第4話 荒野の獣


 眠りの間際、少女は獣の毛皮にすがりつくようにしていた。

 獣のよくきく耳が彼女の小さな体の中、一番熱い心臓がせわしなく打っているのを聴いた。


 祈りの蝋燭は残り二本。


 眠れずにいるのだ。無理もない。獣も起きていた。ずっと。

 少女の呼吸に、心音に、彼女が今生きているという証に、体温に、感覚を傾けていた。


「ねえ」


 不意に呼ばれて、頭をもたげる。

 少女は獣の背中に乗って、ほんとうのベッドのようにして身体を預けた。

 少女の温かさ全部を身体に感じて、一時獣は幸福な気持ちに包まれる。


「お願い、こうさせて。あなたは暖かいから」


 そのまましばし、時が過ぎた。

 少女は躊躇いながら口を開く。


「わたし、あと二日で、死んじゃうの」


 ぽつりとこぼれた囁きに獣は息を詰まらせた。


「わたし、罪人として、処刑されるんだよ」


 獣の心臓が鼓動を早める。


「町のみんな、わたしを恥知らずな罪人だと思っている。

 でもね、あなたに聞いて欲しいの。

 他の誰にも言わない。

 あなただけに知ってほしい。

 あなたは、他の誰に言うことも無いでしょうから」


 獣の頭の上に顔を横たえて、背の毛を指でいじっている。

 少女は静かに話し始めた。

 普段の父の温厚なこと、母が死んで以来は時折酒を飲むと人が変わること。

 それでもそんなことは一年に一度あるかないかであるということから話は始まった。


「でね、お父さん……、些細な口論からね、雇い主のおじさんを」


 家畜舎に死体を引きずってきた父はテュットを見て泣き崩れた。

 真っ青な顔で後悔の言葉を繰り返した。


「お父さんが居なくちゃ、うちにはほかに五人も子供がいるでしょ?

 お父さんが居なくちゃ、みんな飢え死によ。

 お父さんを失って、わたしが稼ぎ頭になんて、なれる?

 誰かを頼ろうとしてもだめ。罪人の子供たちは立場が悪いの」


 だからテュットは申し出た。


「わたしがやったことにしたのよ。

 わたし、うまくやったわ。

 お父さんを庇っているって疑われもしたわ。

 でも、うまくやったの。

 だからほら、こうして牢に入れられた。

 お父さんは、無実のまま……」

 

 音のない吐息。

 寝返りを打つ身体。

 獣は背に少女の仕草の全てを感じる。

 耳をぴんと立てて、一言も聞き漏らさないように澄ましていた。


「食い扶持も減るし、そのほうがみんなのためね。

 お父さんには新しい仕事を探して、みんなを養ってもらわなくちゃ。

 ねえ、あなた、わたしを良い子だと思う?

 わたし、罪人よ。裁かれて当然の、悪い子よ」


 獣は首をかしげそうになった。

 でも、そうすると少女の身体がすべり落ちてしまうので、身動きをしなかった。


「わたし、悪い子なの」


 テュットは言う。


「お父さんはきっと罪の意識に苛まれる。死ぬほど苦しむわ。

 だってあの人、とても良い人で、優しい人で、家族思いで……。

 だから、自分のせいで娘が死ぬなんてとても耐えられないはずよ。

 わたしが死ぬくらいなら、自分が死にたいと思うはず。

 でも、駄目。代わってあげない。

 わたし、お父さんを呪うの。

 お父さんはもう二度と家族に迷惑かけるようなことをしない。お酒も二度と口にしない。

 どんなにつらくても冷静に考えてくれる。

 二度と家族を失うまいと、今以上に気を配って、尽くすようになる。

 それでいい、そうして欲しいの。

 弟妹たちを立派に育てあげてくれなくっちゃ」


 いつしか声は晴れ晴れとした調子になっていた。

 獣は震えそうになる体に力を込めて、それを堪えた。

 今すぐ父親をひっ捕らえて指を差して声高に叫びたかった。

 少女は無実だ。こいつがやったんだ。

 だからテュットを助けてくれ。

 そんなことをしたところで、少女は喜ばないとしても、

 そもそも獣には不可能な行動だとしても。

 少女が何も言わない代わりに、違うのだと弁解したかった。

 この子が人を害すだろうか。

 こんな異形の獣にも寄り添ってくれた、この娘が?

 少女を有罪と信じている全ての者に見せてやりたい。

 この牢の中少女がどれだけ獣に尽くしてくれたか。

 何かを害することのできる人間が、こんなに暖かいだろうか。


「わたし、理不尽だとは思わない」


 付け足すように、少女は言った。

 言葉は素直な響きを持っていた。


「最悪からは、救われたの」


 そう言ってやがて静かに眠りについた。

 少女は心の底から救われたのだと信じている。

 獣にとっては、それこそ理不尽な話だった。



 かつて人の心を忘れた男が、誰かを想うということ。

 それこそが罪を認め、後悔することを知る証。彼が苦しみ、罰を受けた印。



 昔恋したことを、

 それが叶わなかったことを、

 男は思い出した。

 固い戒めが解けるように、過去の記憶を取り戻していた。

 昔恋したことを、

 それを許されなかったことを、

 だから抗ったことを、

 そのため多くを傷つけたことを、

 多くの悲しみを産んだことを、

 男は、思い出した。

 彼は想いの人と引き離された。

 理不尽な別離だった。

 運命は皮肉で、奇跡は起きず、祈りは果てて望みを絶たれた。 

 男は捕らわれ咎められ、罪人として罰を受けた。

 今分かるのは、己がそれを悔いていること。

 罪を知りながら犯し、常に罪悪感に苛まれていたこと。

 どんなに残酷に、どんなに非道に、どんなに苛烈に、どんなに冷徹でも。

 男は常に怯えていた。


 これは罪だと知っていた。

 これが悪だと知っていた。


 男は、恋した相手のために、悪をなしたのだ。

 それを正義と思えなかったのだ。


 男は、だから罪人だった。



 少女の眼差しは真っ直ぐに炎を、その中にあるはずの主の姿を見据えていた。

 怯えはないように見える。

 表面的には恐れも伺えない。

 悔いのない顔には喜びの色も微塵もない。

 挑むような果敢な表情をしていた。

 身体は固くはなく、力を抜いて自然体でいた。

 しかし小さく震える体が、きっと少女の正直な心境だった。


 祈りの蝋燭が燃え尽きる。

 それは最後の一本だった。


 炎が消えてもじっとしていた。

 消えたはずの炎がまだ見えているように、目を離さなかった。

 獣は傍に寄り添って、少女の鼓動に耳を澄ませる。

 言葉なく、どうやって想いを伝えられると言うのだろう。

 朝には獄吏がやってきて、少女を牢から連れ出してしまう。

 彼女の自由のためではなく、それを永遠に奪うために。

 獣は少女が身体を預けてくるのを感じた。

 ちょうど胸の辺りに、少女の頭が重なる。


 心音。

 ふたつ分。


 ここには、自分のほかに誰かが居る。

 誰かが自分を認めている。

 それが孤独でないということ。

 どれ程心癒されたか。どんなに気持ち安らいだか。

 感謝の思いも伝えられずに、明日、別れが訪れる。

 獣は全身毛を逆立てた。

 恐怖心だった。

 恐怖心という手が身体の中で心臓を握り潰そうと力を込めている。

 一人の牢は寒い。

 一人の牢は暗い。

 一人の牢は寂い。

 どんなものでも埋められない、大きな穴が空くだろう。

 どんなものにも癒せない、深い傷が刻まれる。

 明日を望まぬ日々になる。

 今までと同じように。

 心を忘れ、過去は薄らぎ、獣の本能だけで生きながらえる、老いた毎日。

 それこそが恐怖だった。

 取り戻した心を失い、惰性で生きる抜け殻の日々。

 思い出させてくれたのはテュットだった。

 獣は大きなものをテュットから与えられたのに、何も返さずおしまいになる。

 そんなのは嫌だった。


「ねえ、あなたの名前が分かればよかった」

「お別れのときも、呼んであげられない」


 少女のささやきが冷えた血液を温めるように感じる。

 教えようにも言葉はなく、あったとしても、名前ももう忘れてしまった。

 名づけてもらえたら、少しは。いや、いっそう、痛みは募る。


「ああ、悪い娘ね、わたし」


 獣に頭を預けて、毛に顔を埋めて、テュットは言った。


「もう決めたのに。納得したのに。

 わたし、幸せだよ。みんなのためになれること。

 意味なく死ぬんじゃないってこと。

 今までとっても楽しかった。もう何もいらないわ。

 わたし、とても恵まれてた。

 そのうえ尚、自分の思い通りになっているのに。

 それなのに。ねえ――」


 声は掠れて、ほとんど吐息だけの囁きだった。

 だけど獣のよくきく耳は、声の全てを聴いていた。

 少女の声は震えている。

 少女の身体が震えているのだ。

 テュットはそうして、呟いた。


「怖い」


 声ではなかった。

 呼吸でさえも。

 唇の僅かな動きだけだった。

 獣は全身でそれを感じた。

 急に研ぎ澄まされた鋭敏な五感が周囲の全てを感じ取る。

 少女の身体から感じられる、恐怖の匂い。

 涙が流れたとしたら、その音さえも聞こえそうだった。

 今なら牢の外の様子も分かる。 

 獣は起き上がって、少女を咥えて背に放った。

 驚きの声を漏らしたテュットは咄嗟に背の毛にしがみつく。

 丁度食事を運んできた獄吏たちが牢を空けたところへ獣の巨体を投げ込んで、投獄されてから初めて男は牢を出た。

 地上へいたる岩肌の階段を駆け上り、洞窟の外へ。


 風を感じた。


 ――懐かしい匂い。


 夕暮れの、ほとんど陽の沈んだ時間。

 日差しをいっぱいに吸い込んだ木々や土から立ち上る、太陽の香り。

 銃を持った看守が獣の姿に恐慌して、武器を携えているのも忘れて竦み上がる。

 この町外れにも住んでいるらしい人々が、獣を見上げて一様に目を丸くし、次の瞬間には悲鳴を上げるなり逃げ出すなりして道を明けた。看守がようやく我に返って引き金を引く、そのときにはもう獣の姿はない。


 目指すは城壁の外。

 荒地広がる未知の世界。


 町の中を横切った。多くの者が異形の獣に驚き顔を覆うか、首を伸ばしてもっと見ようとした。獣の印象が強く、その背にテュットが乗っていると分かった者は少ないだろう。

 異変を悟った城の兵士達が銃を持って駆けつける。初めて見るだろう得体の知れない獣の姿に怖気づく。

 無謀にも立ちはだかるものを獣は爪先でなぎ払った。

 罰として与えられた体は人に対して有利だった。

 獣は自らの体に初めて感謝した。

 人間が無力に感じられる、圧倒的な力。何故獄吏はこの姿を課したのだろう。

 地響きが町を揺らす。一歩ごとに石畳の道が歪む。

 恐慌に陥った町の悲鳴が過去の記憶と結びつく。

 蝋燭の火の中に現れたあの獄吏がどこかで嘆いていた。


『同じ過ちを犯すのか。  

 お前は罪を認めながら尚、愚かさを理解して尚。

 同じ道を選ぶのか。

 罪の獣、愚かな獣、人にあらざる下等な獣よ。

 おまえは誘惑に負けたのだ。

 人の姿に戻れるというのに。言葉を取り戻すというのに。

 それを捨ててまで選ぶのか。罪を。

 獣の姿を望むのか』


 声は酷寒に似て、彼へ厳しく問う。


「そうだ、おれは、望む。

 人の姿にならずともいい。

 人の姿は脆弱だ。

 獣の姿であればこの娘を連れて行ける。

 そうだ、おれは、選んだのだ。

 言葉が通じずとも、思い通わぬとも。

 寄り添うことができるなら。

 それが、おれには、幸いなのだ」


 声なき言葉で男は応じた。迷いは無かった。

 諦めたように獄吏の姿は風に掻き消えた。

 男は走る。

 獣の姿のままで。

 男は走る。

 家々を越え、田畑を踏み、石畳を割り、人を倒して。

 もう二度と罪を許されることはないだろう。

 再び人を傷つけて、たくさんのものを奪っていた。

 人の姿と言葉を取り戻す機会を永久に失った。

 男はそれを悔いないだろう。

 たとえ少女のために、人を殺めたとしても。

 これが救いと言うだろう。

 正しいことだと、言うだろう。

 


 男はびゅうびゅう風を切って走っていた。

 町はもう遠い影。

 辺りは夜の静寂に沈んでいる。

 星がまるで黒い絨毯にこぼれた砂糖のよう。

 いつしか城壁を飛び越え、林を越え、未知の荒野を走っていた。

 風鳴りの中、不意に小さく何かが聞こえた。

 風に混ざってわからなかった。

 少女が静かに泣いていた。



 荒野の不毛の大地を裸足で踏んで、少女は俯いている。

 少女の顔を覆う手に獣は鼻を寄せた。

 手はやせっぽちで冷え切っている。その冷たさに獣の胸が痛んだ。


「ごめんなさい。わたし、そういうつもりで言ったんじゃないの。

 ごめんなさい。わたし、逃げたかったんじゃないの。

 ごめんなさい。あなたにこんなことさせて。

 ごめんなさい。ごめんなさい」


 獣は戸惑う。少女の涙に動揺した。

 自らの起こした行動がテュットを喜ばせないと知っていた。

 それでも強いて、生きてくれるほうが良いと思う。

 それなのにこんなに悲しそうなテュットの顔を見たのは初めてで、それが男の心を烈しくかき乱した。

 テュットの悲しむのが、何よりも悔しかった。

 涙を止める方法を何に代えても知りたくて少女の薄い手を舐める。

 顔を上げて少女は獣の鼻を撫でた。


「あなたは、優しい。

 ありがとう。

 その優しさがわたしは嬉しい。

 それだけで充分だよ。

 わたしはもう、充分慰められたよ」


 月の明かりの下、少女の姿は無残だった。

 綺麗だったはずの髪は艶を失い、肌は垢に汚れている。

 やせ細って肩には骨が浮いていた。

 人は彼女を見て顔を顰めるだろう。

 無様なものだと指差すだろう。


 誰かそれに気付くだろうか。

 少女の瞳のあかるいことを。

 罪無き光を宿したことを。


 そこに獣の姿が映っていた。


 醜く歪んだ異形の姿。

 人は獣を見て恐怖を覚えるだろう。

 災厄だとすら思うだろう。


 誰かそれに気付くだろうか。

 彼の瞳の年老いたことを。

 その奥に寂しさの潜むことを。


 そこに少女の姿が映っていた。


 まっすぐに、毅然と立ってそこに居た。


 少女は泣き止み、微笑んだ。


 獣の鼻に手を伸ばす。

 獣は応えて頭を下げる。

 彼の顔を抱いて、少女は言った。


「お願い。町へ戻りたいの。

 わたしが居なくては、お父さんが捕まっちゃう。

 子がその責任を果たせない場合、親が負う。国の決まりよ。

 わたし、帰るね。

 ごめんなさい。

 町まで連れて行って欲しいの。お願い」


 獣はくんと鼻を鳴らす。

 少女は湿ったそこへ口付けた。


「大好きよ。あなたのこと。忘れないでね」


 真っ白に微笑んで、それが夜の中いっとう眩しくて。

 獣は目を閉じた。

 目を閉じても尚見えていた。きっと二度と消えはしない。


 どんなに暗いところに居ても、きっとそれは明るいのだと思う。

 どんなに寒いところに居ても、きっとそれは暖かいのだと思う。


 溢れ出る気持ちが身体の中で暴れまわる。


 たまらず、獣はひとつ吼え声を上げた。


 静かな夜の他何も無い荒野にそれは、幾重にも幾重にも響いて広がった。

 テュットのことが、好きだった。そう伝えられたらいいと思った。



 少女を町へ帰し、しかし獣は牢へ戻らなかった。

 国を出て、林の隔てた向こうの荒野で、じっと座って耳を澄ませていた。


 やがて鐘の鳴るのが聞こえた。

 それが処刑の知らせだった。


 獣のよく利く耳をもってしても、少女の最期は分からなかった。

 奇跡が起きて、助かっただろうか。

 父親が直前に娘を庇っただろうか。

 それとも。


 最後まで、獣には分からなかった。


 獣は吼えて、吼えて、吼えた。

 喉が涸れても、痛んでも。焼け付いて血を噴いても。

 吼えて、吼えて、吼え続けた。

 喉から音は出なくなる。それでもずっと、吼えていた。

 そうしていつしか息絶えた。



 やがて獣は荒野の地で骨になった。

 異形の形をした骨が、そこに野ざらしになっていた。

 不毛の地に訪れるものはない。

 彼の死を悼むものもない。

 不毛の荒野に雨が注ぐ。

 慰めのように、まったく無関係のように、雨が降り続ける。

 どこからか風に運ばれて訪れた種がいつしか根を下ろす。

 不毛の荒地に芽が開く。

 花が咲いて、やがて枯れて実を結ぶ。

 花に誘われ虫が来る。虫が運んで種が広がる。

 果実を求めて小さな生き物が、それを求めてさらに大きな獣が集まった。

 小さなことを積み重ね、いつしか大きくなっていく。

 罪の獣の骨が形を留めていられなくなった。

 その上を歩く獣があった。獣たちは森に暮らしていた。

 荒野は今や森だった。

 罪の獣の成れの果て。

 大きな森ができていた。

 何年も、何十年も、あるいはもっと長い年月。

 国が滅びた地の上に再び国が築かれるほどの時の流れの果て。

 その果てに、森になって、そして尚。


 罪の獣はどこかに居た。


 牢獄に繋がれた時間と等しい永い時の中、一人で、しかし、独りではなかった。

 鼓動を失った獣は、しかし他の多くの鼓動の聞こえる場所に居た。

 土の下に。根の先に。虫の中に。空の鳥に。木の幹に。森に息衝く全ての内に。

 どこかに居て、覚えていた。


 少女のことを忘れなかった。

 少女の声を、体温を。触れ合ったことも、何もかも。


 次にめぐり合えたときに、必ず思いを伝えるために。


 男は、少女を待っていた。

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少女と罪の獣 詠野万知子 @liculuco

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