第2話 よる


 心臓破りの坂の上に、何かができたらしい。大学の同級生がそこにいったと喚いていたことを思い出しながら私は坂を登っていく。恐怖を食う化物がいた、なんて話を聞いて、興味を持ってしまったのだ。

 大学では新聞を作るサークルを所属している。今回のこの件、もしかしたら何かネタになるかもしれないなんて下心を抱きながら私は心臓破りの坂、黄泉坂を登っていく。本当に、あいつがいっていたように、その頂上にある、あの白い洋館には明かりが灯っていた。

 話で聞いていた通りの看板、外見。きい、と音を立ててそこを開ければ、大きなあくびをしながらエントランスに通じる扉を開いて、眠そうな目をこする白髪の少女の姿があった。彼女が私の姿を見て一瞬、動きを止める。そのあと恥ずかしそうに微笑みながら私に向かって深々とお辞儀をした。

「いらっしゃいませ。買い取らせていただけるのですか」

「…うん」

 予想していたよりもその少女は幼い。本当に小さい、まだ10にも満たないのではないだろうかというほどに幼い顔をしている。化粧ひとつしていないくせに、きめ細やかで柔らかい顔をした少女は、私には化物なんかに見えなかった。

「怖い話を、お聞かせ願えるのですね?」

「そうだよ」

 そう答えれば彼女はふっと私に背を向けて歩き出した。どうやらこの屋敷に来た時に少女が入ってきた部屋の方に案内してくれるようだ。

 それについて歩いていけば、こじんまりとした部屋に案内された。部屋の中はアンティーク調の家具で揃えられており、暖かい雰囲気を醸し出している。夕暮れの部屋の中は赤い夕陽の光で染められており、暖かでありながらもどこか不気味な雰囲気があった。

 部屋の中心にはひとつのテーブルと、ふたつの椅子。テーブルには瀟洒なテーブルクロスがかけられている。柔らかそうなクッションの置かれた椅子は、座ってくれと誘ってるような気がした。

「おすわりください、お客様」

 紅茶を淹れながら少女が笑う。ユリカゴ、という名前だったっけ、なんてことを思いながらそっと椅子に座れば、彼女は危なっかしい手つきで銀色のトレーに載せられた砂糖壺とミルク壺、紅茶を持ってきた。お茶菓子のクッキーは焼色も鮮やかで美味しそうな甘い香りが漂ってくる。

「あ、ありがとう」

「いえいえ。…さあ、お客様」

 お話ください。

 そういって彼女が微笑む。その笑顔は、彼が言っていたように確かに邪悪だった。

 しかし、その邪悪さもむしろ心地よくなるのは、この異常な環境に置かれているからなのだろうかと思ってしまう。彼女が、まるで聖なるもののように微笑んでいたら話すのをためらってしまいそうになるから。

 紅茶を一口飲んで口内を湿らせた後に私はそっと話しだした。それは、或る夕暮れの日にまつわる話だった。


◇◇◇


 私の学校には、夜22時以降に残ってはいけない、という暗黙の了解がある。いつ作られたものなのか、どうしてそうなったのかは定かではない。しかし、私は三回生になるまで律儀にこの約束を守っていた。三回生になってから、その約束を破ったのは一度きりで、それ以降きっと守り続けるのだと思う。

 それにはある理由があった。そこで、見てしまったものがあるから。きっとあの約束ができたのも、あれが理由なのだろう。何人もの人が、あれを見たのかもしれない。そうだとしたらあの夜22時以降には学校に残ってはいけないというものも納得できる。

 あの日私は、レポートを遅くまでやっていた。自前のパソコンを研究室に持ち込んで、暗くなったことにも気付かずに。あのとき、途中で持ち帰っていれば良かったのに私は、見回りの警備員さんが来るまで気付かずにやり続けていた。集中していたのだと思う。

「あれ、まだ残ってるのかい。もう22時を過ぎたよ」

「え、ぁ!」

 警備員さんにそう声をかけられて、私は急いで荷物をまとめた。彼とは非常に仲がよく、校門まで送っていこうかと声をかけてくれるほどだった。あの時は断ったけど、断ったことを本当に後悔している。あのときひとりで居なかったらあるいは、あんなことは起こらなかったのかもしれない。

 水可大学の敷地はそこまで広い訳ではない。私はノートパソコンの入ったバッグと、教科書や参考書の入った肩掛けカバンを持って走っていた。終電をのがしてしまうという焦りの前には、もう既に学内の暗黙の了解なんてものは霞のように消えている。

 走って、走って。校門の前に辿り着いたとき、ふと、後ろを振り返ってしまった。誰かに呼ばれたような気がしたのだ。とても優しい、母親の胎内にいるような声で。ゆるやかに吹きすさぶ声が暖かく、振り返ってしまったのだ。

 そこに、それがいた。

 最初に見えたのは白だ。白い、2本の電柱のようなものだった。最初はそれが何かわからなかったのだけど、ふとそれが、足だと気づいた。それに気づいてゆっくりと視線を上に向ければ、それが、女なのだと気づく。気付いてしまったのだ。

 にこにこと嬉しそうに笑いながら。否、げらげらと、笑っている。耳まで裂けた口は牙のようなものが3層ほど並んでいた。それが私に手を振りながら、げらげら、げらげらと、音も無く笑っている。

 身が凍るほどの恐怖に動けなくなった。足が固まってしまったように。その巨大な女性は腰をかがめて、ぐうっと私の顔を覗き込む。楽しそうに笑っているのに何の音もしないのがむしろ不気味だった。

 叫ばなかったのはむしろ奇跡に近い。

 私は、2,3歩後ずさったあとに後ろを振り返らずに走り抜けた。


◇◇◇


「これが私の学校に伝わる言い伝えの真実ってわけ」

 紅茶は冷めてしまっている。少女は、怖がることもなく聴き続けた。柘榴のような色をした唇をうっとりと笑みの形に歪ませて。それはあの夜に見た3層の牙を思い出させるものだった。

「その化物は」

「ん?」

「なんだったんでしょう、ね」

「わからない。そんな奴が出るって噂があったわけでもないし」

 紅茶をまた、一口飲む。上等なミルクの味はまろやかで、砂糖はきめ細やかで甘さが酷く強かった。砂糖を溶かしてから飲めば、少しだけ花のにおいがしたから、そういう砂糖なのかもしれない。

「私の話はそれだけ。買い取ってもらえる?」

「ええ、確かに」

 代金をお支払いします、という彼女にひらひらと私は手をふる。紅茶とクッキーで十分だったし、私はこの話を誰かに話したかったのだ。覚えていたくなくて、ひとりで胸のうちにしまっておきたくなくて、それであのとき、同級のあいつが言っていたことを聞いてここまで来たのだった。

「代金はいらない。話聞いてもらっただけだし」

「…そうですか。では、」

「また来てもいいかな。また、何かあったら」

 私の言葉にユリカゴは密やかに微笑んだ。花がほころぶような微笑は優しく、邪悪さの欠片もなく、歳相応の無邪気さでもなかった。母親が、指にすがりつく子供の小さな手を見て微笑むような優しさに満ちている。

「お待ちしております」

 そういってユリカゴは椅子から立ち上がり、ぺこりとお辞儀をした。三つ編みがお辞儀にしたがってぴょこりと揺れるのが少しだけ子供っぽかった。

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揺籠忌憚 加藤エノ @fomalhaut0137

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