馬と鹿。

黒谷恭也

第0話 馬と鹿。

 桜が芽吹く、少し前。

 新居へと移って数日。

 まだ真新しい匂いと、空気と、家財道具。

 揺れるカーテンが春の息吹を室内へと運ぶ。

 時刻は午後三時。

 おやつの時間である。

「もうこんな時間かあ……」

 ソファの上から身体を起こして、ロクは本を閉じた。

 初めて味わう『ヒマ』の時間。

 テーブルに置いたスマートフォンに、メッセージの表示はない。

 穏やかな日差しをこんなにゆったりと浴びたのは初めてだった。

 んん、と身体を伸ばして立ち上がる。

 つけっぱなしにしたテレビ画面には、いつから始まっていたのか、再放送らしい刑事ドラマが流されている。

 熱血刑事と紳士な刑事の物語らしい。

 紳士が飲む紅茶をじーっと見つめてから、ロクは台所へと目をやった。

 まだ数回しか使っていないそこは、ほとんど汚れがない。

 それというのも、使用した後、必ず彼女の旦那が綺麗にするからである。

「夕飯、何にしよっかな」

 おもむろに、ロクはスマートフォンを手に取った。

 手慣れた手つきで、旦那へとメッセージを送信する。

 この時間ならまだ仕事はしているだろうが、彼の仕事はメールの一つも返せないような激務ではない。

(時間の流れって、こんなにゆっくりだったっけ)

 数年前なら、この時間は何をしていただろうか。

 ロクは記憶を振り返る。

 いや、振り返るまでもない。

 午後三時頃といえば、きっとまだバリバリと仕事をしていた時間だろう。

 思えばあの頃は時間が過ぎ去るのも早かった。

 気が付いたら春で、気が付いたら冬で、気が付いたらまた春がくる。

 夏と秋にかまってやる暇など、なかったような。

「……あ」

 ぴこん。

 スマートフォンが音を立てて振動した。

 画面には、新着メッセージが映し出されている。

 『夕飯何がいい?』

 と、送ったメッセージに対し、旦那から送られてきたメッセージは、

 『やさい』

 だった。

 ロクは思わず苦笑した。

 とてつもなく素っ気ない、新婚の夫婦のメールとは思えない代物だったが、それは別に意図的にそうなったわけではない。

 旦那はちょっとばかし、こういう最新の機械に疎いだけである。

 メールを返信することすら、手間取るのである。

「やさいかー……確かカレーのルー、買い置きしてたっけ」

 立ち上がって、台所へ移動。

 冷蔵庫を開けて確認する。

「うん、問題ないね。きまり」

 誰に呟くでもなく頷いて、ロクは野菜を取り出した。

 戸棚からカレーのルー、大きな鍋を取り出す。

 続けて包丁とまな板を取り出したところで、ふと、正面に置いた鏡に自分の姿をみた。

(わたし……主婦っぽいな、うん)

 エプロンまでつけてみて、それっぽく決めてみる。

 危うく包丁を構えそうになったが、ぎりぎりで踏みとどまって食材を切り始めた。

 たんたんたんたん、というリズミカルな音が室内に響く。

 一人暮らしの男性が憧れる音である。

 しかしその音は、男性のみならず、ロクだって憧れた音だ。

「辛い方が好きかなあ……や、それとも甘口かなあ」

 タマネギをみじん切りにしながら、ロクはふとテレビ画面を見つめた。

 刑事たちはすでに確信に触れようとしている。

 紳士な刑事が人差し指をたてて、自信満々に何かを演説している様は、俳優を通り越してはまり役だった。

 熱血な刑事もまた、それ以外の役など考えられないくらいはまっている。

 野菜を切り終えて、ロクは鍋に火をかけた。

 必死で覚えた料理は、いまだレパートリーは少ないが、それでも一定のレベルは保てるように練習済みである。

 カレーをしばらく煮込むこと、三時間ちょっと。

 がたんと音がして、玄関のドアが開いた。

「あ、おかえりなさーい」

 鍋の火を止めて、ロクはパタパタと玄関へ走った。

「ああ……ただいま」

「………」

 帰ってきた旦那の姿をみて、ロクは絶句した。

「……オロバス。あんた、馬になってるよ」

「……ああ………ってああ! しまった忘れてた!」

 旦那は馬だった。

 まさしく、馬だった。

 馬が服を着て、二足歩行しているという奇妙な光景である。

 慌ててぼん、という音を立てて、旦那は馬から青年へと姿を変えた。

「ねえ、もしかして……それで外歩いてきたの?」

「……」

 青年、沈黙。

「……よく警察呼ばれなかったね」

「ああ、俺もそう思う」

 着ぐるみだと思われたのだろうか……と青年は落ち込んだ。

 落ち込んだまま、羽織ったコートを脱ぎはじめる。

 脱いだコートを受け取って、ロクはハンガーへとかけた。

「何か疲れてるね。嫌なことでもあった?」

「昔の同僚と再会してな……しかも嫌いなヤツに絡まれた」

「そりゃ大変だったねえ」

 青年、オロバスを中へと促して、ロクは苦笑した。

「でも帝王さんに仕事紹介してもらったんでしょ? どうだったの?」

「ああ、それはいいんだ。ただ魔界に意外と知り合いが多くてな……」

 頭を抱えて、オロバスは深いため息をついた。

 疲れている声を背後から聞きながら、ロクは口元を緩める。

「ふーん、オロバスじゃなくて偽名でも使えばいいじゃん。ばれないかもよ」

「いや俺にだって誇りくらいあるからな!?」

 リビングにつくと、オロバスはソファにダイブした。

 そんな様はまさにサラリーマンである。

 しかし彼は、もはや想像の通り、サラリーマンでもなければ、人間ですらない。

 この夫婦の、唯一異常な三つの点の一つ。

 旦那であるオロバスは、馬の姿をした、悪魔。

 ソロモン七十二柱と呼ばれる悪魔の一人である。

「今日はカレーにしたよ」

「……そうか。いい匂いがするな」

 腕を目に乗せながら、オロバスはうなずいた。

「今食べる? それとも先、お風呂にする?」

「……その問いには『お前を先にしたい』と答えるのがスタンダードか?」

「ううん、そういうのはエロゲーかラブコメか乙女ゲーだから間に合ってる」

「そうか。ならば先に飯にしよう。どうせオマエも食べてないんだろう?」

「うん。待ってたから」

 言いながら、ロクはカレー器に白米をよそった。

 いそいそと甲斐甲斐しく、山盛りにしている。

「……それはもしや俺が食べるのか?」

「そりゃもちろん。だってわたしがこれの半分食べれるんだから、あんたは倍でしょ?」

「………」

 オロバスはうつろな目でカレーを見つめた。

 それはいわゆる『デカ盛り』と呼ばれ、大食いを売りにしている方々が食すそれだった。

 それの半分だって、店で頼めば特盛りかなにかにはなるだろう。

 しかし妻の、それも相当年下の幼妻(ロク自体は26歳。オロバスが悪魔のため年齢不詳)をもらったオロバスは、プライドが食べれないとしゃべることを許さなかった。

 そっと腹に手を当てる。

(俺の胃袋は爆発するかもしれない……)

 想像しただけで、顔色が青くなるのを感じた。

「はい、どーぞ」

「あ、ああ、アリガトウ……」

 目の前に置かれたカレーに、若干吐き気を催しながらオロバスはスプーンを構えた。

 もはやこれは戦場である。

「いただきまーす」

「イタダキマス」

 ロクの真似をして、オロバスも両手を合わせた。

 それからカレーを口へと運ぶ。

 口の中にスパイスの香りが広がっていく。

「む。うまいな」

「そー? それはよかった」

 むぐむぐとカレーを頬張るオロバスをみて、ロクは微笑んだ。

「まだまだたくさんあるから、おかわりしてね」

「………」

 ちらりと視線を台所へやる。

 ガス代には寸胴のようなばかでかい鍋が置かれていた。

 完全に炊き出し用の鍋である。

 少なくとも、新婚生活の二人暮らし夫婦が使う代物ではない。

「……ロク。オマエ何人分作ったんだ?」

「あー、ごめんごめん。つい作り過ぎちゃうんだよね癖で……。たぶん、十三人前くらい」

「そうか……十三人前か」

「ちょうど一部隊の最大人数なんだよね」

「なるほどな……」

 オロバスは絶句した。

 この夫婦の異常な点、二つ目を忘れていた。

 奥様は魔女……ではなく、元軍人なのである。

 普段の振る舞いは本人いわくとても気を付けているがために、あまり気づけないし退役してして一年以上経つために、そのそぶりはこういった小さなところにしか出てこない。

(……同僚たちでも家に招けばすぐなくなるだろうが……、家を知られるのは困るか……)

 頭を抱えるオロバスを横目に、ロクは空になったカレー皿をもって台所へ立ち上がる。

 そう、空になったカレー皿をもって。

「……おかわりするのか?」

「と―ぜん。三杯はイケるって」

 小首を傾げて笑うロク。

 オロバスは自分の皿を見つめた。

 いまだ半分ほど残っている。

「仕事してたらもうちょっと食べれるけど、うん、家事とトレーニングだけだからこんなもんになっちゃうんだよね」

「人間の胃袋というのはブラックホールか何かで出来ていたか?」

「んーん。ちゃんと細胞で出来てるよ」

 宣言通りロクはカレーを三杯食べ終えた。

 オロバスも何とか面目を保とうと、四杯食べ終えた。

 食べ終わる頃には、すっかり余裕をなくして、

「あんたまた馬になってるけど」

「く、喰いすぎた……」

 馬になっていた。

「そんなにおいしかった?」

 空になった皿を台所へとさげながら、ロクは苦笑した。

 嬉しそうな顔をみて、オロバスはやや遅れてうなずく。

 味わう余裕など後半はなかったが、それでも確かにおいしかった。

「……手料理を振る舞われるなど、初めてだ」

「は?」

「他の悪魔は遥か昔に伴侶をもったりしていたが、俺は生まれてこの方、そんなことをしたことはないのでな。人間の女に手料理を振る舞ってもらったことなど、ただの一度もない」

「ふうん……じゃあ初婚なんだ」

「そうなるな」

 かちゃかちゃと食器を洗う音が響いた。

 腹ははちきれそうだったが、それでもオロバスは嫌な気持ちはしなかった。

 少なくとも――じわじわと痛いくらい、幸せだった。

 それと無縁とはわかっていても、懐かしい痛みである。

「お風呂わいてるからね。いつでもはいってきて」

「ああ……」

 エプロンを外して、ロクは棚に置いてあった本を手に取った。

 寝そべるオロバスの傍らに、腰を下ろす。

「……オマエ。『失楽園』なんて読んでるのか?」

「ああ、うん。ちょっと、あんたについて勉強」

「内容が難しいだろう。ミルトンという著者は言い回しがくどい」

「うん、でも、旦那について何も知らないってのも、どうかと思うから頑張ってみる」

 真剣な声と目に、オロバスは沈黙した。

 本棚にはいつの間にか、みるひとがみれば『大丈夫ここの家?』と思うほど、専門的な悪魔学の本がずらりと並べられている。

 そっと、手を(正しくは蹄)伸ばす。

「俺のことが知りたいのなら、いつでも教えてやるのだがな」

「……。馬鹿じゃないの」

 あきれたように微笑んで、ロクはオロバスの手(蹄)を手に取った。

 ぱたんと本を閉じる。

 テレビ画面には二時間ドラマがいつの間にか始まっていて、見計らったかのように、結婚式のシーンが放送されていた。

 鳴り響く祝福の鐘。

 パイプオルガンが歌を奏で、人々は笑顔と幸福に満ちる。

 それは純白の式。

 新たなる旅立ちを祝う、祝福の儀。

 そびえたつ十字架の元、永遠の愛を誓う夫婦を、祝う式。

「うわー……いいなあ」

 結ばれそうで結ばれなかったらしいヒロインと主人公の、ようやくの結婚式シーンに、ロクは思わず、そんなことを呟いた。

「ひいっ」

 同時に、オロバスは耳を両手でふさいだ。

 目をがばっと大げさに逸らす。

「……ロク、いくらオマエの望みでも、それは、ちょっと……」

 目線を下へと泳がせながら、青年、オロバスはがたがたと震えていた。

 何かに恐怖しているようだった。

 ああ、とロクはテレビのリモコンをぴこぴこと押す。

「ごめんごめん。苦手だよね」

 少しだけ残念そうにして、チャンネルが切り替わった。

「す、すまん……」

 涙目になりつつ震えるオロバスの肩をさする。

 生まれたての小鹿のようである。

「いいよ。あんた悪魔だし、十字架とか教会とか一切無理なんでしょ?」

 ぷつん。その他もさして面白味のある番組もなく、テレビの電源を切って、ロクはオロバスに向き直った。

 オロバスはようやくのこと、恐怖から解放されたらしい。

 ほっと溜息をついている。

「かなえてやりたいところだが、どうにもトラウマでな。平気なやつはみるだけだったり、ブライダル教会なら平気だったりするんだが……」

 思い出して震えるオロバスに、ロクはぷっと吹き出した。

「まあ、いいよ別に。仕事辞められたし、式あげなくても指輪もらったし」

 ロクは薬指をかざした。

 小さな花のモチーフがついた、可愛らしい指輪が嵌められている。

 同様にオロバスの薬指にも、同じものが嵌められている。

 それは婚約指輪には少し可愛らしすぎるものだったが、それでもロクは満足していた。

「今、けっこー幸せだから」

 にこにこするロクの顔を見上げて、オロバスも苦笑した。

「……そうか」







※この物語は、こんな鹿と馬のちょっとバイオレンスで非現実的でどうしようもなく馬鹿な、二人の日常を描いた物語である。

 



 

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