俺、勇者なのに最終決戦の場で魔王に好きって告られた

いなばー

最終決戦の場で……

 氷山を穿って造られた純白の城。

 霊獣の毛皮の効果で冷気の大半は遮断しているはずだが、剣を握る勇者マクシミリアンの手はずっとかじかんでいた。


「さすが北辺、といったところでしょうか……」


 清廉な僧侶が白い息を吐く。


「やっぱり夏にすべきだったんだ、マクシム」


 己の術に絶対の自信を持つ魔法使いが吐き捨てた。

 寡黙な戦士はただ歩を進める。


「冬の今なら魔物の活動も鈍る。新月の今日なら尚のことだ。魔王をひと突きにするには今しかない。何度も言っただろ、ジョー?」


 勇者が後ろを歩く、不平面の仲間に顔を向けた。

 敵の姿が少ないのも、魔法使いの不満のひとつかもしれない。

 最近では、手応えを感じるほどの敵には滅多にお目にかかれなかった。

 敵が弱くなっているからではなく、彼らが強くなっていたからだ。

 前を行く戦士が足を止める。

 目の前に人の背丈の三倍はある大きな扉が立ち塞がっていた。


「すさまじい魔力を感じます。きっと、この扉の向こうに……」


 いつもどおり静かに語る僧侶だが、その声からは緊張が隠しきれない。


「俺たちは今日ここに来るために、数限りない苦難を乗り越えてきた。宿願を果たすときだ」


 勇者の言葉に、他の三人が力強くうなずいた。

 と、目の前の扉が音を立てて奥の方へと開いていく。

 一斉に戦闘態勢を取る勇者たち。

 注意深くうかがうと、扉の奥は広い空間になっていた。

 多分、大広間なのだろうと勇者は当たりを付ける。

 全員に声をかけ、一歩ずつ中に踏み込んでいく。

 正面の壁際には、壁と同じく純白の大きな椅子が据えてあった。

 そこに、黒いローブとフードで身を覆い隠した人影が、腰を下ろしている……。

 思っていたよりずっと小さい。まず、勇者はそう思った。


『よく来たな、野蛮なる種族の尖兵ども』


 その声は、耳ではなく頭に直接響いてくる。

 勇者の隣にいる魔法使いが顔をしかめた。


「人に災厄をもたらす魔王。その命、もらい受ける!」


 勇者は一人前に出て、漆黒の魔王と正面から向かい合った。


『勇者マクシミリアン……。貴様には、最初に言っておくことがある』

「聞く必要はない」


 後ろから魔法使いが言ったが、勇者は首を横に振る。


「いいだろう。こっちは長旅で疲れてるんだ、手短に頼むぜ」


 魔王がゆっくりと立ち上がった。

 全員に緊張が走る。


『勇者マクシミリアン』

「……なんだ?」

『……好きです』

「ん?」


 魔王は勢いよくフードを脱ぐと、大きく息を吸い込んで、届け思いの丈とばかりに大音声を吐き出した。


「貴様のことが、好きなんでぇぇぇっす!」


 叫ぶだけ叫んで満足げな顔をしているのは、金髪の、くりっとした碧眼がかわいらしい、どう見てもただの女の子だった――




 勇者は敵前で不覚にも後ろを向いてしまった。

 事態を全く把握できなかったからだ。

 しかしそれは仲間も同じらしく、全員首を傾げている。

 誰も助言をくれないので、仕方なくまた前を向く。

 人間でなら十代半ばくらいの女の子は、喜色満面といった表情で勇者を見ていた。


「マックンだぁ……ホンモノのマックンだぁ……」


 これは幻術か何かだろうか?

 勇者は女の子に剣の切っ先を向けている自分に強い違和感をおぼえてしまう。

 しかし、今はまだ警戒を解くわけにはいかない。


「あの、あんたは魔王じゃないのか?」

「そうじゃ、魔王だ。魔王フェリシアとはわれのことじゃ!」


 両手を腰に当てて胸を反らせてみせる。エッヘンという奴だ。


「でも、今は普通に喋ってるよな? 最初の厳かな声とは似ても似つかない……」


 かわいい声だ。


「最初は念で送った作り声じゃ。ああいう太い声でないと、魔物どもは言うことを聞かん。それに……」

「それに?」

「いきなり素顔は、恥ずかしかったんじゃっ!」


 身をよじらせ、この厳寒の中、頬を赤らめる。


「そうか……恥ずかしかったんだ……」

「で……マックン。我の告白……聞いてくれた?」

「いやまぁ、あんなに大きな声で叫ばれたらなぁ」

「ホント? やった! マック~~~ン!」


 いきなり魔王が猛烈な速さで突進してきた。

 慌てて剣を持ち直す勇者だが、そのはるか手前で魔王はローブの裾を踏んですっ転んでしまう。


「うぎゃっ!」

「お、おい、大丈夫かよ」


 思わず駆け寄る勇者。


「うう……痛いぃ……」


 顔を上げた魔王は鼻水を垂らした情けない顔をしている。

 勇者が魔王まで後三歩というところで、突如閃光が床を砕いて二人の間を遮った。


「危ねぇだろ、ジョー!」


 雷撃を放った魔法使いを怒鳴りつけるが、向こうはさらに大きな声で言い返してくる。


「馬鹿! 危ないのは向こうだろ! そいつは魔王だぞ? 見た目がそんなんでも、今まで何千万人も虐殺してきた悪の根源なんだ!」

「そうか……そうだ! よくもたぶらかそうとしたな、魔王!」


 魔王から素早く間合いを取る勇者。

 ゆっくりと、魔王が立ち上がる。顔は下に向けていた。


「確かに我は人間どもに酷いことをしてきた。我には我の理屈があるが、それは人間どもには通じないと知っておる。我を恨むのは仕方なかろうな……」

「そうよ! 私がいた大聖堂も、焼き払われてしまった!」


 普段は穏やかな僧侶が厳しく声を出す。


「じゃがな……、我は知ってしまったのじゃ。愛って……奴を……」


 顔を上げた魔王が、勇者に熱い視線を向けてきた。

 愛? 魔王が愛? 何を言っているのか、勇者にはまったく分からない。


「マクシムを好きになったから、改心したとでも言うのか?」


 後ろにいる魔法使いが声を張り上げる。

 その声に対して、魔王は深くうなずいた。


「その通り。我の命を狙う勇者どもがいるという話を聞き、我は千里眼でその不埒者を観察することにしたのじゃ。暇だったし」


 魔王は魔法使いにではなく、勇者の方に語りかけている。


「最初は憎々しく思っていたのじゃが……、そのうち、そいつを見ているだけで楽しくなってきた。戦う時の真剣な表情。勝利を収めた後のさわやかな笑顔。食事をする時のうれしそうな顔。そして、かわいらしい寝顔」


 その光景を思い出しているのか、魔王が楽しそうに微笑む。


「ちょっと待て」


 声を出したのは戦士だった。


「なんじゃ、人間?」

「俺たちが戦ってきた相手はお前の子分だぞ? お前は、自分の子分が倒されるのを見ながら、ニヤニヤしてたのか?」

「まぁ、そうじゃ」


 こくりとうなずく魔王。


「え? それっておかしくないですか? 同胞ですよ? 同胞が倒されたのに?」


 僧侶が戸惑いの混じった声で問いかける。


「我にしてみれば、我以外の全てはどうでもいいものなんじゃ。魔物なんぞに心を痛める我ではない」


 鼻で笑ってみせた。


「なんて冷酷……。さすがは魔王……」


 僧侶が小さく呟く。


「そんな我に、とっても大切な存在ができました! マックン、貴様のことでっす!」


 勇者に向かって片目を閉じてみせる。

 その仕草はかわいらしいが、彼女はあくまで魔王だ。

 倒すはずの相手に惚れられていたなどという、想像だにしていなかった事態に勇者はひたすら混乱した。


「解せない。まったくもって、解せない」


 勇者が魔法使いの方を見ると、腕組みなんてしながら激しく頭を振っている。


「なんじゃ、人間。人の愛にケチを付けるな」

「いやいや、百万歩譲って、魔王が人間を好きになったとしよう。だがな、その相手がマクシムというのはあり得ない。だって、マクシムだぞ?」

「うん、そうだな。マクシムを好きになる女などいるわけがない。だな?」

「そう……ですねぇ……言いたくは……ないですけど……」


 勇者の仲間であるはずの三人が、揃って沈痛な面持ちになってしまった。


「え? なんで? 格好いいじゃろ、マックン! リューメンの砦で、リザードマンを五十匹も斬ったんじゃぞ!」

「その時俺は、百匹か……」


 と、あごを撫でつつ戦士。


「私はもっぱら回復役でしたから。ほんの七十匹程度でした」


 と、慎ましく僧侶。


「二百はいったね」


 と、自慢げな魔法使い。


「え? え? ヴェネノヴァの港じゃ、人間同士の勢力争いを丸く収めたじゃろ!」


 わたわたしながら魔王が主張しても、三人は相変わらず暗い顔。


「ああいう、なぁなぁの解決は、後でもっと大きな問題になるんですよねぇ……」

「ま、あの場さえ切り抜けたらよかったからな。というか、情けないマクシムに向こうが同情しただけだし」

「うむ」


 勇者は何も言えなかった。まったくもって、その通りだからだ。

 魔王を見てみると、顔を赤くしてぷるぷる震えている。


「貴様らそれでも仲間か! マックンはすっごい格好いいです! 娼婦に誘われても見向きもせん!」

「ヘタレだからな」


 魔法使いが茶々を入れる。


「みんなに隠れて剣の訓練に励んどる!」

「だからヘンな癖が抜けない」


 戦士がため息。


「子供といっつも爽やかに遊んでやって!」

「程度が同じなんですよ」


 僧侶が優しく言う。


「博打はしない!」

「単に弱いんだよ」

「何でもよく食べる!」

「そして腹を壊す」

「イビキをかかない!」

「でも、寝言がうるさくて……」

「うぇぇぇぇんっ!」


 ついに天を仰いで魔王が泣き出す。


「おいおい、泣くなよ魔王」


 むしろ泣きたいのに勇者の方。

 下手なフォローは入れない方がむしろ優しいのだ。


「隙あり、魔王!」


 声を出した魔法使いの方へ顔を向けると、その頭上に巨大な白く光る玉が出現していた。

 魔法使い最大の火炎呪文だ。


「おい、ちょっとま……」

「茶番は終わりだ! 喰らえ、セイリオス!」


 勇者が止める間もなく白熱する玉が放たれる。

 やむなく勇者が飛び退いたと同時に、高熱の弾は泣き喚く魔王に命中した。

 魔法使いの放った火炎魔法セイリオスは、その桁外れの高温によって触れるもの全てを蒸発させる。

 その際には轟音などというものは響かせない。

 破壊の規模からするとあまりにも小さな音を、一度だけ鳴らす。

 勇者は確かにその音を聞いた。

 確かに目の前の硬い床は半球状にえぐられている。

 しかし、その底には、無傷の魔王が立っていた。


「あれが本当の魔王……」


 僧侶がつぶやく。

 半球の底から人間を見上げる魔王は、先程までのようなかわいらしい女の子ではない。

 屈強な戦士をさらに上回る体躯をし、禍々しく湾曲した角を持ち、全ての光を吸い込む暗黒の肌をした、ナニモノかだった。

 魔王はふわりと浮き上がると、今度は勇者たちを見下ろした。

 その目が光る。

 勇者たちにかけられていた全ての防御魔法の効力が消し飛んだ。

 あまりにも強大な魔力を前にして、勇者の背筋に寒気が走る。


『マックン以外は全員消し炭にしてやる』

「俺以外?」


 思わず聞き返す。


『そうじゃ。そこの三人は、我の大事なマックンを馬鹿にしおった。消し炭じゃ』

「大事? お前、今でも俺が……好き、なのか?」

『あ、当たり前じゃ。え? あんなに言ってるのに、まだ疑っておるのか?』

「でも、今のお前って……」

『ん? ああ、そうか』


 瞬く間もなく魔王は元の女の子の姿に戻ってしまった。

 そしてふうっと勇者の近くに降り立つ。

 もう先程のような圧迫感はない。


「こっちの方が我も落ち着くな。戦闘形態はみんな怖がるから好かないんじゃ」


 かわいらしい声で言いながら、黒いローブを着た自分の身体を見回す。

 今の魔王も先程の魔王も、どちらも同じ個体ではあるらしい。

 だとすれば? 勇者の中にある考えが芽生える。


「お前は俺が好き……なんだな?」


 魔王をじっと見ながら、勇者が念を押す。


「そ、そうじゃ。本人に面と向かって言われると恥ずかしいが」


 頬を赤らめて身をよじった。


「じゃあな、俺の言うことを聞いてくれるか?」

「うん、いいぞ。好きな男の言うことじゃ。我はなんでも言うことを聞くぞ?」


 うんうんとうなずいてくる。


「よし魔王。人間と停戦してくれ。それで全部終わりにしよう」

「え?」


 急に驚いた顔になる魔王。


「おい、ここまで来て話し合いで解決する気か?」


 勇者の横まで来て魔法使いが文句を言う。

 他の二人も勇者の側に寄ってきたので、勇者は自分の考えを説明する。


「その方がこっちも都合がいいだろ? 魔王を今ここで倒しても、残党が各地に残っちまう。それより魔王が命令して、魔物を全部引き上げさせるんだ」

「統制が取れなくなった相手を全部倒すのは至難です。魔王が言うことを聞いてくれるなら、マクシムの言うやり方の方がいいでしょう」


 僧侶が勇者に微笑みを向けた。


「俺は考えるのは苦手だ。いつもどおり、お前らに任せる」


 戦士はそれだけ言うと、口をつぐんだ。


「うーん、分かった。その方がよさそうだ」


 魔法使いもしかめっ面ながらうなずいた。


「よし、決まりだ。魔王、悪いけど、言うことを聞いてくれ」

「その代わり、二人の仲を私たちは祝福します」

「え? どういうことだ?」


 驚いた声を出す魔法使いに、僧侶は当たり前のように説明する。


「これほどマクシムのことを好いてくれる人なんて、これから先、ゼッッッタイに現われません。二人で仲睦まじく暮らすのが、マクシムにとっても幸せなのです。世界の平和のためにもそうするのが一番」

「世界平和のために、マクシムを生贄にするってわけか」

「むむ……生贄か……」


 勇者は渋面を作ってしまったが、僧侶の言うことはもっともだとすぐに気付いた。

 自分を好いてくれる人うんぬんは置いておき、魔王の首には鈴を付けておく必要がある。

 そして勇者こそ、鈴としてこれ以上ないくらい適任だ。

 鈴? 適任? それだけか?

 勇者の視界がふいに大きく拓けた。

 勇者は女性から好かれない。仲間はみんなそう言う。

 確かにその通りだが、仮に女性を惹き付けてやまないような男だったとしても、勇者は女性を遠ざけたはずだ。

 なぜならマクシミリアンは勇者だから。

 勇者という存在は、ただ魔王を倒すことだけを考えるべき。

 自分の幸せは求めず、人々が幸せを得る礎となる。

 それが、勇者たる者の使命だ。

 使命からは命が尽きるその時まで逃れられないと、勇者は思っていた。

 しかし今、使命が果たされようとしている。

 ふと顔を横にやるとかわいらしい女の子が勇者を見ていた。

 彼女は自分を好いてくれているらしい。

 手を伸ばせば届くところに、幸せがある?

 勇者は長年の戦いを経て傷だらけになった手を、新しい旅を共に行く相手に向かって差し出した。


「でもなぁ……」


 少女はそう、つぶやいた。




 なんだか困ったような顔をして、魔王は首を傾げる。


「どうした、魔王?」


 勇者が問いかけると、ぱちぱちと瞬きをしてきた。


「我を殺さなくてもいいのか?」

「ああ、倒さなくてもよさそうだ。全部が丸く収まった」


 そう、ようやく全てが終わったのだ。

 これから勇者と魔王は新しい未来へと旅発つことになる。

 こいつはヘンな奴だが、きっと愉快な時を過ごせるはず。


「でも我は、二千六百二十四万人の人間を殺しておる。今こうしている間にも、どんどん魔物は人間を殺しておるぞ? 我はその頭領じゃ」


 そう言われて勇者は絶句してしまう。

 極めて当たり前のことを、魔王は言った。


「ですけど、魔王は改心しました。改心したものまで倒すのは、かえっていけないことです」


 僧侶が魔王を教え諭す。


「そうなのか? 人間を二千六百二十四万人も殺したんだし、我も殺されるものだと思っておったぞ?」

「なんで素直に喜ばないんだ? 愛しいマックンと仲睦まじく暮らせるんだぞ?」


 魔法使いに言われると、さらに魔王は表情を歪めた。


「我は告白で満足じゃ。告白できたならもう思い残すことは何もない。潔くこの命を貴様らに差し出すつもりでいたんじゃよ。というよりも、死ぬつもりでいたから告白なんて恥ずかしいことができたんじゃ。だからのう……」


 魔王が勇者に顔を向ける。


「殺してくれんと都合が悪い。今さら生きろなどと言われても迷惑なだけじゃ。そう……贅沢を言えば、貴様に殺されたい。それが我の一番の望みじゃ」


 魔王は照れくさそうな微笑みを浮かべた。

 かつて出会った若者の笑顔が、勇者の頭をよぎる。

 とある王国の騎士だった彼は、魔物の群れから民衆を救うために自らの命を投げ捨てた。

 勇者の腕の中で息絶えたその騎士と同じ瞳が――何の迷いも穢れもない純粋な瞳が、今、目の前にある。

 勇者はふいに、初めて味わう謎めいた感覚に襲われた。

 少女を見ていると強く胸が締め付けられるのに、どうしても目を離すことができない。

 今まで話に聞くだけだった、自分は生涯関係ないだろうと思っていた感情に、勇者は囚われていた。

 ああ、なぜこんな時に出会ってしまったのだろうか。

 運命のヒトと出会えた無上の幸せは、そのまま非情の針となって身に突き刺さる。

 ほんの少し前までは、目の前にいるヤツを倒すことだけを考えて生きてきた。

 なんという恐ろしいことを!

 そんな恐ろしいことなど、今の自分にできるはずもない。


「考え直そうぜ、魔王。お前は死ななくていい。死ななくていいんだ」


 声を絞り出しながら勇者が一歩前へ出ると、魔王は一歩下がってしまう。


「今は貴様と触れ合わない方がよさそうじゃ。残念じゃ、さっき抱きつけてたらのう」


 邪気など少しも感じ取れない魔王の笑顔が、勇者の胸をときめかせ、痛めつける。


「マクシム、殺してやれ。それが奴の望みだ」


 戦士が後ろから声をかけてくるが、勇者にはうなずく勇気が沸いてこない。

 どうにかしないと……どうにか……。

 焦れば焦るほど、勇者の混乱は度を深める。

 パチン、と魔王が指を鳴らした。


「今、全ての魔物に集結命令を出した。やがてこの氷山一帯に魔物が集まる。全て殺すか、ここに封じ込めるか、好きにするがよい。どのみち、人間が魔物に煩わされることはなくなるはずじゃ」


 これで魔王を生かしておく理由はなくなった?

 そうやって自らを追い詰めながら、魔王は変わらず愛くるしい笑みを浮かべている。


「次に、マックンのこれからの幸せについてもちゃんと考えがある。その女じゃ」


 魔王が指さしたのは魔法使い。


「ジョセフィンだったか? そいつはマックンのことが気に入っておる。我ほど情熱的な好きではないが、それくらいの方が長持ちはしそうじゃ。全部が終わったら、二人で幸せに暮らすがよい。女に異存はないな?」

「分かった、後は任せろ」


 魔法使いが答える。


「そっちの僧侶が言う理屈はあくまで人間の建前だと我は知っておる。二千六百二十四万人もの人間を殺した我を、人間どもは心の中では決して許さん。我は人間どものためにも死なねばならんのじゃ」


 少しためらった後、僧侶までうなずいてしまった。


「後はマックンに殺されるだけじゃ。今の我の姿なら、マックンの剣でも我を殺せるだろう。さぁ! 殺せマックン! 殺してくれ!」


 魔王が両手を広げて笑みを向けてくる。

 まぶしい笑顔だった。

 勇者はここに来るまでの間に、多くの犠牲を踏み越えてきている。背負っているものは途方もなく大きく重く、しかし下ろすことは決して許されない。だというのに、それらはとてもちっぽけなもののように思えた。目の前の少女の笑顔こそ、何より大切なものではないか? 自分が今、高々と掲げるこの剣を振り下ろせば、この笑顔はなくなってしまう。これほど屈託のない笑みを見せる存在が、悪なわけがなかった。二千六百二十四万人の人間を殺したと彼女は言うが、きっと何か行き違いがあったのだ。今、自分は殺さずに済む相手を殺そうとしている。今、ようやく出会えた手放してはならないものを、手放そうとしている。今、ここで止めないと、全ての取り返しが付かなくなってしまう。早く! 止めないと!




 勇者が振り下ろした剣は、魔王の左肩に食い込むと、そのまま右脇腹まで切り裂いた。




 剣が床にぶち当たり、高い音を鳴らす。

 すぐにマクシムは剣を放り出し、足元の少女を抱き上げた。


「これでいい、マックン……」


 少女が残った右手でマクシムの左目を拭う。

 そうされてマクシムはようやく自分が泣いていると気付いた。

 幾多の修羅場を経た今でも涙を流せるとは。


「馬鹿……お前は馬鹿だ……」


 傷口からは血の代わりに瘴気が漏れ出る。

 みるみるうちに少女は衰弱していく。


「なぁ、最期の願いを聞いてくれるか? 名前で、呼んで欲しいんじゃ。貴様がそう呼んでくれたなら、我も女の子になれる、気がする……。フェリス……そう、呼んでくれ……」

「フェリス、フェリス。先に行っててくれ。後から絶対に追いかける」

「ふふ、今度見つけた時は、絶対に手放さないからね。覚悟、してちょうだい?」

「うんうん、その時は一緒に過ごそう。きっと楽しいぞ。なぁ、フェリス」

「ねぇ、マックン。もう私を見ないで。ここから先、哀れな魔族の醜い最期を見られたくないの……」

「ああ、分かった、フェリス。また逢おうな」


 マクシムはフェリスに顔を近づけ、そのサクランボウのように赤く艶やかな唇に、自分のひび割れた唇を甘く重ねる。

 すぐに起き上がったマクシムは、フェリスに背を向けた。


「ああ……いいのだろうか……いいのだろうか……悪の限りを尽くした私が……二千六百二十四万人の人間を殺した私が……こんな、幸せな最期を迎えて……本当に……」


 そこでフェリスの言葉は途絶えた。


「もういいですよ」


 僧侶の言葉に勇者が振り返ると、磨いたような白い床の上に、黒い染みが二つ、広がっている。

 勇者はただ呆然と、突っ立つことしかできなかった。


「よく見て下さい、マクシム。染みのところどころにきらりと光る粒子がありますね? これを今から集めます」


 僧侶が聖なる祈りの言葉を唱えると、染みを包みこむように温かな場が出現する。

 染みに含まれるきらきらが浮上し、場の中央辺りに集まり始めた。


「本来であれば、何十年とかかるのかもしれません。ですが、今回は私がお節介をします」


 きらきらの集まりは直視していられないほどの光を放つが、マクシムは決して目を逸らさない。

 そのまばゆい光が、ふわりと彼の方へ飛んできた。

 掌を上にして受け止めると、マクシムの見ている前ですっと輝きが収まり――


「涙のお別れをした直後にこうして再会するとは、なんだかバツが悪いのう」


 掌の上に立つ、小さな小さなフェリスが微笑んできた。


「魔王の中に生まれた貴方への純粋な想い。それが暗黒の瘴気を変質させたのです。罪深い魔王は死にました。そのフェアリー・フェリスは、貴方への愛だけでできた新しい命です」


 僧侶の説明はマクシムの頭には入ってこない。

 ただ、目の前の奇跡に震えていた。


「我は言ったぞ、今度捕まえたら絶対に手離さぬと」

「ああ、これからはずっと一緒にすごそう、フェリス。きっと楽しいぞ」


 今、マクシムの胸を満たしているのは幸せという奴。

 自分には縁がないと思っていた幸せを、こうして手に入れることができた。


「私の存在は完全に無視されてるわけだ?」


 声がした方を見ると、魔法使いが腕組みをして口を尖らせている。


「おう、貴様には悪いことをしたな。想いを暴露した挙げ句、余計な期待だけをさせてしもうた」

「けっ! 想いなんて女々しいものじゃないけどね。あんたたち、これから幸せ一杯の生活が待っている気でいるけど、そううまくいくかな?」

「大丈夫。いざとなったら助けてくれる仲間もいるしな」


 勇者が同志たる魔法使い、僧侶、戦士を見回すと、三人とも温かく微笑んでうなずいてくれた。


「では、新居を探すぞ、マクシム。ここは飽きたから南国がいい」


 フェリスがマクシムの肩に止まって言ってくる。


「いや、その前に王への報告がある」

「祝典があるでしょうね。盛大な」

「もしかすると、家臣に取り立てられるかもな。宮仕えだ」

「そんなことになれば俺は逃げ出すが、勇者たるマクシムはそうはいくまい」


 言われてみるとその通り。

 平和に二人で暮らすなんて、随分先のことになりそうだ。


「ええ! そんな面倒なのはイヤじゃぞ? マックン逃げよう! 逃避行じゃ!」


 マクシムの耳をフェリスが引っ張る。

 幸せを掴んだ途端、いろいろと欲が出てきたようだ。


「そうはいかない。王には俺を取り立ててくれた恩があるんだからな」

「ぶ~、融通が利かんのう。でも、そういうとこも好きじゃっ!」


 フェリスはぴょんと跳ぶと、マクシムの頬に愛のこもったキスをした――

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