第3話 少女と、罪の男
考えること、思うこと。
それを忘れていた獣は、
それを思い出した獣は、
少女が成すことをすべて受け入れた。
口の中に手を突っ込んで牙を磨くのも、
冷たい水をかけて毛皮を洗うのも、
眠るときにはこの体を毛布がわりにするように身を寄せるのも、
返事がないのに延々語りかけてくるのも、
すべて。獣は受け入れた。
反応を返すことは稀だった。
不思議とわずらわしいとは思わなかった。
誰かがそばに居ること。
いままで失われていたこと。
何年も、何十年も、あるいはもっと長い年月。
記憶も定かでない、牢獄に捕らえられていた間。
獣はひとりきりだった。次第に何も感じなくなった。
寂しさも。
苦しみも。
ずっと、暗闇に一人きり。
気が狂いそうな日々を生きながらえるために思考を手放したのだ。
少女は獣の体の垢を落としたように、固く凍った感情も呼び覚ました。
それは、積み重なった寂しさを彼へ返した。長い間降り積もった孤独を思い知らせた。
例えるなら寒さだった。空腹感に似た、それと比べようもないほど大きな不足感。
痛みで、苦味で、火傷のようで凍てつく。
自ら体を引き裂いてしまいたいほどの衝動のようで、倦怠感のようで、それは、牙のように、棘のように、幾千の針のように、獣を痛めつけた。
喪失感はひどく彼を追い立てた。
独りきりでいた長い年月をつきつけて、無為に取りこぼしてきた時間を見せ付けて、あざ笑うように、胸の内で金切り声をあげた。
寂しさというやつは、今になって罪の獣に己の過ちを自覚させ、そうして罰を下した。
忘れてはいけない。
過去が獣へ語りかける。
罪を犯したこと。
忘れてはいけない。
罰を受けていること。
忘れてはいけない。
お前は奪った者だ。
お前は害した者だ。
お前は欲した者だ。
お前は。
――忘れてはいけない。
ただの獣であればよかったと、はじめは思った。
しかしこの牢獄に一人ぼっちではないと気付いて、彼は思考を取り戻したことを喜んだ。
この寒い牢獄に、ただ一つ灯る蝋燭より、少女ははるかに明るく暖かい。
その声は、その体温は、その手は獣を慰める。
しかしすぐにも奪われる。
これも罰のひとつなのかと、獣は誰にともなく問うた。
獣の体は頑丈で長命だった。男が死ぬ前に少女が牢から去ってしまうだろう。
その理由が何であろうと、獣より少女のほうが長居するとはとても思えない。
ならばやはり、心失ったままで居ればよかったと考えている自分に気付く。
獣は、男は、揺れる。
今ある短い幸いの喜びと、いずれ訪れる喪失の痛みの間に、揺れる。
*
答えがないのも構わずに少女はぽつぽつと自分のことを語った。
そうすることで気を紛らわせている。
逃れられない未来をほんの一時、忘れようとする。
「わたしは一番上のお姉さんなの。下に弟妹が五人! みんな良い子たち。
お母さんは四年前に亡くなったのだけど……優しい母だった。沢山のものを与えてくれた。
お父さんは優しくて、とても頑張ってわたしたちの生活を支えてくれるの。
きっと、これからもずっとね」
日課のように獣の毛繕いをしながら、毎日少しずつ話をしてくれた。
「マーニは十二歳。一番目の妹。
もうあと三年もすればお嫁にいける。わたしは行けなかったけれど……。
マーニは器量よしだもの。きっといくらでも貰い手はあるわ。
お目目がぱっちりとしてて、お人形さんみたいなの。
少し甘えん坊なところもあるけど、これからしっかりしていくわ。
わたし、心配してない」
もう大分慣れた手つきで食後の獣の口内を洗う。
それだけで嫌な生臭い匂いが、獣自身も不快に感じていたものが大分薄れた。
「メリとピエニは、二人とも十歳。二人は双子の兄弟なの。
もう、ほんとうにそっくり! 黙っていられると全然分からない。
声の少し高いのが兄のメリ。低いのがピエニ、弟ね。
二人はとっても仲良しで、手先が器用なの。
いつも一緒に何か作ってわたしたちを驚かせる。
木彫りの鳥や馬は見事でね、市へ持っていくとぽつんぽつんと売れていくのよ。
わたしの自慢の双子たち。
大きくなったら職人になればいいのだわ。きっと繁盛する。
わたし、心配してない」
テュットの家の様子は賑やかで温かい。
獣は、いつか居たはずの自分の産みの親や、いたかもしれない血を分けた兄弟を思った。
霞がかかったような記憶からは曖昧な思い出にしか触れられない。
確かに居た。
顔も思い出せないけれど、確かに居たのだ。
与えられた温もりを思い出す。
少女の話から想像しただけかもしれない。
きっと優しい父母だった。今はもうどこにも居ない。
「タルヴィは双子の次の弟。
少しぼうっとしたところがあるけれど、実は集中力がすごくって。
何にでも辛抱強く向き合うことが出来る子なの。
お勉強したら、もしかしたら学者さまになれるかも?
まだ七歳だもの、わからないわね。でもきっと立派になる。
わたし、心配してない」
眠るときには獣の横腹に身を寄せた。
独りではないことがどれだけ眠りを安らげるだろう。
体温と体温の重なることが、どれだけ奇跡に思えただろう。
眠る間際の時間にもテュットは小さく喋りかけた。
「小さな、まだほんの小さなユニ……二人目のわたしの妹。
わたし、あなたに優しくできた?愛してるのよ。ユニ、わたしの大切な宝石。
ユニはどんな子になるのかしら。
動物が大好きだから、家畜たちを大切に育ててくれる子になるわ、きっと。
とても優しい、かわいいユニ。ああ、きっと大丈夫。
こんなにもすばらしい家族が居るのだから。わたしは何の心配もいらないわ。
お父さんは、もう二度と過ちを犯さないもの。わたしは大丈夫。幸せなくらい。
わたし、心配なんて、してない……」
ほとんど寝息で囁いて、少女の瞳が閉ざされる。
静かな夜の、穏やかな時間。
獣は眠りに落ちた少女の顔の半分もある大きさの眼球を彼女へ向けた。
テュットのもたらした変化は大きい。
何年も、何十年も、あるいはもっと長い年月。
冷たかった日々も不毛な過去もこの数日の温かさに溶けてしまう。
何も無い、何もかも奪われた牢獄の中で、彼は満たされた気持ちでいた。
あろうことか、許された思いになった。
この少女の存在が自分を許してくれているのだと、それこそが許されがたい考えだった。
慰められてはいけない。
罪人だというのに。
それでも獣は深い感謝の念を抱く。
獣に人の心を返してくれた少女に。
ぬくもりを寄せてくれる彼女に。
獣はおぞましいことと理解しながら、惹かれていた。
彼女に答えを返してやりたかった。
相槌をうって、頷くことができればどんなに良いだろう。
ときに同意を示し、ときに意見を交わし合い、互いのことを喋る。
そうして少女と話せたらどんなに楽しいだろう。
こちらの声にじっと耳を傾けるテュットの姿を想像する。
なんと幸せな時を過ごすだろう。
獣は叶わない空想を振り払って項垂れる。
言葉を奪われたことが今になってこんなにも歯がゆかった。
*
日が経つにつれ男の歯がゆさは増すばかりだった。
少女は生来そうであるように、何者と分け隔てない態度で獣の姿をした罪人に接する。
彼女はもう恐れることも怯えることもなかった。
信頼し、親愛を寄せ、家族と同様に思っていると語ってくれる。
この老いた獣に尽くすのは、贖いのつもりなのだと男は心のどこかで思っていた。
少女は牢獄にいる。同じように罪人なのだ。
だから献身的な態度で自らの罪を洗おうとしたのだと思った。
あるいはその行いこそが、少女の身を潔白と示しているのか。
少女が自らの罪について語ることは無かった。
牢番にすがり無実を訴え、恩赦を請うような素振りも見せない。
落ち着き払い、受け入れて、時を待っているように見える。
悪事をなした人間の態度だろうか。
罰を受ける罪人の姿だろうか。
彼女はありのままに暮らしている。
時折、遠い昔を懐かしむように家族の話をする。
そして、獣へ言った。
「わたし、ここへ来られて良かった。最後に家族がもう一人増えたのだもの。
とっても個性的な家族が、ね」
獣は、男は、胸に訪れる痛みに気付いた。
深く深く、悔やんだ。
言葉を奪われてしまったこと。
それは罰。
遠い遠い過去に犯した罪の代償。
それは戒め。
愚かな行いをしたことへの叱責。
自らの人生の都合を他者へ押し付けたその傲慢さへの報い。
獣は、男は、今何を引き換えにしても少女と意志を伝え合う方法を知りたいと思った。
言葉を、もう、思い出せない。
どうやって言葉を紡ぎ出せばいいのか。
どうやって文字を書き表せばいいのか。
口を開き発音すると、それは獣の吼え声になる。
手は地面について重い身体を支えている。
硬い肉球のついた大きな獣の手でペンを持つなど到底できやしないだろう。
目を合わせても、少女の瞳の中に異形の姿を見つけるだけだ。
尋ねたいことがある。
伝えたいことがある。
それなのに。
それなのに、男は他者と親しみを築く術の一切を持ち合わせていないのだ。
この物怖じしない、心優しく大らかな少女の他に、誰が獣と寄り添ってくれただろう。
異様な、見るからに肉食のおぞましい形をした獣と。
めぐり合えたのは最後の、あるいは過去に果たされなかった奇跡なのだと男は思った。
罪を犯さざるを得なかった過去に、あれほど望み、得られなかった奇跡。
かつて、取り返しのつかないことを起こした。
近しい者を全て奪われ、人の姿を失い、獣となり果てた今になって、何故このような。
何故このような巡り合わせが訪れたのだろう。
感謝すべきなのだろうか。それとも恨むべきだろうか。
いずれ奪われてしまう仄かな灯。
ひととき男の暗闇を照らし、彼の身体を温める。
それを失ったとき、以前感じていた以上に牢獄の闇は、寒さは、老いたこの身と心に重たい枷をもたらすだろう。
帰結するところは結局のところ苦しみだった。
それで正しい、と彼は思う。
なぜならわが身は囚人だから。
罰を受けて当然の身なのだから。
だが、もしも。
この罪が許されたなら。
否、たった一日でも、天に見ぬふりをしてもらえたなら。
言葉を取り戻し、少女と言葉が交わせたら。
一体、どれほどの喜びだろう。
どれほどの、幸いだろう。
夢想しながらそれが決して叶わぬことと知っていた。
男は、あるいはこの時はじめて清廉な気持ちで、己の罪を悔いた。
正しいと思っていたことを、誤りだと認めようとした。
罪を犯したことを、恥じた。
己の行いを見据える。
奪ったものへの謝罪の気持ちを深く刻み、彼らの安息を祈った。
どんな罰をも受け入れる。
この命をもって贖える限りのことを望む。
傷つけ奪った者たちへ祈りを捧げる。
『だから、』とは願わなかった。
少女がやがてこの地から去ろうとも、思い通わずとも、
一瞬でも寄り添えたことを感謝した。
*
投獄から何日経っただろう。
少女に蝋燭が与えられた。
細かい植物の模様の刻まれた小さな白い蝋燭。それが七本。
一般的な家庭で用いられる、テュットにとっても馴染み深いもの。
毎晩寝る前に灯す祈祷の蝋燭だった。
それを投獄されて以来はじめて手にして、少女は嬉しそうな顔をした。
「ありがとう、久しぶりに心落ち着いて祈ることができます」
祈りを捧げる喜びを取り戻した少女へ、獄吏は言う。
「その蝋燭が全て尽きた翌朝、お前はこの牢を出る」
言葉が意味することを理解し、テュットの顔がこわばった。
少女を連れて来た日と同じように感情の無い言葉だけを残して獄吏は立ち去る。
テュットは立ち尽くして、遠ざかる足音が完全に消えるのを聞き届けた。
渡された小さな籐の編み篭の中に七つの蝋燭が並んでいる。
骨のような白さが美しく見えて、テュットは一瞬、燃やしてしまうことを惜しく思った。
蝋燭を燃やさずとも七日後に再び彼は訪れるだろう。
少女は洞窟牢の最奥に一つだけ設えられた古い卓の上に篭を置いた。
そうしてしばらく、岩壁に背を預けて、膝を抱えてじっと座っている。
会話を聞きつけ事態を悟って、獣も心を乱されていた。
胸に凍えを感じる。
心臓からゆっくりと血の気が引いていく。そのまま穴が空きそうな不吉な感覚。
胸は冷たく、それなのに頭はかっと熱かった。
理不尽への怒りの熱と奪われる痛みの冷たさに体中が、心までも翻弄される。
少女を奪われる時を、その訪れの気配を、皮膚が感じて体中が総毛立った。
自分以上に辛い心地でいるだろう少女を心配して様子を伺う。
岩に背を預けて座っている彼女が、ふと気付いて獣のほうへ手を差し伸べた。
獣は少女へ歩み寄る。テュットは小さな薄っぺらい手のひらで鼻頭を撫でてくれた。
しかしそれきりで、顔を背けてしまう。すん、と獣は鼻を鳴らした。
「……ごめんなさい。今は、何かをする気持ちになれない。
だめね、今こんなふうに、時間を無駄にしてしまっては。でも、許してね」
獣は頭をそっと少女の肩に押し付けた。
それから少女のそばを離れ、人より優れた聴覚を澄ましてじっとしていた。
二人がそれぞれ牢の端と端に居ようと、こうしていればどんな小さな囁きさえ聞こえる。
少女のすすり泣きが聞こえたら、心は共に泣こうと思った。
少女が世を恨むなら、共にそうしよう。
たとえ少女が望まぬとも、同じように考えて、同じ感情を示したかった。
少女と共にあることが、獣の唯一の望みだった。
獣の耳にそっとテュットの声が触れる。
「ああ、ごめんなさい……みんなのこと、心配してないわ、わたし。
でも、神さま、ごめんなさい。
わたし、お願い事がひとつ。
今以上に、ひとつもあるんです。
今までこんなにたくさん与えてくださってありがとうございます。
わたしは最後まで幸せでした。
わたしは、最後まで望みどおりに生きられました。
それだけで充分なのに……。
わたしは悪い娘です、神さま」
聞こえてきたのは少女の懺悔だった。
獣は驚き、耳を立てて一言だって聞き漏らすまいとする。
一本目の蝋燭の灯し火に、少女の顔があかく照らされていた。
泥や垢にまみれ、栄養不足にやせこけた頬。
同じ年頃の娘に比べたら十も歳を取ったようにも、ひどく幼いようにも見える。
とても綺麗とは言いがたい、しかしどこか侵しがたい神聖な面持ち。
少女は蝋燭の明かりを、その先にある主を見据えた。
(願いを言いなさい)と獣は、主でもないのに促したい気持ちで一杯だった。
しかし今日、少女はそれ以上に何も言わなかった。
祈りの蝋燭が燃え尽きるまで時間はそうかからない。
蝋燭の残りは六本になった。
燃え尽きた瞬間に少女の胸の鼓動が強く打つのが聞こえた。
一日一本、燃やし尽くされる祈りの蝋燭。
それは少女に命の残りを暴力的につきつけて報せる苦痛の針だった。
獣は毛を逆立てて、血管の血が沸騰してしまいそうな程、人間の残酷さに激怒する。
ふうふうと喉から獰猛な息を吐き、しかし少女を怯えさせてはなるまいと懸命に気持ちを鎮める。
残された時間は短い。
蝋燭の本数が示すとおり。
まだ歳若い少女に残された日々にしては、あまりに短い。
なぜ先に自分を殺さないのかと獣は狂おしい気持ちで思う。
少女が真に罪を犯していたとしても、それがどんなことでも――
もし牢での落ち着いた様子がとうに訪れていた気の狂いから生じたものだとしても。
そうだとしても、釈放されればいずれ他者の役にも立つだろう。
この獣の害なす体とは違う。この老いさらばえた化物を代わりに殺せばいい。
声があれば叫んでいた。
この子の代わりにおれを殺せ、と。
少女は喜ばないだろう。
だがそれでも、生きているほうが余程良い。
獣は自分が身代わりになれないことに酷く悔しい思いをした。
*
二本目の蝋燭が灯された。
真摯な囁きが牢の中に満ちる。
「神さま。
わたしは悪い娘です。
お願いがあります。
これまで願いどおりに暮らしておりました。
貧困は耐えられぬほどではありません。
代わりに優しい家族がいました。
過ちも起こりましたが、今はそれを治めることもできました。
すべてあなたのおかげです。あなたが下さった幸いです。
わたしにはもう充分、身に余るほど。
でも、どうか――」
*
「どうか、お聞きください……」
三本目の蝋燭の炎が言葉を返すように揺らめいた。
実際は、テュットの吐息に揺れたのだ。
祈りの途中で火が消えることは不吉とされている。テュットは慌てて呼吸を整えた。
「わたしは、不名誉な理由からあなたの御許へこの命を返します。
命をお返しすると言うのでさえ、恥知らずと思われるかもしれません。
でも、それを慰めに思って旅立つのです。どうかお許しください」
炎が揺れる。
「ねえ、神さま。
わたしには家族がいます。
五人もの弟妹たちと、優しい父です。母はあなたのお傍におりますね。
わたしは弟妹たちの前で罪人とされました。
まだその意味の分からぬ子もいるでしょう。
彼らの成長を見ていけなくて、とても残念です。
けど、みんなしっかりした良い子たちだから、わたし、心配してないの」
主を意識した改まった口調が、ふいに砕ける。
従来の友に呼びかけるような調子になって、少女は獣を見ていた。
少女の傍で祈りを見守る獣が小さく首を傾げる。
「わたしね、みんなのこと信用しているよ。
だからなんにも心配してない。
でもね、わたし、ただひとつだけ、思うことがあるの。
信用してるし、心配もしてないのに。
少しだけ、ほんの少し、不安になるの。
わたしの願いはたったひとつ。
みんなが幸せになることは、みんなで祈っていれば大丈夫よ。
だから、これは、わたしの自分勝手な願い事」
獣はぴくりと耳を立てる。
少女は一呼吸を置いて、落ち着いて話を続けた。
「わたしの弟妹たちは、もう十を過ぎた子も居るけれど、みんな幼いわ。
とくに小さなユニなんてまだ四歳。
わたしが不安に思うのは、神さま。
わたしがユニやみんなに忘れられてしまうのではないか、ということなの」
少女の祈りに、獣は震えた。
たったひとつの最後の願いが、なんと些細なことだろう。
死の旅のはなむけに望むのが、なんと欲無きものだろう。
「だからね、わたしの願いは、みんなに覚えていて欲しいってこと。
一緒に暮らしていたテュットがどんな娘だったのかを、忘れないでほしいの。
わたしなんて、ほんのちっぽけな、取るに足らない娘だとわかっています。でも」
卑屈な響きはなかった。
素直な声がそう言った。
途中で言葉が切れて獣は不思議に思った。
見上げたそこで、少女は唇を噛んでいた。
そうして涙をこらえていた。
「でも、忘れられてしまうのは、寂しい」
声は震えて湿っても、涙はついに流れなかった。
目を開いてまっすぐ、その瞳に祈りの火を映していた。
彼女の強さに男は胸打たれて、身体が痺れたように思う。
少女のことを尚いっそう愛しく思い、今すぐにでも抱きしめたい気持ちだった。
抱きしめるものを害するこの腕を憎く思った。
だからそっと身を寄せる。
少女の身体が僅かに震えていた。
もしも、この腕を回すことができたら、その恐怖を、その凍えを、少しでも和らげることができただろうか。
口惜しさに身が張り裂けそうになる獣の顔を、小さなものが触れた。
少女の手のひらが獣を撫でる。
慰めようとしているのに、まるで慰められたみたいだった。
だって獣の心は、それだけで嘘のように一切のわだかまりが消えるのだ。
どんな憤怒も、悲嘆も、焦燥も、動揺も、手のひらの上の雪の一粒だったように解けて消えてしまう。
少女の手にすべて委ねた。
獣の心は穏やかで、満ち足りて、一時でも、迫り来る別離の瞬間を忘れて幸福な気持ちを味わう。
*
蝋燭の残りは四本となった。
見つめる少女と獣の心中は似通っていて、その実遠いものだった。
あと四日で主の御許へと命を返す少女。
あと四日で愛しい者を失う罪の獣。
彼の罪科はその後も続くのだ、きっと。
少女の死の瞬間同時に息絶えるのでなければ、再び一人きりになる。
罰から逃れようとする気持ちはない。
どんなに辛く苦しくても受け入れられる。受け入れなければならない。
ただそのために少女の命が奪われるというのなら、それは間違いだ。
もしもこれが自らへの罰ならば。
少女の命とは関係なくそれをこの身に課せば良い。
怒りに猛る獣の毛に少女の手が触れた。
途端に蓋の閉まるように、獣の心から全ての烈しい気持ちが消える。
少女への温かな思いに満ちる。
「さあ、これからお祈りの時間ね」
そう言ってマッチをすって、四本目の蝋燭に火を灯す。
やや待って溶けた蝋を燭台代わりの皿へたらす。
皿に蝋燭を固定させて、火の落ち着くのを見守った。
獣は先日から、少女と同じ時間、同じように祈りを捧げていた。
獣と化して祈りを忘れ、どれだけの時が経っただろう。
こうして再び主のともし火を前に懺悔するなど、思ってもみなかった。
祈りは人の姿でいた遠い昔に捨てていた。
かつて皮肉な運命に憤り、起きぬ奇跡に苛立って、祈りの果てに絶望した。
そして彼を獣に変える原因を起こして、それでもなお、こうして気持ち安らかに祈り、願うことを思い出した。
これが、実際、何になろう。
主が祈りを聞き届けるだろうか?
否、少女は「助かりたい、生き延びたい」とは祈っていない。
祈りはかたちある何かをもたらさない。
七本目の蝋燭が少女を救うわけもない。
しかしこうしている時間が、掛け替えのない大切なものだった。
少女と二人寄り添って、同じものへ思いをはせた。
言葉はなくとも通じ合っているような気がして幸福だった。
しかしそんな時ほど一瞬ほどの間に去ってしまう。
四本目の蝋燭は燃え尽きた。
テュットの細い喉が震えた吐息を漏らす。
蝋燭が消えたからだけでなく、少女の顔色は暗く、蒼白に色を失っていた。
そんな必要もないはずなのに獣へ気丈に微笑んでみせる。
そうすることが、テュットの勇気になっている。微笑むことで力を得るのだ。
少女は獣の顔を撫でた。
「あなたが居て、本当に良かったわ。わたし、寂しい思いをしなかった」
撫でる手は冷たい。
それを言うのは自分のほうだと、喉も焼けんばかりの思いで、
しかし吼え声を漏らさないよう男は堪える。
少女だってまだ一度も泣いていないのに、男のほうが泣きそうだった。
もっと訴えても良い。
もっと嘆いても良い。
もっと怯えても良い。
そう言ってやりたかった。
もう何もかも打ち捨てて、
心のまま泣き声を上げて、嘆いて、責めて、怒って。
そうしたほうが心は楽になるだろうに。
それでも、少女は笑う。
*
テュットはいつもと変わらぬように努めて、以前と同じ調子で過ごしていた。
食事の後に獣の歯を磨き、毛繕いをし、眠るときはそこへ身を埋める。
四本目の蝋燭を灯した翌日、テュットは卓を掃除した。
今まで唯一の明かりである蝋燭を据えるためだけに存在していたもので、それは随分と粗末な作りをしていた。
祈りの蝋燭を立てているのだから、せめて少しだけでも綺麗にしよう。
そう思って湖にワンピースの裾を少し浸して、雑巾代わりに拭っていた。
途中、見落としていたものに気付いた。
卓に引き出しがついている。
板に穴を空けただけの取っ手を引くと、箱の中で何かが転がる音がした。
不思議そうに首をかしげ、そっと中を確かめる。
「これ、あなたの?……」
獣へそれを差し出して問う。
一本の古びた祈祷の蝋燭だった。
男は心中で首をかしげて、次の瞬間思い出す。
それはこの牢へ入れられた時に与えられた数少ないもののうちの一つ。
だけど祈りを捨てた男は蝋燭に火を灯さなかった。
まだ人の姿の頃、引き出しに放り込んだまますっかり忘れていたのだ。
必要なんてなかったから、思い出しもしなかった。
少女は声無き獣の返事を待たず、
「点けてあげる」
とマッチをすった。
古い蝋燭は不思議と湿気っておらずに火を宿す。
今日は卓の上に照明用の他に二本も明かりがついていた。
牢獄をこれまでにないほど明かりが照らす。
そうは言っても外の太陽の光には全く及びつかない。
あかく輝く少女の五本目の蝋燭。
残りはあと二本。
テュットは真摯な眼差しを光へ向ける。
獣も倣って、炎を見た。
自らに与えられた祈りの蝋燭。
獣は素直な気持ちでそれを見つめた。
テュットへの感謝を祈りに変えた。
かつて親しかった誰かへ祈りを捧げた。
そして過去に奪ってきた全てのものへ、詫びる思いを込めた。
せめて安らかであるように。
許してもらえなくとも、それだけを望んだ。
祈りが届きますように。
獣は閉じていた目を開く。
瞬く小さなともし火。
彼は、その火の中に人の姿を見た。
驚き息を飲む。
咄嗟に少女を見るがテュットは気付かないようで、自身の蝋燭に視線を注いでいる。
改めて再び火の中へ目をやると、よりはっきりとした姿が浮かび上がっていた。
それは男の姿をしていた。見覚えのある格好だった。
黒い外套に鉄の飾り。裁きを下すものを象ったブローチ。そう、彼を知っている。
『罪人よ』
男の姿が語りかけた。どこからともなく響く低い囁き。
彼はかつて獣を獣たらしめる罰を与えた獄吏だった。
男の罪の結果を見て「人に非ず」と言った彼。
そうして男から人の姿を取り上げた断罪者。
『お前が過ちを認め悔いたとき、わたしは現れる』
記憶が遡る。
この国が国となる前、町であったときよりも昔。
ひとつの小さな村だった。男の暮らした村だった。
そこで男は罪を犯したのだ。
男が投獄されてから、村が国になるだけの時が流れていた。
『おまえが真に罪を悔い、心改めるのならばこの刑を終わりにしよう』
「でも」
男は言葉を返す。そして、それができたことに驚いた。
実際は口を動かしていない。
一時、昔の姿を取り戻したように錯覚した。
罪人としてとらわれたあの過去の姿に立ち戻り、かつての獄吏と対峙している。
実際にあるのは古びた蝋燭と大きな醜い獣の姿だ。
不可解で捕らえようの無い獄吏の声を、現実感を失った感覚器官がを捕らえる。
『許しを与えるのは傷ついた人々だ。そして彼らは許そうと言う』
「それでは、獄吏さま、しかし今更、私は……」
『お前に人の姿と言葉を返そう』
「!」
男は驚き、次に喜び震えた。
しかし、獄吏が続けた言葉に、歓喜の熱を冷まされた。
『それには条件が必要になる』
「条件?」
『お前はかつて大勢の者を傷つけ死に追いやり、他者から奪った。
命。人。愛する者、信じる者、頼り、支え。
お前が罪を贖い人の心を思い出したと言うのなら。
お前は愛する者へ想いを伝え、受け入れられなければならない』
「想いを、伝える?」
この獣の身体、
この異形の姿。
奪うことしか出来ない手、
害すことしか出来ない口。
親愛を示すことなど、できるわけがない。
『罪を忘れるな。しかし、愛されてはならないことはないのだ』
言葉はあくまで固く、冷静に伝えられる。
蝋燭が費え、夢が覚めるように、闇が訪れた。
今見た幻を信じられない思いで反芻する。
想いを伝える、そのようなことができるだろうか。
それに今更人の姿に戻ったところで、何が出来るというのか。
この罪を終わらせることの意味が、もう分からない。
しかし同時に抗いがたい欲求が生まれる。
人の姿を取り戻し、言葉を思い出し、少女と話をしたい。
人の肌で少女に触れたい。
同じ形をした手を重ねたい。
たった一度でも良い。
少女と会いたい。
この異形の獣の身体で、どう伝えればいいのだろう。
拒絶の恐怖に怯えた。
少女が来るまで何も恐れるものは無いはずだった。
今は何よりも少女を失うことが怖い。
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