第5話 線路症候群についての話

5.

 ひとつ、定番の都市伝説がある。

 線路症候群についての話だ。

 線路症候群を患って、症状が深刻化した子供が、ある日突然線路に関心を失うことがある。

 他に打ち込むことを見つけ忙しくなった、というのが一番の理由だ。

 他にも様々なものがあるが、「そんなことを考えてもしょうがない」と本人が納得することで解決する。

 しかしこれが、子供の精神に人為的に加えられているのではないかという説がある。

 線路症候群の治る見込みがない子供を、秘密の地下施設へ連れ込み、頭をいじくってしまうというのである。

 乱暴な話だ。

 頭をいじくられた子供は従順に町に従うようになる。何の疑問も持たないようになる。

 勿論、線路への関心はこれっぽっちも無くなる。

 まるでロボットだ。外からこの町を管理する誰かにとって、都合のいい存在となるのだ。

 これが「地下施設の都市伝説」である。

 

「あんまり見てると、地下施設に連れて行かれちゃうよ」

 天根が笑って言う。

 そのとき初めて、千葉は線路を見ていたことに気づいた。

 休日なのに、天根は制服を着ていた。

「あ、いや、見てたわけじゃない。ぼうっとしてた」

「うそ。見てたよ。美術館の裸婦像の前に居るみたいに真剣だった」

「こら、大人を、それも先生をからかうんじゃない」

 呆れ返る千葉を、天根が笑う。

「はーい。ごめんなさい。先生、今日はよろしくね」

「素直でよろしい。じゃあ、行こうか」

 駅前は休日も平日もほとんど変わりなく見える。

 違うといえば、スーツや制服が消えて、私服が増えることくらいだ。

 千葉も天根も、休日にそぐわずスーツと制服だった。

 定期券を通して列車に乗る。

 列車内は、二人の大人が容易にすれ違える幅がある。

 通路に沿って並ぶ座席の、小豆色のカバーが褪せていた。

 八人掛けが二対と、両端にそれぞれ二人がけが一対ずつ。

 二人は二人掛けに座る。

 途端に密着する肩が、千葉には気恥ずかしく思えて居心地が悪かった。

 列車の白い壁は日に焼けて黄味がかっている。車内は微かに鉄の匂いがした。

 ドアが自動的に閉じて、車体が動き出す。

 慣性が働いて、天根の肩がより千葉に押し付けられた。

「お墓参り、したことある?」

 姿勢を整えなおした天根が問う。

「あるよ」

「誰の?」

「父方の祖父。俺が幼い頃には、もう亡くなってた」

「どんな人?」

「分からない。駅員をしていたらしい。厳しかったって、親父は言ってた」

「ふぅん。先生も、ついでにお墓参りする?」

「いや、俺は、いいよ。毎年、家族でしてるし、祖母が頻繁に見に行くから」

「そっか。幸せだね、おじいちゃん」

「……そうだな」

 乗車率も平日より低い。

 いつもより音の通る列車の中で、二人は声を落として言葉を交わす。

 録音のアナウンスが次の停車駅は図書館前だと告げた。

「次だ」

「うん。私、お墓参りって初めて」

「家族では、まだ?」

「うん。お姉ちゃんが、やっと元気になったばかりだから、まだ」

「そうだよな。……降りるぞ」

 図書館前駅でほとんどの乗客が下車した。

 降りてすぐに赤いレンガ造りの図書館が見える。

 上に三階、地下に二階の規模がある。町の中では一番広い建物で、様々な業務を兼ねていた。

 図書館には墓地の役割もある。

 受付に尋ね、墓守司書を呼ぶ。地下は全て墓地で、墓守司書の案内なしには入れない。

 司書は他の職員とは違い黒いエプロンを掛けている。四十代ほどの、清潔感のある男性だった。

 エレベーターで地下に降り、該当の本を書見台に開く。

 部屋はかびの匂いがした。深緑の絨毯からも、本棚にびっしりと詰まる墓碑目録からも。

 天根結実の墓はすぐに見つかった。

 後ろから数えたほうが早い、真新しいページに載っていた。

「ごゆっくり」

 司書が身を引き、書見台へ天根が歩み寄る。

 書見台の前には腰掛が用意されているが、天根は立ったままでいた。

「……ゆみ」

 育たなかった姪の名を呼ぶ。

 天根結実のページには、遺影と、その生涯がほんの二行だけ記されている。

 今年の十月三日に生まれ、十月六日に亡くなった。その、たった二行。

 遺影は生まれて初めて撮った生涯最後の写真かもしれない。

 墓碑目録には、天寿を全うすれば、学歴、職歴、結婚や子を儲けたことなど、人生の概略が記述される。

 こんなに白いページを見たのははじめてだった。

 天根はページに手を触れて、姪の姿を見つめていた。

 生まれたばかりの赤ん坊だ。千葉の目にはただ「赤ん坊」とだけ映る。

 そこに個性は見て取れない。特別な感情も湧かない。

 つい先日の葬式で見送った赤子との区別もつかないくらいだ。

 次のページか、またその次のページか。

 おそらく、天根結実と同じように、写真と名前とそっけない二行の記述だけのページがあるのだろう。

 開かれる前に閉ざされた未来の残骸だ。

「……もう、いいよ。ありがとう、先生」

「いいのか?」

「うん。いいの」

 司書を呼び、本を返す。

 地上へ戻り、図書館の庭を歩く。休憩用のベンチと自販機が並んで立っている。。

「先生、今日は付き合ってくれてありがとう。これ、お礼」

 天根は自販機で紙パックのコーヒーを買って、千葉に差し出した。加糖だ。

「いいよ、払うよ。九十円」

「いいのに」

「そういうわけにもいかないだろ」

「ちぇ、先生、生真面目」

「先生だからな。天根は最近不真面目だな、授業中も居眠りばっかりで」

「ごめんなさい。ちょっと夜更かし」

「まだ悩んでるんじゃないだろうな」

「ううん、この前のですっきりしちゃった。あの時は、ありがとう」

 千葉は小銭入れから五十円玉一枚と、十円玉を四枚、きっちり取り出して天根に渡した。

 ベンチに並んで腰掛ける。

「お墓参り、来られて良かった」

「また、今度は家族と来れば良い」

「うん……」

 紙パックのミルクティーにストローを刺して、沈黙の口実のように唇をつける。

 千葉も封を開けた。

 沈黙に身を任せる。

 せっかくの休日を、生徒との外出に割くなんて、思いもしなかった。

 普段なら部屋を片付けてぼんやりするだけの一日だ。

 今まで教え子と出かけたことなんて一度もない。

 天根を特別扱いしているだろうか。千葉は自問する。

 天根ほど積極的に接してくる生徒は過去に居なかった。

 今まで、生徒を南瓜や人参だと思っていたのかもしれない。

 そこには個性など存在せず、だから個人的な係わり合いなんて生まれようもない。

 実際にこの間まで、天根の名前と顔も一致していなかったのだ。

 大体、生徒のほうだって教師を同じように思っているに違いない。

 同じことの繰り返しに気づくと嫌気が差すくせに、いつもと違うことが起きると落ち着かなくて仕方がない。

「ねえ、先生」

 物思いから引き戻されると、天根の笑顔がそこにある。

「先生に、秘密の話」

「なんだよ、一体」

「あのね。いいこと思いついたの。明日の朝、中央駅に来て。まだ夜が明けきらない、暗いとき。

 時間は、四時四十五分に間に合わせたいから、じゃあ、四時半ね」

「天根?」

「四時四十五分って、何の時間かわかる?」

 小さな子供が教わったばかりの知識を披露する調子だった。

 天根は言った。

「線路を見張る駅員が、交代する時間」

 それで全てを把握して、千葉は深く息を吸い込む。

「天根。よく考えてみろ」

 線路を辿って外へ行こう、と天根は言うのだ。

 そんな単純なこと、誰かが実行しないわけがない。

 なのに、この町は未だ線路に囚われている。

 何故か。

 成功しないからだ。

「ほぼ轢死体になるか、諦めて引き返すかだ」

「でも、私、試したい。今まで出来なかったことでも、次なら出来るかもしれないじゃない」

「百パーセント無理だ」

「百人やって、百人が無理って意味でしょ。なら、私が百一人目かもしれない」

「屁理屈をこねるな。それは、絶対にやっちゃいけないことなんだ。超えちゃいけない一線だ。――地下施設送りだ」

「地下施設なんて都市伝説だよ」

「天根。真面目に聞いてくれ。実現なんかしない。成功なんか絶対しない。この町が不可解で不自然なのも分かる。

 比べる対象がないのに、そう感じているんだ。もし他の、正常な町と比べられたら、異世界みたいに違うだろうな。

 俺だって不思議に思ったし、納得がいかなかった。

 だけどな、天根ももう少し経てば、理解できる。きっと、落ち着く。

 そうしたらもう、線路のことなんか気にならなくなるし、もっと現実的な問題と向き合わなきゃいけなくなる」

「やだ。そんなの嫌。私は今、納得いかないの。今、線路の先を知りたいの。

 先生だって、そうだったんでしょう? 今まで我慢して、目をそらしていたんでしょう?

 先生、素直になって。嘘つかないで。本当の気持ち、言ってみてよ。

 先生だって本当は、知りたくて知りたくてしょうがないくせに」

 天根は激せず、諭すように言う。まるで自分のほうが、駄々をこねている子供みたいだ、と千葉は思う。

「待ってるよ。先生」

 耳元で、天根が囁く。ミルクティーの甘い香り。千葉は身動きできず、立ち去る天根を見送ることもなかった。

 古い欲求だ。

 千葉を突き動かそうとする。

 いつか閉じ込めて鍵をかけたはずの、幼い頃の率直な疑問と違和感。

 天根の問いかけが蘇る。

 人は何故産まれるのか。――それを知るために。知るために――。

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