第1話 鹿と馬と蕃茄と戦場。

 ――この国には、ひそかに国宝とされる複数名の子供がいる。

 その子らは生まれながらに異能を持ち、一般の人間よりも遥かに身体能力が高いとされ、幼い頃より親元を離れ国での英才教育を施し、やがては国を守る軍人とされる。

 その子らに正式な戸籍はない。

 生物学上ですら人であることも危うい彼らは、その多くが二十五歳を過ぎると一般人へと変貌するか、はたまた死んでしまうからである。

 そんな子らは国外では敬遠され、国内では秘密裏に扱われ。

 誰からも好まれないことから――『ペルソナノングラータ』と呼ばれている。


***


 六倉 鹿(ロククラ ロク)は軍人である。

 生まれながらに異能をもつ、ペルソナノングラータである。

 持っていた異能はヒーローよろしく『炎』の完全掌握。

 異能発動時のみ真っ黒な髪は真っ赤へと染まり、その目は真っ赤に燃え盛る。

 炎をまとい、周囲を炎で包んだその姿は煉獄にも似ていることから、『東の煉獄』との愛称もつけられた彼女は、二十五回目の誕生日、その異能を綺麗さっぱり失った。

 奇しくも戦闘中。

 大事な大事な仕事の最中である。

 仲間のおかげで五体満足では帰れたものの、身にまとった炎はロクの身体に牙をむいた。

 真っ黒だった髪は数か所赤いまま、メッシュのようになり。

 真っ黒だった瞳は、片目だけ真っ赤に染まった。

 身体能力は大幅に下落。

 能力値だけは鍛え上げた一般人になり、見た目は普通ではないというちぐはぐなものへと、変貌を遂げたのである。

「……で、シカクラくん」

「鹿じゃないです。ロククラです」

「どっちでもいいじゃないシカちゃん」

「やめてください。せめてロクちゃんにしてください」

「鹿ちゃん、ほんとに軍隊辞めたいの? 髪、真っ黒には染まらないんでしょ? 奇抜だよ」

「殴られたいならそうと仰ってくれると殴れるんですけど」

「や、まじでまじでぐふッ」

 ぼたぼたと流れ落ちる赤い液体を虚ろな目で見つめて、ロクはバキバキと拳を鳴らした。

 上司である楽史寺は「あははは、冗談冗談」と慌てて訂正して口を拭った。

 べったりと赤いものが手の甲に拭われている。

「能力消失したらやめてもいいって言いましたよね。覚えてます?」

「覚えてないなーってちょっとまって二撃目はやばいって!」

 べしん。

 容赦なくロクの張り手が飛んだ。

「今のわたしはペルソナノングラータでもない、軍人にもなりえない存在です。もう散々稼ぎましたし、ここらで隠居します」

「隠居って……きみね」

 あきれたように、楽史寺は殴られた頬を擦った。

「二十五でしょ? あと何年生きると思ってるの」

「能力消失から数年たてば死ぬ確率もあるわけですよね。だったら隠居でもあってます」

「そんなの、死なないかもしれないでしょ」

「死ぬかもしれないですよね?」

「死なないかもしれなぐほおッ」

 容赦なく、ロクの右こぶしが楽史寺の腹部にめり込んだ。

 鍛え上げられた肉体に拳が沈み込む様はまさしく芸術の域だった。

 ロクは、呻く楽史寺を冷たく見下ろした。

 ステータスが常人よりも最初から少し上だったとしても、それでもロクは訓練を怠ったりはしなかった。能力に頼り切りにはなるまいと、それなりに体は鍛え上げているのである。

「とにかく仕事辞めたいんですよね」

 ゴキゴキと脅すような音を立てるロク。

 目はマジである。

「待って待って考え直して! まだ若いんだから、普通の軍人としてもいけるよ!」

「いや、もう働きたくないんで」

「なんてニート発言!」

 事実、ロクの口座にはすでに一生分暮らせるだけの現金が振り込まれている。

 ペルソナノングラータとして、幼い頃から将来を決められた代償ともいうべきか。

 国が彼らに支払う額は、相当なものだ。

 楽史寺は深いため息をついた。

「……や、あのね。確かに能力もなくなったし、きみは『普通』に戻りつつあるけれど」

「?」

「二十五年間、社会とは隔離されているわけだし、そうやすやすとは手放せないのよ」

「………やめさせない、と?」

 ロクの問いかけに、楽史寺は頷いて、それから「ああ」と切り出した。

 ふと思い出した、みたいな何気ない口調だった。

「結婚したら、辞めさせてあげられるよ」

「け、結婚!?」

 にこにこというよりはどこかあざ笑うように微笑んで、楽史寺は続けた。

「結婚でもすれば別だけど、なんでもない状態での退職は上が許さないだろうね」

 わりと真剣な声音で呟く楽史寺に、ロクはあからさまに顔を歪めた。

「結婚て……。貰い手いると思ってるんですか」

「ま、きみたち恋愛感情とか持たないで仕事してるだろうから無理だとは思うから職場結婚は無理だと思うし一般人にもきみの存在は強すぎるから無理ぐぼッ」

 本日三度目の攻撃。

 裏拳が飛んだ。

「……言い過ぎました」

 机に撃沈した楽史寺が、突っ伏したままの状態で呟いた。

 衝撃を緩和しきれていないらしい。

 じわじわと赤い液体が顔面から溢れている。

「辞めさせないってのはわかりました。でも軍人としての仕事は減らしてもらいますよ。能力ナシでやれなんて、いくら上官の命令とて暗殺を企てるのは面倒です」

「あーそれ俺のこと殺すっていってるよね?」

「せめて事務か何かにおろしてくださいよ。じゃないと同僚にいくらか払って計画立てる準備しないといけないんで」

「やっぱり俺のこと殺すつもりだね?」

「朝九時から夕方五時ピタの仕事お願いしますね」

「俺の話きいてる?」

「聞かないことにしました」

 ばしーん。

 本日四度目の攻撃に、楽史寺は沈黙した。

 沈黙した楽史寺を横目に冷ややかにため息をついて、ロクは上官室を後にした。

 廊下にはいつも通り誰もいなかった。

 ペルソナノングラータ自体少ないこの空間は、幼い子供とは隔離され、完全に軍人として扱える範囲の者しか生活していない。その他は楽史寺のような、軍人として上の立場の者、もしくはペルソナノングラータの補佐役である一般軍人である。

 ゴキゴキと関節を鳴らしながら、体を伸ばす。

「あーあ。しんど」

 たった四回の何気ない攻撃でさえ、ロクの身体は体力を失った。

 以前はそんなことはなかった。無尽蔵のような体力値だった。

 まるで一気に年をとった気分である。

(老体にムチ打つのだけはやだなあ……)

 先日。

 三十目前にして、唐突な死を迎えたペルソナノングラータを思い出した。

 彼女も見た目若かったが、相当な無茶をしていた。

 死因は過労死である。

 それでも彼らの存在はあくまで秘密裏なもので、マスコミにも公表されていないことから、ニュースにだってなりはしない。

 誰も知らない秘密のヒーロー。というわけである。

 知らない場所で、知らないうちに解決する。

 全てなかったことに、してしまう。

(だったらわたしたちも、いないことと同じ。いるのにいないなんて、なんだか矛盾と思い始めてきたのも『普通』になった証拠なんだろうか)

 廊下をてくてくと歩いて、ロクは自室に向かっていた。

 長い廊下には左右にいくつもドアがついている。

 そのすべてに部屋があるわけではない。

 万が一攻め込まれた時のフェイクというやつである。

 中には開けたら二度とこちらには出られないという仕組みのものも、あるらしい。

(結婚かあ。考えたことなかったな)

 そもそもペルソナノングラータにだって、結婚していたのは数名しかいない。

 それもペルソナノングラータ同士。

 もしくは楽史寺のような、上官とである。

(もう二十五だし、ここらで結婚しとかないと後々生きていたら『負け組』とかいうのになるわけだよね……一生独りぼっちってのもやだなあ。怖い)

 そんな三十代後半のような感想を抱いて、ロクはぞっとした。

 仕事だけをして、人生を終える。

 誰にも愛されない。誰も愛さないままに。

(恋愛くらいは、したいもんだ)

 階段を降りて、宿舎へとむかう。

 連絡通路にもやはり誰もいなかった。

 ペルソナノングラータたちは、ほとんど自室から出ない。

 むろん外には自由に出ていけない彼らのために、娯楽施設などは当然のように完備されてはいるのだが、それだって好き好んで使う者はいなかった。

 唯一人気があるのは、トレーニングルームくらいのものである。

 宿舎は静まり返っていた。

 ひとの気配がまるでない。

 それでも今日は珍しく、廊下の窓からぼんやりと外を眺める青年が立っていた。

 虚ろな瞳は、本当に窓の外を眺めているのかは疑問だったが。

 一応会釈だけして、ロクはそそくさと自室に戻った。

 何もない自室。必要最低限のもの以外は置かれていない自室。

 軍人として、の必要最低限であるがゆえに、壁には銃火器類が掛けられてゐるところが輪をかけて不快だった。

「あーああ。仕事辞めて、旅行でもしたいなあ」

 誰に言うでもなく呟いて、ロクはベッドにダイブした。

 このベッドも眠れば悪夢をみる、呪われたようなものである。憎らしくて仕方がない。

 そんなロクのごく普通の悩みは、この宿舎では。この、職場では。

 誰にも理解されないことすらも、悩みの一つになっていた。

 それから一年が過ぎ、宿舎から居住スペースを、軍の宿舎へと移し。

 軍が誇る凄腕事務員として、すっかり『普通』にも慣れた頃。

 鹿は、馬と出会った。



***



 夕方五時を知らせる調べが館内に鳴り響いて、六倉 鹿は席を立った。

 国の直営機構、『大和機構』という、一体何してるのその機構。また国は天下り先を作ってるんですねわかりますといったそんな批判が飛んできそうな機構が管理する施設の一つが、現在のロクの職場だった。

 もちろんのこと、天下り先などではない。

 表向きは何をしているのかわからないものの、その実態は日本国を守るための軍隊である。

 そうしてここ、大和機構管理事務所もまた、要約すると軍の事務施設なのだった。

 軍の宿舎から徒歩五分。

 徒歩十分圏内にコンビニ。

 徒歩三十分圏内にスーパー。

 ロクの元いた宿舎からは三時間ほど離れた、軍の中でも『普通』に近い場所である。

「お先失礼しますねー」

「お疲れさまでしたー」

 要望通り、軍人から事務へと移って早一年。

 すっかりベテランの位置に定着したロクは、鞄を片手に事務室を後にした。

 去りゆく背中には、「お疲れ様」の大合唱である。

「六倉さん、仕事はやいよねー。あたしら五年もやってんのに、あの人一年いるかいないかなのに何か不公平」

「ばっかねえ。あのひと、元軍人らしーわよ。基本が違うもの」

「ああ、なんだ噂の軍人さんなの。そりゃ勝てる気しないわ」

「でもかわいそうねえ。あんなに美人なのに、あれじゃ貰い手もいないでしょうに」

「隙のない女ってカンジだものねー」

 あははは、と大声で笑う会話がふいに廊下まで聞こえて、ロクはため息をついた。

(ひとがいなくなったらすぐこれだ。『普通』ってのはスタンダードで『陰険』なんだろか)

 まあ、もう慣れたけど。

 楽しそうな会話が聞こえてくるドアを見つめて、ロクは足を動かした。

(夕ご飯何にしようかな。コンビニ、いやスーパーでもよってこうか)

 一年。たった一年で、ロクは普通に同化した。

 戸籍は今のところ与えられてはいないが、それでもさして困りはしなかった。

 軍の一般宿舎は、ペルソナノングラータの宿舎と違って賑やかである。

 メッシュの入った髪も、スプレーで毎度のこと染め。

 赤く染まった片目もまた、黒いコンタクトレンズを開発してもらった。

 これだけで見た目はただの一般女性である。

 それだけで何かが変わった気がして、ロクは満足だった。

 すでに見慣れつつある廊下を歩いて、階段を下っていく。

 階段を中ほどまで下りたところで、ロクは唐突に立ち止った。

「……隠れててもわかりますよ楽史寺サン」

「なんだ、そこまでは衰えてないか」

「なんならクナイか手裏剣投げてあげた方がよかったです?」

「いいえ滅相もございません!」

 ロクの冷ややかな視線を受けて、楽史寺は上からすちゃっと着地したついでに土下座した。

「……何の真似ですか」

 ロクの視線がさらに冷ややかになる。

「以前わたしに貰い手がないといったことについてでしたらあと数発殴らせてもらえれば全然チャラにしますけど」

「まだ根に持ってたの? 違うよ!」

 ガバッと顔を上げた楽史寺の顔は大洪水だった。

 涙である。涙と鼻水しかない。

 そのあまりの崩れように、ロクは思わずドン引きした。

「お願いだシカクラ! 俺を助けてくれ!」

「お断りします。お疲れ様でしたー」

「待って待って説明くらいさせてロクちゃあああん!」

 さらっと流して歩いていったロクの手を掴んで、楽史寺は引き止めた。

 うんざりした顔で、ロクが振り向く。

 夕日の差し込む階段で、それは実にロマンチックなものだったが、片方は号泣している。

 台無しである。

「はー。どーしたんですか、いったい」

「お前露骨に嫌そうな顔するね……。まあいいや。実は軍の上層部から、ロクちゃんに仕事が下ったんだよ」

「……は? 事務のですか?」

「いや、殲滅活動の」

 ロクは固まった。

「……わたし事務員なんで、そういうのはちょっと……」

「だから極秘なの! 何か怪しい施設があるみたいでね、そこをぶっ潰させようとバンカを選任したんだけど、そのバンカがお前とじゃないと組まないって」

「…………」

 今世紀最大の怪訝な顔で、ロクは沈黙した。

 バンカ。

 懐かしい名前である。

 元は同じ、ペルソナノングラータ。

 自分よりいくつか年下の子だったな、とロクは思い出す。

「なんで、バンカが」

「お前に会いたいってそればっかなんだよ。会えないなら仕事しないってわがままいってすげえ大変なんだから!」

 ロクとバンカは、確かに姉妹のような関係だった。

 ロクが炎を掌握しているのに対し、バンカは炎に愛されていた。

 太陽にも似た笑顔と影響、個性をもつお転婆娘である。

 曲者揃いのペルソナノングラータの中では、わりと話せる存在である。

 その華奢な身体から繰り出される剛力と太陽にも似た猛火、数多の剣技はでたらめに強い。

 ペルソナノングラータの中でもトップクラスの実力者である。

 そんなバンカが、わざわざロクに会いたいという理由が、見当たらなかった。

「なんか、渡したいものがあるんだと。遊びたいんだと。あいつの保護官なんてこの世の終わりみたいな顔してるぞ今」

 まるで死刑を待つ死刑囚のようだぞ、と楽史寺は続けた。

 ロクはその様を想像して、思わず吹き出した。

 バンカの担当官は細身のイケメンだった。

 それがそんなふうになっているとは、面白映像もいいところである。

「それで上層部がそんなにいうならロクちゃんを連れてこいって……」

「だ、だってわたし、能力消えちゃいましたよ?」

「最新鋭の科学でカバーするっていってた」

「カバーできないから超能力なんじゃないんですか」

 ロクはため息をついた。

 夕日はすでに、沈みかけている。

「頼むロクちゃん! 一回だけでいいから、仕事してくれないか!」

 楽史寺は再び土下座になった。

 もう梃子でも動かぬようだった。

 もしかしたら床に根でも張ったかもしれない。

「もう……やめてくださいよ。こんなとこみられたらわたし、ここの職場にいづらくなるじゃないですか」

「そう思って土下座してる」

「悪趣味です」

「かまわん。それで仕事してもらえるなら三年くらいこの状態でもいい」

「まじですか」

「ごめん言い過ぎた」

「でしょうね」

 ロクは深い深いため息をついた。

 どうせ、断るという選択肢がないことくらいは理解している。

 ただ、抗いたかっただけだった。

「致し方ないですね。いいですよ、一回だけなら」

「ホント?」

「ええ、そのかわり近代兵器の使用許可はいただきます」

「あげるあげる! ぜーんぶ持ってっていいから!」

 そういって顔をあげた楽史寺は、涙をごしごしと拭った。

 よたよたと立ち上がって、ロクの腕をぶんぶんと上下に揺らした。

 救われた死刑囚のような顔だった。

 あ、そうだ、と楽史寺はポケットからクスリのケースを取り出した。

「これ、もしもの時にあげておくね」

「……なんですかこれ」

 銀色の薄いケースを、まじまじと見つめるロク。

 中には赤いクスリが三粒。青いクスリが三粒。緑のクスリが三粒、綺麗に並んでいる。

 とても人体の中にいれるものとは思えない。

 デキのいい作り物のようだ。

「赤いクスリは能力の復元。青いクスリは魔力の復元。緑のクスリは回復薬」

「なんですか最後の。ゲームですか」

「や、緑のはすごいよ。誰に飲ませたって瀕死の状態から息を吹き返すから」

「だからゲームみたいなんですけど」

「最近話題の細胞系の研究ガッツリすすめたらできた。今若返りの方やってる」

「妙に現実じみてて嫌ですね……」

 どの薬も、某ハリウッド映画、ハッカーが救世主に選ばれちゃう現実か夢かわからない映画で出てきたものとよく似ていた。

 どれもこれも、色合い的に人体に悪影響を及ぼしそうな蛍光色である。

「これ……身体に悪影響とかないんですか?」

「青と緑はないね」

「……赤は?」

 怪訝な顔をするロク。

「赤はちょっと調整が難しくて、副作用があるんだよ」

「副作用って……」

「ちょっと身体に負荷がかかる。使った反動で心臓が縮小しちゃうから、使ったあとは効果が切れる前に必ず身体を休めることが原則だね」

「……すごい無理難題ですね」

 あきれたように、ロクは赤いクスリを見つめた。

 いわゆる劇物といわれても仕方ない代物である。

「赤と青は効果の持続に制限があるからね。赤は三時間、青は三十分」

「なんでそんな違うんですか。ていうか、魔力ってわたしそもそも持ってませんよ」

「そう、そこ。いわゆる魔力の塊なんだけど、もってても魔法仕えなかったりしてさ、誰からも需要ないから研究途中で頓挫しかけてるの」

「もしかして余ったからいれました?」

「そのとおり!」

 バキッ。

 楽史寺の顔面におおよそ一年ぶりの鉄拳が叩き込まれた。

 楽史寺は沈黙したまま、動かなくなった。

 そんな楽史寺の生ける屍を冷ややかに見つめて、ロクは足を動かした。

「じゃ、お疲れ様でした。詳しいことはメールしてください」

 返事がないことは屍だから仕方ない、とわかっているらしい。

 ロクはひらひらと手を振って、かつての上官を残して帰宅した。

 その様子をたまたま鉄拳をふるったあたりから同僚に見られていて、後日、「六倉さんが上官と恋仲だった」などとありもしないデマが流れたりすることになるのだが……。

 それは本人らにとって知る由もないことである。



***



 ――ふと、今朝の夢を思い出した。

 真っ黒な影が、絶え間なく伸びていく手が、身体にまとわりつく。

 払っても払いきれないそれに絡まれて、苦し紛れに炎を出そうとして――出せないことに気が付く夢。

 真っ黒な、赤黒い顔が、目も鼻も口もない顔が、迫ってくる。

「        」

「ッ!」

 凄まじい轟音を耳にして、ロクは思わず耳をふさいだ。

 ハッと意識が現実に戻る。そうだ、ここは夢の中じゃない。

(つーか、ベッド変えても見る夢変わらないのって、こうやって軍の近くにいるからじゃないのかなあ……)

 久しぶりに嗅ぐ硝煙の香りと、人が死ぬ匂いは何とも不快で、困ったことに魅力的だった。

 現在別行動をとることになった、かつての同僚にして最高の相棒であるバンカは、すでに先へ先へと進んでいる。

 普通に戻ってみて、初めてロクは実感した。

 ペルソナノングラータは、極めて異常だ。

 それでいてどこか――魅力的である。

「ロク、久しぶり! ちょっと戦場でデートしよーぜ!」

 一年ぶりに会う妹分、バンカはそんな調子だった。

 そんな調子で気軽に戦場に赴いて、バンカは気軽に施設の厳重なる警備を突破した。

 諸外国の機密施設だというそこは、遺伝子操作やら劇物の研究やら、あまり詳しくは教えられなかったが人道的に問題のある行為を国直属のもと、行っているのだという。

 秘密裏に行われているのであれば―――秘密裏に活動するペルソナノングラータで潰す。

 そういったことらしかった。

(まあ、道理は通ってるけど)

 表向きにはなかったことにされるであろうこの問題について、ロクはさしたる意見を思わなかったが、なんだか妙にスッキリしなかった。

 なんだか――あっさりしすぎているような。

 そんな大規模なものであれば、もう少し警備が厳重でもおかしくはない。

 もう少し、ハリウッド映画のような展開があっても、おかしくはない。

 もう少し、バンカや自分が苦戦してもおかしくはない。

 そんな、小さな疑問が生じていた。

(ま、ちょっと離れてたから杞憂だと思うけど)

 ロクの仕事はたった一つ。

 嵐のように通り過ぎていくバンカの後始末である。

 バンカが壊していったあとを、更地に戻す。

 ゆったりと歩きながら爆薬を設置する自分が、なんだか奇妙だった。

 かなり奥の方まで歩いてきたところで、唐突に大きな部屋にたどり着いた。

 真っ黒な無機質な部屋だった。

 それでも所々壁やら天井やらが崩れて、瓦礫で荒れている。

 小さな炎がいくつか残っていた。

「あちゃ――……、バンカのやつ、何か『怒った』んだなあ」

 感情に関係なく炎を操作できるロクと違って、バンカは『怒り』の感情の元、炎を全身から放出する。

 爆発したような跡を見る限り、相当な相手がいたのだろう。

 まあ、もう塵だって残っているとは思えなかったが。

「う……」

「?」

 かすかなうめき声をきいて、ロクはとっさに超電磁砲を構えた。

 上司である楽史寺の許可の元、借りてきた近代兵器である。

 五秒あればあらゆる物質を丸焼けにできる代物だ。

(……あのバンカから、免れた?)

 ゆっくりと足音を立てないようにして、ロクは声の元へ歩く。

 瓦礫があまりに多いこと、また薄暗いことからあまりよくは見えない。

 しかし声はどんどんと大きくなっていく。

 ロクは、バッと瓦礫の影に飛び出した。

「――!」

 そこに横たわっていたのは、ロクの想像を絶するものだった。

「ぐふ……」

「な、ななな……」

 馬。

 それは、馬だった。

 馬以外なんといったらいいかわからないくらい、馬だった。

 銀色の蹄で出血する腹を押さえている。

 口元からはダラダラと赤い液体が流れおちていた。

 見るからに瀕死。

 見るからに、重症。

 見るからに、馬。

 瀕死の馬が、貴族のような服を身にまとっている、この状況。

「…………」

 ロクは数秒固まって、それから超電磁砲を下した。

 深いため息をつく。

(うめき声人間っぽいけど、着ぐるみじゃなさそうだし……。でも服を着てるってことは、何らかの現象で馬にされた、馬人間とか)

 ホラー映画チックな発想である。

(何にしても……、バンカがトドメをささなかったってことは)

 ロクは、ゆっくりとその身をかがめた。

 ポケットから、銀色のケースを取り出す。

 腰につけたポーチから、包帯と消毒液も取り出す。

(わたしに『助けろ』って意味だよね)

 思わず苦笑してしまった。

 こんなこと、何年前だったかもあったなと思った。

 その時も生き残らせたことにはやはり意味があって、後々助けた青年は味方になっていた。

「ちょっとごめんね……」

 銀色のケースから、一粒。

 緑のクスリを取り出して、ロクは馬の口へと運んだ。

 口を開けようと手をかける。

「……開かない……っ」

 しかし馬の口はしっかりと閉じられていた。

 まるで開く様子はない。

 少なくとも片手では無理である。

 ロクはため息をついた。

「ぐふっ」

 馬が再び吐血した。

 すでに虫の息である。

「仕方ない……」

 ロクは意を固めて、緑のクスリと持ってきていた水を口に含んだ。

 両手で力いっぱい、馬の口を開く。

「んっ」

 開いた口に、ロクはクスリと水をと流し込んだ。

 いわゆる口移し。

 人外の生物にやるという、貴重な瞬間だった。

 もしかしたら人類初だったかもしれない。

 馬の口を思い切り押さえつけて吐き出させないようにして、ロクはクスリの飲ませた。

 馬はしばらくじたばた暴れていたが、すぐにおとなしくなった。

 溢れ出していた血はとまり、呼吸も穏やかになっていく。

(すげー……ホントにきいてる)

 半ば人体実験の研究者のような気持になりつつ、ロクは馬の隣に腰を下ろした。

 戦場で腰を休めるなどありえない話だったが、バンカが一緒ならそれもまた可能である。

 施設内は恐ろしいほど静かだった。

 もしかしたらバンカがすでに全て壊し終わったのかもしれない。

 それから待つこと数分後。

 不意に、馬が呻いた。

「ぐほ……、………! オマエ、誰ッいたッ」

 ロクの姿をみて驚いた馬はとっさに動こうとしたが、脇腹を押さえて動きを止めた。

 ロクの方は予想通りだったのか、目を細めてその様を見つめている。

「……? ……手当?」

「まだ痛む?」

「……オマエがしたのか? オマエ、敵じゃないのか」

 怪訝な顔(馬がそんな顔をするのも不自然だが)をして、馬はロクに尋ねた。

 ロクも少しだけ、怪訝な顔をしていた。

 馬が日本語をしゃべるという奇妙な光景を目にしているからかもしれない。

「うん、わたしが手当をしたよ。敵だったらしないと思うけど」

 包帯をポーチにしまいながら、ロクは頷いた。

 内心、

(あのクスリ、本物だったんだ……)

 と、日本の最新医療にドン引きしていてあまり心穏やかではなかったが。

 馬はしばらく神妙な面もちで悩んだ後、茫然とあたりを見渡した。

「……」

 その顔はどこか、憂いが込められていた。

 いや、憂いというよりは悲しそうな顔だった。

 ロクは顔をひきつらせながら、携帯を取り出して画面を『鏡』モードにした。

「傷心っぽいところ悪いけど……、あんた、馬になってるよ?」

「うおッホントだ! ……じゃない! 俺は馬じゃないぞ!」

「や、馬でしょ。どうみても。え? みえてる?」

「みえてるけどッ! みえてるとかみえてないとかじゃなくて、俺はッ」

「あ、大丈夫。わかってる。人間だったのを馬にされたとかそういうバイオ的な科学技術的な話でしょ? 慣れてるから」

「だから違うからッ!」

 馬は全力で否定をして、首をぶんぶんと左右に振った。

 それからとんでもないことを口走った。

「俺は悪魔、オロバスだ! 馬でも人間でもない!」

 ロクは残念な顔になった。

「信じてないな、その目!」

「いやあ……信じるとか信じないとか、そういう問題でもないけど……」

 きわめて微妙な気持ちで、ロクは改めて馬を見つめた。

 悪魔だと言われて信じられないわけではなかった。

 ペルソナノングラータの中にはそれと遭遇したものだっていた。

 バンカだって、悪魔だという青年と極めて仲良しだった。

 ロクも会ったことがないわけではない。

 それでも納得できなかったのは、馬だったからである。

「由緒正しきソロモン七十二柱が一人だぞ俺は!」

「ソロモン……?」

 なんだか聞き覚えのあるワードだった。

 バンカの知り合いの悪魔も、同じようなことをいっていたような。

「じゃあ……お仲間に『ハヴレス』っていうひと、いたりする?」

「ハヴレス? ……フラウロスのことか?」

「わかんないけど……すごい怖い顔したひと」

「間違いなくフラウロスだろうな。元同僚といったところだ」

 馬はうんうんとうなずいた。またロクも納得していた。

 よくはわからないが、バンカがトドメをささなかった理由は理解できた。

 知り合いの悪魔の、知り合いだったからに違いない。

 身内以外には容赦のない彼女も、身内であると判断すれば途端に撃甘になるのが特徴である。

「あんたが悪魔だっていうのは信じるけど……だったらあんた、ここで何してたの? 何でボロボロだったの?」

「俺はこの施設長だという男と契約しただけだ。契約に基づき契約主を守ろうとした」

 馬は思い出していた。

 唐突に入ってきた、血まみれの刀を携えた少女を。

 一瞬同僚かとも思ったが、どうやら違うようだった。

 楽しげに微笑みながら入ってきたと思ったら、契約主である男と言葉を交わした後、少女の表情が一変した。

 対峙した時にはすでに炎をまとって怒りに顔を歪めていた。

 一撃も入れる間もなく、ぶっ飛んだようなあやふやな記憶だ。

 そういえば、いわれてみれば『フラウロス』とよく似ていたと思う。

「その契約主さんは?」

「わからん。目が覚めたらオマエがいた。……契約は切られたようだが」

「ふーん……あんたも運がなかったね。バンカに遭遇したんだ」

 さぞかしバンカは怒っていただろう、とロクは思いを巡らせた。

 彼女は『使役』という言葉を一番に嫌う。

 悪魔の知り合いがいて、それと契約を交わしていないのもまた、彼女が『使役』することを極端に嫌うからである。友達のままでいい、とまで言っていたことを思い出した。

 そんなバンカも、そろそろ戻ってくる頃だろう。

「あれは少女の姿をした化け物だった……。見事に人間だと騙されたが、東洋には妖怪が住んでいるとはきく。アレがそうなのだろう?」

「や……アレでも一応、女の子だよ。普通じゃないだけで」

「ではあれが噂の侍とやらか……」

「うーんちょっと違うかな。侍はあんなに荒々しくないかな」

「何であれ日本人は恐ろしいという噂は事実だったな……」

 馬は思い出してガタガタと震えはじめた。

 その光景をみて、ロクはぷっ、と吹き出した。

 トラウマになるのも無理はないとは思うが、それでもまるで悪魔とは思えない、人間さながらのリアクションだった。

 ざり、と背後で音がした。

 ロクは「きたかな」と小さく呟いて、瓦礫から顔を出す。

「バンカー、あんたさ、こい……!」

 視線の先にいたのは、ロクの見慣れた少女ではなかった。

 まるで見覚えのない、長身の男だった。

 とっさに、ロクは馬の上へと覆いかぶさった。

「な、にっ」

「伏せて!」

 伏せてすぐに、頭上をびゅんと衝撃波にも似た何かが飛んでいく。

(――能力者……!)

 壁が崩れる前に、ロクは馬を抱えて無理矢理飛びのいた。

 腰から超電磁砲を引き抜いて、放つ。

(ペルソナノングラータ以外にもいるとはきいていたけど……このタイミング!)

 当然のように超電磁砲は外れていく。

 男は黒いマントから両手をバッと出して、切り裂くように振り回した。

 直後鋭い、風の刃のようなものが飛んでいく。

「くっ」

 そのいくつかがロクの頬を切り裂いた。

 ロクは数発、超電磁砲を打って威嚇してから、地に着地した。

 馬は先ほどから男を見つめて、呆然としている。

「……知り合い?」

 ロクは目だけを馬の方を向けた。

 馬は相変わらず、男を茫然と見つめている。

「契約主……」

「け、契約主ぃ?」

 馬の思わぬ呟きに、ロクは目を見開いた。

(もしかして……施設長って男なの? だとしたら、バンカは……)

 最悪の事態も考えうる状況だったが、しかしそれがありえないということをロクは一番よく知っていた。

 バンカのことだ。

 どういう状況かはわからないが、少なくとも厄介な方を選んで、やり合ってるに違いない。

(能力なしで、勝てるの……?)

 思わず、ロクの手はポケットに伸びた。

 銀色のケースに指が触れる。

 頭をよぎるのは。

 副作用。

 持続時間。

 一年の、ブランク。

「……片割れの方は、もう少し野蛮だったのだが」

「?」

「貴様はどうにも、おとなしいな」

 男はそんなことを呟いて、何気なく腕を振るった。

 そのたび、男の横からは見えない刃が飛んでくる。

「――退いて!」

 動かない馬をはねのけて、ロクは超電磁砲を放った。

 見えない刃を何とか撃ち落して、続けざまに男へと放つ。

 しかし男はいとも簡単にそれをするすると避けた。

 ロクが精一杯なのに対し、男はあくまでも余裕だった。

「あんた、ちょっとは避け……あ」

 振り向いた先で、馬は気絶していた。

 はねのけた際に、どうやら強く頭を打ったようである。

 頭の上に、星が回っている。

「悪魔だってわりにはなんつー華奢な……」

 ロクは舌打ちした。

 馬を守りながらの戦いは、想定外だった。

 契約した間柄だというのに、男は馬にさえも容赦なく攻撃を放っている。

 殺す気なのか何のかはわからないが、少なくともあっさり見捨てたらバンカは怒るだろう。

 怒ったバンカをたしなめるのは面倒である。そんなことをするくらいなら、死んだ方がましだと彼女を知る上官でさえそういうだろう。喜んで遺書をかき、屋上から飛ぶだろう。

(……自分は守られてたのに、なんつーやつだ……バンカが怒る理由もわかるわ)

 馬を抱えて遠くまでどかしてから、ロクは連続して超電磁砲を放った。

 銀色のケースを取り出す。

 もはやなりふり構ってはいられない。

「もしや、貴様は『ペルソナノングラータ』ではないのかな?」

「!」

 ふと、背後に声がした。

「くっ!」

 とっさに振り向くも、男の攻撃に間に合わない。

 すぱーん、と切れ味よく刃が肩をえぐった。

 久しぶりに見る真っ赤な液体に、ロクは息をのんだ。

 からんからんと超電磁砲が真っ二つになって飛んでいく。

「なんと、たわいのないことか」

 憐れむような声を聴きながら、ロクはずしゃああああと地面を滑って止まった。

 とっさに痛む肩を押さえる。

 少し先に、銀色のケースが転がっている。

「こい、オロバスよ。お前ともう一度、契約を交わそう」

 男の視線は馬へと向いた。

「そしてお前が、この女にトドメをさすがいい」

「………」

 馬は固まったまま、動かなかった。

 返事もなかった。

 当然である。気絶しているのである。

 しかし男はどうにも気づいていないらしい。

「オロバス? きこえないのか」

 コレである。

 勝機とばかりに、ロクはゆっくり体を動かした。

 痛いが、動かせないことはない。

 そっと手を伸ばしてケースを掴んだ。

 一瞬のためらいもなく、赤いクスリを掴んで、口へと放る。

 瞬間、心臓が一度、大きく鳴いた。

「――ん?」

 ふと、男は暗い室内に灯りがともったのを視認した。

 背を向けた方向が、オレンジ色に明るい。

 振り向いた先に、めらめらと炎が上がっていた。

 倒れたはずの少女が、炎をまとって、立っている。

「なんだ、やはり『ペルソナノングラータ』か? 能力の出し惜しみかね」

 あきれたように男は振り返ったが、ロクはすでにいなかった。

「出し惜しみ――だったら傷なんて負ってないでしょうよ」

「!」

 悪意に顔を歪めて、ロクは男の後ろで腕を振りかぶっていた。

「これはその馬と――わたしの肩の分だッ」

 炎をまとった拳が、鞭のようにしなやかに男へ叩き込まれる。

「ごはッ」

 短い呻き声のあと、避ける間もなく男はぶっ飛んでいった。

 ロクはすっかり真っ赤に染まった髪を揺らして、赤い目で男の方向を睨みつけた。

 数秒もしないうちに、男が吹っ飛んで出来た穴から炎が上がった。

 炎はぐるぐると渦を巻いて、天高く立ち上る。

「――ったく、おとなしくしてりゃコレなんだから……」

 深いため息をついて、ロクは馬の方を見据えた。

 手慣れた作業のように炎を身体の中にしゅるると収める。

 髪は並行して黒く戻り、目もすっと黒く戻った。

(ずっと黒だったらいいのに。持続時間切れたら、戻るだろうな)

 ふむ、と髪を確認してから、ロクはひょいと飛んで、馬の肩を揺すった。

「もしもーし。大丈夫? 生きてる?」

「ん………、ん? あれ、契約主は……」

「あー」

 ぽりぽりと頬をかいて、ロクは目を逸らした。

(……せ、せっかく普通を装ってたんだし、普通の女の子として見られてたいな……)

 ごめん、バンカ!

 心の中で相棒に謝罪してから、ロクは、

「さっきバンカが戻ってきてぶっ飛ばしていったよ」

 と、呟いた。

 片言だった。

「そ、そうか……」

 やはり少し切なそうに、馬は頷いた。

「……あんた。契約主さんにいいように使われてたのに、心配したわけ?」

「いいように使われるのが悪魔だ。それに、俺は契約主には誠実なのだ」

「自分で誠実とかいうのってどうかな……」

「誠実は誠実なのだから仕方ない」

 馬は自信満々で言い切った。

 ロクもそれ以上そこにツッコミはいれなかった。いれれなかった。

「とはいえ、オマエには世話になったな」

 馬はよたよたと立ち上がった。

「助けてもらった礼だ。何でも一つ、願いをかなえてやろう」

「……かわりに魂をいただくとかそういう話?」

「違う! 助けてもらった礼だ!」

「……ほんと?」

「さっき俺は誠実だといっただろう!」

 うーん、とロクは唸った。

 願い。

 ロクの、願い。

「結婚したい」

「け、結婚?」

 ぽつり呟いた声に、馬は破顔した。

 ロクはこくこくとうなずく。

「そ。結婚。わたし、結婚したいんだよね」

「結婚……」

「あ、やっぱ無理?」

「あ、いや、その……わ、わかった!」

 どういうわけか意を決したように、馬は声を荒げた。

 どこか顔も赤いような気がする(馬なのでよくわからない)。

「し、幸せにしてやるからな!」

「? うん、よろしくお願いしまーす」

 さして期待もせずに、ロクはにたーっと笑った。

 無理だとは思うが、これで退職できればもうけものである。

 ほどなくして、バンカが男が吹っ飛んでできた穴から顔を出した。

「ロクー! 終わったぞー!」

「ああ、バンカ!」

 ちゃんと聞き覚えのある声だ、と振り返ったロクは固まった。

 笑顔で炎をまとったバンカは、返り血まみれだった。

 そしてそれ以上に目をひいたのは、バンカの手だった。

 正確には、その手にぶら下げたもの。

 さらにいうと、生首である。

「みろよこれ! すごくね? 戦国武将っぽいだろ!」

 にっこにこしながら、まさしく太陽のような笑顔で、バンカは笑いかけた。

 生首は言わずもがな、ロクが先ほどぶっ飛ばした男のものだった。

 さーっとロクの血の気が引いていく。

 馬の顔色もさっと青ざめていく。

「あん? どーかした?」

 可愛らしい仕種で、バンカは小首を傾げた。

「ばっばばばばばばばか! バンカ、あんた何してんの!」

「なにって、首とった」

「ばっかじゃないの! わたしがスプラッター苦手なの知ってるでしょ!」

 バッと顔をそむけるロク。

「うん。知っててやった。突然辞めた仕返しってやつだ!」

「あんたねえ!」

 ぎゃあぎゃあと騒ぐ中。

 馬の方は青が紫色へと変わり、ばたーん、と後ろに倒れた。漫画のようである。

「ちょ、あんた悪魔でしょ! 何白目むいてんの!」

「あっははははこいつスゲー顔してるー!」

「お……俺もスプラッターは……無理……」

「だから悪魔でしょ! 悪魔がスプラッタ無理って何それ!」

「なさけねー!」

「バンカうるさい! ちょっとそれ捨ててきて!」

「えー」

「えーじゃない! 捨てる!」

「ロク母さんんみてー」

「いーから捨てなさい!」

 ほどなくして、バンカは生首を諦め。

 ロクは馬を背負いながら、施設を後にした。

 二人と一人の悪魔が去った後。

 施設はきゅいーん、と近代兵器さながらな音を立てて跡形もなく消滅した。

 そのあと実はバンカが殺した証として目玉を持ち帰っていて、それがまた新たな火種となり彼女の担当官が頭を抱えて真剣に退職か自殺を考えるのは、これまた別の話である。



***



 翌日。ロクが目を覚ました先は、見覚えのある医務室だった。

 懐かしい、ペルソナノングラータ時代の宿舎内である。

 傍らには、ぐっすりと眠るバンカの姿があった。

(ん……っと、何だっけ)

 普通に戻ったのも夢だったか、と思ったがそんなことはなかった。

 そばに置かれた鏡には、カラーコンタクトが外され、見事オッドアイに戻っている自分の姿が映し出されている。

 ため息をついて、ロクは側に置かれた棚の上、コンタクトを手に取ってはめた。

 髪の方は、どうやらまだスプレーがとれていないらしい。

 黒いままである。

「ん……、あ、起きた?」

 ロクのベッドにもたれかかりながら寝ていたバンカはぱちっと目を覚ました。

 その様子は、とても軍人とは思えないものである。

「大丈夫かよロク。倒れたんだぞ、おまえ」

「ああ……なるほど」

 思い当たるのは赤いクスリである。

 そういえば帰還して報告を終えた後からの記憶がない。

 たった一度、能力を使用しただけだというのにずいぶんな反動である。

「楽史寺呼んでくるわ。話があるっていってたし」

「ほんと? だったら一発殴っといて」

「わかったー」

 にかっと笑って、バンカは医務室を出ていった。

 そういえばバンカならホントに殴りそうだ、と思い当たってロクは両手を合わせた。

 へたをすると生死にかかわる鉄拳を振りかざす少女であることを、すっかり忘れていた。

 ほどなくして、バンカと入れ違うように、まるで見覚えのない青年が入室した。

「……?」

「………どうも」

 茶色の髪に、真っ赤な目をした青年だった。

 立派なタキシードまで着て、後ろでに花束を隠している。

 しかしロクには見覚えのない青年だった。

 少なくとも、同じ『ペルソナノングラータ』にはいなかったはずだ。

(もしかして、もう願いをかなえたとか?)

 ふと、あの馬を思い出す。

 しどろもどろしていて、最後の方は悪魔とは思えなかったな、とロクは思い返した。

 そういえば声は似てるな、と思いつつ、ロクは、

「どちらさま?」

 と期待を込めて呟いた。

「オロバスだ」

 期待は見事打ち砕かれた。

「オロバスって……あの馬!」

「馬じゃない、悪魔だ!」

「医務室では静かにして」

「す、すまん」

 ロクに叱咤されて、声を荒げた青年……こと馬、ことオロバスはしゅんとした。

 顔をほんのり朱色に染めて、もじもじと花束を差し出した。

「し、幸せに、しにきたぞ」

「ああ……ってあんたが!?」

 絶句とはまさにこのことだろう。

「オマエ結婚したいっていっただろ! わざわざ、人をまねてきたんだぞ!」

「いったけどもッ! いったけどもあんたがわたしと結婚すんの!? いいのあんた!?」

「よくなかったらきてない!」

 顔を真っ赤にして怒る姿は、声は、確かに昨日の馬だった。

 しかしその姿は、馬ではない。

 なかなか顔の整った青年である。

 ロクは頬が熱いのを感じた。

「や、だって、あんた、悪魔……」

「別にオマエはクリスチャンじゃない」

「そうだけど、わたし、人間だよ? 嫌じゃないの、人間の小娘となんて」

「だから嫌ならきてない! 他にそうなるよう仕向けるだろう! そうでないのだということを察しろ!」

 とりあえずと花を受け取って、ロクはまじまじとオロバスを見上げた。

 さしてドッキリというわけでもないらしい。

「……はー、あんたも物好きなんだね……」

 ぽつり呟いて、ロクは口元を緩めた。

「ふん、物好きはオマエだ。悪魔に結婚願望をぶつけるなどと、きいたこともない」

「……まあ、そうかもね。お互い物好きだったんだね」

「そうなるだろうな」

 オロバスはふいとそっぽを向いた。

 耳まで真っ赤である。

 ロクはくい、とオロバスの服を引っ張った。

 たまらず、オロバスはロクの方に向き直る。

「お花ありがと。こんなのもらったことないから、すごいうれしい」

「……!」

「わたしは六倉 鹿。ロクって呼んでね。これからよろしく、オロバス」

 花束越しにふんわり微笑むロクをみて、オロバスは顔から湯気を出した。

 まるで沸騰したやかんのようだった。

 そんなことなどまるで気にも留めず、ロクは、

「婚約成立ってことで、改めて」

 ちゅ。

 直立して固まるオロバスの唇に、身体を伸ばして唇を当てた。

 直後。

「ローク! 瀕死の楽史寺つれてきたぞー」

「あはは、ロクちゃん目ぇ覚めたんだって……」

 瀕死状態の楽史寺とバンカが入室。

 そのままわなわなと震える楽史寺と、「あ」と短く声をあげたバンカと、同じく「あ」とそれに気づいたロクが固まり。

 オロバスの心臓がほどなくして限界を突破。

 ぼんっ。という音で青年は哀れにも馬へと戻り。

 ばたーん、と倒れたのは、言うまでもない。

 ――以上が。

 この夫婦の、三つめの異常な点。

 出会った場所が戦場、という、極めて稀なケースだということ……ではなく。

 軍人と悪魔だというのに、二人とも意外にスプラッタが苦手だという、普通な点、である。

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