備忘録01
旦那君が倒れたという電話を受けた時、真っ先に頭に浮かんだのは『テレビか何かの出来事みたいだ』という感覚でした。
その日の朝も普通に会社に行き、一時間前には電話で会話をしていたので、現実感がありませんでした。
娘が生まれたばかりで、手探りの育児にちょっとずつ慣れはじめた頃でしたので、余計にそう感じたのかもしれないです。
義実家からの電話の後、震える手で布団で眠っている娘を抱き、大丈夫、大丈夫……と自分に言い聞かせていたと思います。
最初は自分も、旦那君が搬送された病院に行くつもりでしたが、娘を抱えた私を見て、義母が「もしかしたらショックを受けて、母乳が止まってしまうのではないか……」と心配になり、自宅で相談の結果、私は実家で待機することにしました。
実家で電話を待つ間、とてもとても長く感じました。
その時は『危険な状態である』という事だけしか情報がなく、急性アルコール中毒になったのか、それとも何かに巻き込まれたのか、色んなことが頭に浮かんでは消えました。
旦那君がどんな状況なのか、生きているのか、それとも……なのか。
早く知りたいという気持ちと、もしも最悪の結果だったら、と思う気持ちでグラグラでした。
病院に行った義兄から電話が来て、一命は取り止めたと聞いた時は本当に心底、ほっとしました。ひとまず人工呼吸器をつけていて、治療を開始したらしいという事を教えてもらいました。
その時の詳しいやりとりはあまり覚えていませんが、簡単な経緯として、心肺停止で搬送されたこと、蘇生措置で心拍再開したこと、人工呼吸器をつける前に、自発呼吸していたことを教えてもらいました。
その日は、たまたま姉が甥っ子達を連れて実家に来ていたので、色々と話をしたり、娘を見てもらえたりして、とても助かりました。
朝になったら病院に行き、説明を色々と聞かなくてはならなかったので、少しでも眠っておこうと思ったのですが、まったく眠れませんでした。
眠りたくても眠れない。そんなことって本当にあるんだなーと、ぼんやり考えていたのを覚えています。
結局一睡もできずに朝になり、迎えに来てくれた義母と義兄(上)と一緒に病院へ向かいました。
当時、住んでいたのが神奈川県の中央林間でした。搬送された病院は西新宿にありましたしたので、小田急線で新宿に向かいました。
電車の中で何か話をしたように思うのですが、全然思い出せないです。
旦那君が入院していたのは、救急救命センターでした。
面会時間が決まっていたので、その時間が来るまでは専用の面会室で待機するようになっていました。
時間まで待ってる時に、たまたま同じ日に、旦那君と同じく心室細動で搬送され入院した患者さんもいて、そのご家族の方と少し話をしたりしながら、時間を待ちました。
ここで入院されている患者さんは緊急性の高い方ばかりなので、面会を待つ間、独特の空気が流れていました。
また、待っている間にも新たに搬送される患者さんもいて、時々状況や容態の説明を受けている様子が分かり、とても重苦しい雰囲気の場所でした。
時間になり、治療中の旦那君に面会しました。
口に入れられた人工呼吸器のチューブや、沢山の点滴。ピッピッ……と鳴り続ける心電図モニターの音。
麻酔で意識はなく、呼吸も機械を使って行われていて。
テレビドラマで見るような光景が、そこにありました。
今でもドラマで似たような場面を見ると、この光景をふと思い出します。
面会の後、医師から詳しい説明がありました。
会社の方と、どうやら最初の一杯目のビールを飲む時に突然倒れたそうでした。
呼吸も心拍もなかったようで、すぐに救急車を呼び、到着までの間、同席していた方が心臓マッサージなどをしてくれていたそうです。(救急救命措置の事は、後日聞きました。)
幸いなことに、入店していたお店から搬送された病院までが近く、またその病院が高度医療を行っていたので、蘇生後すぐに低体温療法をしてもらえました。
旦那君が心室細動で倒れ、蘇生までにかかった時間は、約21分でした。
かなりの時間がかかったので、正直どこまで回復するかは、分からないと言われました。最悪の場合、一生このまま——植物状態のまま——もあり得ると。
午後の面会の時間まで、病院から数駅の場所にあった姉の家で、ちょっと休ませてもらいました。姉は実家で母と娘の子守をしてくれていたので、連絡を受けてから初めて、ひとりになりました。
ひとりになると、ようやく実感が沸きました。
旦那君は目覚めるだろうか、どれくらい回復できるのか。
これから先、どうなって行くんだろうか。
とにかく不安ばかりが大きくなっていました。
ただ、旦那君の顔を見ることができて、ようやく少し眠ることができました。
午後の面会は、ひとりでした。
30分でしたが、落ち着いて旦那君の様子を見ることができました。
改めて見る旦那君の姿は、やはりショックなものでした。
ただ、旦那君は眠っていても、声は聞こえたりしているんじゃないかと思い、娘のことや、行こうねと言っていた場所のことを話しかけました。
気のせいかも知れませんが、私が話しかけると心拍数が少し上がり、私の声が聞こえているんだと思いました。
麻酔で意識のない状態は、約3日間だったと思います。
意識のない間も、とにかく話しかけ続けました。
2日目の時、旦那君の目がほんの少しだけ開いていて、目が乾燥するんじゃないかと心配にもなったりしましたが、次の面会の時には目の辺りに透明の保護フィルムが貼られており、しっかり対策してもらえてるんだなと感じました。
麻酔が抜けて意識が戻った時の喜びは、表現するのが難しいくらいです。
不安や心配も、その時は全部吹っ飛んでいきました。
私のことを見て、名前を呼んでくれたり、娘のことをちゃんと覚えていたり。
たったそれだけのことが、とんでもなく嬉しかったです。
意識が戻ってからの数日間は、低酸素脳症による高次脳機能障害がみられました。
その数日間が、精神的に一番辛かった期間です。
意識が戻ったのは良かったのですが、入院しているという事が認識できず、目が覚めた当日は、鼻にまだ管が入れられていたので、それが苦しく、また点滴を勝手に抜いてしまわないように手が拘束されていたので、とても不快だったようでした。
感情のコントロールも出来ない様子で、私もどう対応していいのか、分かりませんでした。
翌日はだいぶ落ち着いて、でも話している内容は支離滅裂……というか、夢の中にいるような感じでした。
どうやら自分は船に乗っていて(ベッド=船、と認識している?)、そこに私が会いに来ているという状況だと思っているようでした。看護師さんやお医者さんは理解している感じでしたが、それ以外の内容は謎だらけで、『川』だったり『曼荼羅』だったりといった単語が出ていました。
このとき、私が意識していたのは『旦那君の話に合わせる』ということでした。ここは病院であり、波止場じゃない。でも旦那君の意識の中では、ここは波止場で、船に乗っている。ならここは、波止場なんだ。
そう思って、旦那君の話を聞き、合わせました。
毎日お見舞いに行っていました。
午前中にお見舞い行っても、午後に行くと「遅かったじゃん」と言われ、午前にお見舞いに行ったことを覚えていませんでした。(ちなみに私を責めるような口調ではなく、むしろ甘えるような感じでした)
他にも、自分の一人称が「オレ」ではなく「儂」になっていたり、看護師さんに横浜にすごく良い映画館があると熱弁をふるったりなど、自分の年齢や入院した理由、性格の変異があり、内心とても戸惑いました。
目の前にいる人は旦那君なのに、私の知っている旦那君じゃない。
そんな風に感じました。
面会中は、なるべく笑顔で過ごしていましたが、帰り道にふと、切なさや遣り切れなさに胸が苦しくなり、泣きそうになることがありました。
これから先の人生を考えた時、どうにかしてこの状況を受け止めて、受け入れないと、進んでいけない。理屈では分かるのですが、それを自分の中で消化しなければいけないことが、苦しかったです。
それでも少しずつ、元の旦那君に戻っていきました。
毎日面会に行くたびに、私の知っている旦那君に戻っていく。
どんなにボケボケでも、娘のことを忘れずに覚えている。
それだけで、この先も何とか乗り越えていけるんじゃないかなと、思えました。
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