黄金の林檎をその手に

道草屋

お空に架かるあの虹は、蛇の象徴なんだって

この空を支えているのは、一人の男らしい。

息子の寝物語に読んで聞かせた星座の本にはそう書いてあった。


名前は忘れた。ギリシャかどこかの神話に出てきたのは、神様だったか、巨人だったか。

とにかく女でなかったことは確かだ。


そして、その某男を訪ねた者がいた。

かの有名なヘラクレスだ。


彼はなんとかという蛇が守っている黄金の林檎を探していた。


林檎の在処を知っている某男は「しばらくの間自分の役目を代わってくれるのなら、取って来てやろう」と持ち掛けた。


ヘラクレスは了承し、某男の代わりに空を支えることとなった。

某男は見張りの蛇が寝ている隙に林檎を盗み、ヘラクレスに渡した―――。


「空を支えるなんて、ヘラクレスはやっぱりすごいんだ!」


息子は感嘆したが、私は某男の方がすごいと思った。

仕事の責任は文字通り身が砕けそうなほどに重く、相棒さえいない孤独を、じっと耐え忍ぶばかり。



某男は、どうして律儀に約束なんて守ったんだろうか。



空を支えるなんて途方もない仕事を、彼が好んで務めていたとは考えられなかった。

ヘラクレスに何もかもを押し付けて逃げ出すことが、某男にはできたはずだ。

苦行から解放された瞬間の喜びは、神の美酒より甘く彼を酔わせたに違いないのに。


ヘラクレスはどういう理由で林檎を求めていたのだっけ。

何だったか、とんでもないことをしでかして、その贖罪のために無理難題を課されていたとか……。

そうだ、彼は自分の子どもと、自分の兄弟の子どもを殺したのだった。

罪滅ぼしのために、危険な冒険を繰り返したのだった。


――ああ、彼は幸運だ。


自分の罪を償う機会を、与えてもらったのだから。

何をしたら許される、という明確な基準が明示されたのだから。



私には、そんな救いなどなかった。




目も当てられない失敗が演じられた。


幼稚園のお遊戯会、王子様に扮する息子を、私はカメラのレンズ越しに捉えていた。

白いベストとズボンに、真っ赤なマント、頭には折り紙で作った金色の冠を乗せている。

お姫様のふんわりしたドレスも、召使のお仕着せも、魔法使いのローブも、衣装は皆母親たちの手作りだった。

息子のそれだけが既製品に手を加えたものであることなどバレバレだったろう。


劇の内容はありきたりなものだった。


ある国の姫が隣国の王子と出会い恋に落ちた。

そこへ悪い魔法使いがやってきて、姫を攫ってしまった。

魔法使いとの決闘の末、王子は囚われの姫を救いだした。

悪い魔法使いは心を入れかえ良い魔法使いになり、2人を祝福。

王子と姫はめでたく結ばれましたとさ。


全てが丸く収まったハッピーエンド。


フィナーレは園児たちのお歌だった。


調子はずれで拙く、どこまでも飛んで行ける翼のようにのびのびとした歌声。


やがて園児らは手と手を取り合い輪になって、くるくると回り始めた。

先生のピアノに合わせてぴょんぴょん跳ねる。

まるで天使たちが踊っているようだった。


私は全員が映るようにピントを合わせた。

それでも視線だけは王子にくぎ付けだったが。


その息子の背中、垂れたマントがずるずると引きずられていた。

安全ピンで留めておいたのが、外れたのかもしれない。

思わず眉をひそめた。


息子の体が勢いよく倒れたのは、まさにそのときであった。


なぜだか私はテーブルクロス引きを思い出した。

勢いよく引っ張られた布の上でグラスはあっけなく倒れ、中身を盛大に溢して割れる。


甲高い母親の悲鳴で我に返った。


いつの間にかピアノの音が止んでいた。

お歌も聞こえない。

私はなぜか、壇上に向けたカメラのレンズから目を離せずにいた。

心臓がどきどきとして、石のように動けなかった。


ふと、息子がいないことに気が付いた。

今にも泣きそうな顔をした園児たちの視線の先、何人かの園児が舞台の下に倒れていた。


マントが首に巻き付いている子どもがいた。すぐそばに、ひしゃげた髪の冠。

いや、違う、マントじゃない。白い衣装が血によって赤く染まっているのだ。

息子の目はすでに、光を失っていた。


私はようやく事態を察し、声を上げることができた。




息子のマントを踏んだのは最初に悲鳴を上げた母親の子どもだった。

「たまたま」安全ピンの外れたマントが引きずられていた。

それを「たまたま」踏んだ園児がいた。

息子の体はコントロールを奪われ転倒し、そこは「たまたま」舞台の縁であった。

そして「たまたま」息子と手を繋いでいた2人の園児も、そのまま1メートルほど落下した。



結果として、3人の命が失われた。

悪い魔法使いが見せている夢ならば、どれだけよかったろう。



お遊戯が始まる前に、衣装で怪我をしないか先生たちは入念に確認していた。途中まで、マントは床に触れてすらいなかった。いつ安全ピンが外れたのか、誰が録ったビデオを見ても分からなかった。


不運な事故だったのだ。


誰もがそう言った。

そうやって納得しようとした。

だれも私を責めなかった。



だが、どうして、そのことに安堵などできようか。



マントの丈がもっと短くしておけば、安全ピンなんかじゃなくて、衣装に縫い付けていれば、すぐにカメラを放り投げて119番していれば、先生にもっとしつこく衣装の危険性について聞いていたら、



私が父親ではなく母親で、あの子が父子家庭の子どもでなかったならば。

母親ならばあちこちに散らばっていた危険の芽を事前に摘めたのではないか?



悔やんでも悔やみきれない。

「たられば」ばかりが頭をよぎる。


いっそ罵詈雑言の限りを尽くして責められたほうが良かった。

どうやって償ったらいいのかも、何をすれば許されるのかも、私は分からなかったし、教えられなかった。

知ったところで、私はヘラクレスほど単純な頭を持っていないから、有限の罰によって許されるなど、到底納得できないというのに。





「死」という道を選択したのは、至極当然の成り行きであったと思う。

それ以外に救いはなく、自分という存在そのものが罪であるように感じていたのだ。


最後の舞台に選んだのは、飛び降りで有名な崖でも、自殺名所の樹海でもない、ただの港町。

名前や知名度など、どうでもよかった。

劇中で重要なのはお姫様と王子様と、魔法使いが何をしたかであり、なんという国で起きた事件かは全く問題ではないのと同じだ。


良さげだと思い駆け上った高台は、海も空もよく見えた。

うっすらと雲が掛かり、そのせいか境界線は曖昧であった。

日はまだ高い。だが、わざわざ夕方まで待つ必要もないほどに人の気配がない。


潮の香りが首筋をすり抜け、髪をまき上げる。

眼下を見やれば、海面に突き出た岩や岸壁に波が打ち付けられる度、水飛沫が舞う、白泡が渦を巻く。


私は背中を走るぞくぞくとした恐怖にうっすらと笑みを浮かべた。

今更、死にたくないとは思わなかった。


でも、今この瞬間にも私の背中を押さんとする罪の意識を、気を抜けばぺしゃんこにされそうな罪の重さを、誰かに肩代わりしてもらえるのなら、私は喜んでその相手の言うことを聞くだろう。


ああ、某男はどうして空など支えていたのだろう。

それが彼に課された任務だからか? それとも犯した罪を償うためか?


ヘラクレスに頼まれたとき、彼は全くの善意から林檎を取りに行ったのだろうか。

一時でも自由の身となり、我が身を押しつぶさんとする大空から解放されたかったのではないか?


ヘラクレスとて、本当は押しつぶされ死ぬことを望んでいたのではないか。

某男に任せずとも、林檎の場所を聞き自分で取りに行く方が効率的だし、相手の代わりなぞ務めなくて済んだのだから。


もしかすると彼は、終わりのある贖罪の旅に絶望していたのかもしれない。

だからこそ命を顧みず、危険な冒険に身を投じた。

自慢の怪力を持ってしても抗えない力によって、打ちのめされることを望んでいた――――



思わず苦笑した。



そんなことを考えて、今さら何になる?

そう、彼だって考えたはずだ。


私は体を反転させると、後ろ向きに一歩踏み出した。

足の裏に大地はなく、重力に絡めとられた体は、そのまま宙に投げ出された。


遠ざかる崖の縁を視界から外し、蒼穹を臨む。

私は腕を伸ばして、空を支えた。

指の隙間から零れ出た日差しの輝きに、にやりと返してやった。


某男よ、黄金の林檎はお前のものだ。


握った拳の中で、光が乱反射した。

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