砂塵(三)
「どうかしたのか?」
劉協がわけを訊ねると、
「いえ。何でもございませぬ」
と蔡文姫は気丈に振舞おうとする。
しかし、蔡文姫の心は乱れに乱れて、とても平常心を保てそうになかった。
劉協はそれを憐れに思った。
「思い出すのも辛いか。悪かった。もう言わぬ」
「申し訳ございません」
蔡文姫は謝ったが、涙が止まらぬ。
「陛下は蔡文姫どののことを思って仰ったのです。陛下が気に病む必要がございませぬ」
「う、うむ……」
「陛下。蔡文姫どのは匈奴の地に子供を残しているのです。それが哀しくて泣いているのです」
それを聞いた劉協は驚いた。
「一緒に帰ることはできなかったのか?」
「匈奴の王族の血を引いているため、母とともに暮らすことを許されませんでした」
「年はいくつになる」
「上は十四歳、下は九歳になります」
「故国に帰ることは嬉しいが、愛する子供と離別しなければならないとは。運命というのは残酷にできているものだ」
「そんな心の隙間を埋めてくれたのが、父の学問と公主の愛情でございます。公主にはずいぶんと慰めていただきました」
「そうであったか」
戦乱の世には蔡文姫のような女が、たくさん出てくるものだ。
いたたまれない気持ちになった劉協は、ふと、曹節の傍らに木簡が置かれているのに気がついた。
詩文であった。王粲が書いたものである。
王粲といえば曹三姉妹の婚姻を打診にきた人物である。
劉協はそれを読んだ。
題名は『七哀詩』とあった。
西京 乱れて象(みち)無く
豺虎(さいこ) 方(まさ)に患いを遘(かま)う
復た中国(みやこ)を棄てて去り
身を遠ざけて 荊蛮(けいばん)に適(ゆ)く
親戚 我に対いて悲しみ
朋友 相追攀(はん)す
門を出づるも見る所無く
白骨 平原を蔽(おお)えり
路に飢えたる婦人有り
子を抱きて草間に棄つ
顧みて号泣の声を聞くも
涕を揮(ふる)いて 独り還らず
「未だ身の死する処を知らず
何ぞ能く両(ふた)りながら相完からん」と
馬を駆って之を棄てて去る
此言を聴くに忍びざればなり
南のかた覇陵の岸(おか)に登り
首を廻らして長安を望む
悟りぬ 彼の下泉(かせん)の人の
喟然(きぜん)として心肝を傷ましむるを
長安の都は乱れて姿かたちもなく、
人の皮をかぶった獣が害悪を撒き散らしている。
戦乱をさけるため都を捨てて去り、
辺境の地に逃げようとする。
親類は別離を嘆き、
友人は追いすがって引きとめようとする。
門を出ると荒廃のため何もみえず、
白骨が野原をおおっている。
途中で飢えた婦人が、
抱いた幼子を草むらに捨てていた。
号泣する姿に何度も振り返るも、
婦人は泣きながらひとり立ち去った。
「わが身すらどこで死ぬのやらわからない、
どうして親子二人が無事に生き延びられよう」と。
馬上の私は立ち去った。
これ以上婦人の言葉を聞くのを耐えられなかった。
長安の南、覇陵の岸に立ち、
振り返って長安を眺め下ろす。
悪政をなげく『詩経』の「下泉」篇の作者の気持ちがよくわかった。
まさに胸をかきむしられるような思いであった。
読んでいるうちに、劉協も悲しくなってきた。
人の心を打つ名文とはまさにこのこと。
劉協の目にも涙が浮かぶ。
「私、その詩が大嫌いでございます」
不意に、蔡文姫が鋭い声で言った。
「なぜだ?」
「女は、子供を捨てたくて捨てたわけではございませぬ。その詩には婦人に対する侮蔑の念が込められているような気がします」
劉協は『七哀詩』を読み返した。
「気のせいではないか? そもそもこの『七哀詩』を書いた王粲はそなたの父親の弟子であろう」
「面識はございませぬ」
「この詩のどこが婦人を侮蔑しているというのだ?」
「最後の(詩経の『下泉』の作者の気持ちがよくわかった)というところでございます。まるで婦人は無学で愚か者のように罵っているではありませぬか。男は女を手綱をとりやすいように家に閉じこめて学問をする女は小賢しいと言っておきながら……」
「蔡文姫どの。これ以上陛下を困らせてはいけませぬ」
笑いながら曹節がたしなめると、己の無礼に気づいた蔡文姫は平伏して失礼を詫びた。
「ぶしつけな発言、お詫びのしようもございませぬ」
蔡文姫が去ると、
「蛮族の血を引いているとはいえ、我が子との別離はさぞかし辛かろう」
劉協は嘆息するばかりであった。
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