8 兵法第一帖 第一段 雨宮草子、仁王立ちす 3
「で?」
草子が部屋から出ると、青山は聞いた。
「道州制準備法に対応する部署というのは県知事直属の指令ですよね。そしてあなたが責任者だ。おまけにボクが呼ばれた。優秀なボクを引き抜くには元部署の説得が必要だ。それでも移動ということは、よほど重要な仕事ということだ」
「ほんとに話が早い。しかも君は自分の評価の高さを誇示するのに躊躇はなしですか。いやあ君の元部署上司の説得には数日かかりましたがね。最後は快く承知してくれましたが。君はほんとに優秀なんだね」
そう言って山野は笑い出した。
「ええ」と青山。
「褒められるのはなれている?」と山野。
「いまさら遠慮してもしょうがないですから。だけど」
「だけど?」
「雨宮草子は?」
「雨宮さんは、上司の説得に時間がかからなかった。新知事の支持とあらば二つ返事でOKです」
「そうでなく」
この話題が、青山が草子を外に出した理由だと二人はたがいに分かっていた。青山は遠慮なく言った。
「雨宮草子は、こういっちゃなんだが特別に優秀というわけではない。ボクの情報ではこの部署には相当の人たちが集められることになっている。難しい部署になるし」
「そう。だからもちろん私はまず君がどうしても欲しい」
「だから雨宮は……」
「是非とも君が欲しくてね。それで『ひとじちじんじ』を考えて」
「人質人事……?」
「雨宮草子さんが人質です。彼女を確保しておけば、君はこのプロジェクトに今後何が起きても逃げないでしょうから」
ニヤニヤ笑いながら山野は言った。
「なにしろ彼女は、青山崇史の逆鱗、またはアキレス腱ですから。あなたを確実に引きつけておくには、いやこのチームに留めておくには、雨宮草子こそが人材です」
青山は思わず山野を見返した。言葉から瞬間、丁寧語が外れる。
「ウソだろう?」
山野はニヤッと言った。
「ええ、ウソです」
拍子抜けするほど天真爛漫に笑った。
「雨宮さんを選んだのはちゃんと理由があります」
「差支えなければ、どんな理由か教えていただけますか」
青山の声は冷たくなっていたが、山野は平気らしい。
「雨宮さんは運がいい人です」
「運がいい?」
「ええ。なんか事件があると必ずそこに雨宮さんがいます」
青山は思った。
運がいいというのか、あの間の悪い人間を表現するのに。
確かに彼女はよく騒動にでくわす。騒動あるところ雨宮草子がいる。
さっきの事件のときもよりによって痴漢が侵入したこの階のトイレを使っていた。同じ時刻に隣の個室を。天性の間の悪さというのが彼女にはある。だがそれが運がいいことになるのか。何かの間違いじゃないのか。
イヤこの男に限って間違いなんかない。今しがた、まるで誰も知らないあなたの秘密を私は知っていますよと言わんばかりに、青山にくぎを刺したも同然の男だ。草子の何を見てどう判断したのか。
「毎回事件や騒動に居合わせるのは確かですが、それを運がいい、と?」
青山の言葉はすでに丁寧語に戻っていた。
「もちろん。確率の少ない事態に常に出くわすというのは、運がいい証拠です。そして……」
そう言って山野はまた笑った。
「県庁というところにいて事件などというものに出くわすなんて、それはもう大変な確率ですよ」
県庁は平和な職場だ。公務員はルーティーンワークをこなす仕事、事件そのものがまったくと言っていいほど起こらない。
草子がいい香りのコーヒーを掲げて戻ってきた。青山は草子の得意げな顔を見た。美味いと言われたコーヒーを持って来たわよ、と些細なことで青山に誇っている顔だ。
……アキレス腱。
青山はため息をついた。
こうして、青山崇史と雨宮草子はまだ名前も知らない新しい部署の一員になった。
この二人がこの部屋に入り、山野に会い新しい部署の一員になったことで、歴史の歯車が回り始めたことを、この二人はまだ知らない。
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