12 兵法第一帖 第三段 北野由紀、世間様と決別す
兵法第三段
人の財、これを集むるは至難なり。
人の財、これを集むるは愉快なり。
しかして、至極の財とは之なり。
☆北野由紀(きたのゆき)
北野由紀は、一人暮らしのマンションから横浜区瀬谷区の自宅に久しぶりに帰ったばかりだ。といっても、一晩だけだ。一日だけでマンションに帰る。
いまや母親に耐えられるのは、二十四時間が限度だ。
由紀は、最近は母親に対してのみ沸点が低くなっている。以前のようにはもう、我慢が出来なくなっている。
北野由紀の母親は、普通の、優しい、母親らしい母親だ。
母親の佐恵は、由紀の最近の状況について、これまでよりもさらに「外を歩けない。世間様に恥ずかしい」などと愚痴だらけだ。
「お母さんやめてよ。別に選挙に落ちただけで、悪いことしたわけじゃないわよ」
昔から母親にはうんざりしている。
「世間様」だけが母親の行動の基準で、そこは横浜といっても瀬谷区民、まるで田舎もののような根性だ。あ、田舎には悪いけど。それに瀬谷区にも。
由紀は舌を出して自分の故郷の瀬谷区に謝る気分になった。
生まれ育った街は大好きだった。
だが大学進学のときに毎日の通学の距離を理由にして実家を離れる時はとても嬉しかった。
小さいころ、セケン様って誰だろう、ママのお友達かなと本気で思っていた時期もあるくらいだった。そして小学、中学と上がるにつれ、母親と世間様にうんざりしていった。
「私、瀬谷区は大好きだし、横浜も大好きだけど、東京の大学に行きたいんです」と進学の折に、高校の教師に訴えた。教師は由紀の気持ちと気分を、充分に理解してくれた。
そこで教師は、母親も納得するお嬢様女子大を勧めた。
そこに通うには自宅からは電車をいくつか複雑に乗り換える必要がある。仮に最終の講義をとると自宅に帰りつくのが夜中になる。きっと世間様に「あそこのお嬢さん、帰りの遅い子ね」と言われるだろう。言われなくとも、言われるはずだと母親は思うだろう。すると母親は、いっそそれよりは、と考える。……これだ、こんな素晴らしい手は他にない。
教師のアドバイスと、由紀の勘は当たった。合格が決まったと同時に、由紀は女子大に近い学生アパート街に引っ越し、実家を離れた。
週末は戻るからと言って。そして講義や勉強を理由にあまり戻らなかった。
大学に入って以来、由紀は幸福だった。なにしろ母親と、あるはずのない世間様から離れることが事ができたのだから。そして離れると母親の扱い方も次第に分かってくる。
その後は、自分が望んだ女子道をぐんぐんと突っ走しってきた。大学を卒業してからも実家には戻らず仕事にまい進した。
そして、今回いろいろあって、仕事を辞めた。そして県議選に出た。そして落ちた。
あいかわらず母親は、三十五で立候補は早すぎるといい、三十五で結婚もしていないのは遅すぎると、ぐずぐずと小言を言った。落ちたら、やっぱり私の言ったとおりだわと煩わしい。
そして、ほんとに由紀は最近、言うことを聞かない。いつの間にこんなわがままなことになったのかしら、としつこい。
一体、幾つだったら何をするのがいいのか、分からない。こんな母親に十八年間我慢してたのだから、私は偉い。その後十年……あれ十七年? 何だ親元にいたのと、離れて暮らしたのと、もう同じくらいの年数になっている。 うそみたい。小さい頃の1年、10年は長いなあ。
つい最近まで、そして今も母親はあいかわらず母親だ。この呪縛から逃れるには、早く新しい仕事を見つけなければならない。仕事がなければお金も尽きるし、そうなるとマンションにもいられない。だけど実家に戻るのは嫌だ。だけど、だけど。とにかく、いま私は、どうしようもなく叫びたい、暴れたい。
「由紀。なんか電話があったわよ。携帯が繋がらなかったんですって」
母親が、一階から声をかけてきた。
あっ、充電切れてた? イヤ違う。充分にチャージされている。どういうわけだろう。それに自宅の番号を知っている人なんてめずらしい。最近はめったに使わないのに。
「どこから?」
「山野さんって方よ。県庁にお勤めの。なんか由紀の大学の先輩のその……なんか?ですって。とても丁寧な方ね。いい人だわ。いろいろ聞いてくれたのよ」
「ああ……」
もちろん分かる。県庁の山野さんだ。たぶん母親は由紀に関する愚痴を充分に聞かせたのだろう。嫁に行かないだの、選挙に落ちただの、仕事がないのだの。いまさらめいた愚痴を。
だが彼は電話一本で、如才なく由紀の母親を手なずけたらしい。母親の「いい人」は、自分の脈絡のない話を心行くまで聞いてくれた人だけに送る賛辞だ。
「ほんとにあなたのことを褒めていて、ご両親の育て方がよかったんだろうって。それから……」
「お電話で1時間以上も話したかしら……」
「でね、山野さんは……」
山野さん。県議選と知事選の間は、立場上連絡をとると支障が出るからと、連絡は控えてた。それにお互いに忙しかった。残念会でもしてくれるんだろうか。電話かけよう。
液晶の中で名前を送り出し、ヤ行になって名前を見つけた瞬間に、悟った。
そうか。山野さんはわざわざ家電に電話してきたのだ。私の母親と話すために。でもなぜ、母と?
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