百九 運河を行く

 翌日、工房に着いてすぐにクイトにセロアからの了承を得た事を伝える。


「そうなんだ。四日後だね。わかった、それで調整するよ」

「もし、日程に変更が出たら早めに教えて」

「うん」


 それからは、お互いに黙々と工房内で作業を進めた。ティザーベルはカイロの計算にかかりきりになっているが、クイトは一体何をやっているのやら。


「それ、何?」

「これ? 今ある術式の改良版を考えているんだけど、どうもうまくいかなくて」


 そう言いつつ、クイトは手元の書類をそっとティザーベルの視線から遠ざける。どうやら、こちらが見てはいけない代物のようだ。


 ――多分、魔法士部隊絡みだな。


 そりゃ中央政府に所属する部隊の機密なら、一介の冒険者が見ていいものではない。


 それ以降は、お互いの作業には口を出さず、静かな時が流れるだけだった。




 翌日、工房で顔を合わせるなり、クイトが申し出てきた。


「四日後……ああ、もう三日後か。決まったよ」

「そう」

「でね、当日は朝の九時にここに来てほしいんだけど、いいかな?」

「わかった。彼女にも伝えておくね」


 考えてみれば、隠居したとはいえ会いに行く相手は貴族。勝手にお宅ご訪問とはいかないと今気づいた。


 ――クイトが段取りつけてくれて、助かったー。


 とはいえ、「来い」と言っているのは向こうなので、迎えくらいよこしやがれとも思う。どうやら、ここ最近進まない回路設計に、大分心がすさんでいるらしい。


 そんな術式回路も、やっと三分の一程度仕上がった。


「ここからが長い……」

「どこまで出来たの? ……ああ、制御系だね」

「動力関連はまだ手がつけられないし、車内に関してもまだ不明点が多いから無理だし」

「えーと……なんか、ごめん?」

「半疑問形で言わないように」

「ごめんなさい」


 馬鹿正直に頭を下げるクイトに、つい笑いを誘われる。セロアとはまた違う意味で、彼との会話は気楽だ。


 そう、クイトはとても付き合いやすい人だった。おそらく貴族だろうに、それらしい面は殆ど見せない。


 ――それも前世の記憶のせいかね?


 そちらの意識が強ければ、彼のようになるのか。少なくとも、前世でのワードを気軽に使ってくる彼なら、前世の意識が弱い事はないだろう。




 ネーダロス卿の元へ行く日は、あっという間にやってきた。


「へー、工房ってここなんだ」

「うん」


 工房の外観を物珍しげに眺めるセロアを見て、そういえば彼女をここに案内した事はない事に気づく。


 ――というか、ここ知っているのって、知り合いじゃあヤードだけ?


 あの時、彼はこの工房を見て随分と訝しがっていた。別に、おかしなところはないと思うのだが。


 工房らしく、普通の住居とは違う大型の扉がついていて、煙突も大きなものだ。壁にレンガを使っている辺りも、相違点かもしれない。一般的な住居の壁は漆喰が塗られている。


 現在時刻は、おそらく九時前だ。正確な時間は時計が見えないのでわからないが、まだ鐘が鳴っていない。九時には教会の鐘が鳴り響くのだ。


 工房の前で二人して立っていると、脇から声がかかる。


「ごめん、お待たせ」


 彼はいつものようにやってきた。通りの角を曲がって小走りに走ってくると、二人に微笑む。


「おはよう。遅れたかな?」

「いや、ぴったりじゃない? あ、こっちが友達の――」

「セロアです。本日はよろしくお願いします」


 ティザーベルの言葉を遮って、セロアが自己紹介する。一歩前に出て満面の笑顔の彼女を見て、それなり警戒している事に気づいた。


 そんな彼女に、クイトはいつもの笑みを浮かべている。


「クイトです。こちらこそよろしく。あ、船を待たせてるから、こっちに来て」


 どうやら、二人を呼び出しているネーダロス卿の屋敷まで、運河を使って行くようだ。


 帝都はギルドや大店が集中する中央区を境に、西側と東側とに別れる。西側は比較的低所得者層が住む集合住宅が多く、東側は富裕層が住む豪邸が建ち並ぶ。


 皇帝が住む皇宮が最奥にあり、その周囲を囲むように重要施設が建っている。そして皇宮に近い場所から順々に位の高い貴族の邸宅が軒を連ねていた。


 これから向かうのは、そんな東側の中でも極東と呼ばれる高位貴族の邸宅ばかりが建つ区域だという。


「何せ、引退したとはいえ侯爵の家だからねー」


 軽く言うクイトに、ティザーベルもセロアも、乾いた視線を向けていた。


「家って規模じゃないよね、絶対」

「城でないだけましだと思おうよ」


 そんな事をセロアと小声でやり取りしつつ、運河からの景色を眺める。通りより家一軒分低い位置を流れる運河からは、両岸の様子が見て取れた。既に船は東側に入っているようで、大きく瀟洒な建物が並ぶ。


 また、この辺りから門構えがいかめしくなるのも特徴のようだ。それに、通りを行き交う兵士の数も、他の場所に比べて多い。これだけ豪邸が建ち並べば、警備の手を緩める訳にもいかないのは当然か。


 邸宅は、建てられた年代によって建築様式が少し異なるらしく、外観の統一感はない。むしろ、ここらへんに建てるのなら、余所とは違うものを、と思うものだろうか。


 ――どうも、金持ちって見栄っ張りってイメージが抜けなくってねえ……


 特に貴族。いい人でも、やはり貴族としても見栄というか体面は何より大事のようで、それを保つ為には金ならいくらでもつぎ込む、という感じだ。


 もっとも、庶民の金銭感覚と貴族のそれを一緒にしてはいけない。庶民にとっての一財産も、貴族にとってはただのはした金なのだ。


「滅びろ格差社会」

「何、急に」

「何でもない」


 つい、思った事が口をついて出てしまったらしい。セロアに怪訝な顔をされたが、適当に誤魔化しておく。




 そろそろ目的地が近いらしい。ここまで来るのに、運河の門をいくつか通過したが、特に船の中やティザーベル達が調べられる事もなく、素通りしている。これもクイトの顔パスなのか、それとも船自体が侯爵家のものとわかるのか。


 やがて、石造りの船着き場に到着した。船頭が降りて船を係留し、先に降りたクイトが手を差し出してくる。


「どうぞ」

「……ありがとう」


 何だか気恥ずかしい。続くセロアはそんな事はないらしく、笑顔で礼を言っている。


 船着き場の階段を上った先が、ネーダロス卿の屋敷だそうだ。ここからは壁があるので建物までは見えない。


「多分、驚くと思う」


 なんとなく視線を外しながら言うクイトに、そりゃそうだろうと言いかけてやめた。


 ――庶民にとっては、お貴族様の豪邸なんて見慣れていないから、驚くのは当たり前だって。


 内心でぼやきつつも、狭い階段をクイトの背後について上る。運河自体が土地より低く作ってあるせいで、上まで上がるのに一階分の階段を上らなくてはならない。


 上った先の塀には、小さい扉が設えられていた。


「じゃあ、開けるね」


 鍵もかかっていないのか、クイトは軽く取っ手に手をかけて扉を押す。音もなく開いた扉の向こうには、確かに驚く光景が広がっていた。


 ここは、一体どこなのだろう。

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