その3

 砂塵の舞う乾ききった豪風。空は赤土色。先ほどまでの景色は一瞬で崩れた。立ち並ぶ建物は崩壊され、人間なのか獣なのかよく分からない死骸が地面を覆い尽くしていた。呼吸をするたび、鼻を衝く異臭が攻め込み、暑さで体内の水分を奪われそうになる。

 ――地獄?

 気絶しているルイの傍でしゃがみこみ、アリスは精神を研ぎ澄ませ、周りを見渡す。建物の隙間、地面の下に蠢く奴らの気配。ご主人様に忠実なのが救いなのか、すぐには襲ってくる様子はなかった。だが、それは時間の問題だろう。

 ルイの肩を軽く揺すりながら起こす。驚かせないように、優しく。瞼の動きがあるとルイはゆっくりと目を開け、空気の違いに声を出そうとするがアリスに人差し指を口元に当てられ塞がれた。ルイはアリスの目を見つめ、状況を把握したのかゆっくりと起き上がる。

 ボソボソ呟きながら、アリスは右手でルイの左手を絡ませるように握りしめた。

 無数の、人体の骨と皮だけで動くモノが地面を這ってアリスたちにジリジリと速度を上げて近づいてきている。

 地面を這うモノたちが、地面をけり上げふたりの元へ突っ込んでくる。

「神の戒めにより浄化なさいっ!」

 ふたりを囲むように光の糸のような輪が浮かび、360度に向かって輪っかは風を巻いて飛んだ。鈍い悲鳴が上がると、それらは真っ二つ三つになりボドボドッ、と地面に落とされる。ふたりを中心に死骸の海が広がった。

「痛くはない?」

 アリスはルイの右腕に染みついた血を見て、そう言った。現実と違って、なぜかルイの体は傷だらけで服も擦れていた。長いことこの空間で遊ばれていたようにみえる。疲労の色が見えているがルイは微笑み、

「えぇ…それが不思議と、痛みが自然と消えていくんですよね。夢だから、ですかね」

 ふうん、と呟く――刹那、アリスの体中に電撃のような緊張が走った。アリスは握り締めた右手でルイを自分の後ろへ回し、前方で揺らめく影を凝視した。

「絶対に私から離れないでちょうだい」

「は、はい…」

 胸ポケットから金色の糸で十字架の刺繍が施されている白い手袋を取り出し、口を使って左手を通していく。

 ガシャッ、ガシャッ、と地面に転がる死骸を踏み潰しながら、影はその姿を現す。

 どす黒い紫色の体に、4枚の翼。女なのか男なのか見分けは不可能だが人の姿をしており、右腕に太い蛇が巻きついている。そして、両手には大小の剣が握られていた。

 近くも遠くもない距離でそれは止まり、首を傾げながらニタリと口角を釣り上げた。

「――ここにいたか」

 重みのある声色に、後ろにいるルイが体を震わせた。アリスはルイの手を強く握りしめる。

「アスタロテ公爵」

 アスタロテは首を戻す。

「ルイを狙っているのはあなただったの?」

「ククク…」

「地獄からわざわざ這い上がってきて、この男を狙うのは何の為?」

「それを言う必要はなかろう」

 肩幅まで足を開き、翼を勢いよく広げる。無数の大きな羽が空を舞い、ピタリと止まる。アスタロテの口が動くと咄嗟にアリスは左手を前に出したが、眼中に映ったのは針のように尖ったアスタロテの羽と、羽に紛れて笑いながら剣を振りかざす悪魔の姿だった。


 その男は、壁に背もたれながら手に持っている古びたラッパを抱えていた。着ているスーツはだらしがなく、シャツがズボンからはみ出ているし、襟はヨレヨレでくたびれていた。丸い銀縁眼鏡の奥から立法府中庭入口に立つロザリーを見て、視線を外した。

 ロザリーは迷いもなく男に近づいて行った。

「最近の調子はどうだ?」

 男はロザリーを見ることもなく、そう言う。

「近頃、天と地が騒がしいのはどうしてだろうね」

「ラグエル様なら、それぐらいご存じなのでしょう」

 ロザリーは男、ラグエルの前に立ちはだかる。

「――アスタロテ公爵を唆したのは、貴方でしょう」

 ラグエルはロザリーを凝視した。

「……あぁ、やはりお前は悪魔だ。俺の心を読んでいるね。だけど、唆すという言葉は間違いだ。俺にとってどうしてもあの、神と交わる熾天使セラフィムは邪魔なのだ。だから、暇潰しにアスタロテを解放させたんだよ」

「まるで悪魔の発言ですね」

 ロザリーの飽きれた発言に、ラグエルは吹き出し笑った。髪の毛をかきあげ、寄りかかっていた体を浮かし、

「神は熾天使をかなり愛でている。それに、あの女もだ。俺にももっと光を浴びさせて欲しいのに……ズルイだろう?」

「ただの嫉妬心で、天使が人間を殺していいとは思えないのですがね」

「殺すのは悪魔だ」

「ラグエル様は本当に天使なのですか?」

 嫌味交じりの言葉を発した時には、もう目の前にラグエルの姿はなくなっていた。

 丸く切り取られた天井を見上げると、乾いた風がロザリーの黒髪を撫でた。草木の葉が擦れ合うざわめき。息を殺して、全てに耳を傾ける。そして、踵を返してロザリーは水の巡回がピタリと止まっている噴水場へと歩む。水の吹き出しは止まっているものの、下半身より低いプールにはしっかりと水がたまっていた。何の躊躇いもなくロザリーはプールの淵を跨ぎ、プールの中へ足を入れた。意外と深いのか、腰のあたりまで浸かる。

「さて、参りましょうか」

 ロザリーは呼吸を止め、気を集中させた。そして、一気に水中へと全身を沈めた。


 額が切れ、右目に垂れた血を手のひらで拭い、口の中に入り込んだ砂を生唾と共に地面に吐き出す。真向かいの建物は瓦礫の山となっていた。あの山の中にアスタロテがいることは間違いない。爆発にも似た爆風でアスタロテを吹き飛ばした結果だ。そして、繋がれているルイの左手の感触を確認する。

「ケガはないかしら?」

「大丈夫です…アリスさ――」

「走るわよ、いい?」

 ルイの言葉を遮り、アリスは手を引いて走り出した。すぐ後ろで瓦礫が吹き飛ぶ音が響いてきたが、いちいち気にしていられない。

 アリスは建物と建物の隙間に入り込み、ルイと向き合いベストのポケットから、少量の水が入った小さなビンを取り出した。

「今から言うことを聞きなさい」

「あ、あの」

「貴方は今から、現実へと戻るわ。戻ったら必ず、闇と水を避けて私の家へ向かいなさい。苦しくなったり、引き戻されそうになったりしたら私の声を思い出しなさい」

 ルイは何か言いたげな表情を浮かべていたが、アリスはお構いなしでビンの蓋をこじ開けた。

「私ならすぐ戻るわ。だから、今言ったことは絶対に守ってちょうだい。よろしいかしら?」

「…わかりました」

 よろしい、と首を振って呟くと、目の前を唸りを上げて突風と赤き業火が襲った。何棟も並んでいた建物は積み木崩しのように脆く倒れていき、巻かれる炎に塵となって消えていく。だが、アリスはその場所で呼吸を止めて立ち尽くしていた。足元で割れたビンと、全身から水蒸気が舞い上がるのが微かに見える。

「――逃がしたな?」

 アリスのすぐ背後でイラついた声を上げるアスタロテ。

 スゥ、ハァァ、と空気を吸い、そして吐く。何回か繰り返し、そして、生きてる――と、自覚する。

「さぁ、アスタロテ公爵、一緒に地獄へ帰りましょうか」

 猛獣のような咆哮を上げながら、右手に構えた大剣を高く振り上げ、そこから狙いを定めた小柄の少女に向かって振り下ろす。

 華奢な身に伝わる鈍い衝撃。両足を開いて左手を出し、光の膜のようなものでアスタロテの剣を受け止めるアリス。両足の底が地面にわずかに食い込んでいる。

 アスタロテは上半身を屈ませ、さらにアリスを押し込んでいく。

「この……馬鹿…力……ッ!」

 右手で空を切るように指先を泳がせた瞬間、力に耐え切れなかった地面に亀裂が入り割れた。真後ろへ倒れるアリスに刃先が近づいた。が、また、アリスの右手もアスタロテの脇腹を狙い定めていた。右掌に固まる球体の風が破裂する。脇腹にのめり込み、アスタロテの体が打っ飛ぶ。体を回転させ、気流の流れを広げた翼で逆撫でし風を切る。

 割れた地面に背中が打ち付けられるが、すぐに体制を直そうと体を動かそうとした時、地中に蠢く感覚を捉えた。慌てて体を横へ翻すと、アスタロテの右腕に絡んでいたはずの蛇が牙を剥き出しにして、地面の底を突き破って出た。素早く体を起こし、太腿に巻きつけたベルトに差した銀色の回転式拳銃を取り出し、銃口を蛇の頭に向け引き金を引いた。心地の良い銃声は蛇の頭を貫通させ、天に上るようなしなやかな胴体を仰け反らせる――刹那、アリスの真向かいにアスタロテが突っ込み、刃先をアリスの腹部に向けて突く。

 全身に燃え上がるような激痛に、痺れ。気を失いそうになる前に、アスタロテの蹴りがアリスの顔を目がけて跳んできた。衝撃に耐えることは出来ず、彼女の体は後退しながら倒れる。容赦ないアスタロテはアリスの頭を片手で持ち上げた。だらりと垂れるアリスの無気力な体。

「もう終わりか、人間?」

 アリスはアルタロテの指と指の隙間から、目を細めて見つめた。


 あぁ、どうなっても知らないわよ公爵。

 終わるのは、少なくとも――私じゃないわ。


 ニタリと口角を上げ、アリスは心の中でそう答える。

 ――と、豪風のような悲鳴が空気を揺るがした。アスタロテの掌から滑り落とされたアリス。アスタロテの腕に噛み付いた黒い獅子のような獣は、そのまま離さず顔を何回か振り、勢いをつけ助走し建物にアスタロテを叩きつけるかのように壁に激突した。

 砂塵の中で怒り狂った獣が暴れているのが、遠目で見える。蹲り、腹を抱えるアリスは笑っていた。

「ククク……神様は意地悪ね…いつでも助けにくるのは天使じゃなくて………悪魔なんだからっ」

 地面を叩きつけ、アリスはフラフラしながら立ち上がる。腹に鈍痛。膝はガクガク震え、立っているだけで精一杯のようだ。

「あぁ痛くてよっ痛いわっ!」

 アリスは怒鳴る。空に向けて、ほぼ自棄状態で叫んだ。

 足を引きずりながら、遅く歩き出す。腹を抑える手の間から真っ赤な血が溢れ、乾いた地面にボタボタ落ちていく。

「早く終わらせて午後のおやつを食べさせて頂戴ッ!」

 数歩進んだ先で、足を止める。そこで転がり落ちた拳銃を拾い上げ、アリスは何かに憑りつかれているかのように、無機質に今夜の献立の希望を唱えていく。

「それから、アイスには必ずチョコレートソースをかけてちょうだい! わかったかしらッ!」

 と、砂塵の舞う中から、二つの影がアリスに向かって飛んできた。ひとつは真横へ、もうひとつは足元に転がり落ちる。

「わたくしがお嬢様にアーンさせるサービスはよろしいでしょうか」

「そんなサービス初めて聞いたわっ」

 そんな冗談を交わし、足元に転がったアスタロテの左腕を見下ろす。

「逃げられたのね!?」

 瞳孔が開いたアリスはロザリーを一瞥し、興奮する呼吸を整える。

「申し訳ございません」

「ルイを追うわよ」

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