3 兵法第一帖 第一段 杉田ハル、庁に入る 1
兵法第一段
天、人を命ずる。人、人を用いる。人、事を動かす。
☆杉田ハル
「それで引きこもりは何年?」
「七年です。引きこもってはいません」
杉田ハルは、相手の反応を見てあわてて付けくわえた。
「バイトしてました。フリーターです」
「……中途半端だな」
向かいあって座っている面接官の一人がその隣にささやいた小声を、杉田ハルは聞き逃さなかった。さして心動かされたふうのない面接官は続けてハルの左隣の受験者に同じことを聞いた。
「二十年。引きこもりです」
おお……とどよめきが起きた。すでに中年にさしかかったように見える隣の男はどうやらツボを押さえたらしい。七年のフリーターより二十年の引きこもりの方が、確かに強い。
この回の面接でハルと並んだ五人の応募者は全員男だった。右から順に、黒っぽい服装で来た無愛想な男は引きこもり十年。少しは面接に慣れているらしい三十代は引きこもりではありませんニートですと答えてそれでも十二年。四十代後半に見える冴えない男性は引きこもり及びニート歴十二年。ハルのフリーター七年。そして始まってから一切目をあげない一番端は二十年の引きこもりだ。
この五人の中では自分が一番見劣りしているのは明白だ。これでは面接までこぎつけたのに、どうなるか分からない。何か挽回をしなければと少し焦る気持ちが出る。
再び、ハルに質問が来た。
「それで、その間、何をしていましたか。まあ、たとえば趣味とか」
これなら自信がある。きっと人が聞けばくだらないと思うに違いない趣味を持っている。この趣味があるからフリーターで充分満足なのだ。
「旅行パンフレットを見るのが一番の趣味です。それから地図を眺めるのが。自分でいくつも集めて旅行することを想像してパンフレットを眺めます」
だが、どうやらこの趣味はくだらないことは確かだが、少し積極的に過ぎたらしい。面接官の反応で分かった。
――しまった。趣味なんかない、パソコンに向かって無意味に人生を過ごしていましたと言えば良かったか……。
実際、二十年引きこもり男はそんな風に答えて、また面接官の関心を引いていた。ハルはさらに焦った。
すると、一番右に座っていた面接官がハルに聞いた。
「旅行パンフというのは、るるばとかミップルとかそういうもの?」
「いえ。旅行社が印刷した旅行案内のパンフレットで、よく駅や店頭に置いてある無料のパンフです」
「なぜそれが面白いのですか」
「面白いです。印刷がきれいで、旅行することを想像しながら見るだけで、楽しいです。きれいなパンフを見てどこに行くかを想像したり、違う会社の同じ行き先のパンフと比べて楽しんだり、同じホテルを使っているのにどうして料金が違うのかって思って、よく見るとホテルの部屋が指定ありだったとかを発見したり……」
自分で自分の言葉を追っかけるようにそこまで答え、面接官がだれもかれも詰まらなさそうにしているのを見て、あわててハルは言葉をとめた。
いやもちろん、質問した一番右の面接官はちゃんと聞いていたが。
とにかく、自分が外しまくっていることだけは分かった。
――やはりダメか。自分がやりたいことを、やりたいようにやり、正直に言っているだけなのに。オレはいつもそうだ。それは時代の趨勢というやつとか、多数決とか、全体の流れとか、場合によっては単純にその場の空気に逆行逆流してしまう。この、社会の端にいる人間を集めたわずか数人の集団の中でさえ、不思議と端っこにいる。
今、杉田ハルは神奈川県庁の就職面接会場にいた。
向かいには五人の面接官、こちら側にはハルと並んでやはり五人の受験者。
普通の就職面接なら、このメンツでは杉田ハルの勝ちだろう。
だが今回の「ニート・引きこもり等就労就職支援法」に基づく神奈川県庁の就職試験では、よりニートな人、より引きこもりの長い応募者の方が有利なようだ。ハルのようなフリーターは「……等」の文字の中に入っているらしい。
ハルに言わせれば、だいたいニートと引きこもりとフリーターをいっしょくたにすること自体がおかしい。
ニートは、最初のきっかけや原因はともかく、仕事も勉強もしていないしやる気も失せている。自宅警備員と自嘲する引き込もりは、まさに自宅や自室に引きこもる状態の人間を指している。引き込もっているからといって、やる気がないとは限らない。表に出さないだけで実はあせっている人もいる。もちろんそれらがまじりあっている人間もいる。
ハルに言わせれば、フリーターと呼ばれる人間でさえいくつもに分類される。
まず、フリーターになってしまった者とあえてフリータ―をやっている者だ。不本意でその状態になった人間と、好きなことをしたいが為にフリーターとは違う。流されてフリーターの人間と、それなりに便利な立場を選んでいる人間の違いは大きい。積極的フリーターと消極的フリーターと言いかえてもよい。
前者にはバンドをやっていつかメジャーになりたいとか、売れない役者を続けたいので仕事は自由がきくほうがいいとか、そういうやつが多い。
ハルに言わせれば、この法律はたぶん、ニートにもフリーターにも、ましてや引きこもりにもなったことのない人間たちが、一生懸命考えてつくったものなんだろう。
ただハルの場合は、特別な何かの為にではなくその時々の自分が楽しいものをやっていたらフリーターになった。気分は積極的フリーターだが、強い動機が無い分、少し弱い。そこらを突かれると困る。
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