2 兵法第一帖 前段 青山崇史ここに在り 2
「連絡遅れました。総務の鈴木さん急病だそうで、急きょ代理が出るそうです。同じ課の人です」
インカムから声がした。舞台壇上の反対側からの報告だ。
知っている。雨宮草子がいま壇上に上がろうとしている。思わず声をあげたのは、それが見えたからだ。
青山は内心で舌打ちをした。
――代理なら他にもいるだろうに。よりによってなんで雨宮だなんて。総務のバカが。数秒の行動さえも油断ならないのが、雨宮だ。なぜそいつを使う。
だが雨宮草子は、反対側から舞台壇上の知事越しに、青山に笑顔を送ってきた。こちらの気も知らず。
青山は目に力を込めて、草子を見た。
――いいか、失敗するな。トチッてこの式典に汚点を残したりしたら、後でしめるぞ。
青山の祈りが通じたのか、呪いが効いたのか。
雨宮草子はそつなくやるべき事をこなし、職員代表が新知事に渡す「県のカギ」を女性新知事に渡した。このセレモニーは何代か前の新知事就任のときに始まったセレモニーらしい。
「県のカギ」とは象徴的なもので、名誉県民や名誉市民には知事から「県のカギ」を渡す。それなら新しく知事が就任した時にもその権限のあるものとしてまずカギを渡されるべきだ。渡すなら職員からがいいだろう、というのが最初の意図らしい。だが今では、新しい職員は新しいボスに従います、という意味にとられている。
草子は壇上で盛大な笑顔を振りまいてカギを渡し、職員全員、特に女性職員は新知事の誕生を大歓迎している、という印象を充分に与えた。
報道陣のカメラの音が鳴った。記者の要請で、二人は壇上でそのまま手渡すポーズでとまっていた。女性知事とそれを盛大に歓迎する女性職員という構図の披露は見事に果たされた。
それから草子は、笑顔を見せながら、そのまま大過なく陰に引っ込んだ。
――よかった。
ホッとした。この後には青山の想定をひっくり返す要素も、人物も、もう残っていない。車椅子の向きを変えて青山が動き出そうとした瞬間、盛大な拍手が起き、同時に草子が引っ込んだ先、舞台の反対側で大きな音がした。
――転んだな。草子。ふん、いい。どうせ皆には見えないし、この大拍手で音が消された。
司会の原稿にわざわざ「盛大な拍手をもう一度」と入れておいてよかった、と青山は思った。職員は言われなくても習慣的に大きな拍手をするが、司会の言葉を聞いてさらに周囲に負けじと大きく拍手する。すると音が大きくなり、多少の失敗を隠す。賑やかで、盛大で、大成功の雰囲気を醸し出す。
青山はここで、わざと皆に見えるようにホッと息を吐いてみせた。壇上わきの周りの人間全員がそれを見て、ホッと息を吐き、安堵の表情になった。青山の動作が演技であることを分かるものはいない。
皆がリーダーを見ている、リーダーの一挙一動で、安心したり、行動の評価を決めることがある。そのことを青山は充分に承知していた。そして今この場にいるスタッフの全員が今日のイベント成功への評価を、青山のわずかな動作で確定した。
青山崇史は、神奈川県庁内きっての頭脳派だ。周囲の人間は彼のことを陰で、天才イケメン車椅子男子と呼んでいいる。
「こいつは生まれながらにリーダーで、かつ参謀だ。自身の優秀すぎる参謀としての才能を、分別のあるリーダーとしての能力でハンドリングしている」
この言葉は、いみじくも彼の最初の上司が新人指導の段階で、先輩としてギブアップした時に吐いた言葉だ。それからその上司は、こう付け加えた。
「過去に対しては知見があり、現在に対しては勝負勘があり、未来に対しては先見の明がある。それが青山崇史だ」と。
しかし。
それでもその青山とて、この後すぐに起きる大きなうねりが、今この瞬間に始まっていたことを、この時は知るよしもなかった。
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