14 兵法第一帖 第三段 柳井正、獅子の眠りより起きる
☆柳井正(やないただし)
窓際族という言葉は古いし、絶滅しかかってもいる。なぜならばいまや、一般の会社では、窓際に行く前にリストラになるし、そんなヒマな人種を飼殺ししている余裕はない。
だが県庁、お役所にはまだ生きている。
そんな標本のような人種があちこちの部署におり、社会の中で平和なオアシスとしての機能を保っている。
柳井正は、人間にやさしい県庁の、そんな伝統の恩恵に充分にあずかっている人間の一人だ。
今日も、てきぱきと働く若手女子職員の邪魔にならないように、ほんの少し奥まった場所にある、一人職場の、自身の机でひとり、仕事を静かにこなしている。
県庁文化部文化文芸課図書・公文書係、内部アーカイブ担当。
文化部は神奈川県内のあらゆる文化事業を監督・推進する重要な部門で、文化文芸部は県内の文化文芸発展のために必要不可欠な部署だ。
で、図書・公文書係は県内の図書館や公文書館・アーカイブズを管理・運営・連携する要となる係である。
そして内部アーカイブズ担当は、その分野で出てきた文書やその他県庁内の資料を収集して残す資料係である。
この仕事だと総務に入るのではないかとか、いや県庁資料部というものがすでにあるだろうとか、喧々諤々の論争が、……起きなかった。
ああ、いい名称ですね、という一言で担当名が決まった。
ここ県庁では、仕事があるから人が雇われるのではない、人がいるから仕事ができるのだ。
いい職場だ。明るい職場だ。健康的な職場だ。
競争に疲れ果て病んだ現代社会にあって、県庁や市役所のこのユルい、ズブズブのいわゆるお役所仕事にどっぷりつかっている職場が、今や脚光を浴び始めている。
鬱で休職した人でもゆっくり社会復帰できる、イヤそもそも鬱状態でも勤務できる、と好評なのだ。さすが県民の模範となるべき職場である―。
柳井正は、この職場の特徴を最も生かして働く職員ともいえるだろう。
彼は、しばらく前までは相当のやり手職員だったらしい。
何らかの権力闘争に負けたのか、燃え尽き症候群になったのかは分からない。
だが、とにかくこの担当がいつの間にかできて、いつの間にか彼がいて、いつの間にか一人職場になじんで、それなりに楽しそうに、いや楽(らく)そうに仕事をしていた。
ということになっている。
周囲からそう思われている柳井だが、実際、彼自身は楽しんでいるし、おもしろがっている。
――資料を読んだり集めたりぼうっとしたりするのが、こんなに面白いとは思わなかった。
柳井はこの仕事で楽しみを発見できたことに、自分でも驚いていた。だが、さて最近取り組んでいた作業は、今日くらいで一段落ついた。そろそろ、次の仕事を作らなければいけない。
一人職場では、自分で自分の仕事を作るのだ。もちろん作らなくてもいい。
作らなくてもいいが、柳井の性分ではそれは無理だ。
今日も最近かけ始めた眼鏡をすがめて、ペーパーを読んで、ゆっくりと考え込んで……。
そこへ声がした。
「柳井さん、今いいですか?」
年長にも部下にも友人にも、まずは丁寧な物言いで話しかけるこの声は……。
「もちろん、お前ならいつでも歓迎だよ」
柳井はそう言って笑顔になり、山野を迎えた。これでも二人はほぼ同期だ。そして仲がいい。しばらくぶりで会っても、いつでも前回話した所から続けられる。
神奈川の進学高校で、名前順で出席簿が割り振られた時に前後になって以来、二人は友人だった。
「家族は元気?」
山野はいつもまず、それを聞いてくる。
「ああ、相変わらず。そっちこそ、奥さん元気だね」
柳井の言葉に、山野は笑った。柳井に見せる笑顔にはウソがない。
「今日はどうした」
「付きあえるかな」
「何だ。まさかヒマなのか」
「仕事の相談だ。聞いてくれるか?」
「へえ?」
山野は仕事のできる男だが、新しい県知事になって以来、事情から目立つ地位には就けない。彼がいまどんな仕事をしているのかは知らないが、仮に重要であっても決してあまり表には出ない役職だろう。仕事の悩みか? めずらしい。
どうせ俺は一人職場のひとり仕事だ。
「いいよ。何でも聞いてやるよ」
山野が片方の口の端をかすかにあげて笑った。柳井は、あっ引っ掛かった、と瞬間に悟った。
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