第13話 魯迅とドレスコード

僧侶の条件の一つに、「身だしなみがきれい」なことが挙げられます。

哀しい哉、この不肖中島、生来、不器用かつ不注意な粗忽者で、着付けがめっぽう苦手であります。ちゃんと着たはずの僧服も、ものの十分もすれば、酔客の浴衣のごとく胸元がはだけ、目も当てられない体たらく。

見かねた同僚や後輩、果ては先輩の諸大徳までが、拙僧の着付けを手伝ってくださり、どうにかこうにか体裁をなしている次第でございまして、大変、面目ないと思う所存であります。

僧侶に限らず、おしなべて日本人というのは「人となり」と重んじます。

学生時代、服装検査と呼ばれる、半ば儀式的な取り締まりがございました。

髪型や服装はもちろん、ハンカチを携帯しているかまで検査されたものです。

生活指導の教師たちは「服装の乱れは心の乱れ」というスローガンを呪文のごとく連呼し、学園の風紀と秩序を守っておりました。身なりがだらしないことは、社会に対する一種の不敬罪であり、他人から侮られる原因になります。この傾向は先進国ほど顕著であります。ネクタイを着用していないと入れない、ドレスコードのあるレストランもあります。高野山の宿坊寺院では、朝のお勤めの際、浴衣を着用しての参加を禁止しております。


 中国の農村部での生活を懐かしく思います。福建省の緯度はちょうど沖縄くらいですので、夏になれば、気温が39度にも達します。それはそれは猛暑の極みでした。暑さのあまり、男性がズボンの裾をまくって脛を出したり、いわゆる「北京ビキニ」と呼ばれるスタイルでシャツをまくってお腹まで出して街を歩いています。夏の日盛り、風通しの良い木陰や、川が流れる橋の上で、パンツ一丁のおじいちゃんが、竹で編んだベッドにゴロンと横になり、涼んでいます。小さなお子様は「開襠袴カイダンクー」と呼ばれる、お尻丸見えの股割れパンツを穿いています。これは用が足しやすいようにデザインされています。こういった大らかさが、いかにも大陸的でした。中国人が服装に無関心かというと決してそうではありません。春節や中秋節の時など、めでたい節日には、家族や友人とそろってたくさんのご馳走をいただきます。そういった晴れの日に新しく買ったおしゃれな服に着替えて、友人とにぎやかな街をねり歩く習慣があります。「朋友旧的好ポンヨウジウダハオ衣服新的好イーフシンダハオ」(友人は古いのが良く、衣服は新しいのが良い)という言葉もあります。民族によって晴れとのかたちは様々です。ただ、中国人の方が、他人の身だしなみに関して日本人より寛容、と言えるのではないでしょうか。


代表作「阿Q正伝」で知られる小説家、魯迅(1881~1936)は、1904年9月から1906年3月まで仙台医学専門学校(現在の東北大学医学部)に留学していました。

留学中、日露戦争のドキュメンタリー映画を鑑賞する授業があり、ロシア軍の中国人スパイを日本軍が銃殺するという残酷なシーンがありました。異国で同胞が処刑される場面を目撃した魯迅の心中や如何ばかりか。言いようのない、深い悲しみと怒りに震えたに違いありません。しかし、魯迅が何よりも怒りを感じたのは、同胞を処刑した日本軍に対してではなく、同胞が処刑されているのにかかわらず、その様子をへらへら見物していた、野次馬の中国人たちに対してでした。

医者を志した魯迅でしたが、中国人に必要なのは、医学による肉体の治療ではなく、文学による精神の改造だ、と悟り、小説家になろうとその時に決心しました。

魯迅にとって、日本留学は苦い思い出ばかりなのか、というと決してそうではありません。魯迅は中国に帰国後、小説家として成功し、「藤野先生」という作品の中で日本での留学時代を回顧しています。藤野先生は、藤野厳九郎という、解剖学の先生です。言葉のハンディがある留学生の魯迅のことをとっても気にかけてくれます。この作品では、師弟二人の交流を爽やかに描いています。


「私が藤野厳九郎というものでして……」

うしろの方で数人、どッと笑うものがあった。つづいて彼は、解剖学の日本における発達の歴史を講義しはじめた。

(中略)

 うしろの方にいて笑った連中は、前学年に落第して、原級に残った学生であった。在校すでに一年になり、各種の事情に通暁していた。そして新入生に向って、それぞれの教授の来歴を説いてきかせた。それによると、この藤野先生は、服の着方が無頓着である。時にはネクタイすら忘れることがある。冬は古外套一枚で顫えている。一度など、汽車のなかで、車掌がてっきりスリと勘ちがいして、車内の旅客に用心をうながしたこともある。 彼らの話は、おそらくほんとうなのだろう。現に私は、彼がネクタイをせずに教室へ現れたのを、実際に一度見た。

 (中略)

「私の講義は、筆記できますか」と彼は尋ねた。

「少しできます」

「持ってきて見せなさい」

 私は、筆記したノートを差出した。彼は、受け取って、一、二日してから返してくれた。そして、今後毎週持ってきて見せるように、と言った。持ち帰って開いてみたとき、私はびっくりした。そして同時に、ある種の不安と感激とに襲われた。私のノートは、はじめから終りまで、全部朱筆で添削してあった。多くの抜けた箇所が書き加えてあるばかりでなく、文法の誤りまで、一々訂正してあるのだ。かくて、それは彼の担任の学課、骨学、血管学、神経学が終るまで、ずっとつづけられた。

(中略)

私が自分の師と仰ぐ人のなかで、彼はもっとも私を感激させ、私を励ましてくれたひとりである。よく私はこう考える。彼の私にたいする熱心な希望と、倦まぬ教訓とは、小にしては中国のためであり、中国に新しい医学の生れることを希望することである。大にしては学術のためであり、新しい医学の中国へ伝わることを希望することである。彼の性格は、私の眼中において、また心裡において、偉大である。彼の姓名を知る人は少いかもしれぬが。


『魯迅作品集2』所収「藤野先生」より抜粋 

 魯迅著・竹内好訳、筑摩書房1966年


おそらく藤野先生は、不真面目な学生たちから見ると、身だしなみがだらしないという理由で侮られがちな、頼りない教師なのでしょう。しかし、魯迅にとっては、たとえ身なりがどうであれ、生涯忘れ得ぬ恩師になりました。平成19年、東北大学の創立100周年を記念して、魯迅と藤野先生の胸像が仙台市内のキャンパスに設置されました。今日でも魯迅と藤野先生を慕い、その足跡をたどる人が絶えません。藤野先生の情熱と、ドレスコードにとらわれない、魯迅の大らかな心があってはじめて、この物語は生まれたのです。

 

全国各地に伝わる、お大師さまの伝説には、ある法則があります。

身なりが粗末な、旅の物乞いを冷遇すると、実はこの物乞いこそがお大師さまで、もれなく仏罰が下ります。しかし逆に親切にすると、井戸水が湧いたり、

作物が一年に二度も獲れるようになったり、なんらかの福をもたらします。

お大師さまは、遣唐船に乗って中国へ向かう途中、台風に見舞われました。海上を34日間も漂流し、ようやく福建省の赤岸鎮に漂着しましたが、身分を証明する文書を紛失していました。長い船旅で身なりも乱れていたのでしょう、

中国の官吏にあろうことか海賊だと見なされ、一行は入国が許可されませんでした。その後、文才が豊かな、お大師さまの書いた手紙によって信用を得て、なんとか入国が許されます。お大師さまの伝説に「人は身なりで判断してはいかんぞ」、という教訓を含む話が多いのも、ご自身の苦い経験があればこそなのかもしれません。

時代劇の「水戸黄門」、「遠山の金さん」など、「見かけによらず、実は、やんごとなき貴人」という設定は、日本人好みの、物語の王道になっています。

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