第6話 町は、青ざめて、非現実的に静まり返っている。
6.
町は、青ざめて、非現実的に静まり返っている。
月が信じられないくらい低い位置にあった。
約束の場所、いつか天根結実の葬式のときに出会ったベンチに、天根みらいは座っていた。
制服のままで、鞄はぱんぱんに膨れている。
「……気が済む所まで行って、帰って来るぞ」
千葉が言うと、天根はにっこり微笑んだ。夜は冷え込む。首に巻いた赤いマフラーを押さえて、天根は立ち上がる。
「じゃあ、行こっか。先生」
なんだか妙な状況だと千葉は焦る。生徒とかけおちするみたいな構図だ。安すぎて、でも笑えない。
このことが公になったら、どうなるだろう。
深夜に教え子と二人きり、どんな誤解をされても言い逃れは許されない。
「四十五分に、ほんの少し、一分ちょっと、駅は無防備になる」
「居眠り続きは、それを調べて夜更かししたせいか」
「ごめんね、先生。許して」
「補習をするよ」
「じゃあ、今がそうだね」
口調は静かだが、確かに天根は興奮していた。自分もどこか正気ではないと千葉は思う。
好奇心じゃない。生徒の保護責任者として同行するだけだ。
天根はきっとまだ、精神的に不安定な状態なのだ。
姉の娘が死んだことで、酷く傷ついている。まだ十四歳だ、無理もない。
身近に感じた死が、どれほど現実味を持って、天根に襲い掛かったのか。
これがその衝撃から身を守るための行動なのだろう。
「あと三分。集中して、先生」
そう言う天根が注意散漫だ。ほとんど手ぶらの千葉は天根の肩から鞄を外し、代わりに持ってやる。
ずっしりと重い。部屋中の衣類を詰め込んで来たみたいに。
物陰に潜みながら、その瞬間を待った。
見張り部屋とも言える宿直室の窓は開いている。
時計をしきりに確認する駅員の姿が、やがてどこかからの連絡を受ける。交代の駅員だろう。
四十四分。駅員が立ち上がる。無防備な一瞬。
四十四分三十二秒、二人は息を殺して走る。無人の改札を越え、ホームに出て、線路に跳び下りる。
「あはっ」
天根がこらえきれずに笑い声を上げた。四十五分十二秒。
靴が踏む線路の感触が想像よりも硬い。
いつもこの上を移動するくせに、直接踏むのは初めてで、千葉は妙な感慨を抱く。
進むべき方向を見据えると、怖くなるくらい遠くまで見渡せた。
消失点のあの向こうに、天根の求める世界がある。
無心に、走った。気づけば手を繋いでいた。天根の体温は高い。もしかしたら千葉も。
駅員の目を上手くかいくぐって、二人は線路の上を走っていく。
町が遠ざかるにつれ罪悪感が募り、吐き気すら抱く千葉に対し、天根はどこまでものびのびとしている。
翼を取り戻した天使みたいに軽やかだ。
手を広げて風を受けながら、走っている。
追いかけるのが精一杯だ。きんと冷えた空気が汗ばむ体に心地よい。
天根はもどかしそうに、首に巻いていたマフラーを脱ぎ捨てた。
風にさらわれ、飛び上がる。
薄青く澄み渡る空に、真っ赤な色がひらめいて、強烈な印象を残す。
自由だ。
世界は、果てしなく広い。
視界は開け、道は伸びた。
線路に囲まれた町は遠く背にある。
あの町を捨てるのだ。
新しい世界へ足を踏み入れる。
線路の先の町へ行く。
二人で、この手を離さないで、ずっと、走って。
開放的な心地が感覚を麻痺させる。どこまで走って行けるだろう。
段々日が昇り行く。新しい町など見えてこない。
逃亡者を晒すための日差しが強くなる。天根の黒い髪が光を反射して輝いた。
白い肌が、上気して赤く染まっている。歓喜の色。
少女はただ前を目指している。
二人の体の距離が、遠くなる。繋いでいた手が、するりと解ける。追いつけない。
千葉は気が遠くなる心地がした。
限界だった。
膝をついて、体を折って、地面に吐いた。
先を走った天根が振り返る。駆け戻ってきて、千葉の体に触れる。
驚いて、咄嗟に手を引いて、呟いた。
「冷たい」
血の気が引いて寒気に襲われ、千葉の視界がぐるぐると回り始める。苦しい。胃がねじ切れる。
天根が心配そに覗き込む、それすらも紗幕の向こうの光景だった。
呼吸の仕方を忘れたように無様に息を吸う。脂汗が噴出し体がべたつくのに、震えるほどに寒かった。
心臓が破裂しそうなほどの膨張と縮小を繰り返す。まるで禁忌を破った天罰だ。
やはり出過ぎた真似だった。町を出るなど。線路を越えるなど。許されないことだったのだ。
線路が振動を伝え始めた。向こうから列車がやってくる。
憤怒を乗せて汽笛が響く。重たい車輪の回転音が、速度を落としながら近寄ってくる。
ライトに照らされて、二人は動けずにいた。
耳障りな金属音を響かせて列車が停まる。
人の降りる気配、近づいてくる鈍い足音。
絶望の目をした天根が視界に捉えたのは、防護服を着て一部の隙もなく肌を隠した宇宙飛行士めいた姿だった。
今更逃げ出しても遅い。防護服の何者かに取り押さえられる。
「嫌だ! 離して。やだぁっ!」
天根は暴れた。千葉は薄れ行く意識の端に、その光景を見た。
天根が数人がかりで取り押さえられている。天根は抵抗を諦めない。
しかし、なにが起きたのか、急に少女の体が弛緩して、軽々と防護服の連中に担ぎ上げられてしまう。
彼女の目だけが最後まで、辿り着くはずだった線路の先を捉えて鋭く輝いていた。
混濁する意識をついに手放して、千葉は暗闇へと落ちていく。
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