第12話 坊さんが屁をこいたとしても。
日本語の「きれい」という言葉は、じつに多様な意味を持っていて、「衛生的で清潔」という意味や、見た目や音が「美しい」という意味、「きちんと整然としている」という意味、「やましい点の無い潔白」という意味など、実に多様です。日本語の「汚い」も同様です。賄賂で不正に得たお金は「汚いお金」ですが、そのお金が、臭くて不衛生なお金というわけではありません。
もう15年以上も前、私が高野山真言宗の僧侶になるべく、道場で多くの
私が小学校のころ、学校の男子トイレには清潔な和式トイレが完備されておりました。しかし不思議なことに、誰もそこで用を足そうとはしませんでした。なぜかと言えば、学校で大便をしたことが発覚するやいなや、「ウンコマン」のレッテルを貼られ、まるで罪人のように扱われ、周囲から謂われの無い迫害を受けるという、ある種の魔女狩りが横行していたからです。「ウンコマン」は周囲から、いわゆる「エンガチョ」をされて疎外されるだけでなく、「ウンコマン」に触れた者も、不浄な菌に感染したと見なされ、鬼ごっこのようにタッチして不浄な菌をなすりつけあうという、実に心ない、幼稚かつ残酷な遊びが繰り広げられたものです。団塊ジュニア世代と呼ばれる、私と同世代の多くの方が、おそらく似たような魔女狩りを経験していることと思います。大人になった今となっては、馬鹿馬鹿しい笑い話ですが、排泄を身の
以前、まだインフラが整ってないころの中国に旅行した日本人は、中国のトイレに強烈なカルチャーギャップを受け、必ずといっていいほど笑い話にしてきました。仕切りが無い、いわゆるニイハオトイレ、一本の溝があるだけで、前の人のお尻が丸見えのトイレ、流すと詰まるので、お尻を拭いたちり紙を入れるゴミ箱。こういった物が往々にして笑いの種になってきました。
日本語に「百日の法話、屁一つ」ということわざがあります。
どんなにありがたい法話をたくさん聞かせたところで、僧侶が一発のオナラをもらしてしまったら、その途端に説得力が無くなり、台無しになってしまうという喩え話です。日本人は排泄を極端にタブー視することで、強迫的な衛生観念を持ち、世界でも例を見ないほど、きれいな環境づくりに成功しました。中国から帰ってきますと、日本はびっくりするほど衛生的です。街頭にはゴミひとつ落ちていませんし、「目が良くなったのかな」と思うほど空気と視界が澄んでいます。トイレで用を済ませば、ウォシュレットでお尻まで洗浄してくれます。電車のつり皮など、あちこちに抗菌加工がされています。日本は衛生的で快適な環境がいたるところに整っております。しかし、その代償として、学校で大便が出来ない子供や、環境が衛生的すぎて免疫機能が低下し、花粉症やアトピーなどのアレルギーに苦しむ人が、この国では後を絶ちません。
海外の空港で、日本人はすぐに見分けがつきます。マスクをつけている神経質そうな東洋人は、だいたい日本人です。日本人は、行儀が良いのですが、なんだか無機質な雰囲気で、まるで無菌室で育ったような、ある種のひ弱さを感じる時があります。それに対し、深刻な環境汚染や食品の安全問題のまっただ中で、野放図に生きる中国人たちは、とても活きが良く、なんというか、命そのものが持つたくましさと生々しさを感じます。
中国、福建省
学校にあるトイレは一本の溝があるだけの、仕切りの無いぼっとん便所です。教師も生徒も、同じトイレで用を足しますが、教師の威厳はいささかも揺るぎません。子供たちは、なんのアレルギーもなく、いつも元気いっぱいに飛び跳ねています。健全なケンカこそあれど、いわゆるイジメなどありません。健康を損なうほど衛生的な日本で暮らす子供たちを思い、人の幸せとは一体何なのかを考えさせられました。
オナラ一発で説得力を失い、台無しになる法話というのは、逆に言うと、所詮その程度のヤワな法話に過ぎなかった、ということです。人前でオナラをもらさないマナーは当然大事ですが、オナラ程度ではビクともしない説得力ある法話を、
我々僧侶は心がけたいものです。
合掌
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