怪異(十)

 夕暮れになった。

 劉協は二つの血塗れの首を前に跪いていた。

 いや、人間の首といっていいものか……。

 首はほとんど形を成していなかった。

「なんということだ……」

 劉協は恐怖に戦慄していた。

「恐ろしい」

 劉協は、我を忘れていた。

 このことは伏皇后の意趣返しなのはあきらかだった。

 当然、曹三姉妹と仲良くしているからなのは間違いなかった。

「恐ろしいことだ、恐ろしいことだ……」



「久々に胸が軽くなったような気持ちだ」

 伏皇后は夕餉を取っていた。

「身体を動かすと食欲が増すのう」

 と、取り巻きの者たちに言う。

 伏皇后は鼈(すっぽん)を食していた。

 鼈の血を酒と混ぜて飲むのが伏皇后の好みだ。

「見たか、陛下の顔を」

「はい」

「漢の皇帝ともあろうお方が、あの慌てよう……」

「左様でございます……」

「あれで皇帝というのだから呆れる」

「まさに……」

「曹操の娘どもと仲良くしているのだからいけないのだ」

「まったくでございます」

「まさかとは思うが、陛下はもうあの娘どもに手をつけたのだろうか……」

 部屋は沈黙する。

 これには誰にも答えられない。

「だとすると急がねばならぬな」

「では、まさか……」

「うむ」

「しかし、それにはよほど事を慎重に運びませぬと……」

 取り巻きの者たちが慌てふためくのも無理はない。

 もしも陰謀が露見して伏皇后が死ねば、職を失うことになる。

 いや、職を失うどころか命すら危うい。

「例の者は来ているか?」

「はい。待たせています」

「では、ここへ呼べ」

「よろしいのでしょうか?」

「かまわぬ」

 兵士たちに連れられて、壷をかかえた老人が入ってきた。

 筋骨隆々とした老人だった。

 ここにいる兵士たちなど、素手で全員倒してしまうのではないか……。

 それほどの威圧感があった。

「そなた、薬草を売って生計をたてていると聞いたが」

「左様でございます」

「そのわりにはいかつい身体をしているのう」

「かつては戦場に出たこともございますゆえ」

「ほう」

 伏皇后はかすかに驚いた。

「そなたを呼んだ理由はすでに知っているはず」

「はい」

「毒が欲しいので、売って欲しいのだ」

 すると、老人は左右を見回した。

「よろしいのでございますか? 宮廷でそのような話をして……。宮中では『壁に耳あり障子に目あり』と申しますが」

「問題ない。ここにいるのは気心の知れた者ばかりだ。曹操に告げ口するような者はおらぬ」

「はあ……」

 老人は表情を歪めた。

「その壷に入っているのが毒か」

「その通りでございます」

「効果は?」

「たちどころに効くでしょう。あっという間に死にますな。鴆(ちん)毒ではございませぬゆえ犀の器でもわかりませぬ」

「早速効果が見たい」

 犬が連れられてきた。大きな犬で、闘犬に用いられる犬だった。

 さっそく毒をいれた水を飲ませると、犬はもがき苦しみたちどころにして死んだ。

「これは素晴らしい……」

 伏皇后は感嘆の声を上げた。

「皇后さま」

「何かね? 金ならはずむぞ」

「それよりも喉が渇いたので一杯いただきとうございます」

「ほう……。水が欲しいか。それとも酒か?」

「酒が欲しゅうございます」

 さっそく酒が運ばれると、老人は酒をうまそうに飲んだ。

 それから酒を飲み干すと、その器で壷に入った毒をすくって飲んだ。

 伏皇后たちは唖然とした。

 が、老人は何ともない。

 伏皇后たちが不思議がったので、老人は理由を説明した。

「礼記に『薬を服用する際にはその臣下が問題ないかどうか確認し、親が薬を飲む際には子供が確認するという。そして医者が三代に渡って続かない限り、その医者が処方する薬を服用してはならない』とございます。尊いお方は滅多な物を口に運びませぬ」

 老人は話を続けた。

「ところがこの毒は普通の毒とは違うのでございます。口にしたことのない者が一息に飲み干せば、この犬のように死んでしまいますが、少しずつ飲み量を増やせて身体を慣らしておけば、いまのように大量に飲んでも何ともないのでございます」

「おお……」

 伏皇后は相好をくずした。

「この毒があれば、あの女どもを皆殺しにすることも……」

 皇后は、曹家の三姉妹が毒に苦しんでいる姿を想像した。

 笑いが止まらなかった。

「これは、その毒について詳しく書かれた本です」

 そう言って、老人は懐から一冊の本を取り出した。

 皇后は自ら歩み寄って、本に目を通した。

「では、褒美をやろう」

 兵士が金塊を持ってきて、老人に渡した。

「ありがとうございます」

 老人は金塊を貰うと、その場から去った。

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