砂塵(二)
「なぜ畑を耕している?」
「部屋に閉じこもってばかりでは身体が鈍ると思いまして」
「しかし、そなたは部屋に閉じこもって本を読んでばかりの生活を送っていると聞いた。土いじりをするなど初耳だ」
「それについては、それがしが進言いたしました」
と、夏侯惇が述べる。
「曹家の公主であれば読書三昧の生活も許されましょう。しかし、陛下のもとに嫁いだからにはもはやただの娘ではございませぬ。民と同じように地を耕して汗を流して、自身で畑を耕して労働の尊さを知るべきだと……」
「くだらぬ」
「……陛下?」
「民はなぜ畑を耕している? 働くのがべつに好きなわけではない。食うためだ。耕さなければ飢え死にするからだ。道楽で畑を耕したところで民は感謝せぬわ」
夏侯惇はうつむいて黙ってしまった。
「陛下。これは公主のお気持ちでもございます」
そう言ったのは蔡文姫であった。
「どうすれば陛下に喜んでもらえるか考えた末でございます。豆を植えて、陛下に食べてもらおうと思って、このようなことをしている次第でございます」
「豆を作る?」
しかし、本ばかり読んでいるような女が嫁いでくるなり畑を耕すとはどういうことか。
劉協は曹節に歩み寄ると、その手を握りしめた。
女の手にしては力強い。
部屋に閉じこもっては本ばかり読んでいる女の手ではない。
以前にも農民の真似事をしたことがあるのか?
曹節はというと、恥ずかしそうにうつむいている。
「そうか。その気持ちはとても嬉しい」
と言ったものの、劉協の心は不可解な気持ちが占めていた。
「あまり無理はせぬようにな」
そう言って劉協は去った。劉協は背中で曹節の視線をずっと感じていた。劉協が視界から消えるまでずっと見守り続けていた。
※
畑を去ったものの、劉協は曹節のことが気になって仕方がなかった。
しばらくして、もう一度人をやって畑の様子を見に行かせた。
すると、すでに農作業を終えたという。
曹節は自室に戻ったという。
顔が見たくなった。
劉協は曹節の部屋に向かおうとした。
「しかし、まだご友人が一緒におります」
「夏侯惇がおるのか?」
「いえ、そちらは帰りました。いまは女が一人のみでございます」
蔡文姫である。
忌々しい曹操の配下の夏侯惇がいないのならば、気にすることもない。
蔡文姫とも話したいことがあった。
部屋に向かうと、侍女たちがあわてて曹節に知らせた。侍女たちはまだ劉協に慣れていない様子で、すっかり恐縮していた。
中では曹節が榻(とう 台座のこと)の上に座り、蔡文姫が一段下の席に座っていた。
いちはやく劉協に気づいた蔡文姫が退出しようとすると、
「そのまま」
といい、自らも榻に上がって曹節の横に座った。
「畑仕事はどうかね」
「骨が折れます」
曹節が答えた。
「やはり女の力はか弱いものです。夏侯将軍のおかげで助かりました。将軍は仁慈に厚いお方で、農民にまじって自ら鍬をふるうこともございます」
劉協は蔡文姫に視線を注いだ。
「そなたの父親はたいへんな学者だったと聞いておる」
「恐れ入ります」
「異国の地では苦労したと」
すると、穏やかだった蔡文姫の顔が強ばった。
かつて蔡文姫は匈奴の蛮族に拉致されたことがある。
左賢王の側室として異国の地で過ごした。
その後、曹操が身代金を支払ったおかげで都に戻ることができた。
それから蔡文姫は曹操が紹介した男と結婚して現在にいたる。
「さぞかし辛い思いをしただろう。が、都に戻れたことはよかった」
蔡文姫は返事をしなかった。
華奢な肩が震えていた。
やがて蔡文姫は目頭を押さえた。
泣いていた。
声を震わせて泣いていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます