怪異(十)
夕暮れになった。
劉協は二つの血塗れの首を前に跪いていた。
いや、人間の首といっていいものか……。
首はほとんど形を成していなかった。
「なんということだ……」
劉協は恐怖に戦慄していた。
「恐ろしい」
劉協は、我を忘れていた。
このことは伏皇后の意趣返しなのはあきらかだった。
当然、曹三姉妹と仲良くしているからなのは間違いなかった。
「恐ろしいことだ、恐ろしいことだ……」
※
「久々に胸が軽くなったような気持ちだ」
伏皇后は夕餉を取っていた。
「身体を動かすと食欲が増すのう」
と、取り巻きの者たちに言う。
伏皇后は鼈(すっぽん)を食していた。
鼈の血を酒と混ぜて飲むのが伏皇后の好みだ。
「見たか、陛下の顔を」
「はい」
「漢の皇帝ともあろうお方が、あの慌てよう……」
「左様でございます……」
「あれで皇帝というのだから呆れる」
「まさに……」
「曹操の娘どもと仲良くしているのだからいけないのだ」
「まったくでございます」
「まさかとは思うが、陛下はもうあの娘どもに手をつけたのだろうか……」
部屋は沈黙する。
これには誰にも答えられない。
「だとすると急がねばならぬな」
「では、まさか……」
「うむ」
「しかし、それにはよほど事を慎重に運びませぬと……」
取り巻きの者たちが慌てふためくのも無理はない。
もしも陰謀が露見して伏皇后が死ねば、職を失うことになる。
いや、職を失うどころか命すら危うい。
「例の者は来ているか?」
「はい。待たせています」
「では、ここへ呼べ」
「よろしいのでしょうか?」
「かまわぬ」
兵士たちに連れられて、壷をかかえた老人が入ってきた。
筋骨隆々とした老人だった。
ここにいる兵士たちなど、素手で全員倒してしまうのではないか……。
それほどの威圧感があった。
「そなた、薬草を売って生計をたてていると聞いたが」
「左様でございます」
「そのわりにはいかつい身体をしているのう」
「かつては戦場に出たこともございますゆえ」
「ほう」
伏皇后はかすかに驚いた。
「そなたを呼んだ理由はすでに知っているはず」
「はい」
「毒が欲しいので、売って欲しいのだ」
すると、老人は左右を見回した。
「よろしいのでございますか? 宮廷でそのような話をして……。宮中では『壁に耳あり障子に目あり』と申しますが」
「問題ない。ここにいるのは気心の知れた者ばかりだ。曹操に告げ口するような者はおらぬ」
「はあ……」
老人は表情を歪めた。
「その壷に入っているのが毒か」
「その通りでございます」
「効果は?」
「たちどころに効くでしょう。あっという間に死にますな。鴆(ちん)毒ではございませぬゆえ犀の器でもわかりませぬ」
「早速効果が見たい」
犬が連れられてきた。大きな犬で、闘犬に用いられる犬だった。
さっそく毒をいれた水を飲ませると、犬はもがき苦しみたちどころにして死んだ。
「これは素晴らしい……」
伏皇后は感嘆の声を上げた。
「皇后さま」
「何かね? 金ならはずむぞ」
「それよりも喉が渇いたので一杯いただきとうございます」
「ほう……。水が欲しいか。それとも酒か?」
「酒が欲しゅうございます」
さっそく酒が運ばれると、老人は酒をうまそうに飲んだ。
それから酒を飲み干すと、その器で壷に入った毒をすくって飲んだ。
伏皇后たちは唖然とした。
が、老人は何ともない。
伏皇后たちが不思議がったので、老人は理由を説明した。
「礼記に『薬を服用する際にはその臣下が問題ないかどうか確認し、親が薬を飲む際には子供が確認するという。そして医者が三代に渡って続かない限り、その医者が処方する薬を服用してはならない』とございます。尊いお方は滅多な物を口に運びませぬ」
老人は話を続けた。
「ところがこの毒は普通の毒とは違うのでございます。口にしたことのない者が一息に飲み干せば、この犬のように死んでしまいますが、少しずつ飲み量を増やせて身体を慣らしておけば、いまのように大量に飲んでも何ともないのでございます」
「おお……」
伏皇后は相好をくずした。
「この毒があれば、あの女どもを皆殺しにすることも……」
皇后は、曹家の三姉妹が毒に苦しんでいる姿を想像した。
笑いが止まらなかった。
「これは、その毒について詳しく書かれた本です」
そう言って、老人は懐から一冊の本を取り出した。
皇后は自ら歩み寄って、本に目を通した。
「では、褒美をやろう」
兵士が金塊を持ってきて、老人に渡した。
「ありがとうございます」
老人は金塊を貰うと、その場から去った。
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