その4
ルイが目覚めると、馬車の中にはふたりの姿はなかった。夕方なのか、空は赤と紺色が混ざっている。さっきまでは昼間だったはずなのに。人通りの少ない横道に馬車は止まっていて、外を見る限り、本当に現実に戻ってきたようだ。安心というより、不安。アリス達のことが気になっていた。
大丈夫だろうか。いや、きっと大丈夫だ。今は信じてみよう。そう自分に言い聞かせながら前の席に移動し、小窓からフードをすっぽりかぶった馭者に声を掛けようとする。
「あ、あの」
「…」
「アリスさんのお家に向かっていただけないでしょうか」
馭者は返事もなく、ただ手綱を握ったまま前を向いていた。
「あ…あのぉっ」
「っさいな…聞こえてますよ」
若い女の声は、少し苛立っていた。
「アリス様のご自宅ですか? 駄目ですよ。まだアリス様が戻られてないし…見れば分かるっしょ?」
「それは、そうなんですけど…」
だんだん声が小さくなるルイは肩を落とす。馭者はちらっとルイをフード下から覗いたのか、溜息を漏らしてこちら側に体を斜めに向けた。
「でも…アリスさんのお家に」
「どうして?」
「闇と…水を避けて私の家に…ってアリスさんが……」
「本当に? もしかしたら、もうすぐ戻ってくるかもしれないのに?」
意地悪な発言に、ルイは顔を上げた。フードの中に隠れている目を見詰める。
「アリスさんの言葉を僕は信じるしかないんです。だから、お願いです」
「…」
馭者は驚いたのか、暫く黙って指先で顎をポリポリかいた。
「――なら、アリス様を信じて帰りますか」
そう言って馭者はマントのポケットから燐寸を取り出し、ルイに渡した。
「箱の中に小さなランプがある。闇と水を避ける魔除けだ。火が消えない様にして。あと、家に着くまではカーテンは全部閉めてな」
馭者は元の姿勢に戻り、手綱を握ってゆっくり馬を動かし始めた。ルイは小さく「ありがとうございます」と言ってその場から体を引っ込めた。
カーテンを全て閉め、低い天井にぶら下がるランプに燐寸を擦っては火を灯す。弱い光ではあるが、オレンジ色のどこか優しい明かりだ。
馬車は急ぐわけでもなく、普通に走っているように思える。街中なら仕方ないか。
焦っても無駄だ。こういう時こそ落ち着いていなくてはいけない。
ガタガタと揺れる音。パカパカと馬の蹄の音。カーテンを閉めているせいか、全ての音量が小さく聞こえる。
ランプの明かりを見詰めていると、溜息が漏れた。
周りに異変が起こり始めて今日で七日目。どうしてこんなことになってしまったのか、ルイは今でも頭を悩ます。
何かの間違いであってほしい。悪い夢だ。でも、それは自分が、自分の運命から逃げているだけなのではないか。そういう想いも芽生え始めていた。
膝の上に置いた両手を握り締め、行き場のない感情を噛みしめる。
――ふと、目の前にいるはずのない気配を感じた。
金色の綺麗な長い髪。色白の肌。赤いカーディガンに、白いワンピース。
そして、瓜二つの顔。
「ル、ルカ…」
優しく微笑む少女にルイは固唾を飲む。
「どうして私がここにいるのか、ですって?」
ピンク色の唇をゆっくり動かしながら、ルイの心を読むようにいう。
「そんなこと言わなくても分かるでしょう、ルイ?」
「…生きていたのか?」
「違うわ。私は生きてないのよ。見てたでしょ? 私の身に何が起きたのか――」
同じ青い目が見詰めてくる。
「生身で業火に曝されて感じていたわ。皮膚が、肉が焼けていく痛み。そしてルイの叫び声を。私が骨になるまで傍に居てくれていたのよね。ルイは私の骨を拾いながら泣いてくれていたわ。これで私達、犠牲になったセラフィム家が救われるというものだもの」
天使のような微笑みを絶やさないルカ。膝の上で両手を握り締め、黙って話を聞く。
「その様子だと、日が近いようね……まさか、本当にあなたが選ばれるなんて――」
皮肉だ。
ルイは真っ先にそう思った。きっと心の中での呟きも、何を考えているのかも彼女には全てお見通しのはずだ。
生まれた時からずっと一緒で、心を通わせてきたきたはずだった。
でも――、いや。
ルイは顔を振って、嫌な考えを振り払う。
「僕は最後までルカを信じてた。きっと何かの間違いだって、きっと何か、悪魔に唆されたんだって思ってた」
「実際はどうだったのかしら」
「本当は違うって言ってほしいんだ…!」
「本当にルイは何も分かっていないのね。だからおかしいのよ!」
その声は天使のように美しいが心を蝕む。
ハーピーという幻獣がいて、美しい女体に下半身が鳥の姿。その声は天にも届く綺麗な歌声だというが、その声を聞いたものは一瞬で石化するという魔の声帯を持つ。
ひとりの旅人がハーピーに恋して石化してしまった話を本で読んだことをルイは思い出した。
「ルイは昔からひとを信じやすくて、疑うなんて知らなかったわ。だからルイが裏切られて泣いている傍で、私はあなたを慰めながら心の底では哂っていたわ! なんて馬鹿な弟! 可哀相に!」
「ち、違う…!」
「私に縋ってくるあなたを見ていると、とても愛しい気持ちになったわ」
ルイは背中を丸めて、両耳を両手で塞いだ。
「このままあなたを甚振ったらどういう目で私を見てくるのか。傷付けたら? 突き放したら? どうなるのか――ずっとルイの隣にいてそう思ってたわ」
耳を塞いでいるというのに、くっきりとルカの声が通ってくる。
「私が仕掛けた悪戯もまんまと引っ掛かってくれたわね。一瞬、私を疑う目を向けたのに、それでも私を信じたわ。子供の頃からあなたは無垢のまま。私の心を知っているようで、本当はまるで何も分かってない!」
ダンッダンッダンッ
ルカの張り上げた声と同時に、外側からドアが何回も叩き付けられる。
「あなたはずっと私に利用されるの。私の快楽の為にね!」
「やめてください…!」
「私をもっと悦ばせて欲しいのよルイ! その為にも、絶対にその天使をあなたから引き剥がしてあげるわ!」
ダンッ!!
鍵がかかったドアが無理矢理抉じ開けられた。外からひんやりとした風がルイの髪を揺らす。
「お怪我はありませんか? ルイ様?」
抉じ開けられたドアの前に佇んで中の様子を伺いながら、ロザリーは言った。
ゆっくりと顔を上げて向かいの席に目をやると、そこにルカの姿はなかった。夢よりも幻よりも、ルカははっきりと目の前にいたのだ。頭の中に張り付く彼女の声は本物だったはずだ。
「――ルイ様?」
訝しげに見ているロザリーに、ルイは我に返る。
「ロザリーさん…どうして…?」
どうしてここに?
と、最後まで言えず疲れ切った様子のルイに対して、ロザリーは首を軽く傾げる。
「何か酷い目に遭わされたご様子ですね。しかし、ご安心ください。ここはもうティファレト家の敷地内でございます」
「え?」
馬車が動き出してから、まだ10分程度しか経っていないように感じていた。ルイは馬車から降り、地面に足がつくと周りを見渡す。
もう夜になっていた。空は暗く、星が点々として寂しい。町、なんてものはない。広い敷地内を取り囲む木々と柵。馬車が通った大きくて立派な門。綺麗に整えられた庭園に、後ろを向けば古めかしい屋敷に、その奥にひとつの塔が建っていた。
ここがティファレト家の屋敷。
「…あの、アリスさんは……?」
圧倒される風景にルイは思い出したかのように聞いた。
「お嬢様はいらっしゃいますよ」
首を傾げるルイ。ロザリーは体を斜めに向けて数歩下がる。
両膝に両手をついて、肩で呼吸を繰り返すアリス。垂れる髪から水滴がボタボタと落ち、全身土砂降りにあったかのように濡れている。
「御無事で何より――」
「な…なんですって……!」
アリスはすごい剣幕でロザリーを睨み付ける。
「この私を差し置いて…どこの馬鹿が私より先に帰っていいと言ったのかしらっ…!」
「わたくしもあの空間はいささか性に合わないので、早く地上へ戻りたかったのです。まぁ、お嬢様ならきっとあの空間に残されても耐性がありますし、自力で何とか出来るかと思いましたから」
「ブチ切れそうですわ…」
「お嬢様、そのようなお言葉…御客人の前ですよ」
アリスの瞳が横に流れる。
「あの、アリスさん…」
ルイの不安に満ちた表情にアリスは背筋を伸ばし、腕を組んだ。
「無事でしたのね」
「は、はい…」
「ここは、ティファレト家の者達が昔から強力な魔術で結界を張り巡らせているのよ。そう簡単に悪魔は入って来れないわ。たとえあの馬鹿力のアスタロテでも結界を破るのは無理。だから安心なさい!」
アリスは濡れた髪を掻き上げながら自慢げに言うが、ルイの表情は曇る一方である。
「……ロザリー」
「はい」
「おもてなしの準備を!」
「かしこまりました」
「ルイ。今日は疲れたでしょうから、ゆっくりお休みになってちょうだい」
と、アリスは踵を返して屋敷へひとりで向かってしまう。声を掛けようとすると、目の前にロザリーがスッと出てきて道を塞ぐ。
「ルイ様のお部屋へご案内させていただきます」
「いえ、あの僕はアリスさんに」
「お話は後からでもゆっくりできますよ。そう焦らずとも、今は疲れた体を癒しましょう」
妙な圧にルイはたじろぐ。
「さぁ、ご案内いたしましょう」
ロザリーは丁寧に頭を下げて、歩き出す。慌てて追いかけようとするルイだが、何かに気づいて一度馬車へと戻る。
馬に乗った馭者を見つけるとルイは前に回り込んだ。被っていたフードは取られていて、正面からやっと顔が見えていた。褐色の肌に青白い髪。顔半分に痣と痛ましい縫い目。
「――あの」
「な…!」
馭者の女は突然の声に驚いて、慌ててフードを頭に被せようとするがうまくいかないようでバタバタした。
「さっきはありがとうございました…」
「はぁ?」
気の抜けた返事。うまく顔を隠せないまま、馭者の女は気まずそうにルイを睨んだ。
「いえ、あの…ここまで走ってくれて――」
「う、うっさいなー! 早くいけよ!」
手をバタバタ振ってルイを追い返そうする。ルイは頭を下げて、ロザリーのところまで戻った。
ロザリーはルイのことを待っていてくれたのか、ルイが寄ってくるまでその場で佇んでいた。そして、ルイが戻って来るなりいきなり、
「彼女をあのような表情にさせるなんて、いったい、どのようなテクニックをお持ちなのでしょうか」
「え?」
「いえ――参りましょうか」
ロザリーは流し目でルイを見ながら、何か考え込むように大きな屋敷へ歩き出した。
悪魔祓い師のお嬢様と、その執事、悪魔 猫眼鏡 @meganeneko
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