百一 記述用インク
結局昼食を挟んで、その日のうちにインク制作に入る事になった。
「で、これが素材?」
「そう。それにしても、僕の拡張鞄の容量見ても、驚かないんだね?」
「あー、そうですねー」
確かに、目の前に積まれた素材の数はかなりのものだ。冗談抜きで、工房の床を埋め尽くしかねない。
これだけの容量を持った拡張鞄は、さぞいい値段がつくだろう。とはいえ、容量という面では実質無制限の移動倉庫を持っているティザーベルから見れば、この程度、と思うくらいだ。
――そういや、この人も魔法道具を作れるんだから、あの鞄も自作かもね。
いつか拡張鞄を作ろう、と言い出されても不思議には思わないし、文句も言わない。拡張鞄に関しては、セロアが欲しがっていたし、何ならヤード達に実費で用意してもいい。彼らも、あった方が便利だろう。
「さて、以前にちらっと話したけど、陶板のみならず、魔法道具を作る際に必要なのが魔法回路の理論と記述用のインクだ。理論は置いておいて、インクに関してはいくつか種類がある。これから作るのは、等級的に一番低いものだよ」
「一番高いのは、魔法銀?」
「そう。保ちがよくて魔力の流れにも無駄がない。ただし、インクが高価なのと、扱いにちょっと癖があるから、そこを気をつけないといけない」
インクにどんな癖があるのかは知らないが、とにかくお高いインクである魔法銀を使う日は遠そうだ。
とりあえずは、目の前に積まれている素材から、最低等級の記述用インクを作るところからか。
素材は魔法植物が十九種類、魔物素材が四十種類と数も種類も多い。中にはラザトークスでおなじみの素材もあった。
それにしても、インクを作るのにどうして魔物の皮や爪が必要になるのか。
「記述用のインクの素材は、それ程高額なものはないんだけど、何せ最低でもこれだけの量が必要だから、総額は結構いくんだ……」
ちなみに、これだけの素材をまともに買うと七百八十八万メローするそうだ。
「約八百万……それで、この素材からどれだけの量のインクを作れるの?」
「それがねえ……なんと、この壺一つくらい、なんだな」
あははと乾いた笑い声を上げながらクイトが取り出した壺は、どう見ても手のひらに収まるサイズだ。この工房いっぱいの素材が、どうやったらあの壺に収まるのか。
目を丸くしてクイトの手のひらに乗せられた壺を食い入るように見つめていると、彼から声がかかった。
「まあ、論より証拠、早速作ってみようか」
つくづく、彼は自分の前世を隠す気がないらしい。もっとも、こちらのパーティー名がバレている時点で、同じ穴の狢だ。
ティザーベルは何も言わず、インク作成に取りかかった。
記述用のインクも、基本効果点数なしの魔力点数高めな素材ばかりらしい。これも陶板同様、魔力炉で作成するものに干渉しない為、だという。
それらの素材を、今回は一つ一つ抽出していく。まず鍋で魔法植物を一種類ずつ煮出す。今回は素材の数が多いので、竈をフル回転させて同時進行だ。
手前の鍋は沸騰したお湯に素材を入れて、一煮立ちしたら終わり。真ん中の鍋はお湯が沸いたら素材を入れてしばらく煮込む。煮汁に色がついたら出来上がり。
奥の鍋は水のうちに素材を入れ、そのまま火にかけて煮込む。こちらは素材が溶けてどろどろになるまで放置。
魔法植物は大体この三種類で、魔物素材は半分を焼いてから砕いて粉に、もう半分は別の処理をする。
珍しかったのは、魔物の爪の処理。刻んでから鍋で乾煎りし、その後お湯で煮出す。皮はそのまま水にさらした。一度ふやかしてから、煮出すのだという。
煮出す処理が多いのは、作るものが液体のインクだからか。それにしても、ここに来て面倒な壁が出現した。温度管理だ。
「こっちの魔法植物は煮立てちゃ駄目だから。水から茹でて、沸騰直前に火から下ろす事」
なんとも微妙な指示である。とはいえ、これをクリアしないと先に進めない。一抱えもある魔法植物を鍋に入れ、水を入れてから火にかける。火も、強火は駄目だそうだ。
「この素材は熱に弱いんだ。でも成分を抽出するにはこの手しかないからさ」
「蒸すんじゃ駄目なんですかねえ?」
「それだと成分がうまく抽出出来なかったんだ。中途半端になったりね。結局このやり方が一番成分を引き出せたんだよ」
試行錯誤の結果が、この方法だという。なんとも面倒くさい素材だ。とはいえ、ここをクリアすれば、その先は魔力炉での一括生産が出来る。そこまでの辛抱だ。
ティザーベルは黙々と次から次へと素材を処理していく。成分を抽出するまでは全て下処理なので、気をつけなくてはならないいくつかの素材を除いては、これまで通りの感覚でいける。
そうして全ての下処理が終わると、あれ程大量にあった素材が鍋約六杯分になっていた。あれこれ同時進行でやっていたので、残りが一体どこに消えたのか見当もつかない。
「やっとここまできたね。さあ、後は調合だ。ここからは魔力でやっていくから、竈の火は落としていいよ」
クイトの言葉に従い、竈の火は落としておいた。正直、これまでの下処理も魔法を使った方が簡単に早く出来たと思う。
だが、講師役のクイトは頑なに鍋やら竈やらを使わせた。確かに手作業で流れを押さえるとその後が楽なのかもしれないけれど、今回の試作が終われば次からは魔力炉を使うのであれば、あまり意味がないように感じる。
記述用インクのレシピは、まず魔法薬草から抽出した溶液三種類を混ぜ合わせ、魔力を込めていく。これは鍋の中ではなく溶液を魔法で浮かせて空中で混ぜ合わせるので、手作業を必要としない。
全体に魔力が行き渡ると色が変わるので、そこで魔力注入をストップ、次の素材を投入する。
こちらは魔物素材だ。投入後はまた魔力を注入しながら混ぜ合わせ、何故か一度光ったら注入終了。光る原理が是非知りたいが、今は次の素材を入れなくてはならない。
次はまた魔法植物の素材を数種類投入して魔力を注入。こうやって魔法植物と魔物の素材を交互に入れては攪拌しつつ魔力を注入していく。
そうして最後の素材を投入後、最後の攪拌と魔力注入を行い、色が完全に黒になったら出来上がりだ。
最初は一抱えはありそうな溶液だったものが、あれこれ足しながら魔力を加えていくと、何故か質量が減っていくのもまた不思議だった。
そういえば、あの量の素材から作れるインクは手のひらに乗る壺一つ分だとクイトが言っていたが、本当にそのくらいの量になっている。
「完成したね。成功だ、おめでとう」
にこやかに言われて、ちょっとだけ嬉しい。あれだけ大変な思いをしたのだから、成功してくれなくては困るというのもあるけれど、大変だったからこそうまくいって嬉しいのだ。
後はこれを最初の方に作った保存用容器に入れて完成だ。軟膏用を流用したが、問題はないらしい。
「魔力炉で作る時は、容器も一緒に作るように回路を記述すればいいから」
割と大雑把でもなんとかなりそうだ。その辺りは単純に助かる。
「今回は一番最低ランクのインクを作ったけど、基本的に記述用インクは陶板同様魔力点数の高い素材から成分を抽出して濃縮すればいい。色に関しては、今回は黒が正解の色だけど、別のインクだと青だったり赤だったりする。もちろん、魔法銀を使う場合は銀だね」
魔法銀を使ったインクも試作するのかと思ったが、あれは手作業ではとても出来ないものだそうだ。なので、これから学ぶ魔法回路を習得してから、魔力炉で作ってみよう、という事になっている。
「君の魔力量なら魔法銀も作れると思うよ」
「え!? 魔法銀って、作れるの!?」
聞いた事がない。魔法銀とは、銀山でまれに採掘出来る魔力を含んだ銀の事で、鉱山一つから一握り算出するかどうかというものだと聞いている。
驚くティザーベルに、クイトがいささか呆れたような顔をした。
「作れるに決まってるじゃない。天然ものの魔法銀だけじゃあ、需要に供給が完全に追いつかないよ」
「……大型の魔力炉も、追いついてないって」
「それとこれとは別。魔法銀は作成するのに魔力炉程作成ほど魔力を使わないんだ。それこそ、君くらいの魔力量なら余裕で作れるくらい」
「知らなかった……」
魔法銀そのものは、店売りで見た事がある。親指の先程度の大きさのもので、一つ五百万メローの値がついていた。それが、作る事が出来るとは。
「あ、今魔法銀で儲けようとか思ったでしょ?」
何故わかる。そう顔に出てしまったのか、クイトが苦笑いした。
「あれは市場に出回る量は政府が管理しているから、大量に作っても売れないよ。もちろん、自分で使う分には問題ないけど」
いくら作れるとはいえ、貴重な品である事には変わりないので、政府が流通量をコントロールしているのだという。当てが外れて少し悔しい。
薬も売るわけにはいかないし、この分だと魔法道具も同様だろう。やはり、地道に冒険者家業で稼ぐしか手はないらしい。
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