5 兵法第一帖 第一段 杉田ハル、庁に入る 3

 旭日二十七年『ニート・引きこもり等就労就職支援法』が国会で可決され、その翌年に施行された。

 従業員が多い大企業、そして国・県などの公共の機関は、引きこもりやニート、フリーターの経歴を持つ者を、一定の割合で雇わなければならなくなった。

 

 二十一世紀になって顕在化した若者の状況は、今や社会問題を超えて常態化していた。日本はガラパゴスだ何だと騒がれたのも、今は昔。完全に沈滞化した社会を打破しようと国が打った『政策がニート・引きこもり等就労機会支援法』だ。

 通称『ニー対』。

 

 それまでも大企業は障碍者等を一定の割合で採用する義務があったが、それに倣って同じく、ニートや引きこもり、フリーターを一定の割合で採用しなければならない。経団連は、官公庁からまず率先をと記者会見で声をあげた。

 

 それにいち早く反応したのは東京都だ。まず大々的な広報活動とともに面接をして、5%枠いっぱいに引きこもり・ニート等就労者を雇用し、それがテレビやネットで報道されていた。

 

 そのころ東京都と神奈川県に、新しい知事が同時に誕生した。どちらも女性が知事になった。

 東京都知事は、徳俵吉良子。

 神奈川県知事ではない。東京都知事だ。

 よりによって、そう、よりによってハルは決して言ってはならない名前を出してしまったのだ。


 東京都知事は代々、個性的というかアクの強い者がつとめてきたし、またそうでなければ、このメトロポリタンな都市のリーダーは務まらなかった。

 務まらないというよりは、当選しないのだ。個性の弱い善人よりは、嫌われ者でも際立った個性のある方が、票を獲得できる。そんな大都市だった。

 そんなわけで、ちょくちょく、何らかの事件が起きて、都知事が退任した。そして選挙だ。

 徳俵吉良子も。目立つことが大好きであった。

 

「東京都は国よりも先に国家の課題に取り組みます」が新しく東京都知事になった吉良子の立候補の時からのキャッチフレーズだった。

 当然、このチャンスに飛びつかないはずはない。この行為は脚光をあび、テレビは吉良子を持ちあげ、東京都とその職員を持ちあげた。 

 

 その東京都の成功を横目で見ていて黙っていられないのが、こちらも新しく神奈川県知事になった藤堂甲子だ。負けずにすぐに県庁職員に号令を発した。ニー対で雇え!と。


 神奈川県庁職員は、国家官僚や東京都職員と並んで、誰をトップに頂いても組織と担当分野を運営する自信があるという自負を持つ人間たちの集まりだ。

 彼らは国家官僚ほどではないにしても、首長の短慮から発した指示、前後の考えの及ばない命令でも、必ず実現するとともに、その意図を裏の裏まで読んで上手に拡大解釈する実力を有している。

 

 彼らは、できるだけ長い引きこもりや、可能な限りやる気のなかったニート、そしてより多く職を転じたフリーターを雇い、落差と意外性を宣伝する以外、この件でいまさら東京都に並ぶ方法はないと分かっていた。

 なぜ東京都に並ぶ必要があるのか?その答えは、神奈川県庁職員なら誰でも知っていた。

 しかしながら、杉田ハルがそのことを知るのは、まだずっと後のことである。


 さて。

 追って連絡しますと言われ、途中でトイレに寄ったりして庁舎の一階ホールまでとぼとぼと降りて来た杉田ハルは、自分が何に失敗したかは知らないが、失敗したことだけは分かっていた。

 

 ――終わった。ま、いいや。考えようによっては面接というイベントは初めての体験だった。面白ければいい。そう思って自分が楽天的と名付け、同級生が能天気と名付けるタイプに行きついた。いいさ、なるようになる。


 そのとき後ろから、ある声に呼びとめられた。

 ハルは、小学校の美術の教科書で見た「見返り美人図」のように、振り返った。アレのような色気はないが、元気もない。もう今日はエネルギーを使い果たしていたし。


「杉田さん、いつから来れますか?」

「はっ?」

 見ると、さっきの面接室で一番右に座ってハルにいくつか質問した面接官だ。男性。四十代後半から五十代に見える。面接が終わっても、問いかけは丁寧だ。

「失礼。わたくし山野守人といいます」

「あ、杉田ハルといいます」

 習慣でハルは答えたが、言った後にそれはもう相手は知っていると思いいたった。それでも意味がよく分からず、間抜けに聞いた。


「あのう、いつから……って?」

「追って連絡すると言いましたよね。君は採用ですよ」

「どんな? あれ違う……誰が? あ、ボクだ。なんだっけ? そうだ聞きたかったのかこれだ。……。採用? どうして僕が?」

 驚いて急にため口になったハルに、山野と名乗った人物は、にこりと笑って返した。


「もちろん、欲しい人材だからです」



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