6 兵法第一帖 第一段 雨宮草子、仁王立ちす 1

☆雨宮草子



 青山崇史は、それを目にした瞬間、乗っていた車椅子のホイールを力いっぱい押して廊下を走らせた。

 別の用事があってそこへ向かっていたところだが、この際それは後回しだ。

 車椅子が女子トイレの前に着くか付かないかで上手についっとターンして止まり、中が見える位置につく。目視。確認。そしておもむろに、声を発した。

 「おい、出てこい」

 

 最近、県庁の女子トイレに痴漢が出没している。あろうことか携帯ムービーでビデオを撮り、それがネットの動画に流れた。

 映っているのは女子トイレのマークや壁や個室のなかだけで、まだ実際に人が映ったモノはない。だが却ってそれが女子職員の不安を掻き立て、県庁の権威を地に落としていた。

 撮影されたトイレは毎回、場所を変えている。女子トイレ萌えなんてものがあるのかどうか知らないが、個室のドア、壁、トイレットペーパーその他の、いったい何が面白いのか分からないが、なめるように移す。

 

 青山崇史はすでに様々な情報を集めていた。

 まだ撮影されていない女子トイレが残り数か所になったこと、そしてこの階のトイレは次の撮影の有力候補だということも把握していた。ローテーションも研究していて、日程的には明後日くらいと踏んでいたが、実際は今日になったらしい。

 つまり、いま見たこれがそうだ。

 車椅子の向きをきちんと変え、青山はもう一度言いはなった。

「出てこい。ここは女子トイレだぞ。男性は入れない」


 きゃあ!と数名の女性の叫び声がし、出かかったドアをまた閉めて個室に戻る音がする。中にいるものは、最初の第一声では何がなんだか分らなくても、このセリフで事態を把握したらしい。


 青山は、再び音声をあげた。

「右列三番目の個室。グレーのジャンパーに黄色のTシャツ、ジーパン。メガネはたぶん伊達」

 その声が終わったとたん二番目の個室のドアが開いて、女子が顔を出した。

 雨宮草子。青山の後輩だ。

 雨宮が入庁した時の新人指導担当が青山である。県庁は、教育担当を単純に五十音順に振り分ける。単純だ。二人は、それ以来のくされ縁である。


 雨宮草子はあっという間にドアから抜け出して来た。青山の車椅子の斜め後ろに回り、見張るように立った。

「ほんとなの?」

「見た」

「私撮られたかな」

「いつ入った?」

「え? ああ。五分前よ」

「じゃあ大丈夫だ。君の尻は見られてない。そいつが入ったのは今だ」

「何よ。何もお尻見られたとは言ってないわよ」

「尻出さないで、どうやってやるんだ」

「ばか!」

 

 顔だけは女子トイレの中に向けながら話していた草子は、それでも青山に大声で言い返した。青山は平気である。

 草子はトイレの内側に向かって、仁王立ちになって言った。

「女子のみなさん、出てください」

 今度は女性の声なので安心したのか、三番目以外の個室からバタバタと女性が出てきた。ひと目で県庁職員と分かる女性だったり、来庁者だったりした。


「よおし!」

「ベルは押した。雨宮、止めろ」

 何を止めろといったのか。廊下に出てきて青山の後ろに回った女性たちが悟る前に、草子はあっという間に掃除用具ボックスのドアを開けてモップをとりだし、三番目の個室の前に武器として構えた。

 

「ほんとに例の痴漢ですか? 確認は?」

 若い女性県庁職員が言った。だが草子は、叫ぶ。

「こいつが男といったら男! 痴漢といったら痴漢なのよ!」

 こいつとはもちろん青山のことだ。


「こいつの観察と分析とリサーチが外れたことはなあい!」

「それは分かっている。だけど雨宮、お前はよく外すだろう」

 草子と比べて冷静な物言いの青山の言葉に、周囲が、外すって何を?という前に、草子はだあっとドアを開けて中の人間に襲いかかろうとした。

 

 だが同時に中から飛び出した痴漢男は、全身で草子にぶつかってきた。

 押し倒された草子を、男はそのまま踏みつけ、奇声を発しつつ出口に迫った。

 若い女子職員は叫び声をあげて男をよける。車椅子には油断したのだろう痴漢男は、青山には目もくれない。

 だが男は、声さえ出せずに派手に転んで仰向けに倒れた。手にした携帯が転がり、同時に男の肩から外れた半閉めのバックパックからもう一つの携帯が飛び出た。


 「証拠品だ。抑えろ。ダミーで携帯を二つ持っている」

 青山は、若い女子職員に向かって指示した。どうやったのかは知らないが、男を仰向けにひっくり返したのは青山だ。

 青山は相変わらず冷静に続けた。

「たぶん聞かれたら、普通の携帯を見せて乗り切るつもりだったんだ」

 

 誰かが非常ベルを推したようだ。騒ぎを聞きつけた野次馬以外に、警備員とどこかの課の課長がすでに駈けつけていた。

 課長の早い到着を見た時に、この点は青山がすでに手配済みだったらしい、と居合わせたものは感じ取っていた。

 女子職員はひそかに舌を巻いた。この人がかの有名な天才イケメン車椅子冷静男、青山崇史か。

 

 その青山崇史は冷静な声で草子に言った。

「おい。尻が出てるぞ」

 草子は半べそをかいて起き上った。


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