしいよ。ここのホテルの経営者」

「ほう? 知り合いの知り合いとは、また微妙な」

 少し歩くと、車道に黒いリムジンが停車していた。

 運転席から、和服を着た男が出てきた。

「ようこそお越しくださいました、六倉様……。どうぞ、こちらへ」

「あ、どうも。よろしくお願いします」

「………」

 そっとドアが開けられた。

 ロクは男に一礼して、車内に乗り込んだ。

 男はオロバスの荷物に目をやると、

「そちらの荷物、トランクに積ませていただきますね」

「ああ、頼む」

 オロバスから荷物を預かった。

 さして筋肉質にもみえなかったが、男はひょいひょいと荷物をトランクへ積んでいく。

 ロクの隣に、オロバスも乗車した。

 男はばたんとドアを閉めると、運転席へ乗り込んだ。

「改めましてわたくし、帝立クタラ地獄温泉郷の専務をしております、『七尾』と申します。当支配人の『九(いちじく)』がご挨拶に参れず申し訳ありません」

「いえ、別に……」

「本日は楽史寺様のご紹介ということで、こちらの旅館をご利用いただき光栄でございます。心行くまでくつろいでくださいませ」

 七尾は整った顔立ちで美しく微笑んだ。

 切れ長の細い目が、なんともいえず美形である。

 ロクは、ほへーとその顔をぼんやり眺めていた。

 隣のオロバスは、先ほどからどこか落ち着かない。

「どしたの?」

「いや……何でもない」

 ついには窓の方へと、視線を泳がせた。

「登別は初めてですか?」

「え、あ、はい」

 唐突な問いかけに、ロクもそれ以上オロバスに追及したりはしなかった。

 視線を、運転席へと戻す。

「実は大和市の和町から出たことなくて」

「なるほど。では、大和市の中心部にも?」

「はい。遠くから塔は見えるんですけどね」

 北海道大和市は、独立都市である。

 正確には、日本ですらない。

 別途その市を治める長がいて、市役所と呼ばれるにふさわしいソレは、『天之柱(あまのはしら)』と呼ばれる真っ黒な塔が代わりに立っている。

 その市の外れ。

 さらに奥地の小さな町が、ロクの住む町というわけだった。

「それでは、あそこのトップもご存じないんでしょうね」

「あー、すみません……知らないです」

「そうですか……大和市は総合して『特殊』で面白いところですから、なんだかもったいないですね」

「そう、なんですか?」

「ええ。それはもう」

 しばらくたわいのない話をしていると、車窓からの景色が変わった。

 広い湖と、森が目に入る。

「おお……」

 オロバスから思わず漏れた感嘆の声に、ふふ、と七尾は笑った。

「アレは倶多楽湖といいます。ずっと、遠くに見える大きな山は有珠山と、昭和新山です」

「大自然ですね……、山に、湖ですか」

 ロクも思わず窓を眺めた。

 雄大な自然である。

 演習をするような場所も、こんな山奥だったな、とロクは思い出した。

 高校出たてのバンカと二人で悪ふざけをして、山火事になりかけたような思い出が蘇る。

 あの時の楽史寺は泣きながら笑っていた。

 もしかしたら死ぬかもしれないなと思ったのをよく覚えている。

「ああ、ここからは少し揺れますので、窓は絶対にお開けにならないようお願いいたします」

「?」

 車は唐突に車道を外れた。

 車道をせきとめるように真横になり、湖に頭が向く。

「えっと、あの……」

 顔をひきつらせたロクが小首を傾げた瞬間。

 車は急発進。

 一気に、湖へと突っ込んだ。

「ちょっおおおおおおおお!」

 ざぶーん。

 黒いリムジンが湖に沈んでいく。

 慌てふためくロクの隣で、オロバスは「おお、すごいな」と冷静だった。

 ぎゅるんと振り返ったロクが、オロバスの両肩を掴む。

「何落ち着いてるの? バカなの? 沈んでるんだよ!」

「オマエこそ何慌てている。少し落ち着け」

「これが落ち着いてられるか!」

「いいから落ち着け! よく外をみてみろ」

「何を――………え?」

 オロバスに言われて、ロクは窓の外を見つめた。

 窓の外の光景は、異常だった。

 沈んでいく車の遥か下。

 嘘のように、立派な旅館が見えた。

「なにあれ……」

「吃驚されましたか? アレが、当旅館です」

 旅館の真下。

 青い湖の中だというのに、旅館の周囲だけは地獄のように赤い。

 車はゆったりと、地に落ちていく。

「………まさかとは思うけど」

 ロクは、恐る恐る、七尾へと目をやった。

 親指で、オロバスを指す。

「七尾さんて……コレと、同じカンジ……ですか?」

 七尾は笑顔で振り向いた。

「ええ、もちろんでございます!」

 ロクはうなだれた。

 絶品の抹茶をのんだ後に、腐ったイカを喰った気分だった。

 そうして思った。

 楽史寺のプレゼントなのである。

 普通を装ってはいるが、アレだって立派な異常者である。

 どうして、普通のプレゼントなどと思ったのだろう。

「なんだ、気づいていなかったのか。こいつは妖怪の一種だろう」

「え、妖怪?」

 オロバスの爆弾発言に、ロクはガバッと顔を上げた。

「おや。見抜かれていましたか」

 みるみるうちに、七尾の姿が変わっていく。

 ロクは目を見開いた。

 美青年に、キツネの耳が生えている。

 尻からは七つの尻尾だ。

「ば、化け狐!」

「失礼な。わたくしは九尾一族の出でございますよ」

「ラクシジも粋な計らいだな。俺がくつろげるようにしたらしい」

 振り向いた先で、オロバスも馬になっていた。

 ロクは遠い目になった。

 この広い車内で、人間はロクだけだった。

 いや、旅館内も間違いなく人間がいないだろう。

(まあ……この方が安心だけどさ)

 深いため息をついて、ようやくロクは落ち着いた。

 そうして思った。

 自分が思っているよりも、この世界は異常だった。

 もしかしたら人間が『異常』な方で、スタンダードは『こっち』なのかもしれない。

「さ、つきますよ」

 透明な何かを通過して、車がゆっくりと地に着地した。

 黒い地面は、ぷくぷくと何かを吐き出している。

「……これ、外、空気とか……」

「問題ありません。どうぞ、お降りください」

 ばたん。

 ドアが自動で開いた。

 ロクはとっさに目をつむったが、水は入ってこなかった。

 そっと目を開くと、そこは地上と何ら変わらない世界だった。

「ロク、降りるぞ」

 ふと傍らをみると、オロバスがいなかった。

 すでにドアの外で、こちらへ手招きして、手を差し出している。

「……ありがと」

 その手を素直にとって、ロクはようやくのこと、地に足をつけた。

 奇妙な感覚だった。

 砂漠にいるようだ。

「荷物はこちらで運びますので、チェックインをお願いします」

「ああ。すまない」

 対するオロバスは、平然としていた。

 茫然としているロクの手を取って、旅館の入り口へと足を向ける。

 わずかに残念なのは、カッコイイそぶりが馬面で台無しだということである。

「すごいね……わたしたち、湖の中にいるんだね」

 上を見上げて、ロクは呟いた。

 頭上を、海中生物が駆けていく。

「まるで、水族館みたい」

「……。嫌か?」

「ううん、なんか、楽しい。普通の旅館も興味あったけど、これはこれでまた、いいね」

「……そうか」

 ロクの言葉に、オロバスは苦笑した。

 旅館の前では、綺麗な女性がこちらに微笑んでいる。

 女性の周りには、数十人の和服の男女がこちらに頭を下げていた。

 それは、圧巻の光景だった。

「ようこそおいでくださいました。私、当旅館の女将をしております『九』と申します。漢数字の九と書いてイチジクです。どうぞ、お見知り置きを」

 琥珀色の美しい髪と、青い瞳が神秘的だった。

 思わずロクは見惚れたが、オロバスはやはり平然としていて、

「よろしく頼む」

 握手まで交わす始末である。

 堂々としたそぶりがどうにも意外で、ロクは唇を尖らせた。

 普段は少々情けない点もあるが、やはり高名な悪魔なのだと思い知らされた気分だった。

 悪い気はしないが、複雑な気分だ。

「どうぞ、おはいりくださいまし。お部屋まで案内いたします」

 くるりと回転して、女性、イチジクは中へと消えていった。

 その後ろを、二人して歩く。

「……綺麗なひとだったね」

「日本妖怪は大抵あんな容姿だろう。本でみた」

 こそっと呟いたロクに対して、オロバスは小首を傾げた。

「オマエにはかなわんから、安心しぶへッ」

「バカは休み休み言って。もう!」

「? 何を怒っている?」

「しーらない!」

 のちにオロバスは、乙女心はよくわからん、と同僚に漏らしたという。



 綺麗な和室と、窓から覗く光景にロクは心を躍らせていた。

 楽史寺はどうやらいい部屋をとったらしい。

 露天風呂付きのお部屋である。そして広いのである。

 オロバスは、

「これが日本の畳か……落ち着くな」

 と、どういうわけか畳を堪能していた。

 ロクにはいまいち理解できなかったが、そっとしておくことにした。

「なんだか竜宮城にでもきたみたいだね」

 竜宮城なら、本来はキツネじゃなくて亀なんだけどなあ、とロクはぼんやり思った。

 あの綺麗な女性はお伽噺の、乙姫様のようだった。

 浦島太郎じゃなくたって、一目惚れくらいはするだろう。

 この馬はバカなので、よくわかっていないみたいだが。

 今も畳の次は、急須に興味津々である。

「……あんたは日本大好きな外国人か」

 思わずつっこんでしまった。

「まあ、違いはないだろうな。ひとではないだけだ」

 しかし、これである。

 さして取り合いもせずに、オロバスは急須と茶葉とを眺めている。

 大量に持ち込んだ荷物は、いつの間にか部屋の隅にまとめられていた。

 この大量の、かつ重いらしい荷物を旅館の方々に運ばせたのかと思うと、胸が痛んだ。

「これ、旅館のそとに出る時って、どーするんだろ」

 ぼんやりと窓の外から上を眺めて、ロクは呟いた。

「きた時と同じだ。車での出はいりならばオマエでも問題ないだろう」

「……あんたなら水の中出入りしても濡れないって?」

「いや、濡れることは濡れるが溺れはしない」

「いっとくけど、わたしだってこのくらいの深さなら素潜りでイケたんだからね。昔は」

「? 昔の話だろう?」

「昔を強調するな!」

 ベシッ。

 ロクの鉄拳に、オロバスは沈黙した。

 そんなオロバスをちらりと見つめて、ロクは唇を尖らせながら急須に茶葉を入れた。

 つい癖で殴ってしまうものの、悪いと思わないわけではないんのである。

 ぽこぽこと、ポットから急須へ湯を注ぐ。

 室内に緑茶の良い香りが漂った。

「……いい匂いがするな」

 むくりとオロバスは起き上がった。

「緑茶と紅茶、茶の葉に変わりはないらしいな。その過程が違うだけで」

「ああ、そうらしいね」

「実に奥深い。西洋と東洋だというのに、面白いものだ」

「あんた、コーヒーとかは飲まないの?」

「いや、飲まないことはないが……。どうにも苦いものは苦手だ」

「……あんたって味覚子供だよね」

 こぽこぽと、お茶をゆのみに注いでロクはオロバスに差し出した。

 以前、焼きプリンを作った際のはしゃぎようを思い出す。

 馬の姿で走り回っていたオロバスは、ロクにひじ打ちをくらうまで止まらなかった。

「それだって苦いでしょ」

「コーヒーの苦みが苦手なのだ」

「へんなの」

 時刻は午後二時を回ろうとしていた。

 ロクはふとガイドブックを取り出した。

 登別のガイドブックである。

 ぺらぺらとめくって、付箋のついたページを開いた。

「ね、ね。どう? ここ、いってみない?」

 ロクの開いたページには、でっかく『鬼さがし』と見出しが描かれている。

 でかでかと閻魔大王と、赤い鬼と蒼い鬼が描かれていた。

 ロクは目を輝かせている。

「閻魔堂ってとこに閻魔様がいて、ほら、地獄谷も近いでしょ。わかさも本舗もあるの」

「……オマエ、閻魔大王に会いたいのか?」

「そうじゃないけど、有名な観光地なの! わたし、修学旅行とかってなかったから、いつかいってみたいなあって思ってたの」

「ふむ……」

 オロバスはひとしきり悩んだ後、やはり小首を傾げた。

「本当にいいのか? 像があるだけだろう。本物に会いたいならいつでも呼んでくるが」

「だからホンモノじゃなくていいの。ホンモノ怖いし」

「地獄谷とやらも、本物ではなくていいのか?」

「いーの! ホンモノは死なないと見れないでしょ!」

「そしてわかさも本舗とは何だ?」

「おいしい和菓子屋さん! さ、いくよ!」

 あまり気乗りしていないオロバスを引きずって、ロクは部屋から出た。

 長い廊下をずんずんと歩いて、ロビーまで向かう。

 その際廊下で幾人もの人間ではない者とすれ違ったが、ロクは決して気にしなかった。

「お、おい、危ないぞ、早歩きなんて」

「もう二時済んでるし、早くしないと夕飯の時間だよ!」

 まったく速度を緩めずに、ロクは曲がり角を曲がった。

 どんっ。

「きゃあっ」

「うわっ」

 曲がり角でお決まりのようにぶつかって、ロクは倒れてきたそれを抱きかかえるように、後ろへと倒れこんだ。

 が、地面に背を打つことだけはなかった。

「……まったく、危ないといっただろう」

 後ろで、オロバスが支えていたからである。

「あ、ありがと」

「うにゃー……」

 ロクの腕の中で、少女が呻いた。

 少女は、ハッと目を引くほど美しい銀色の髪を二つ縛りにしていた。

 整った顔立ちと、マシュマロのような頬をロクに当てながら、よたよたと顔を起こす。

 同じく銀色の、大きな目がぱちぱちと開き、ロクを捉えた。

(うわあ……お人形さんみたいに、かわいい)

 身長百四十センチほどの華奢な体躯は、嘘のようだ。

「あう、ご、ごめんなさい!」

 少女はあわてて飛び起きた。

 それからバッと頭を下げる。

 ロクは苦笑した。

 少女の黒いロングドレスが、まるでお姫様を思わせた。

「こちらこそごめんね。怪我、ない?」

「大丈夫です! ……あれ? お姉さん、どっかでみたなあ」

「?」

 少女は小首を傾げたまま、ふと視線をずらした。

 そうしてオロバスを視界にとめた瞬間、

「あー!」

 と元気よく叫んだ。

 廊下に少女の透き通った綺麗な声が響いていく。

 当のオロバスは、あまりに突然のことにビクッと肩を震わせた。

 少女は、オロバスの方へ駆け寄った。

「オロバスだーっ! おれだよ、おれ! 帝王城であったでしょー?」

「……? ……ああ、帝王の娘さんか?」

「そう! マックスだよ!」

 にこにこしながら、少女はオロバスに抱き着いた。

(……帝王の娘さんかあ。すごい可愛い子だなあ)

 ロクはそんな様をぼんやりと見つめた。

 きらきらと輝く少女は、まさしく天使のようだ。

 とても魔界に住んでいるとは、思えない。

 とても魔界を治める帝王の娘とは、思えない。

 と、観察していると、ロクはあることに気が付いた。

(あれれ? この子、羽根が……)

 少女の背中には、小さいながらに羽根がついていた。

 それも、悪魔のような羽根ではない。

 真っ白な、ぷにぷにしてそうな羽根である。

「えへへー! こんなところで会えるなんてすごい偶然だね! あ! じゃあ、このお姉さんて奥さん?」

 くるりと少女、マックスは振り向いた。

「そう、俺の妻だ」

「うわー、綺麗なひとだねー!」

「そうだろぶふッ」

 笑顔で鉄拳を振るってオロバスを遠くへやり、ロクはマックスへと視線を合わせるように、膝を折った。

「マックスちゃんていうんだね。わたしはロク。よろしくね」

「ロクさん! よろしく!」

 にこにこして、マックスは手を差し出した。

 ロクもその手を握り返す。

 手は小さくてふにふにしていた。

「マックスちゃんはいくつなの?」

「おれ? おれはねー、なんと十六歳です!」

「ぶッ、じゅ、十六う!?」

「そう、十六です!」

 ロクは絶句した。

 どうみても、小学生くらい、もしくは中学一年生くらいである。

 いや、それでも年下には変わりないのだが。

 マックスはどこか自慢げだった。

 かわいらしく、えっへんと威張っている。

「かわいいなあ。なんか、子供ほしくなっちゃうね」

「! つ、つくるのか」

「つくらないつもりだったの?」

 いつの間にか復活したオロバスに、ロクはじろりと視線をぶつけた。

 オロバスは視線を泳がしている。

「ぷっ、あはっ、焦ってる」

「か、からかうな!」

 笑い出したロクに、オロバスは唇を尖らせた。

 ひひーん、と言い出しそうである。

 そんな二人をみて、マックスも吹き出した。

「なっ、貴方まで笑うか!」

「あはは、ごめんごめん。なんかおもしろかったの」

 くすくす笑う様は、どこか品があった。

「……でもいいなあ。なんか、とっても幸せそう」

 マックスはそんなことを呟いて、ロクの目を見た。

 ロクもまた、小首を傾げてマックスのつぶらな瞳を見返す。

 みればみるほど透き通った瞳だった。

 ガラス玉にも似た――水晶のような。

「やー、ほんとかわいいね、マックスちゃん。お人形さんみたい」

「わぷ」

 ロクはマックスをひょいと抱きかかえた。

「マックスちゃんのお母さんは、さぞかし美人さんなんだろうね」

「! うん、うん! とっても綺麗で、とっても強いよ! そして天使なの!」

 ぴしり。

 マックスの発言に、ロクは固まった。

「……お父さん悪魔だったよね? 帝王なんだよね?」

「うん!」

「なのにお母さんは、天使?」

「うん!」

「マックスちゃんも、天使?」

「うん!」

 にっこにこして頷くマックスに、ロクは何も言えなくなった。

 しかしまあ、ロクだって人間の身でありながら悪魔であるオロバスと結婚しているわけだし、もしかしたら魔界では珍しくないのかもしれないと理解した。

「あ! いっけない、ジュース買いにきたんだった!」

 ロクの腕から飛び降りて、マックスはくるりと振り返った。

「またね、ロクさん、オロバス!」

「はーい、またねー」

 ぶんぶんと手を振りながら、マックスは走っていった。 

「お子さん生まれたら教えてね! 祝福しにいくから!」

 遠くからそんな一言が飛んできて、二人は思わず吹き出した。

 オロバスにいたっては、完全に赤面中である。

「……だってさオロバス」

 ロクもやんわりと頬を染めながら、オロバスの方に振り返った。

 オロバスはロクとは全く視線を合わせることができず、目線をただひたすらに泳がせている。

 やれやれと、ロクはため息をついた。

 なんだかんだ、結婚して数週間。

 まだ一か月も経たないが、オロバスと過ごしてわかったことが一つ。

 彼は永劫を生きる悪魔だというのに、どうにも色恋沙汰に初心で奥手だということである。

「わたしはホントに欲しいけどなあ、子供」

 何気なく呟いた言葉に、オロバスはビクゥッと大げさに跳び上がった。

「……そ、そうか。その、あれだな。頑張らねばなるまいな、いろいろと」

「? そーなの?」

「そうなのだ」

 小首を傾げるロクの手を引いて、今度はオロバスが歩きだした。

「ほら行くぞ。時間がないのだろう?」

 そんなオロバスの耳は、真っ赤だった。

 ロクは小さく苦笑して、いじわるっぽく笑った。

「あんた、目的地わかってるの?」

「閻魔堂とやらだろう。俺に任せておけ」

 そんな言葉、いつかどこかできいたなあ、と思いつつ、ロクはオロバスに手をひかれ、その後ろを黙ってついていった。

 いわゆる、旦那のあとを三歩歩下がって歩くといった、そんな心境だった。



「わー! わー! わー!」

「そうはしゃぐな……」

 ロクは目を輝かせていた。

 二人の目の前には、今、閻魔堂が佇んでいる。

 旅館内にあった特殊な出入り口から出て、数分。

 ロクたちは温泉街にきてまず、真っ先に風呂へと消えていった。

 そうしてしっかり登別の湯を堪能した後、閻魔堂へと来たわけである。

 そのせいもあって、ロクもオロバスも浴衣姿での観光だった。

 オロバスは、もちろん馬ではなく、きっちり青年に化けての観光である。

「すごいねー! ね、あれ、本物と似てる?」

「……いや、そうでもないな……服装などは似ているが」

「へえー! やっぱりイメージが入り込んでるからかなあ!」

 閻魔堂の内部。

 大きな閻魔大王の像が、ずしんと佇んでいる。

 その像をみて、ロクは騒いでいた。

 オロバスは少し、あきれ顔である。

「本物もこれくらいおっきいの?」

「まさか。少し背は高いが、あれほどではないよ」

「そっかあ。昔のひとからみたら、でっかくみえたのかなあ」

「恐ろしいものは大きくみえるものだからな」

「あんたは恐ろしいものとかあるの?」

「……十字架……」

「それトラウマでしょ?」

 しばらく閻魔大王を見つめて、ロクはようやく満足したらしい。

 続いてオロバスを引っ張っていった先は、わかさも本舗だった。

 ほぼ目と鼻の先、少し古びた三階建ての建物、一階部分には赤い字で『わかさも』と書かれている。

 ガラス戸を開けて、ロクはオロバスと店内へ足を踏み入れた。

「これこれ! これが買いたかったの!」

「なんだそれは……」

 ロクが指さしたのは、一口サイズ、細長い楕円を描く饅頭だった。

 茶色の皮がおいしそうである。

「わかさもっていうんだよ。前に一度、お土産でもらったんだけど、すっごいおいしくて、いつか買いに行きたいなって思ってたの」

「ふむ……温泉饅頭とやらじゃなくていいのか? 定番なのだろう?」

「いーの。どっちも買ってくから」

「そ、そうか……」

 そんなに買って帰って誰が食べるんだ……。

 オロバスはそう思ったが、口に出すことはなかった。

 ロクはとても楽しそうに品定めをしている。

(女という生き物は買い物が好きだときくからな……付き合ってやるべきだろう)

 オロバスは悪魔にしては、紳士だった。

「一応楽史寺さんにも買っていった方がいいかなあ」

「お土産か?」

「うん。一応は、プレゼントしてもらってるし」

「買っていった方がいいだろうな」

「そうだよねえ」

 何にしようかなあ。

 ふらふらと売り場をうろつくロクのあとを、さらにうろつくオロバス。

 そんなロクの目にとまったのは、

「うわあ何コレ、『おにの涙』だって!」

 せんべいだった。

 可愛らしい鬼の絵がプリントされている。

「これにしよ! これ!」

「……そうだな」

 オロバスも手に取って眺めた。

 鬼が泣くほど美味くて辛いせんべいなのだという。

(俺の務め先に、確か鬼がいたような)

 彼の心には興味がわいていた。

 食べさせたら、本当に泣くだろうか。

 そもそもそんなに辛いのだろうか。

 ……気になる。

「待てロク。俺も一つ、買っていこう」

「あれ。あんたもお土産買うの?」

「ああ。日本のしきたりでは、買っていくのが普通なのだろう?」

「まあそうだけど……あんた悪魔だからね?」

 会計を済ませたロクとオロバスは、わかさも本舗を後にした。

 時刻はすでに午後四時ごろを回ろうとしている。

 夕日が傾き始めていた。

 空が、オレンジ色にほんのりと染まっている。

「そろそろもどろっか。ご飯、五時からだったよね」

「……ロク。危ないぞ」

「へ?」

 ぐい。

 オロバスに腕を掴まれて、ロクは胸に飛び込むような形となった。

 そのすぐ後ろを、どたどたと黒づくめたちが駆けていく。

「な、ななな……」

「しらん。しかしまあ、騒がしいことだ」

 ふう、とオロバスは眉を細めた。

「悪魔のあんたがそんなこというのは何か違和感だね……」

「騒がしいのは好ましくない」

「ほんとに悪魔かあんた」



再び旅館まで戻ったロクたちは、部屋で寛いでいた。

 窓からは魚たちが執拗に部屋をのぞいている。

 そんな魚たちを一瞥して、ロクは「あっ」と短く声を上げた。

「なんだ、どうした」

「や……写真撮ってなかったなあって思ったんだけど……あんた写真に写らないもんね」

「……すまん」

「謝られることでもないし、いいよ。記憶には残ってるし」

 悪魔も幽霊も、写真には写らないのが定番である。

「なんか、不思議な感じだなー。あんたとこうしてのんびりするの、初めてだし」

 ごろんと寝転がって、ロクはオロバスの膝に頭を乗せた。

 オロバスはそんなロクをみて苦笑した。決して不服そうではなかった。

 むしろ、どこか微笑ましいものを、みるような目だった。

「普通、それは妻が夫にするものじゃないのか?」

「いいじゃん、たまには逆でも」

 オロバスの膝に頭を乗せたまま、ロクはそっと手を伸ばした。

 細い指が、オロバスの頬に触れる。

 むろん、現在の彼は馬である。

 オロバスの頬を指でなぞりながら、ロクは苦笑した。

「毛並みいいね」

「……そうか?」

 少しだけ複雑そうな表情で、オロバスは小首を傾げた。

「うん。ひとになった時の髪もサラサラだよね」

「オマエほどではない」

「わたしはトリートメントしてるもん。あれ? あんたしてたっけ」

「いや……とくにはしていないが」

「いいなあ。手触りがいいね」

 わしゃわしゃと触られて、オロバスはくすぐったそうに身を縮めた。

 ロクはお構いなしである。

 にたにたしながら頬をついには両手で撫ではじめた。

「お、おい、いくらなんでもくすぐったいんだが」

「だって飽きないんだもん」

「こら、ちょっ……いい加減に……」

 オロバスが無理矢理動こうとして、ロクはそれを追いかけるように倒れこんだ。

 結果として、ロクがオロバスを押し倒すような形となった、その瞬間。

「こんにちはーっ! お夕飯一緒しよ……あれ?」

「あー………」

 ばーん。

 ドアが勢いよく開き、二人の少女が現れた。

 一人は先ほどであった少女、マックス。

 もう一人はみたことがない少女だった。

 青いコバルトブルーな髪は肩ぐらいまで。髪と同じく透き通った青い瞳が、ぱちぱちと見開きながらもつれ合う二人をこれ以上ないほど見つめている。

「あっその、これは……」

「違うんだ、その……」

 ロクもオロバスも思わず赤面した。

 慌てふためき言葉にならない二人を見つめて、呆然とするマックスの肩をぽん、と優しく隣にたつ少女が叩いた。

「ダメだマックス。俺たちお邪魔みたいだもん」

「そ、そうだね、お邪魔しました……」

 やんわりと頬を朱色に染めて、二人はくるりと背を向けた。

 慌てて、ロクとオロバスが立ち上がった。

「ち、違うから! そういうことじゃないから! お願いだから弁明の機会ちょうだい!」

「そ、そうだ! これはその、そういうことじゃないんだ! まだ夕方だから!」

「えー?」

「そ、そう、なの?」

 怪しがる青い少女と、いまだに頬を赤らめているマックス。

 呼び止められて、仕方なくといったふうに振り向いた。

「ほんとにお邪魔じゃないの?」

「ちょ、ちょっとフォード姉さん……そんな突っこんできいちゃ失礼だよ!」

「だって完全に押し倒してたし……」

 ロクはぶんぶんと首を横に振った。

「違うってば! ちょっとじゃれついてたらああなっちゃったの!」

「ふうん?」

「ホントだから!」

 必死なロクの表情に、少女はちぇっと舌打ちした。

 実に残念そうな表情で、

「なあんだ。子作りかと思ったのに」

 と呟いた。

 ロクはぐっと拳を握ったが、叫びを心の中で押さえた。

(というか誰だこの子!)

 これが楽史寺だったら間違いなく殴られていただろう。

 苦笑いを浮かべながら、マックスが口を開いた。

「ごめんね早とちりしちゃって。こっちはおれの姉さんで、フォード姉さんだよ」

「フォードでーす。よろしくー」

 差しのべられた手を、ロクは苦笑いでつかんだ。

 心の中では父親である帝王はどれだけ個性豊かなやつなのだろうと穏やかではなかったが、それを彼女たちにぶつけたりはしなかった。

 なにより、このゆるい感じが。

 この年上を年上と思わない態度が、なんだか懐かしかった。

「いーなー。新婚さんなんでしょ?」

 青い少女、もといフォードはロクとオロバスとを見比べた。

「美女と野獣ってかんじだね」

「そうだろう。美女だろう」

「あんたは野獣でいいのか」

 自慢げにしているオロバスの頭をひっぱたいてから、ロクはため息をついた。

 マックスも同様である。

「それで、えっと、お夕飯まだでしょ? 一緒にいかないかなって」

 少し疲れた顔をしたマックスをみて、ロクは悟った。

 このフォードという姉に振り回されて、この子は疲れている。

 緩和するために、人数を増やそうとしたに違いない。

(……まあ、別に二人きりがいいってわけでもないし)

 ふむ、とロクは頷いた。

「うん、いいよ。一緒にいこうか。みんなで食べた方がおいしいし」

「ほんと? ありがとうロクさん!」

 ぽす、とマックスはロクに抱き着いた。

 すりすりと胸に顔をうずめている。

「あれ。ロクさん、お風呂はいってきたの?」

 ふと、マックスが顔を上げた。

「ああ、うん。昼間にね、別のとこ。マックスちゃんはまだ?」

「うん! 夕飯あとにしよっかなって!」

「ロクちゃんも一緒にはいろーよー、ここのお湯もいーんだよー?」

 にぱっと微笑むマックスの隣を陣取るように、フォードもロクに抱き着いた。

 じい、と青い無気力な瞳がロクを見上げている。

(か、かわいい……なんで帝王の娘さんたち、こんなかわいいの……!)

 人懐っこい二人に、ロクは困ったように微笑んだ。

 二人妹ができた気分だった。

 バンカとはまた違ったかわいらしさである。

「いいよ、はいろっか」

 その直後。

「………」

 後ろから、今度はオロバスがロクに抱き着いた。

 思わず、ロクの目は遠くなった。

「………。何してんのあんた」

「いや……みんな抱き着いているから、俺も空気を読むべきかと」

「読まんでいい。動けないでしょ。離れなさい」

「そうしたいところなんだが、オマエ、いい匂いがするな」

「ちょっ……」

 オロバスの顔が、ロクの耳あたりをくすぐった。

「あ、あんたね……くすぐったいって!」

「先ほどの仕返しだ」

「っ、く、空気を読みなさい!」

 顔を真っ赤にして怒るロクの反対側の耳元に、フォードの手が伸びた。

「ひゃあ!」

「あはは。ロクちゃん耳弱いー」

「む。耳が弱いのか」

「あ、あんたらねえ……っ」

 三人がわあわあとはしゃぐ中。

 マックスは抱きついたまま、苦笑した。

(オロバスったら、やきもちだね)

 じゃれあう三人に、口を開く。

「もー、はやく夕飯食べにいこーよー!」

 唇を尖らせての可愛らしい抗議に、ロクはオロバスに肘鉄を食らわせて自由を獲得。

 ぎゅーっとマックスを抱きしめた。

「かーわいいなー!」

「うにゅ……ロ、ロクさん、うしろでオロバス倒れたけど……」

「いいのいいの。悪魔だから大丈夫」

 大丈夫じゃないんじゃ……? マックスの視線はオロバスに向いた。

 口元からあわが見える。

「あはは、オロバス白目むいてるー!」

 フォードのきゃっきゃというはしゃぐ声が響く中、マックスは困ったように苦笑した。



***



 かつん。かつん。かつん。

 響いてくる足音に、聞こえてくる息遣いに、女は目を細めた。

 耳障りだった。

 癇に障る気配だった。

 癪だった。

 できれば――殺してやりたいほどに。

「………久しぶりだな」

 男は、扉の前で壁に背を預けていた。

 蒸かした煙草の白い煙にすら嫌悪しつつ、女はため息をついた。

「会いたくはなかったですわ」

 女は長い琥珀色の髪を揺らして、不機嫌層に微笑んだ。

 男は苦笑した。

 そんな様すらも長いことみていなかったことを実感した。

 懐かしさが胸の中を、埋め尽くす。

「仕事でいらしたのでしょう。とっととお帰りくださいな」

「それはまた、つれないことをいう。女将ならば客を引き止めた方がいいんじゃないのか」

「貴様は客ではない――、といったら満足いただけます?」

「ははは、怖い顔をする」

 女の目が真っ赤に光っても、男はおびえたりしなかった。

 オーバーなリアクションを冗談交じりに披露して、女の目のように鋭い眼光を向けた。

「怒っているのか? 西洋悪魔を招き入れたことを」

「――ふざけているのならばその首、今すぐ掻き切ってさしあげますよ」

 不意に、女がその長い爪を男へ向けた。

 じわじわとにじみ出る殺気にも似た何かが、室内へと充満していく。

 男も腰に手をかけた。

 大型拳銃――にも似た、超電磁砲を構える。

「俺だって無防備できたわけじゃあねえよ。……相棒も一度真っ二つにされてるんで、修理した際グレードアップだ。試してみるか?」

「……この私と、やり合うと?」

「それも悪くはないな。最近は事務仕事ばかりでね。退屈していたところだ」

 張りつめるような空気の中。

 男と女の殺気が混ざり合う。

 第三者が見ていれば呆然としたことだろう。

 やがて、女はやれやれと腕を下した。

「時間の無駄ですわね。貴様のことです、どうせ幾重にも策を弄しているのでしょう」

「まあ、違いはないね。俺はできることは前もってやっておくタチなんだ」

 男も、ややあって超電磁砲を下した。

 月明かりが室内を湖越しに照らしていた。

 魚たちは誰も彼も、窓からは見えない。

 男が超電磁砲から煙草へと手を変えた、その瞬間。

 空気がふわりと動いた。

「しかし油断はしない方がいいですわ。――私は、化け狐ですのよ?」

「!」

 目を開けた先に、女が立っていた。

 長い爪を喉元へと突き付けている。

 少しでも力を入れれば、絶命することだろう。

「あの時、西洋悪魔に私の兄は殺された」

 女の青い瞳を真っ赤に光らせていた。

 その様は蛇の目のようだ。

「……遥か昔の話だときいたが」

「関係ないのです」

 男の口から煙草を奪い取って、女は宙で燃やして見せた。

 ぱらぱらと、黒い灰が宙で舞う。

 女の口から、熱い吐息が漏れた。

 やんわりと赤い炎が漏れだす。

「兄の恨みは、永遠に消えることなどない。――恨みは、妖怪にとって一番強い念ですの」

 ツー、と男の首から赤が流れた。

「貴様にはわからないでしょうね――、人間ですもの。あくまでも」

「………」

「私は、何が何でも復讐がしたい」

「………」

「関係なくともいい。アレの関係者でありさえすれば――どうでも」

「………」

「知らなくとも、何もわからなくとも、私は苦しくて仕方ないの。私の苦しみを癒すために他の苦しみが必要なら、私はそれを求めるわ」

「………」

「たとえ天津神に反対されようと――貴様たちに邪魔されようと」

「………」

「私は、やってみせる」

 ざくっ。



***



 目の前に豪華な料理が並んでいた。

 バイキング形式である大きな食堂は、ぱらぱらと人型の……しかし決して人ならざるものが見えていた。

 ロクは、うーんと皿を持ったまま唸った。

「どうした?」

「や……何かほのぼのしてた空気がさっき途切れたような気がしたんだけどね」

「気のせいだろう」

「そだね」

 フォードとマックスは、すでに遠く、デザートコーナーでわあわあとはしゃいでいる。

 ロクとオロバスは、皿を片手におかずの付近をうろついていた。

 ロクはオロバスの皿を見つめた。

 彼の皿には、たくさんの野菜が載っている。

「……あんた野菜、好きだねえ」

「ああ。健康的だろう」

「悪魔が健康気にするのってどうなの?」

「? おかしくはないだろう」

「そっか」

 ロクの皿には、軍隊上がりだからか。

 大量の肉、そしてサラダなどが山になって載っていた。

 彼女の視線の先には、白米と味噌汁である。

「やっぱり野菜では人参が好き?」

「それは俺を馬だと思ってないか?」

「ううん。何となく」

「言っておくが俺は人参好きじゃないぞ」

「えっ……そんな頭してるのに?」

「ああ。なんか後味が嫌い」

 白米をお茶碗によそいながら、ロクは山になったそれをオロバスに手渡した。

「はい、あんたの分」

 笑顔だった。

「……ありがとう」

 もはや拒否権などなかった。

 味噌汁も同様に盛ってもらい、オロバスは複雑な心境で席へと足を向けた。

 ロクも少し遅れて後に続いた。

「ねね、飲み物何にする? 野菜ジュース?」

 途中、飲み物のコーナーに差し掛かって、ロクが立ち止った。

「いくら健康に気を付けているからといってジュースまで野菜じゃなくてはダメか?」

「いや、もしかしたら飲むかなと」

 ロクの手が野菜ジュースへと伸びていく。

「すまないが緑茶で頼む」

 すんでのところでロクの手を止めて、オロバスは口早に呟いた。

 少し残念そうにして、ロクは緑茶をついだ。

「渋い馬だねー」

「だから馬ではない」

 自身も緑茶を注いで、ロクはてこてことオロバスの後ろに続いて席に戻った。

 席にはすでにマックスとフォードが戻ってきていた。

 皿にいっぱい、二人とも多種多様なケーキを乗せている。

 少なくとも夕飯にはなりえないだろう。

 少なくとも。

「あ、ロクさん! みてみて、すごい種類だよね!」

 たしなめようと思っていたロクは、そんな笑顔のマックスをみて口を閉じた。

 幸せそうにケーキを眺める少女らに、「ご飯食べてからにしなさい」とは言えなかった。

「これでも全種いかないなんて……全部三個ずつ食べたいのにどーしよう……」

「フォードちゃん、白米とか味噌汁とか肉とかはいいの?」

「ううんよくない。そっちもちゃんと食べる」

「……そう」

 そっちも食べてこっちも全種三個ずつ食べるという量はさすがのロクも圧倒された。

 想像するだけで吐き気すらしてくる。

 しかしその発言は現実味があった。フォードの皿はすでに半分のケーキが消えている。

 とはいえ。

 とはいえ、ロクの皿の上だって異常地帯である。

 オロバスは思った。

(……一応男である俺がこんな量だけでいいのだろうか……)

 彼の皿もまた人間からみれば異常な野菜の量なのだが、周りをこの三人に囲まれてしまうとまたそれも薄れた。

(ああ、『暴食』と食事をしている気分だ)

 オロバスはもしゃもしゃと野菜の山を片付け始めた。

 ちらりとロクの皿をみてみると、いつも通りもうほとんど料理は残っていなかった。

 フォードに至ってはすでに二周目に入っている。

「さーて、わたしもデザートにしよっかなー」

 そんなことを呟いて、ロクはフォードを追いかけていった。

 取り残されたのは。

「うー……おなかいっぱいだよう……」

 マックスと、オロバスだけだった。

「そんなにとってくるからだ……限度があるだろう」

「だっていっぱい食べたかったんだもん……」

 ぐすん。

 銀色の大きな瞳に、涙をいっぱいに貯めてマックスは机に伏せた。

 皿にはいまだケーキが山のように残っている。

 そっとマックスの手が皿へと伸びた。

 すすすすす、と皿がオロバスの前へと移動する。

「………なんだ」

 嫌な予感を抱きつつ、オロバスは尋ねた。

「…………。…………あげる」

「いらんわッ! こんな山のようなケーキ、俺にどう処理しろというのだ!」

「むーっ! オロバスひどい! 『ゼブルン』なら食べてくれるのに!」

「ゼブルン……? おいだれのことべぶッ」

 後頭部をロクに強打され、オロバスは野菜の山に顔を突っ込んだ。

 そしてそのまま動かなくなった。

「なにこんなかぁいいこ、苛めてるの。一応あんた、男なんだから『ふ、任せておけ』くらい言えないの?」

 ゴキゴキと拳を鳴らしながら、ロクは片手に山のようなケーキを持っていた。

 少なくともロクにはフォードにドン引きする資格はないだろう。

 マックスはうるうるした瞳で、ロクを見上げた。

「ロ、ロクさあん……っ、お願い、食べてーっ」

 わーっと泣き出したマックスに、

「ふっ……任せておきなさい」

 とカッコつけたロクは、この後食べ過ぎた状態で体重計に乗り絶望したという。

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