第12話 坊さんが屁をこいたとしても。

日本語の「きれい」という言葉は、じつに多様な意味を持っていて、「衛生的で清潔」という意味や、見た目や音が「美しい」という意味、「きちんと整然としている」という意味、「やましい点の無い潔白」という意味など、実に多様です。日本語の「汚い」も同様です。賄賂で不正に得たお金は「汚いお金」ですが、そのお金が、臭くて不衛生なお金というわけではありません。


もう15年以上も前、私が高野山真言宗の僧侶になるべく、道場で多くの行者ぎょうじゃたちと修行生活を送っていました。寒い寒い真冬のこと、室温がマイナス10度以下、聖水の入った器を散杖さんじょうという杖でかき混ぜると、あっという間に水がシャーベットになってしまうような極寒の世界です。修行も終盤に入ると、一回の行に何時間もかかります。行者といえども、やはり人間。行をしている時も、生理現象でどうしてもトイレに行きたくなってしまう時もあります。その際、用を足した後、身を浄めるために真水での沐浴が義務づけられていました。高野山真言宗の僧侶の常識として、トイレで用を足す場合は、上着にあたる黒い衣を脱いで、念珠を外して、下着に相当する白衣のみで入ります。真言宗の常用経典の「理趣経」では、ありとあらゆる人の営みを、清浄な菩薩の境地であると説き、肯定しています。しかしたとえ密教の世界であっても、排泄行為は不浄な行為と見なされているようです。「大小便は不浄」とする俗世の常識から乖離できていない密教を、私は少なからず残念に思いました。インドのガンジス川のように、死体も大小便も、全ての汚穢おわいをダイナミックに飲み込む度量が、密教にもあっていいはずです。密教僧がまとう黄土色の如法衣は、本来、糞掃衣ふんぞうえと呼ばれる、最も不潔で粗末なぼろ布を使用していたはずです。たとえ不潔であっても決して不浄ではなく、神聖なものであったのです。


私が小学校のころ、学校の男子トイレには清潔な和式トイレが完備されておりました。しかし不思議なことに、誰もそこで用を足そうとはしませんでした。なぜかと言えば、学校で大便をしたことが発覚するやいなや、「ウンコマン」のレッテルを貼られ、まるで罪人のように扱われ、周囲から謂われの無い迫害を受けるという、ある種の魔女狩りが横行していたからです。「ウンコマン」は周囲から、いわゆる「エンガチョ」をされて疎外されるだけでなく、「ウンコマン」に触れた者も、不浄な菌に感染したと見なされ、鬼ごっこのようにタッチして不浄な菌をなすりつけあうという、実に心ない、幼稚かつ残酷な遊びが繰り広げられたものです。団塊ジュニア世代と呼ばれる、私と同世代の多くの方が、おそらく似たような魔女狩りを経験していることと思います。大人になった今となっては、馬鹿馬鹿しい笑い話ですが、排泄を身のけがれとするという強迫的衛生観念は日本人特有の、どこか本能という気すらします。無邪気な子供のする遊びだからこそ、なおさらそう思うのです。人の排泄を嘲り、「不浄な者」をでっちあげる、そんなヒステリックな衛生観念が、イジメや日本特有の人権問題につながっているような気がしてなりません。


以前、まだインフラが整ってないころの中国に旅行した日本人は、中国のトイレに強烈なカルチャーギャップを受け、必ずといっていいほど笑い話にしてきました。仕切りが無い、いわゆるニイハオトイレ、一本の溝があるだけで、前の人のお尻が丸見えのトイレ、流すと詰まるので、お尻を拭いたちり紙を入れるゴミ箱。こういった物が往々にして笑いの種になってきました。


日本語に「百日の法話、屁一つ」ということわざがあります。

どんなにありがたい法話をたくさん聞かせたところで、僧侶が一発のオナラをもらしてしまったら、その途端に説得力が無くなり、台無しになってしまうという喩え話です。日本人は排泄を極端にタブー視することで、強迫的な衛生観念を持ち、世界でも例を見ないほど、きれいな環境づくりに成功しました。中国から帰ってきますと、日本はびっくりするほど衛生的です。街頭にはゴミひとつ落ちていませんし、「目が良くなったのかな」と思うほど空気と視界が澄んでいます。トイレで用を済ませば、ウォシュレットでお尻まで洗浄してくれます。電車のつり皮など、あちこちに抗菌加工がされています。日本は衛生的で快適な環境がいたるところに整っております。しかし、その代償として、学校で大便が出来ない子供や、環境が衛生的すぎて免疫機能が低下し、花粉症やアトピーなどのアレルギーに苦しむ人が、この国では後を絶ちません。

海外の空港で、日本人はすぐに見分けがつきます。マスクをつけている神経質そうな東洋人は、だいたい日本人です。日本人は、行儀が良いのですが、なんだか無機質な雰囲気で、まるで無菌室で育ったような、ある種のひ弱さを感じる時があります。それに対し、深刻な環境汚染や食品の安全問題のまっただ中で、野放図に生きる中国人たちは、とても活きが良く、なんというか、命そのものが持つたくましさと生々しさを感じます。


中国、福建省霞浦県かほけん。1200有余年前、弘法大師空海の遣唐船が漂着した村には、

赤岸鎮せきがんちん小学校という、小さな農村の小学校があります。


学校にあるトイレは一本の溝があるだけの、仕切りの無いぼっとん便所です。教師も生徒も、同じトイレで用を足しますが、教師の威厳はいささかも揺るぎません。子供たちは、なんのアレルギーもなく、いつも元気いっぱいに飛び跳ねています。健全なケンカこそあれど、いわゆるイジメなどありません。健康を損なうほど衛生的な日本で暮らす子供たちを思い、人の幸せとは一体何なのかを考えさせられました。


オナラ一発で説得力を失い、台無しになる法話というのは、逆に言うと、所詮その程度のヤワな法話に過ぎなかった、ということです。人前でオナラをもらさないマナーは当然大事ですが、オナラ程度ではビクともしない説得力ある法話を、

我々僧侶は心がけたいものです。


                 合掌


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