九十五 クイトという人

 ぽかんと口を開けて傍らの男性、紹介されたばかりのクイトを見上げたティザーベルは、絞り出すように声を出した。


「うえ……ほ、本当にこの人が?」


 若すぎるのではないか。そんな本音を口に出来る訳もないが、視線をやればインテリヤクザ様もこちらの思いを理解しているようだ。


 彼は眉間にしわを寄せて肯定する。


「そうだ。こんな見た目だが、魔法道具も魔法薬も、この国では随一の技術を持っている」

「ゼノ、酷い。あ、僕はクイトです。よろしくね。いやー、こんな若い女の子と一緒なんて、ドキドキしちゃうなあ」

「はあ?」


 ヘラヘラと笑うクイトに、ティザーベルの不安はいや増すばかりだ。本当に、大丈夫なのだろうか。


 ちらりと見る子爵は、相変わらず眉間に皺を寄せている。そこには、先ほどまで見せていた小憎らしい程の余裕は一切ない。


 前途多難。そんな一言がティザーベルの頭をよぎった。




 ギルドを出て大通りを進む。これから使う工房を見に行くところだ。


「帝都ってやっぱ活気があるなあ。すげー、人が多い」


 そう言いつつ、クイトはきょろきょろとあちこちを見回している。一見お上りさんのようにも見えるが、どうにもちぐはぐだ。


 ――田舎から出てきたばかり……って割には、田舎くささがないんだよなあ……


 ああいったものは、消そうと思って消せるものでもない。逆に、クイトからは育ちの良さしか感じられないのだ。これもまた、望んで出せるものではなかった。


 帝都の外で育った貴族の子息、そんなところか。だが、そう考えるともう一つ疑問が浮かぶ。


 何故そんな立場の人間が、帝国随一の技術を持っているのか。しかも、魔法道具のみならず魔法薬まで。


 先を行くクイトの背中を見ながら考えたティザーベルは、答えの出ない疑問に白旗を揚げる事にする。


 考えてもわからないものはわからない。謎な人間だが、高い技術と知識を持ち合わせていて、それを教えてもらえれば問題なし。そう結論づける。


 大通りを皇宮に向かって進み、広場を抜けて少ししてから右に入る。ここを左に入ればデロル商会の本店だ。


 どうやら、貸してもらえる工房はティザーベルの下宿先からも近いらしい。通うのに便利なのはいい事だ。


「着いた。ここだよ」


 クイトがそう言って指さしたのは、ぱっと見は普通の一軒家だった。だが、よく見ると間口が大きく、扉も引き戸になっている。


 一階が工房で、二階が居住空間になっているタイプだ。それを抜きにしても、練習で使うにしては立派すぎる工房である。


「……本当にここ?」

「うんそう。……あれ? 気に入らなかった?」

「え? いや、そういう訳じゃなくて」

「良かった。ここね、ゼノが選んだ場所なんだよ。君が嫌だって言ったら、あいつ気落ちするからさ」

「気落ち……」


 あのインテリヤクザ様が、自分で選んだ物件を気に入られなかったくらいで、気落ちするのだろうか。静かに怒るか不機嫌になるのなら、理解できるが。


「気に入ったんなら、ここで決まりだね。じゃあ、中を案内するよ」

「あ、ちょっと!」


 意外とマイペースな人間なのかもしれない。クイトについて中に入ると、思っていた通り引き戸の向こうは工房だ。


 しかも、奥には大きな炉が設えられている。という事は、ここで鍛冶仕事も出来るという事か。


 長方形の工房は、左手奥に炉、金床などが置かれた鍛冶スペースに、右手には木製の棚と引き戸の脇の窓の下に作業台。作業台は、棚の前にも大きなものが一つ置いてある。


 そして入り口の対面には扉。クイトはずんずんとそちらに進んで勝手に扉を開けた。


「ああ、こっちは上に上がる階段だ。それと、裏口があるよ」


 彼の背後から扉の奥を覗くと、薄暗い空間に階段と裏口が見える。さらに奥にもう一つ扉があり、クイトが開けて確認した。


「こっちはトイレだ」

「ああ、そう……!」


 何気なく聞き流しそうになった彼の言葉に、ティザーベルは一瞬で意識を向ける。


 彼は今、何と言ったか。


 ――帝国では、通常手洗いと呼ぶはず。少なくとも、トイレじゃない!


 ティザーベルは、注意してクイトを見た。長い黒髪、前髪も長めなので目の色が判別し辛いが、濃いめの色なのは確実だ。


 顔立ちは、日本人とは思えない。とするなら、彼は菜々美のような転移者ではなく転生者の方か。




 階段を上がった二階には、住居スペースがあった。なんと、ここにはキッチンもある。


「魔法道具……」


 コンロは四つ口の魔法道具で、水も井戸からのくみ上げではなく魔石で出せるシステムだ。収納も多く、使い勝手は良さそうに見える。


「このキッチン使って、何か作れそうだなあ」


 そんな事をのんびりと言うクイトを横目に見つつ、ティザーベルは溜息を押し隠した。


 ここで、彼に転生の事を聞いてもいいものか。その前に、インテリヤクザ様からパーティー名を聞いていないのか、聞いているなら反応が乏しい事から前世は日本人ではないのかもしれない。


 そんな事を考えていると、クイトが声をかけてくる。


「そろそろ、下に戻ろうか」

「……ええ」


 下の作業場に入ると、クイトから鍵を渡された。


「なんでいくつもあるのかって思ったけど、裏の鍵と物置の鍵もついてるんだね」


 どうやら、トイレの隣には鍵のかかる物置があるらしい。渡された鍵束には、マスターとスペア併せて六本の鍵がついている。


 これからは、この建物をティザーベルが管理しろという事か。上に住む事も可能だが、今の下宿先が気に入っているので、ここには通いで来る事になるだろう。


 これで今日は終わりかと思ったら、クイトが笑顔で聞いてきた。


「それで、これからのスケジュールを確認しておきたいんだけど、いつから始める?」


 どうやら、諸々の講義はこちらの都合に合わせてくれるらしい。それにしても、こうも普通に前世での言葉を使ってくるとは。


 ティザーベルは苦笑交じりに答えた。


「明日からでも……と言いたいところですけど、少し長い期間あちこち回っていたので、しばらくは休みたいんです。十日後くらいから始めるのでも、構いませんか?」

「うん、もちろん。あ、言葉遣いは、砕けてくれると嬉しいな。僕、敬語とか苦手だし」

「そうなん……だ。わかった」


 つい敬語を口にしそうになって、慌てて言い直した。クイトは気づいているのかいないのかわからないが、相変わらず人好きのする笑顔でいる。


「じゃあ、十日後にここの前で待ち合わせね。時間はどうする?」

「九時くらいでいいんじゃない?」

「了解。じゃあ、十日後に」


 そう言い残すと、クイトは工房を後にした。何だか、台風が去ったような気がする。


「とりあえず、今晩はセロアを誘ってご飯かな」


 独りごちると、ティザーベルは工房に鍵を閉めてその場を後にした。

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